日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

自民党本部職員だと、症状の有無に関係なくPCR検査を受けられるらしい

2021-01-30 08:38:54 | 徒然

産経新聞のWEBサイトに、「自民党本部職員全員にPCR検査を受けさせる(予定)」という内容の記事があった。
Sankei Biz:自民党本部職員全員にPCR検査 コロナ抑制で

自民党の派閥の領袖である石原伸晃氏が、無症状の状態でPCR検査を受け陽性と判明したため、即日入院をした、というニュースがあった。
このニュースが報道され、相当自民党や石原伸晃氏本人に向け、批判が出ていたと思う。
拙ブログでも、「上級国民=政府与党の議員」という趣旨のことを、書かせていただいた。
それほど、違和感を感じるほどの対応だったのだが、どうやら派閥の領袖だけではなく「コロナ抑制」という理由で自民党本部の職員全員に対して、PCR検査を実施するというのは、この政党には「自分たち」と「それ以外の人達」という、明快な区別があるようだ。

WHOが昨年の夏前から「積極的なPCR検査を実施し、クラスターの抑制をする」という勧告のような指導が出ていたはずだ。
しかし「PCR検査を症状の有無に関係なく実施すると、医療崩壊を招きかねない」とか「 (保健所を管轄する)自治体に負担がかかり過ぎる」等の理由によって、積極的なPCR検査をしてこなかったという経緯があったはずだ。

それが昨年秋ごろから「新型コロナ感染陽性者」爆発的に増加し、同時に重症者の急増、変異株が見つかったことで、新たな対策が求められるようになってきた。
このような状況になり、広島県など一部自治体では、政府の及び腰のPCR検査の拡充を発表するようになった。
中国新聞WEB:広島市中心部大規模PCR、専門家の声は「感染減、費用対効果に懸念」「偽陽性での隔離心配」

専門家と言われる方の懸念材料の一つ「偽陽性での隔離心配」というのは、十分理解できる。
今月「新型コロナ」陽性になった女性が、「職場や家族に迷惑をかけた」と自死をされたからだ。
このような「(自分が陽性者となったことで)家族や職場に迷惑をかけた」と感じる背景には、「陽性者となった人を批難する」という傾向が、日本では強いからだろう。
いくら「陽性者が悪いのではなく、新型コロナが悪い」と、繰り返し指摘され広報活動の対象となっても「新型コロナにかかるような行動をした人が悪い」という、社会認識があるからだろう。

そのような社会認識を強めているのが、政治家や著名人による「会食後の感染発覚」なのではないだろうか?
いくら一般生活者や飲食店、エンターテイメント業など「3密」をつくりやすい業種に「自粛」や「営業時間の短縮」、「人数制限」等の対策を求めても、政治家自らがその約束事を守らず、感染陽性者となっているのだ。
説得力の無さ(いや、逆に陽性者行動事例となるのか?)に、「新型コロナ恐怖症」に陥っている人たちから、一般陽性者が非難の的となってしまう、という悪循環が一般生活者の中に蔓延している、ということのように思えるのだ。

石原伸晃氏よりも前に、症状が出ていながらPCR検査を受けるために出かけた途中で容体が急変し亡くなられた野党の羽田さんのような状況が、多くの国民が置かれているような状況なのだ。
にもかかわらず「コロナ収束」の為に、自民党本部職員全員にPCR検査を実施する、というのはいかがなものだろう?
制度化して、民間の中規模病院でも検査ができるような体制を整えるほうが、優先事項だと思うのだ。
このような「身贔屓」をするのが今の自民党の本質なのかもしれない。


「新幹線の貨物利用」は、進むのか?

