日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

優れた広告をつくり出した「としまえん」

2020-08-31 11:26:22 | マーケティング

今朝FM番組を聞いてたら、遊園地の「としまえん」が本日をもって閉園するというニュースがあった。
関東方面で暮らしたことが無いので、「としまえん」に行くことはなかったが、その広告はコピーライティングの参考とさせて頂いていた。
といっても、その「発想とユーモア」という点でだ。

テレ東プラス+:懐かしのあのCM覚えてる?「としまえん」は史上最低の遊園地? (放送は2018年8月であった)
(リンク先のテレ東プラス+の最初にある「天下無敵」のキャッチコピーは、としまえんのもののではなく、森永ミルクキャラメルのキャッチコピー。)

私にとって一番印象的だったのは「プール冷えてます」というキャッチコピーで、確かに(遊園地の)プールに行きたい!と思う季節は、真夏の暑い盛り。
そのプールの水が生暖かったら、プールに行っても嬉しくないし、楽しくない。
プールに足を入れたときの、ヒヤッとした感覚がプールに行く楽しみの一つでもある。
だから「プール(の水)が冷たい」というのは、プールに行く時の動機となっている。
当たり前といえば当たり前なのだが、あえて「冷えている」と端的に言い表し、誘うキャッチコピーというのは、凄いな~と思ったものだ。

そして、エイプリールフールの日に打った広告のキャッチコピーが、「史上最低の遊園地」だった。
もちろんエイプリールフールにかけた、キャッチコーピーであるということが重要で、「史上最低」と謳いながら「史上最高の遊園地」という意図が含まれているコピーだった。
東京ディスに―リゾートのような大掛かりなアトラクションはないが、身近な遊園地として「史上最高に面白い」という誇りも感じられるコピーだと思う。

一連の広告を見てみると、アミューズメントパークではなく、あくまでも「遊園地・としまえん」という姿勢が感じられる。
それが「としまえん」らしさであり、「としまえん」の魅力だったのだと思う。
だからこそ、ディズニーリゾートのような「優等生な広告」ではなく、自由で遊び心のある広告ができたのではないだろうか?

今のように一つの話題に集中し、集中した話題のモノ・コトが一番である、というような社会的認識が形成されると、人はそのモノ・コトを中心に考えてしまう傾向があるように感じている。
その一つがディズニーリゾートであったり、USJなのではないだろうか?
アミューズメントパークは、仕掛けも大がかりでキャラクターの魅力もある。
1日中遊んでも飽きることが無い。次々と新しいアトラクションが登場することで、飽きないどころかリピーターがとても多い。
その意味では敷地などが限られていた都市部の「としまえん」では、太刀打ちできない魅力が多かった、といってもよいのかもしれない。

これから先「としまえん」のような、ユーモアと意表を突くようなコピーや広告を創り出す遊園地は、あるのだろうか?
身近な「ナガシマリゾート」などに、期待をしたいのだが・・・。
「としまえん」での閉園で解体される、日本最古のメリーゴーランド「カルーセルエルドラルド」は、名古屋市民として、一番身近な遊園地「ナガシマリゾート」が買い取ってほしいと願っている。



安倍さんの辞任に思う

2020-08-29 18:56:32 | 徒然

昨日、安倍首相が辞任を発表した。
先週から大学病院に検査を受けるなど「健康問題」が、ささやかれていた。
先週、今週と2週続けて大学病院に行く、ということは別に珍しいことではない。
検査を受ければ翌週には大体その検査結果を聞きに行く、というのが一般的だからだ。
一般社会ではそのような認識であってもメディアは、そのようにとらえていなかったようで「辞任を固めたのでは?」という話が出るようになっていた。
「潰瘍性大腸炎」という難病が悪化したため、首相という責を全うするのが難しくなったというのが、今回の辞任理由となった。
同じ病名での辞任は2回目であるため、これまで相当手厳しいコメントが数多くみられたヤフコメなどでは、「お疲れ様でした」という、コメントばかりが見られるようになった。

国から難病指定がされている病気なので、完治そのものがむずかしいというよりも、決定的な治療法がない「クローン病」の一種といわれている。
そしてストレスなどにより、一時的に良くなっても(「寛解(「かんかい」とよむ)」)の状態になっても、再び悪化することがある、といわれている。
とするとこの7年間というよりもここ1,2年相当ストレスを抱えて首相という仕事をしていた、ということになるだろう。

