日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

Amazonに出店しないLouis Vuitton

2020-01-31 20:19:47 | ビジネス

WWDJapanのサイトを見ていたら、「『Louis Vuitton』の親会社であるLVMH社は、Amazonへの出店はしない」と、発表をしている。
WWDJapan:「ルイ・ヴィトン」の親会社、19年度はついに売上6兆円を突破「アマゾンへは出店しない」

「ルイ・ヴィトン」の親会社であるLVMH社そのものが、グループ名の一部となっている「モエ」というシャンパンからファッションに至るまで、様々な高級ブランドを傘下に収めていることを考えれば、6兆円という売り上げはそれほど驚くような数字ではないのかもしれない。
日本や米国での売り上げが好調となってはいるが、やはり中国などの売り上げも忘れてはいけないと思う。

この見出しで注目すべき点は、「アマゾンに出店しない」ということだろう。
アマゾンが、ハイブランド商品特にファッション関連の商品を扱いたい、というのはサイトを見てもわかる。
その最たるハイブランドである「ルイ・ヴィトン」を将来的に、扱えるようになればこれまでとは違う顧客の獲得ができるのでは?という、考えがあってもおかしくはないだろう。
ファッションと言ってもサイズ展開の難しいアパレルではなく、「ルイ・ヴィトン」の代名詞となっているカバンとなれば、ますますアマゾン側としては取り込みたい、ということになるはずだ。

それを「ルイ・ヴィトン」の親会社であるLVMH社側は、これを拒否した、というのがこの見出しだ。
考えてみれば、LVMH社側としてはアマゾンに出店するメリットなどは、ほとんど感じられないはずだ。
何故なら、高級ファッションブランドだからこそ、苦戦を強いられていると思われている「路面店」が、大きな強みだからだ。

「ルイ・ヴィトン」のお店だけではなく、いわゆる高級宝飾店と言われる路面店に入るには、とても敷居が高いと感じる方は多いはずだ。
店内入口には、ガードマン兼ドアマンのような男性が立っており、庶民としては「それなりの覚悟」を持ってお店に入らなくてはいけない、という気分になるからだ。
この「敷居の高さ」があるからこそ、店側は自分たちが提供する商品やサービスに似合った顧客を選んでいる、ともいえる。
しかし一歩店内に入ると、そこは「非日常なハイクラスな空気感」があり、商品知識だけではなく接客などの経験豊かな店員が、にこやかに対応をしてくれる。まさに「別世界」にでもいるようなラグジュアリー感を体験できる場所でもあるのだ。
この「店舗空間」が、高級ブランドの魅力の一つでもあるからだ。

一方アマゾンのようなECサイトでは、このような「体験」はできない。
数多く表示される商品の中から、選ぶ楽しさはあるが「路面店」で体験できるような「特別感」が無いからだ。
本を選ぶ感覚で「ルイ・ヴィトン」のバッグを選びたい!という、生活者がどれほどいるのか?
「ルイ・ヴィトン」だけではなく、LVMH社が傘下に収めている高級ブランドの商品を、生活者が選ぶ時どんな場所で・接待を受けたいのか?と考えれば、やはりアマゾンのようなECサイトではない、ということがわかると思う。

むしろ「ルイ・ヴィトン」だからこそ、アマゾンのようなECサイトでの販売は、似つかわしくない、ということになるはずだ。
確かに、アマゾンをはじめとするECサイトでの買い物は、24時間いつでも好きな場所でできる、というメリットがある。
それは日常生活に溶け込んだ商品だからそこ、感じられるメリットなのだ。

「路面店」が苦戦しているのは確かだが、なんでもアマゾンで商品を買いたいわけではない、という生活者の気分を理解する必要があると思う。




「新型コロナウィルス肺炎」と中国人観光客

2020-01-30 19:46:35 | アラカルト

昨日、中国の武漢から日本政府が用意したチャーター機で、邦人200名あまりの方が、帰国した。
一旦「新型コロナウィルス肺炎」の罹患の有無をチェックしたのち、2週間程度の外出禁止及び体調変化の報告、という措置が取られた。
そして今日も、同様のチャーター機で帰国された方々がいる。

昨日帰国された方の中には「やっと帰国できて、ホッとした」とインタビューに応えていた方がいらっしゃったことなど考えると、武漢での生活そのものが不安と緊張のあるものだったのだろう、と想像できる。
ホッとしている方がいらっしゃる一方で、「新型コロナウィルス肺炎」に罹患していることが、判明した方もいらっしゃる。
中国で入院している邦人の方は、重篤な状態である、という報道もあった。

この「新型コロナウィルス肺炎」の記事が、新聞などに掲載されるようになり、「感染者が見つかった地域と、罹患者数」というデータを見ると、様々なモノが見えてくる。
AFP:新型コロナウィルス、感染者が確認された国と地域 (2020年1月30日現在)