2021-01-28 20:02:54 | ビジネス

毎日新聞のWEBサイトにJR東日本が、上越新幹線を利用して新潟の朝摘みの花を輸送する、という記事があった。
毎日新聞:新潟で摘んだ切り花 数時間後には東京駅で直売 新幹線輸送の力

「新型コロナ」の感染拡大によって、大打撃を受けた業種の一つが「人の移動の為の輸送業」だった。
JALやANAなどの航空各社会社はもちろん、JR各社にとっても「新型コロナ」による人の乗車率の低下は、これまでにない打撃だった。
特に新幹線依存が高いJR東海などは、民営化後初めての赤字となった。
日経新聞:JR東海、今期最終赤字1920億円  民営化以降初の赤字

「新型コロナ」によって、人の移動が制限されると同時に「テレワーク」による勤務が推奨されるようになり、わざわざ出張をする必要があるのか?という、疑問を利用者側である企業が持つようになった、ということが大きいだろう。
もちろん、観光利用の減少も大きな痛手だったはずだ。
「新型コロナ」が収束すれば、観光目的での新幹線利用はある程度回復するだろう。
もしかしたら、今のような「自粛状態」が長く続けば、「収束宣言」が出されたと同時に観光に出かける人が急増するかもしれない。
それは「Go Toトラベル」などとは関係なく、多くの人たちが「解放感を味わいたい」という本能的(というべきか?)な行動のような気がしている。

ただ、ビジネスでの出張利用は、思いのほか増えない可能性のほうが高い、と考えている。
理由は「テレワーク」などの利用が定着すれば、出張などの経費を使うことに疑問が出てくるからだ。
「経費削減」という点では、削減しやすい費目になる。
もちろん、対面でなければできない仕事もあるはずだが、出張の頻度そのものが減る可能性は高い。

そうなれば、今までのような「新幹線利用」を想定していては、経営的に厳しくなると考えられる。
減便するにしても、ある程度の本数を走らせ、利用者・利用機会を増やさなくては、収益面で厳しい状況になるだろう。
とすれば、JR東日本のような「新幹線の貨物輸送化」というのも、十分考えられる転換のような気がする。

というのも、JR在来線の車内販売そのものが減ってきているからだ。
時事通信:山陽新幹線の車内販売休止 JR西日本が2月から

JR西日本の山陽新幹線での車内販売休止の目的は、「新型コロナ」によるものだが、車内販売の為の物品車両(というのだろうか?)が、「空気を運ぶだけのスペース」となってしまう。
このスペースを「貨物」として利用しようとしているのが、JR東日本の「上越新幹線の貨物輸送」だ。
JR東日本は昨年、東北新幹線でも同様の「新幹線貨物輸送」を行っており、手ごたえがあったのだと思う。
とすれば、新幹線を持つJR各社が「新幹線の貨物輸送化」を進めるメリットはあるのではないだろうか?

例えば、JR西日本は沿線県の産業支援を事業の一つとして行っている。
支援産業の商品を通販カタログ化し、ECサイトで販売し、「新幹線お急ぎ便」のような割り増し送料でお届けする、ということも考えられる。
「広島の企業の商品を午前中に注文すれば、夕方には自宅に届く(あるいは、最寄りのJR駅で受け取ることができる)」というのは、便利なサービスだろう。
場合によっては、ヤマト運輸などの宅配事業者と協業することで、より特化した「物流サービス」ができるようになるかもしれない。

元々鉄道は、人を運ぶだけではなく、物を運ぶこと(=貨物輸送)も行っている。
SDGsという視点でも、メリットは大きいように思える。
「新型コロナ」によって、人の動きの流れに変化が起きた。
それは運送でも、変化を起こす切っ掛けとなるような気がしている。


著名ブランドが、破綻・撤退する米国

2021-01-27 19:41:38 | ビジネス

Yahoo!のトピックスに、「ロクシタン、破綻」という見出しがあった。
この見出しを見て、驚かれた女性も多いのではないだろうか?
というのも、日本では「高級オーガニック・コスメブランド」として人気が高く、日本初出店の時には早朝から行列ができ、話題になったほどだったからだ。
WWD:米ロクシタンが破産法申請 新型コロナで一部閉店

WWDの記事の通り、破綻申請をしたのは米国法人のロクシタンで、日本法人や創業の地であるフランスの法人ではない。
商品そのものも、変わらず供給されるだろう。
そしてもう一つ目をひく記事があった。
日本では高級チョコレートとして人気の高い、ゴディバが北米全店撤退、というニュースだ。
日経新聞:ゴディバ、北米全128店撤退 コロナが追い打ち