確かに、ここ1,2年安倍さんを取り巻く環境は、ストレスが多かったと思う。
「モリカケ問題」に始まり「桜を見る会」、そして今回の「新型コロナウイルス」の感染拡大に伴う政策の失敗、など様々な問題が噴出したのも事実だからだ。

しかし「モリカケ問題」にせよ「桜を見る会」にせよ、その種を蒔いたのは誰なのだろうか?
辞任発表直後のヤフコメのように「お疲れ様でした」と、言えないのはこのような問題を明らかにすべき当事者であるにもかかわらず、問題から目をそらし続けてきた態度を見ているからだ。
むしろ首相という座を降りたのだから、忖度などする必要もなくなったので、問題追求だけはしっかりして欲しい、と願っている。
何故なら、このような国政のトップである政治家が起こした事件なのだから、当然それなりの責を負う必要はあるだろうし、もし逃れるようなことがあれば、日本の民主主義は何だろう?ということにもなりかねないからだ。

そして安倍さんの辞任に伴い、安倍さんを取り巻いていたといわれる、官房官僚の皆さまも退場となってほしいものだ。
官僚の皆さんは、政治的責任(選挙で落選する)ということが無い。
だからといって「新型コロナ」での後手後手になってしまった対応策、「アベノマスク」と揶揄されながらも400億以上の税金をつぎこんだにもかかわらず、その効果たるや疑問が残るばかりの失策。
挙句の果てに「Go Toキャンペーン」の前倒しで、「新型コロナ」の第2波を起こしてしまった。
自粛期間中にどれだけの医療体制が整たのか?といえば、地方自治体任せで医療の現場は困窮状態が続く結果となっている。
PCR検査にしても、9月中に7万人/日という発表をしているが、拙ブログでも以前指摘しているように、ニューヨーク州では6万人/日の検査を行っている。
余りにも少ない検査数の背景には、感染拡大が懸念されるようになってから、国が積極的に検査を行うという姿勢を示してこなかったからだろう。

安倍さんの後継者選びを急いでいる自民党だが、その前に考えて欲しいのは「アベノミクス」をはじめとする安倍政権が行った政策の見直しと反省だ。
もちろん最終的には、選挙という方法で国民が判断を下さなくてはならないことではあるが、選挙までの間に自民党だけではなく与野党それぞれが「アベノミクス」に始まった安倍政権を見直す必要があると思う。
それができなければ、日本の政治は終焉に近いのかもしれない(という危機感を持っている)。


日本のデザイン力は???

2020-08-27 20:04:57 | アラカルト

先日、「2025年大阪・関西万博」のロゴマークデザインが決まった。
経産省:2025年大阪・関西万博のロゴマークが決定しました!

今回選出されたロゴマークデザインを見て、思わず関西に住んでいるFacebookの知人に、感想を尋ねてしまった。
私が住んでいる名古屋ではこのロゴマークを街中で見ることはまずないと思うのだが、関西に住んでいる人達はこのロゴマークを日常的に見ることになるからだ。
このロゴマークがある街中を想像した時、その街並みはどんな感じになるのだろう?それはその街並みを美しく飾ってくれるのだろうか?ということを知りたかったからだ。

反応はといえば、おそらく多くの人たちが想像しているであろう「拒否反応」に近いものだった。
「『新型コロナ』を彷彿とさせるようで、気持ち悪い」という方もいらっしゃった。
確かに、ここ数カ月ほぼ毎日のように見ている「新型コロナウイルス」のようでもある。
この公募が始まった頃は、「新型コロナウイルス」が流行する以前なので、デザイナーさんにとっては可哀想な気がしない訳でもないのだが、であれば選出者がこのデザインを選ばなければよかっただけのことだ。
しかもこのロゴマーク、TwitterなどのSNSでは「コロシテくん」という、ニックネームまでついてしまっている。
Huffpost:「コロシテくん」と命名される。大阪・関西万博ロゴ、好評すぎてネット民の素材になってしまう

ネット民に好評なのか、イジラレているだけなのか分からないが、ネット上でも話題になっていることには違い無いだろう。
だからといって、多くの人に受け入れられるデザインなのか?と、考えた時に疑問を感じてしまうのだ。
理由は上述した、関西の友人の言葉だ。
それだけではなく、「新型コロナウイルス」世界的感染拡大により延期となってしまった、2020年東京オリンピックの時のロゴマークの時も市民からの反応は、決して良いものではなかった。
結局最初に選出されたデザインは、「パクリ疑惑」等が起きやり直しとなり、最終的には現在のロゴマークのデザインに落ち着いた、という経緯があった。