例えば、現在の中国人にとっての「海外旅行」のトレンドは、タイなどのようだ。
帰国した邦人からの感染が認められたことで、患者数が増えてしまったが、武漢からの旅行者という数字でみた時には、フランスでの罹患者数が、一時期日本より多かった。
春節で、タイのような近隣諸国に旅行に行く、ということはわかるのだが、フランスやオーストラリアのような中国からそれなりの距離がある国々での罹患者が、日本より多いということは、今の中国の人たちにとって「日本」という国への観光よりも、フランスやオーストラリアのほうが興味がある、とも読み取れるのだ。

と同時にそれは、中国人観光客の生活者層が変わってきている、ということも考える必要があると思う。
これまで海外旅行に縁のなかった、中国の中流階層の人たちが、LLCのような飛行機会社を利用して、観光来日をしている、とも考えられるのでは。
不謹慎かもしれないが、このような時だからこそ、このデータから見えてくる「中国人観光客の実態」とも、読み取れるような気がしている。



グラミー賞は社会を映したのか?

2020-01-28 20:06:51 | トレンド

昨夜、米最高の音楽賞と言われる「グラミー賞」の授賞式があった。
わずか18歳のビリー・アイリッシュが、主要4部門を獲得し、話題になっている。
billboard Japan:第62回グラミー賞 ビリー・アイリッシュ主要4部門独占、計5つの賞に輝く快挙

久しく洋楽を聞いていなかったところもあり、受賞曲「Bad Guy」を聞いたことが無かった。
MVを見てみると、「これが受賞曲なのか・・・???」と思うほど、単調なリズムにかぶさるような呟きにも似た歌。何より、不機嫌そうな表情のMVで、驚いた。
欅坂を脱退した平手さんよりも、表情の不機嫌度は高いのでは?と、感じるほど表情そのものが無く、MVとしてもザワザワとした居心地の悪さを感じてしまった(おそらく、私がそれなりの年だからだろう)。
他にも候補となったLizzoの「Truth Hurts」のMVを見ても、これまでのような「楽曲」というよりもラップに近いような印象を持ったのだった。
そしてシチュエーションは結婚式なのに、このMVもどこか居心地の悪さのようなものを、感じてしまったのだ。

ただ、この「居心地の悪さ」のようなものが、今の米国なのかもしれない?と、感じる部分でもあった。
「歌は世につれ、世は歌につれ」と言う言葉があるように、その時々の時代感を言うものをヒット曲が表しているからだ。
今回受賞した「Bad Guy」は、日本語にすれば「悪い男」となる。
とはいうものの、楽曲とMVがリンクした表現となっているわけではないし、むしろ「Bad Guy」という言葉は、今の米国の閉塞感を持っている若い世代たちの心情的な「ジレンマ」を表現しているようにも見える。
また、LizzoのMVなどを見ると分かるのだが、MVの制作においても「キレイ」な表現を求められる時代ではなく、今の社会の様々な人たちを登場させる、ということが多くの人の気持ちをとらえるのだろうか?という、印象もある。
Lizzo自身、プラスサイズと呼ばれるような体形であり、そのコトに対して自信を持っているように見受けられるからだ。
彼女の場合、黒人+プラスサイズということを考えれば、華やかな米国の音楽業界においては「異端的存在」と30年くらい前なら言われただろう。
30年くらい前ならハンディであることが、今ではハンディではなくなってきている、ということを今回のグラミー賞は表したようにも思えるのだ。
ビリー・アイリッシュのファッションなどを見ても、「女性らしいファッション」ではなく、オーバーサイズの服を好んで着ることで、「性的なイメージを消す」ことに成功しているようにも思えるし、それが一つの彼女の主張となっているようにも感じるのだ。

もちろん、カントリー音楽の大御所となったタニア・タッカーがノミネートされていることも考えると、ノミネートされた楽曲やミュージシャンは、微妙なバランスで取れている。
ただ、18歳という若いビリー・アイリッシュがグラミー賞という米国における権威ある音楽賞を総なめにした、という事実は、アメリカという国が変わろうとしている姿のようにも見えるのだ。
それはおそらくトランプさんが推し進めるような、保守的なものではないのでは?という、気がしている。






中国依存のインバウンドを考え直す時期かもしれない

2020-01-27 17:08:21 | ビジネス

このところ連日ニュースのトップとなっているのは、中国・武漢で発生した「新型コロナウィルスによる肺炎」だ。
今現在は、罹患者数死亡者数ともに増える一途をたどっており収束の目途が全く立っていない、という状況だ。
このため、発生現地である武漢に住む邦人の急遽帰国を促す為に、政府専用機を用意をする、ということになっている。
WHOは、「緊急事態宣言」を見送ったが、中国からの観光客が多い日本としては何とか手立てを打つ必要が出てきている、ということには間違いないだろう。