いずれも「新型コロナ」の感染拡大により、路面店での売り上げが落ち込んだことが、原因のようだ。
それだけ「新型コロナ」の感染拡大が、アメリカ経済に打撃を与えている、ということだろう。
だが、それだけだろうか?
ロクシタンの場合、路面店にこだわったことが要因だとすれば、日本のように何故通販サイト等の販売ルートを増やすことを積極的にしなかったのか?という、疑問が起きてくる。

日本における「ロクシタン」の店舗展開は、「高級オーガニックコスメ」というスタンスをとっている(ように見受けられる)が、現実は千趣会等をはじめとする通販で、積極的に販売をしているのだ。
その結果、日本全国どこでも「ロクシタン」は購入でき、場合によっては、通販サイトを通して「アウトレットセール」等を行うことで、路面店のブランドイメージも大きく損なうことが無い、という事業展開をしている。

ゴディバに関しても、日本での展開はご存じの通り百貨店が中心だが、ファミリーマートとコラボでオリジナルスィーツを販売したり、PASCOと共同開発の商品を発売する等、百貨店等で展開しているイメージで、生活者が手に取りやすい販売戦略も立てている。
もちろんそのようなことができるのは、日本に進出して30年以上経ち、「ゴディバ」というブランドイメージが日本の生活者に出来上がっているからだ。

ところが北米の場合、進出そのものが遅かったことと「高級チョコレート」に生活者がさほど興味をひかなかったのかもしれない。
何と言っても米国には「ハーシー」という、チョコレートメーカーがある。
米国人にとって「チョコレート=ハーシー」なのだ。
「ゴディバ」が日本で展開しているような、お洒落で大人が買うチョコレートという市場需要がどれほどあったのか?という点で疑問なのだ。
おそらく米国にも「ゴディバ」のような、高級チョコレートという位置づけの商品はあると思う。
ただ積極的に大規模展開をするのではなく、スモールビジネスとして限られた地域で展開しているのではないだろうか?
日本からは撤退してしまったが、アイスクリームの「ベン&ジェリーズ」のように、企業ビジョンがハッキリしていて、そのビジョンに共感できる人達がファンとなり、少しづつ市場を拡大させる機会をうかがっているのではないだろうか?

北米特にアメリカという市場は、とても大きく魅力的だ。
だからこそ、市場で生き残るためには様々なことを考えなくてはならないはずだ。
良くも悪くも日本のように、海外の評判で生活者の気持ちをつかむことは、難しい。
穿った見方かもしれないが、北米市場から撤退、あるいは破産法を申請することになってしまったのは、決して「新型コロナ」の感染拡大だけではないような気がする。




職人+異業種経験=小さなイノベーション?

2021-01-26 20:25:20 | ビジネス

政府の後手後手新型コロナ対策を嘆いていても、遅々として進まない現状から気分をチョッと変えてみたい。
そんな気持ちで、「日本の伝統文化」を紹介することをコンセプトにしている、「和楽」という雑誌のWEBサイトを見ることがある。
雑誌の「和楽」は、美術館情報や和服の着こなし等「日本の伝統文化」を様々な切り口で紹介をしているのだが、WEBサイトは、一変やや暴走気味な位の内容になる。

当然のことながら、紹介される「日本の伝統文化」も違った視点になり、時にはファッション誌のような錯覚を起こしそうになる。
例えば、日本の冬の大定番家具・こたつを取り上げているのだが、紹介されているこたつは「インテリア」としてのこたつであり、こたつという機能を持った新しい家具、という印象だ。
和楽WEB:こんなこたつが欲しかった!だらだらライフをスマートに楽しめる、無垢材こたつが超カッコいい!

日本の生活スタイルが、畳からフローリングになって20年以上だろうか?
生活スタイルが畳からフローリングに代わったことで、冬の暖房器具はこたつからエアコンに代わった。
今でもストーブを使う家庭はあっても、こたつを使う家庭は少なくなったはずだ。
何故なら、フローリングの床にこたつをおいても、暖かくないからだ。
ホットカーペットと併用とか、厚めのラグを置き、その下にはアルミシートを敷く等の工夫をするのだが、インテリアとしてのこたつには、なりえない…という気がしている。