この時盛んに言われたのが、1964年の東京オリンピックのロゴデザインやポスターだった。
この時のデザインを手掛けられたのは亀倉雄策さんで、今でも強い印象を与えるデザインという気がしている。
それから6年後に開催された大阪万博の桜をモチーフにしたデザインは、大高猛さんの手によるものだが、当初選出されていたデザインは違うモノだったようだ。
Design Site:大阪万博

当初選出されたデザインが変更になったのは、当時の万博協会会長であった石坂泰三氏などの反対があり、再コンペとなりあの桜のマークに決まったようだが、今回のロゴマークと見比べてみても1970年の大阪万博で最初に選出されたデザインのほうが、なんとなく良いのでは?という気がしてしまうのは何故だろうか?

その理由の一つは、選出者によるところが大きいのでは?という気がしている。
今年開催予定だった東京オリンピックのロゴマークの時にも感じたことだが、デザインのプロと呼ばれるような人たちが集まって選出をしていないようなのだ。
JCast:奇抜デザインの大阪・関西万博ロゴ 選考委員の芸術家は超強力な顔ぶれだった

確かに顔ぶれは、超強力な芸術家かもしれないが、デザインの専門家となると???という気がする。
著名な人達が集まれば、多くの人が「素敵だな~」と感じられるロゴマークが、選出されるワケではない。
ロゴマークがどのような場所で、多くの人が目にし、イベントの開催を盛り上げる機運を創り出すのか?ということと、超強力な芸術家の感性とは、全く違うのではないだろうか?

一体いつの頃からイベントのロゴマークに限らず、「人の気持ち、街中にあるデザイン」ということよりも、著名者によるデザインが優先されるようになったのだろう?
街を彩るデザインは、その街に馴染み人がワクワクするようなデザインの心地よさが大事だと思う。
そしてその基本となることを、忘れてしまっているような気がするのだ。


「感染者責め」の背景にある「自己責任と村社会」

2020-08-25 18:59:32 | 徒然

新聞各社が、萩生田文科相の「(新型コロナウイルス)感染者」に対して誹謗中傷やいじめなどをしないように、と声明を出した、と報じている。
朝日新聞:「感染者責めないで」文科省、いじめや誹謗中傷に声明

毎年この時期になると問題となるのが、「夏休み明けの子どもたちの自殺」だ。
夏休み明けの2学期初日に、命を絶つ子供たちが一番多い、といわれている。
その背景にあるのが、学校内での直接ないじめだけではなく、SNSを介した「いじめや誹謗中傷」だと言われている。
そこに今年は「新型コロナウイルス感染」という、誰もが感染リスクがある感染症に対する「いじめや誹謗中傷」が加わった、ということになる。

お盆休み前、我が家の菩提寺がある松江で高校のサッカー部の生徒たちがクラスターが、判明した。
元々この高校は、県外出身者が多く寮で生活している生徒たちが多かったことが、集団感染の要因となった。
ただだからといって松江市内に「新型コロナウイルス感染者」があふれていたのか?といえば、そうではない。
県外出身者が多い高校というだけではなく、高校そのものが松江市郊外にあり、周辺地域の方たちの主な移動手段が自家用車であったため、高校以外の関係者の感染は認められなかった(と記憶している)。
しかし、そのような事情を知らない人たちからは、相当厳しい誹謗中傷が学校に向けられ、クラスターとなったサッカー部の生徒たちの顔写真がネットにさらされたようだった。

何故これほどまでに、関係のない人が我ことのように、騒ぎたててしまうのだろうか?
その理由として考えられるのが「自己責任と村社会」なのでは?という、気がしている。
「自己責任」と「村社会」、一見すると正反対に思える言葉だが「個人に責任を負わせる」ことで「村全体の安全が保たれる」ということなのだ。
それが、社会全体の「同調圧力」となって、「誹謗中傷」ではなく「正しいことをしている」と、思い込んでしまうのではないだろうか?