この「新型コロナウィルスによる肺炎」の拡大は、丁度中国の春節と重なったこともあり、インバウンドにも大きな影響を与える、という懸念の声もある。
ただYahoo!などのコメントを読むと「インバウンドと新型コロナウィルスの感染拡大のリスクとでは、感染による経済的ダメージが大きい」という指摘が数多くみられることから、生活者のほうが冷静にこの状況を見ているのでは?という、気がしている。
確かに、日本国内に新型コロナウィルスが持ち込まれ、感染拡大となった時の経済的ダメージは大きいだろう。

一方で、このような中国からの観光客を当てにしたインバウンドの発想で良いのだろうか?という、気もしている。
韓国との関係が悪化して以来、韓国からの訪日が減っているのは当然で、代わりに伸びているのが中国ということになる。
中国からの観光客は、年々増えていて以前ほどの「爆買い」は減ったかもしれないが、買い物目的で訪日する中国人観光客は、変わらず多いというのは事実だろう。
JTB総合研究所:訪日外国人動向2020・観光統計

その一方で、支出額となると中国というわけでもなさそうなのだ。
日経新聞:インバウンド統計リポート
昨年のデータではあるが、旅行支出額となると中国に代わってフランスがトップとなっている。
支出額の増減はタイが増えており、逆に中国は減少している。
宿泊費や飲食費なども、欧州の国々のほうが多い、ということがわかる。

中国からの観光客は、団体旅行ということもあり人数が多く、全体で考えれば訪日で使うお金も多いが、個々の使い方を見ると、思ったほどの支出をしていない、ということがわかる。
「春節」による中国からの観光客の減少は、観光業にとって手痛いことかもしれないが、これらのデータから考えれば「中国依存のインバウンド」という考えは、現実と違っているということにもなる。
中国からの観光客ばかりに注目していると、将来的な訪日観光客を見誤る可能性もあるのではないだろうか?




グリーンエコノミーをリードするのは?

2020-01-26 16:03:09 | ビジネス

昨年、グレタ・トゥーンベリさんが国連で、激しい言葉で気候変動についてのスピーチをしたことは、記憶に新しところだと思う。
この時のスピーチは、様々な波紋を呼びトランプ大統領をはじめ相当の反発もあった。
その反発に対して、グレタさんは怯むことなく「気候変動」をキーワードとして、環境問題に対して次々と声を上げている。
それは先日あった「ダボス会議」でも、同じだったようだ。
というよりも、今回の「ダボス会議」の最注目人物だったのはグレタさんだった、というのは間違いないだろう。

高齢の政治家にとって、グレタさんの存在は「目の上のたん瘤」のような存在になりつつあるようだが、グレタさんが投げかけた「問題」に対してビジネスの世界では徐々に動きがあるようだ。
それが「グリーンエコノミー(=環境問題を考えた経済)」という、今までの「循環型経済」よりもやや歩みを進めた「自然と協調する経済」ということになると思う。
25日の日経新聞などでも、同様の内容の記事が掲載されている。
日経新聞:「グリーンスワン」が迫る変革 ダボス会議閉幕 (会員有料記事の為、一部のみ)

「グリーン・スワン」と経済については、ブルームバーグに分かりやすい記事があったので、そちらを参照していただきたい。
ブルームバーグ:気候変動で世界的な金融危機もーBIS論文「グリーン・スワン」警告

ブルームバーグの記事のように、欧州諸国では「気候変動」をはじめとする環境問題は、既に経済・金融の問題として考えられるようになってきているのだ。
それはダボス会議に出席をしていた、ドイツのメルケル首相の発言からも良く分かる。
NHK:独首相温暖化をめぐる対立に懸念表明 ダボス会議

残念ながら、トランプさんだけではなく日本の政治家もこのような「気候変動が引き起こす経済・金融リスク」について、危機感を持っていないように思える。
政府として興味が無くても、グローバル化している経済の視点で考えれば、積極的に動き始めている欧州諸国と同調せざる得ないのではないだろうか?
日経新聞:グリーンに秘めた野心、欧州、環境で政治を動かす

日本について考えると問題となるのは、遅々として進まない「東京電力福島第一原子力発電所事故」の後始末や、この事故によって再稼働することになった「火力発電」などにより、決して「気候変動」対応に関して積極的な動きを示している、とは言えない状況にある。
かといって雨後の筍のように乱立する「太陽光発電」に関しても、周囲の景観や管理などの問題がクローズアップされるようになってきた。
このような状況を見ると、戦後の無策の都市計画と同じ轍を踏んでいるようにも思える。
民間主導で、グリーンエコノミーを推進する、ということは悪いことではないと思うのだが、それを主導するべき政府の対応が後手後手になっているような気がするのだ。
それだけではなく、雨後の筍状態で増え続けている「太陽光発電」そのものに対しても「太陽光発電で、儲かります」という目先の利益をちらつかせることで、増え続けているのでは?という、気がしてくるのだ。

そう考えると、やはり欧州が一歩も二歩もリードしているような気がするし、このリードが、日本経済に打撃を与える可能性もあるようにも感じている。
その危機感が、日本政府や日本企業にどれだけあるのだろうか?