そのような「こたつ事情」でありながら、あえて「こたつ」を作っているのが。日美という香川県にある家具メーカーさんだ。
東京にデザイン・企画の事務所を置いているようだが、製作などを行っているのは香川県の本社で、数少ない職人さん達のバックグランドも様々というのが、これまでの「職人」と大きく違うところだろう。
これまでのような「師弟関係」の中から、技術を学び職人となるのではなく、様々な経験をしてきた人たちが「職人集団」となることで、これまでとは違う「モノづくり」をするようになってきているように感じるのだ。

もちろん、モノづくりにおいては「師弟関係」のようなところから、モノづくりの技術を学んだのでは?と、想像するのだが、モノづくりの中に「こんなモノをカタチにしたいな~」とか「こんなモノがあったら面白いのでは?」という、柔軟な発想(から生まれたデザイン)が、これからのモノづくりには重要となっていくだろうし、そのような指摘はこれまでもされてきたことだ。

そう考えると、これは「こたつ」という小さなイノベーションなのかもしれない。
ただ、生活を少しだけ快適にすることで、私たちの生活スタイルも変わるだろう。
それが香川という地域の活性化にもつながるのではないだろうか?



政府の政策が後手後手になってしまうのは、何故なのか?

2021-01-24 20:48:11 | アラカルト

連日のように報道される「新型コロナウイルスの自宅療養中の死亡」。
この「自宅療養中の死亡者」が増えている中、政府は「入院拒否者に対し懲役刑」という趣旨の政策を出している。

この「入院拒否者に対し懲役刑」に、違和感を感じられた方は多いと思う。
入院をしたくても「自宅待機による療養」を指示されている方が、多いからだ。
政府が「入院拒否者に対して懲罰」と考えたのは、「新型コロナ」が感染拡大し始めた1回目の「自粛要請」中に、相次いだ「俺、コロナ」と言って出歩き、感染者を増やした人がいたためだろう。
しかし、この「俺、コロナ」の人たちが問題になったのは、半年以上前の話だ。
しかもこの時は、病院そのものも今より余裕があった頃だった。
今のように「医療崩壊」さえ指摘されるような状況に陥っているのに、「入院拒否者」に対して懲役というのは、いかにも的外れな政策だと、感じるのは当然かもしれない。

それだけではなく「懲役刑」というのは、重すぎるのでは?と、感じている。
確かに「俺、コロナ」のオジサンたちによって、亡くなられた方がいらっしゃるのは、事実だ。
遺族の方からすれば、懲役刑も当然という気持ちだろう。
であれば、命を脅かすような行為全般が懲役刑の対象となっているのか?という、疑問も出てくる。
「新型コロナ」に限って「懲役刑」というのは、他の刑事罰に比べてどうなのか?という、検討がされたような気配が無い。
唐突にこの政府案が出てきて、可決するような勢いなのだ。

このような、唐突な政府の政策を見るたびに「何故、後手後手の政策」が誇らしげに提出されるのだろう?と、疑問に感じている。
特に「新型コロナ対策」に関しての政策は、「後手後手×4」位の「後手後手さ」を感じている。
その理由の一つとして考えられるのが、「経済を動かす」という言葉だ。

確かに「経済」を動かさなくては、国民生活が危ぶまれる。
「国民生活が危ぶまれる」ということは、企業の収益をはじめ税収が減ってしまう、ということを示している。
残念なことに、国が考えているのは「企業の収益と税収が減る」ということばかりのような気がするのだ。
本来の「経済を動かす」ということは、「国民が安心して生活できるようになり、経済活動に参加できる環境」にならなければ「経済を動かす」ことはできないはずなのだ。
にもかかわらず、政府が考えているのは「企業の収益と税収」だけなのでは?
そのため、的外れな「Go Toキャンペーン」に1兆円以上の予算を、計上したりできるのではないだろうか?

上述したように、国民の生活や実態を見ようとしないために、後手後手の政策を次々と打ち出し、全く成果が上がらず、最終的には「国民一人ひとりの良心ある行動」に頼らざる得ないのだ。
そしてこの1年、何とかやり過ごしてきたのでは、ないだろうか?
今や「国民一人ひとりの良心ある行動」に限界がきている、という認識も理解もできていないし、自民党の派閥の領袖・石原伸晃氏が陽性者となり入院するまで、危機感すら無かったのでは?