過去、中東で日本人3人が誘拐され身代金を要求されるという事件があった。
この時盛んに言われたのが、「自己責任」だった。
「自分の考えで危険なところに行ったのだから、自分で責任を取るべきだ」というのが、その主張だった。
確かにその通りかもしれないが、誘拐された3人と面識も何もない人たちが、ここぞとばかりに3人を叩いたのも事実だ。
家族が「自己責任なので、政府の援助はいりません。本人たちもその覚悟で出かけました」というのであれば、「自己責任」の意味は十分通じる。
全く面識のない人たちが「自己責任」という理由で、誘拐された3人とその家族を叩いた状況は、まさに「誹謗中傷の嵐」だった。

逆に言えば、自分と関係のない人達だからこそ、安心して「自己責任」という言葉を使い、「誹謗中傷」をすることができたのでは?と、考えている。
何故ならこの3人は、自分たちと違う考えを持つ「異質な存在」だからだ。
その「異質な存在」を自分たちの社会(=村)から排除する為に「自己責任」という言葉をたてに、「誹謗中傷」することができたのではないだろうか?

今回の「新型コロナウイルス感染者」に対しても、「憎むべきは新型コロナ」だと頭でわかっていても、「ウイルスに感染したのが悪い(=「自己責任」)」と「誹謗中傷」してしまうのも「新型コロナ」という正体不明な存在に対する不安と、「感染者」という「異質な存在」となってしまった人を排除し、社会を安定させたい(=安心したい)、という潜在的な気持ちがあるからなのではないだろうか?

「村社会」というと、昔の「村八分」のようなイメージがあるかもしれないが、「自分の生活の安心」を脅かす具体的な人に対して向けられるものである、と考えれば今も昔も変わらず私たちの中に存在しているモノである、ということがわかる。
そのような「異質な存在」を排除することで、「自分が安心したい」と心のどこかで思っている、ということを知るだけでも、「誹謗中傷」を考えるという行動に変わって欲しいと思っている。


JASRACとNexTone、発想が事業展開の違いとなっていく

2020-08-24 11:57:11 | ビジネス

Yahoo!のトピックスに、なかなか面白い東洋経済の記事があった。
東洋経済on-line:「聞かれてこそ音楽」、だからJASRACに対抗する

JASRACといえば、今や音楽の著作権をたてに市井の音楽教室などを虐めている団体、というイメージがついてしまった感がある。
そのJASRACに対抗(?)する著作権管理会社として立ち上げられたのが、NexToneということになる。

JASRACが、著作権管理の全体の95%を占めるということを考えると、NexToneの存在は「ごまめの歯ぎしり」程度のことかもしれない。
だが、記事中にあるNexToneが管理しているミュージシャンの名前を見ると「ごまめの歯ぎしり」とは言えないのでは?という気がしてくる。
というのも著作権管理が一部とはいえ、一昨年ごろからJ-Popの音楽セールの中心となっている、「ストリーミング」チャートの上位ミュージシャンが名を連ねているからだ。

ご存じのように、今や音楽を聴くスタイルはCDでもダウンロードでもなく、ストリーミングになっている。
特に若い世代では、毎日のようにお気に入りのミュージシャンの音楽を、その日の気分でスマホアプリからストリーミングで楽しんでいる。
それだけではなく、今は音楽の情報発信も多様化している。
そのためミュージシャンの多くは、新曲のリリースに合わせyoutubeでMVを公開し、世界へ自分たちの音楽を発信している。
youtube上には、J-Pop好きの外国の方が「リアクション動画」と呼ばれる動画を、盛んにアップしている。
動画をアップしている人の国籍も、アジアから欧米まで様々だ。
このような人達が情報発信源となり、ネット上ではJ-Pop市場はグローバル市場へと変化しつつある、考えてよいと思う。

このような状況の中、先日NexToneに一部著作権管理をしているofficial髭男dimsが、最新EPの一部楽曲を「StemPlayer」で公開した。
official髭男dims:StemPlayer特設サイト
Real Sound:official髭男dims、「HELLO」「I LOVE…」Stemプレイヤー特設サイトで公開 リミックスやアレンジも可能に

Stemとは、楽曲を構成する音を各パート毎にまとめたトラック・システム・プレイヤーで、自分の聞きたいパートだけを取り出して聴いたり、特定のパートだけを組み合わせて聴くということもできる。
もちろん、聴く人が自由にリミックスしたりアレンジすることができるということになる。
私の理解が違っているのかもしれないが、一つの楽曲をバラすことで音楽を楽しむ幅を広げる、というこれまでとは違う音楽の楽しみ方の提案、ということになると思う。
となると、これまでのような「著作権」という概念が、少しだが崩れてしまうのではないだろうか?
何故ならStemというシステムは、聴く人が楽曲を一度バラして再構築することができるからだ。
リミックスやアレンジを個人でするだけなら、著作は関係がないということになるとは思うのだが、このようなプレイヤーシステムの普及、そしてyoutubeなどの動画サイトへの投稿などが拡がっていくと、JASRAC側も何らかのアクションをおこさざる得ないだろう。

NexToneの考えるように「音楽は、多くの人に聞かれて価値が生まれる」という考えに、多くのミュージシャンたちが共感し、これまでとは違う方法で「音楽を届ける」様になると、JASRACのような発想の著作権管理は対応できなくなってしまう可能性がある。
そしてNecx Toneが狙っているのは、その「これまでとは違う音楽の届け方」による著作管理であり、それらに伴うプロモーションなのではないだろうか?