毎日新聞には、「国民の命と生活を守る機能的な政治」という見出しの、有料会員向け記事がある。
今求められているのは「国民の命と生活を守るということは?」という、一人の国民目線で社会を見た危機感と問題点を知ることが、政治家にもビジネスパーソンにも求められているのではないだろうか?


「上級国民」とは、こういうことなのか?

2021-01-22 20:04:39 | 徒然

新聞社各社のWEBサイトをチェックしていたら、「これが上級国民」ということなのか?という記事の並びを見た。
それは、「新型コロナウイルス」関連の朝日新聞の記事の並びだった。
自宅療養中に亡くなられた方の記事の下には、国会議員の石原伸晃氏の新型コロナに感染、既往症があるため入院という記事。
さらにその下には国立国際医療研究センター忽那医師の自宅療養中の死亡者が増える可能性という趣旨の記事だ。
朝日新聞側は何か意図した訳ではなく、単に記事をアップした時間によってその掲載順になるようだが、岐阜では自宅療養中の「新型コロナウイルス感染」の方が亡くなり、石原氏は既往症があると言っても前日は派閥の会合であいさつ回りをし、その後感染が発覚、入院となっている。

石原氏の記事を挟むように、「新型コロナ」感染者の内「自宅療養」により亡くなる方が増える、という記事の並びは「上級国民とその他」の扱われ方の違いを感じるのは、穿った見方なのかもしれない。
穿った見方かもしれないと思いつつ、今年に入ってから「自宅療養中」に亡くなる方や「受入れ先病院が決まらず救急搬送ができず」亡くなる方等のニュースを目にすることが多くなり、改めて「新型コロナ」の感染拡大状況と事態の深刻さを感じるようになってきた。

その矢先に国会議員である石原氏の感染・入院というニュースは、既往症治療のためのかかりつけ病院に入院したのだったとしても、どことなくモヤッとした感じがするのだ。
それはおそらく、同じ国会議員で「新型コロナ」で亡くなられた羽田雄一郎さんが、自宅待機後PCR検査を受けるために病院に向かう途中、急変して亡くなられたということにも関係しているのかもしれない。

羽田さんが亡くなられた経過は、多くの生活者が「新型コロナ」に感染しPCR検査を受ける前までの手順とほぼ同じだろう。
まして羽田さんの父・羽田孜氏は総理大臣まで務めている。
言わば「政治一家のサラブレッド」のような、人物だったのだ。
羽田さんも石原氏同様、既往症があったことには変わりない
そのような人物であっても野党であれば、多くの生活者と同じような手順でなければPCR検査までたどり着けなくて、与党の派閥の領袖であれば、すんなり入院となるのか?という、印象を持ってしまうのだ。

石原氏からすれば、当然のことと思うかもしれないが、現状では入院待ちの「自宅療養中」に亡くなる方が増えている。
そのような状況の中で、すんなり入院できるのは「与党の国会議員」という、「上級国民」であり「上級国民とその他国民」の違いなのか?と、感じてしまうのは私だけではないと思う。


Fashionはメッセージになる

2021-01-21 11:48:58 | アラカルト

今日の早朝、新しい米国大統領となったバイデン氏の就任式があった。
Huffpost:バイデン新大統領が就任演説「物事は変わらないと言わないで」(詳報)

バイデン氏の就任演説よりも目立った感があったのが、米国国歌を独唱したレディー・ガガや詩を朗読した詩人アマンダ・ゴーマンさんだったかも知れない。

今回レディー・ガガが着ていたのは、濃紺に真紅のボリューム感のあるスカートというドレスだった。
アメリカ国旗の基本色である色を着ることで、「私たちのアメリカ」ということを強調したかったのだろう、と想像できる色の組み合わせだ。
胸につけた大きなボリュームのある金色の鳩のブローチは、おそらくピカソが描いた鳩をモチーフにしたものでは?と思っている。
ピカソ自身、鳩をモチーフにした絵をいくつも残しており「スペイン内戦」で一気に名作「ゲルニカ」を描き上げたことを考えると、ピカソにとって「鳩」は平和や協調の象徴なのだろう。
特に今回レディー・ガガが選んだ「鳩」は、オリーブの枝を咥えている。
オリーブの花言葉は「平和と知恵」と言われている。