恒例の「24時間テレビ」は、放送することに意義があるのか?

2020-08-23 18:50:58 | 徒然

昨日の夜から毎年恒例の「24時間テレビ」の放送が、はじまった。
今年は「新型コロナウイルス」の感染拡大の為に、番組そのものを中止するのでは?と、今年の春ごろ言われていたような気がするのだが、「恒例行事」のように今年も実施されたようだ。

我が家にテレビが無くなる前から、この「24時間テレビ」そのものを見なくなっていた。
理由は、「24時間やる意味が分からない」ということと、「つまらない」からだ。
それ以外の理由があるとすれば、この番組が持つ「募金に参加」という、ある種の同調圧力のようなモノを感じていたからかもしれない。
毎年のように募金箱を持って会場に足を運ぶ視聴者の姿を見て、「募金することは大切だが何もテレビで中継しなくても・・・それとも中継をすることによって『さぁ、あなたも募金箱を手に会場にいらっしゃい!会場に来ない人は人としてどうなの?』」と、言われているような気がしていたからかもしれない。

それが今年は「新型コロナウイルス」の感染拡大によって、中止されるのでは?と、淡い期待を持っていたのだった。
その「淡い期待」は、見事に打ち砕かれたわけだが、このような社会状況の中でも「24時間テレビ」をするというのは、もしかしたらテレビ局側の「恒例行事」という位置づけとなっていて、年間の放送計画の中に組み込まれ、外すことができなくなっているのでは?という、気がしてきた。

拙ブログに来てくださる方もよくご存じだと思うのだが、「24時間テレビ」そのものはドラマあり、ドキュメンタリーありと、番組制作には相当な費用が掛かっている。
このご時世、一つの番組としてこれだけの内容を詰め込む為には、やはり24時間という時間が必要なのだと思う。
ましてドラマにしてもドキュメンタリーにしても、その制作には費用だけではなく相当数の時間がかかっている。
年次計画の中に組み込まれてしまっていると、それらのドラマやドキュメンタリー制作を止めるにやめられない、ということなのかもしれない。
何故なら、テーマ決めから始まりドラマであれば脚本・出演者への交渉があり、ドキュメンタリーであれば、テーマが決まればそのための資料集め、資料の裏どりなどやはり数カ月前から準備が必要だからだ。
恒例となっているマラソンにしても、今年は特定のタレントさんが走ることはなかったようだが、制作側として「番組を盛り上げる材料として、必要不可欠」だという思い込みがあるのだと思う。
実際、「日本人ほどマラソンや駅伝(主に箱根駅伝)の中継が好きな国民はいない」とまで、言われていた時があった。

ここまでくると「チャリティー」という目的よりも、「放送をする」ということに主眼が置かれるようになっているのでは?という、気がしてくる。
民放局が自主的に作っている番組なので、「24時間テレビ」が悪いという気はさらさらない。
ただ、「放送することに意義がある」というようなスタンスになっているのであれば、それは放送する局の自己満足なのでは?ということなのだ。

この番組が始まった頃、日本ではまだまだ「チャリティー番組」が無く、その意味では画期的だった。
だからこそ、多くの視聴者が募金箱片手に中継会場に足を運び、番組に参加した気分になれたのだと思う。
その募金によって、数多くの福祉事業団へ寄付されたことも意義のあることだったと思う。
思うのだが、そろそろその役目は終わりに近づいてきているのではないだろうか?

もし週の内スポット的に「今どのような人が困り、支援を求めているのか?」という情報を流し、チャリティーを呼びかけるという方法も検討しても良いかもしれない。
ドラマやドキュメンタリーを制作するよりも、遥かに低予算で流すことができるのではないだろうか?
特に今回のような「新型コロナ禍」という状況においては、飲食店や観光業はもとより、エンターティメントを含む文化事業なども大打撃を受けている。
その時々にあったチャリティーを民放主導で行う、という視点で考えれば、もっとフレキシブな「チャリティー番組」の在り方を考えても良い時期に来ていると思う。


「データ」は数字の羅列ではない。時に人を安心させる材料となる

2020-08-22 19:23:11 | アラカルト

先日、日本感染症学会の尾身会長が「新型コロナの流行はピークに達した」と学会で発表した、というニュースがあった。
NHK:日本感染症学会 尾身会長「流行はピークに達したとみられる」

このニュースを聞いたとき、「え!本当にピークに達したの?」と、疑問に感じられた方がいらっしゃったのでは?
私自身は「ピークに達した」という、根拠となるデータはあるのだろうか?という、疑問を感じてしまった。

これまで政府から発表される「新型コロナウイルス」に関するデータは、感染者数と死亡者が中心で今月に入ってから「大阪での重症者数が多いのは何故か?」という問題もあった。
どうやら「大阪と東京(あるいは政府)の重症者とカウントする条件が違う為に、大阪の重症者数の数が多い」ということになったようだ。
冷静に考えなくても「重症者」の定義というか条件となるものが、大阪と東京(あるいは政府)と違っている、ということ自体問題なのではないだろうか?
私たち生活者は、一体どんな数字を信用すれば良いのだろうか?と、疑問に感じられた方も少なくなかったのではないと思う。

拙ブログでも何度か指摘させていただいているのだが、「新型コロナウイルス」に関しては「感覚的」な発言があまりにも多いような気がしてならない。
その顕著な例が、今回の尾身会長の「ピークに達したとみられる」という発言ではないだろうか?
というのも「ピークに達した」と判断したその理由が、あるはずだろうしその理由となるデータがあるはずだからだ。
もし「データ」が無いまま「希望的観測」を含めた感覚的な数字のとらえ方で「ピークに達した」というのであれば、これから第2次・第3次の波がやってくる、と考える必要があると思う。

実際「ほぼ終息した」とされるニューヨーク州でも、感染者数が「0」になった訳ではない。
そもそも「新型コロナウイルス」に限らず、感染症を無くすということ自体無理な話であって、ある程度「共存」を覚悟する必要があるからだ。
だが「ほぼ終息した」とニューヨーク州が発表した時には、「感染率」や「重症者・死亡者」等の人数と率という、データという根拠となるモノがあった。
だからこそ、ニューヨークの人たちが安心することができたのだ。

そしてこのような「データを活用することで、生活者は安心する」という指摘は、様々なところで指摘されてきたことだ。
にもかかわらず、今でに日本は「データ」という数字ではなく、「感覚的なことば」によって、状況を説明しようとしている。
確かに情緒性の高いと言われる日本人にとって「数字の羅列」のように見える「データ」は、分かりにくいと感じられる人もいらっしゃるとは思う。
思うのだが、逆に情緒性の高い日本人だからこそ「データ」を示すことで、「数字の羅列」に意味を感じることができるのではないだろうか?

「データ」を示さないことで、政府の政策に対して疑心暗鬼になっている生活者も多い、ということを感染症学会の偉い方や国の担当者は理解して欲しい。



破綻したレナウンを救う?滋賀の老舗企業

2020-08-21 19:48:45 | ビジネス

Yahoo!のトピックスにも紹介されていた、「破綻したレナウン」が保有しているブランドの譲渡先が決まった、というニュースを見て、心のどこかでホッとしている。
WWDJapan:レナウン、主力事業を小泉グループに譲渡 「ダーバン」「アクアスキュータム」など

ご存じの方も多いと思うのだが、レナウンが中国企業に買収されてからあまり良い話を聞かなかったような気がする。
もちろん主力ブランドである「ダーバン」や「アクアスキュータム」等は、固定顧客がいるため極端な売り上げの落ち込みは少なかっただろうし、積極的なコマーシャルを打つ必要もなかったのかもしれない。
といっても「ダーバン」に関しては、破綻のニュースが報じられる前に人気俳優さんを起用したCMなどを展開していたので、破綻のニュースは逆に驚きだったのではないだろうか?(CMについては、youtubeにあるダーバン50周年を記念したCM)

レナウンの主要ブランドの譲渡を受ける小泉グループといわれても、すぐにどのような企業なのか思い浮かぶ方は少ないと思う。
今は大阪に本社を置く、滋賀が創業の地となる老舗企業のようだ。
いうなれば「近江商人」の企業ということになるのかもしれない。