全体のバランスを考えると、「随分大振りなコーディネート」のように感じるが、ホワイトハウスのバルコニーにワシントン記念塔近くにいる人まで見せるには、この位「大振りなコーディネート」である必要があったのだろう。
実際には、就任式に一般の人たちが入ることはなく、代わりに「新型コロナ感染」によって亡くなられた方々の数の国旗が埋め尽くすことになったが。

そしてもう一人、自作の詩を朗読した若い女性がいた。
アマンダ・ゴーマンさんという22歳の若い詩人だ。
彼女は、黄色のコートに身を包み丁寧で分かりやすい(すべてを聞き取ることはできなかったが)言葉で、自作の詩を堂々と朗読した。
Huffpost:アマンダ・ゴーマンさん「奴隷の子孫が大統領になるのを夢見られるようになった」。大統領就任で詩を朗読

ゴーマンさんの若々しさに似合った黄色のコートだったが、12年前のミッシェル・オバマさんを思い出した方も少なくなかったのではないだろうか?
黒人初の大統領となったオバマさんの就任式でミッシェル夫人が着ていたのがミモザ色のドレスとお揃いの色のコートだった。
この時話題になったのが「ミモザ色」に込められた意味とは?ということだった。

「黄色」は「希望の色」とも呼ばれる。
若いゴーマンさんがこの色を選んだのは、今のアメリカを覆いつくす「分断と憎しみを希望に変えたい」という思いがあったように感じたのだ。
実際ゴーマンさんの詩は、「民主主義は脆く壊れやすい。私たちの国はまだ未熟な国だからこそ、立て直し、前に進むことができる」という趣旨の内容になっている(ようだ)。
朗読した詩の内容と合わせ、「前に進む力=希望」を持つことを黄色のコートでもアピールしているのでは?と、感じたのだ。

ミッシェル・オバマさんをはじめ、多くの女性陣が紫系の色を着ていたのは、民主党で初めてアフリカ系女性候補者となったシャーリー・チムザさんに対する敬意だという指摘がある。
Yahoo!ニュース:米大統領就任式で女性陣が紫色の衣装を着用した意味

大統領就任式という場だからこそ、女性陣はファッションを通して、メッセージを伝えたかったのではないだろうか?
それは「希望」であったり「分断からの融和」だったような気がしている。





「手段」が「目的」になってはいないか?

2021-01-19 21:04:17 | ビジネス

朝日新聞のWEBサイトに、微笑ましい記事があった。
記事そのものは微笑ましいのだが、とても違和感を感じたのだった。
朝日新聞:リンゴ皮むき18m、妹が姉の記録更新 研究の成果出た

映像を見ていただければわかる通り、小学生が冬休みの間に「リンゴの皮むき」に挑戦をし、その成果を実演発表した、という内容だ。
我が家にテレビがあった頃(今から10年前)にも、おそらく同じ小学校で行われたのでは?と思われる「リンゴの皮むきの長さを競う」というニュースがあったので、今は冬休み明けの風物詩のようなことなのかもしれない。
とても微笑ましい光景だし、一生懸命に細く・長く・切れないようにリンゴの皮をむく小学生の姿は、ある種の感動を感じられる方もいらっしゃるかもしれない。

だが私は、このニュース映像を見ながら、どこかモヤモヤしたものを感じていた。
随分前から、子どもたちがナイフ等で鉛筆が削れない(=刃物を上手に使えない)ということが問題になっている。
何となくだが、このような「刃物が使えない子どもたち」が問題視されるようになった頃ぐらいから、このような「リンゴの皮むき」を競わせるような行事が小学校で生まれたような記憶がある。

鉛筆に関しては鉛筆削りがあるので、ナイフで削る必要は無いとは思うのだが、「刃物が上手に使えない」ということは、学校の授業の図画工作や家庭科などの授業に差しさわりが出る、ということなのだろう、と思っていた。
実際、大人になり生活をする中で包丁はほぼ毎日使うし、カッター等の刃物を必要に応じて使わなくてはならない場面もある。
その時、刃物の基本的使い方を知らないと、怪我の要因になるだけではなく近くにいる人を怪我させることにもなりかねない。
その意味で「刃物の使い方」を知っておく、というのはとても大事なことだと思う。