小泉グループのブランドサイトをチェックしてみると、以前破綻したゴルフウェアなどでおなじみだった「コスギ」等も破綻後ブランド譲渡を受けているようだ。
いうなれば、アパレル業界の「事業再生企業」ということになるのかもしれない。
とはいっても、勝算のないブランド譲渡を受けることはないだろう。
「ダーバン」や「アクアスキュータム」等のブランド力は、小泉グループにとっても魅力的だっただろうし、「コロナ禍」で次々とアパレル業界が厳しい状況に追い込まれている中での、ブランド譲渡ということを考えればそこには「近江商人」としてもしたたかなビジネスビジョンがあるのでは?と、勝手に想像をしてしまうのだ。

ただ、それだけではなく日本の企業にブランドが譲渡されたことで、「ダーバン」や「アクアスキュータム」、「シンプルライフ」のファンだけではなく、日本のアパレル業界にとってもある種の安堵感をもたらしているような気がしている。
というのも、「新型コロナウイルス」の感染拡大によって、日本の生活者は「国産(=日本生産)」思考へと変わりつつあるからだ。
中国などでの海外生産が当たり前になっていた時に起きた「アベノマスク」の品質問題は、日本の生活者を一気に「国産思考」へと変えた。
「安価」という価値は、商品を購入するときの選択要素としては、優先されなくなりつつある、といっても良いかもしれない。
アパレルに関していうなら、中国からベトナムなどへと生産拠点を移す企業も増えてきており、その意味では「中国製」が「チャイナリスク」と認識されるようになってきているのかもしれない。

そのようなビジネス環境の変化、生活者の「価格思考」の変化が、今回のレナウン主要ブランドの譲渡になったのでは?と、考えることも必要かもしれない。


「マスク」という同調圧力と日本人

2020-08-20 18:27:41 | アラカルト

朝日新聞になかなか興味深い記事があった。
「日本人がマスクをつける理由」という、調査についての記事だ。
朝日新聞:マスクをするのは「同調」心理から 同志社大が研究発表

会員限定の記事なので、全文を読むことはできないが、読める範囲の部分だけでも興味深い内容だ。
というのも先日拙ブログで「コロナ全体主義」というテーマで、エントリさせていただいた内容の裏付けのような気がしたからだ。
「わが意を得たり」といってしまえばそれまでなのだが、情緒性の高い日本人の良い部分が、マイナスに動くとある種の「同調性」が強調され、他者に対しての強要となっていく、ということになるということだと思う。

おそらくこの同調性という点で考えた時、「私が我慢しているのに、我慢していない人が許せない」という空気をキャッチすることにより「他者の目」が気になり「マスクをする」という、消極的な「マスク利用」になっているのでは?と、考えている。
いわゆる「空気を読む力」が、「マスクをする」という動機となっている、ということだろう。

昨今書店では「(その場の)空気を読む」ということをテーマとした書籍が、多く置かれている。
そしてこのような「(その場の)空気を読む」ということを強く潜在意識下で行っているのは、日本人位なのでは?という気がしてる。
「空気が読める」ことで、不要な言い争いをする必要が無くなり、その場を上手くやり過ごすことができる、というのは確かにその場においてはメリットなのだと思う。
それは「統制の取れた社会」ということにもなるだろうし、自然災害が発生した時、多くの住民の方々が整然と列をつくり食事や物資を受け取る姿、というのは諸外国では見られない「民度の高さ」という表現にもつながった行動だったと思う。

それが暴走し始めると「自粛警察」とか「マスク警察」のような、「社会正義の為」という思い込みが他者への批判であったり、「自分が我慢しているのに、けしからん!」という、ある種の怒りを生み出してしまうのではないだろうか?
ただ残念ながらそのような「社会正義」は、ある種の自己満足的な部分があるだけではなく、人を攻撃する材料となりより大きな社会不安を呼ぶことになる。
社会不安感が高まることで、人は思考を停止させ声の大きな人(多くの場合は政治的指導者であったり、宗教家であるコトが多いようだ)に追従する(あるいは隷属化する)ことで、自分の安心感を求めるようになってしまうのだろう。
それもまた「(その場の)空気を読む」ということに変わりはなく、「同調」ということになるのだと思う。

8月に入り、連日の猛暑が続いている。
1ヵ月近い連日の猛暑で、気力・体力が低下している今だからこそ、体だけではなく思考のクールダウンも必要だろう。
それが「不必要な同調思考」から脱出する方法なのかもしれない。