では「リンゴの皮を切れないように長くむく」目的は何か?ということだ。
上述したように、「刃物の使い方に慣れる」というのであれば、何も「長く・細く・切れない」ようにリンゴの皮をむく必要は無い。
まして、競わせる理由もないはずだ。
学習成果の一つとして、子どもたちに実演させるにしても「上手に刃物(この場合包丁)が使えたね」で、十分だと思うのだ。
それをあえて「長く・細く・切れない」ように競わせる理由は、何だろう?ということなのだ。
何となくだが、手段(=皮をむくことが上手になる)が、目的(=長く・細く・切れない)となってしまっているような気がするのだ。
しかも「競争させる」という動機付けが、更に違和感を感じさせるモノになっているのだ。

このようなことは、決して特別なことではない。
ビジネスにおいても、このように手段が目的化してしまうことは多々ある。
手段が目的化してしまうと、「一体何のために、その仕事をしなくてはならないのか?」という、本質を見失い仕事の意味も失ってしまう。
営業の成績発表などで、上司となる人物が数字目標を達成できなかった社員を叱責するのと同じだ。
その仕事の意味・目標となる最大顧客利益の提案と提供という目的が、十分理解されずに「売ってこい!」だけでは、数字は上がってこない。
にもかかわらず、まだまだ日本の企業には「売ってこい!」しか言えない管理者が多いのでは?

少なくとも、この微笑ましいニュースを見ながら「手段の目的化」と「事業の本質を忘れる」ことの怖さを感じるのだ。



視点を変えよう!支援の方法は一つじゃない

2021-01-17 20:03:22 | ビジネス

愛知県下で「緊急事態宣言」が発令されて、初めての週末。
本来であれば、「新年会」等で賑わうはずの繁華街も、夜の8時には店を閉めなくてはならなくなった。
理由はご存じの通りだが、飲食店などの店主さんたちは「飲食業が悪者扱いされている」と、感じていらっしゃるのではないだろうか?
当然、店を閉める時間が長くなるのだから、既に売上が下がっている時にもっと売上が減少するような要請には、「政府の無策のツケを飲食業に押し付けるな!」という、怒りもあるだろう。
文春オンライン:ランチ自粛にサイゼリヤ社長「ふざけんなよと」創業者が語った「最悪のときこそ最高なの」の”真意”

記事の内容はともかく、サイゼリヤの社長が「ふざけんなよ」と思ったこと、おそらく多くの飲食業に携わる人たちの思いの言葉だろう。

そんな話ばかりが聞こえる中「なるほど!そういう方法もあったのか!?」という記事が、Huffpostにあった。
Huffpost:ハイネケン、コロナ休業したバーのシャッターに広告出稿。「シャッター広告」でお店を支援

確かに、店を閉めている=シャッターを下ろしている、という状況だ。
その「シャッター」を「看板」としてみれば、それは「広告スペース」となる。
実際、多くのお店のシャッターにはお店の名前が書いてある。
お店は閉まっていていても、「ここに〇〇(というお店)がありますよ」とアピールをしているのが、シャッターということになる。
「アピールスペース=看板」と考えれば、営業できないお店に代わって製品広告を出せば、お店は閉めていてもそれなりの賃貸料(というのだろうか?)が、入ってくる。
製品広告を出している企業側とすれば、人目にも付きやすいし話題にもなりやすい、という広告効果が期待できる、というメリットがある。
最近多くみられる映像ビジョンの広告は、アピール効果は高いかもしれないが費用も掛かるだろう。
とすれば、広告を出す企業側にとってもシャッターを貸すお店側にとっても、WIN-WINの関係の支援策なのではないだろうか?

そしてこのような「シャッターを広告看板にする」というアイディアは、「シャッター街」と言われるようになった古い商店街の活性化にもつながるかもしれない。
というのも、実家のある米子に帰省する度に感じることの一つが「街が薄汚れている感」がある、ということがあるからだ。
理由は、人口の減少により街中に住む人も商店も激減したため、「街の手入れ」がさなくなってきているからだ。
人の手でつくられたモノ・サービスは常に手入れをしなくては、そのモノ・サービスがどんどん陳腐化し忘れ去られてしまう。
とすれば、人を呼び寄せるための策をしなくてはならないはずだが、それが上手くいっていない、というのが多くのシャッター商店街の問題だろう。
とすれば、ハイネケンが「新型コロナ」で閉店を余儀なくされたバーのシャッターに広告を出すように、シャッターそのものを貸し出す、という方法もあるのではないだろうか?

シャッターを貸し出すメリットは、収入という面だけではなく落書き防止という点でも効果があるのでは、ないだろうか?
上述した「街が薄汚れている感」の中には、シャッターの落書きも含まれているからだ。
企業に貸し出すだけではなく、美術系の学生さん等に「シャッターというキャンバスに絵を描いてもらう」という企画、「シャッターアートコンテスト」のような企画があっても面白いかもしれない。

ハイネケンのシャッター広告による飲食店の支援は、是非日本の飲料水メーカーさんも企画して欲しい、と思っている。
そしてこの広告のアイディアを、「新型コロナウイルス支援」と捉えるのではなく、もっと柔軟な「活性化策」として考えてみても良いのでは?と、考えている。

 


今必要なことは、イノベーション力

2021-01-15 11:54:33 | ビジネス

昨年、ある方から数冊の本を頂いた。
私がマーケティングという仕事をする上で、色々勉強をさせて頂くことが多かった方の形見として頂いた本だ。
ゆっくりではあるがそれらの本を、この「コロナ禍」の中読んでいる。
今読んでいるのは、ドラッカーの「イノベーションと企業家精神」だ。
ドラッカーの名著の一つなので、読まれた方も多いと思う。
改めて読んで、ドラッカーの言葉にハッとさせられることも多いのだが、実は今「落ち込んでいる」。

「イノベーションの原理」という章の一節。
「イノベーションとは理論的な分析であるとともに知覚的な認識である。(中略)イノベーションに成功する者は、右脳と左脳の両方を使う、数字を見るとともに人を見る。」
という部分だ。
もちろん、この部分だけで「落ち込んだ」訳ではないのだが、この文に自省することになった、ということなのだ。

ビジネスパーソンであれば、データ分析の重要性は十分すぎる位理解をしているだろう。
現状を分析することで、「今の問題」を見つけることができるからだ。
だが「今の問題」で一番困っている人は、誰なのか?というと、それはデータではなく生活する場へ出向かなくては、見えてこない。
そこから見えてくる問題を解決するためには、創造力が必要であり、この二つが両車輪となって「イノベーション」が起きるのだ。
とすれば「コロナ禍」という状況の中で、今一番求められているのは「イノベーション」なのでは?と、感じている。

「イノベーション」というと、社会を一変させるような技術研究のように思えるのだが、その実「小さなイノベーション」が社会を変えていっている、というのがドラッカーの「イノベーション」だ。
例えば「感染症は都市型の病気である」という指摘がある。
「都市型の病気」という意味は、人を介して病気が拡がっていくため、人口が密集している「都市」は感染拡大がしやすく、感染速度も速い、という古くから言われている指摘だ。
過去、世界に広がった感染症の中で、一番患者が多かった地域は「人が密集し経済的に恵まれていない人たちが住む地域であった」というデータがある。
一方、富裕層と言われる人たちの多くは、感染の噂が市中に流れ始めるとサッサと都市部を離れ、人の少ない別荘へと移動したため、感染者が少なかったという。
今と経済状況が違うにせよ、この過去の記録(=データ)が示すことは、「どのような人を隔離する必要があるのか?」ということを示唆していたはずだ。

もう少し視点を変えてみると、「3密」となる環境とは?と考えた時、都市部に住む人たちの生活を変える必要がある、ということがわかる。
それは物理的な変革だけではなく、意識的な変革(=創造力)も迫られることだ。
この「意識的変革」を起すことができるのが、「小さなイノベーション」なので、ないだろうか?

そのように考えた時、今必要なことは「(小さな)イノベーションを起す」ということであり、その中心となるのはビジネスパーソンだけではなく、政治に携わる政治家自身でもあるはずだ。
硬直した「高度成長期の再来」を夢見ているような、政治家では「イノベーション」等、起きるはずもないのだ。