「完璧」を目指すのではなく、「修正をしていく」ことが重要になる

2020-08-19 18:35:43 | ビジネス

Huffpostを見ていたら、「新型コロナ」対策で世界中から注目をされた台湾のオードリー・タンさんの記事があった。
Huffpost:オードリー・タンの頭の中。台湾の天才大臣が語る「バグを恐れない」生きかた

オードリー・タンさんの経歴などを読むと、「やはり、頭の良い人は違うな~」と感じられる方も多くいらっしゃると思う。
1歳になる前から言葉を話し、学校へは行かず10代で起業しAppleなどで、役員待遇で仕事をされていたのが20代。
これらの経歴を読むと、確かに凡人ではない!と、実感する。

しかし、オードリー・タンさんが凄いところは、「困っている人、マイノリティーの人たち」に対する考えが、常にあるという点だと思う。
オードリーさん自身がトランスジェンダー(LGBT)である、ということもあるのだが、そのコトを殊更声高にアピールをしているわけではない。
トランスジェンダーだから「困っている人、マイノリティーの人たち」への思いがあるのではなく、オードリー・タンという人だからこそ「困っている人、マイノリティーの人たち」に対する考えを、常に持っているということなのだと思う。
そしてタイトルにある「バグを恐れない」という点では、米国のIT企業と通じるところがあるのでは?と、感じている。

随分前になるのだが、朝のFM番組(だったと思う)で「Googleは100%のプログラムを目指していない」という、話しを聞いたことがある。
多くの日本企業の場合、市場に商品を送り出す時「完璧な=100%な商品」を出すことが求められる。
もちろん、自動車をはじめとする工業製品の場合「完璧な状態」でなくては、日本の生活者は納得しないだろうし、そのような価値観を持っているのが日本の生活者でもあると思う。
そのような厳しい商品を求めるからこそ、日本の工業製品は世界でも類を見ないほどの「高品質・高機能」なモノを市場に送り出すことができたのだ。

その「完璧さ」をITに求めてしまうことによって、日本は「アプリケーションを含むソフトウェア」に関して世界から遅れを取ってしまっているのでは、ないだろうか?
今話題となっているTikTokは、中国の企業だ。
スマホユーザーなら必ず!といってよいほどインストールしているであろうLineは、韓国企業だ。
これらの企業が、ユーザー情報を吸い上げているか否かは別の問題として、今スマートフォンにインストールされているアプリケーションの多くは、日本発のものではないという現実がある。

何故そのような事態になってしまったのか?といえば、上述した「Googleは100%のプログラムを目指していない」ということに繋がっていくのだと思う。
ITのように変化が激しく速い業界では、「100%を目指す」ことは意味のないことなのだ。
むしろ「100%を目指さない」ことで、ユーザーコミュニケーションの切っ掛けをつくり、ユーザーと一緒になって新しいサービスを創り出していく、という考えなのだ。
そしてユーザーとのコミュニケーションを図ることによって、「インテマシー・ロック(イン)」と呼ばれる「顧客の固定化」につなげているのだ。
何故なら、ユーザー側にとっては「自分の意見やアイディアが反映されたサービス」となれば、当然固定化されたユーザーとなるからだ。
意識をしている・していないということではなく、新しいサービスに自分も参加しているという、意識が「固定化されたユーザー」となるからだ。

オードリーさんの「バグを恐れない」という言葉には、「失敗をしてもチャレンジできる社会」という意味も、含まれているのではないだろうか?
日本の社会では、子どもの頃から「失敗=敗者」のようなイメージでとらえられることが多い。
顕著な例は、ビジネスという場面だろう。
仕事の失敗は、出世の道から外れるということを意味している為、ユニークなアイディアよりも失敗の少ない前例的な思考にとどまってしまう。
組織そのものが、そのような体質であるために「人と違う(=マイノリティー)」ことや「失敗した人」を排除し、「成功した」ということだけを大事にしてしまう傾向があるのではないだろうか?
そこには広く社会との繋がりというコミュニケーションを求めず、企業内の価値観で自己完結することを良しとしているようでもある。

昨日の日経にはトヨタ自動車がAmazon系の企業との提携を模索している、という趣旨の記事があった。
日経新聞:トヨタ、「つながる車」の基盤でアマゾン系と提携

自動車メーカーが、自動車という工業製品をつくる時代では無くなりつつある、という一つのステップであるとすれば、今日本の企業に求められていることは、コミュニケーション力とバグを恐れない組織なのではないだろうか?