「幸福度」という物差し

2020-01-24 21:14:36 | ビジネス

Huffpostを見ていたら、昨日の「GDP」とは違う、「(働く人の)幸福度」についての記事があった。
Huffpost:働く人の幸福度の高め方とは。「世界のベスト・ワーク・プレイス2019」で明らかに

国や地域によって「働く人の幸福と感じるポイント」は、随分違うというのは当然だろう。
政治的に安定をしていない国や地域であれば、「安定的に仕事ができる。安定的な収入が得られる」ということが、幸福度の重要なポイントとなるだろう。
それが北欧のように、社会保障がしっかりとしている国であれば、「働きがいや自己実現」という、収入以外のことが幸福度のポイントとなるのは、当然と言えば当然だろう。

この「幸福度」の調査を見て、気づくことはないだろうか?
ビジネスだけではなく心理学などでも使われることがある「マズローの欲求階層」だ。
Wikipedia:自己実現理論

三角形の階層の下になればなるほど、生理的欲求であったり安全への欲求になり、これらの欲求は「人が人らしく生きていくための基本的な欲求」と言われている。
政治的・社会的不安定な国や地域の人たちは、この「人が人らしく生きていく為の基本的欲求」が、満たされることで「幸福を感じる」ということになる。
それが北欧のような社会保障が整い老後などの安心がある国や地域になれば「働きがい」といった「自己実現の欲求」が、「幸福を感じる」ポイントということになる、ということが良く分かる。

では日本の場合はどうなのだろう?
この記事で「え!」と思うのは、日本の労働時間が12時間となっている点だ。
今どき12時間労働を強いている企業など、建前としてはないはずだ。
大手と呼ばれる企業の多くは、「36協定」と呼ばれる時間外労働や休日労働などの規制がかかっているはずだからだ。
厚労省:36協定で定める時間外労働及び休日労働について留意すべき事項に関する指針(PDFファイル)

ご存じの通り、1日の労働時間は8時間、週40時間と定められたうえでの「36協定」ということになっている。
とすれば、12時間労働というのは、「36協定」違反ということになる。
だが、おそらく12時間労働というのは、勤務時間の現実なのだと思う。
それに加え、有給休暇の取得率も低い。

そのような労働環境の中で、日本人の感じる「働く人の幸福感」というのは、どこに見出しているのだろうか?
「やりがい」だろうか?それとも「自己実現」だろうか?
毎年暮れに発表される「ブラック企業大賞」に選出される企業を見て感じることは、「人らしさ」を求めにくいのが今の日本の企業での働き方なのでは?という気がする。
「企業の為に働く」ことが、労働者に求められていることであり、それが企業人として当然のことである、と言う刷り込みが高度成長期から続いているのかもしれない。

しかし今のように、多様な価値観の社会の中ではこのような「企業の為に働く=幸福なこと」では無くなりつつある。
実際、ダイバーシティーが進んでいる(=多様な価値観を持った人たちが集まっている)企業ほど、収益性が高く、社会からの信頼度も高い、というデータがある。
日本の働く人の幸福度を上げるためには、企業も働く側も大きな意識変革が必要なのかもしれない。





「GDP」という物差しでは、国の豊かさを測ることができない

2020-01-23 16:00:35 | ビジネス

Yahoo!のトピックスに、なかなか興味深い記事があった。
元の記事は、クーリエジャポンに掲載されたものだ。
Yahoo!:ノーベル賞経済学者が説く「GDPの最大化は、先進国が考えた的外れなゴール」

2019年のノーベル経済学賞を受賞したのは、55歳以上の米国・白人男性ではなく、フランス人の学者エステル・デュフェロさんと夫でインド出身のMITの教授・アビジット・バナジー、そしてハーバード大学のマイケル・クレーマー教授の3人共同受賞だった。
数年前までノーベル賞の経済学部門は「シカゴ学派」が有利と言われていたことを考えると、大きな変化と言っても良いだろう。
今回の受賞対象となった研究は、「世界の貧困軽減に向けたフィールド実験」だった。
これまでの「経済理論」のような内容ではなく、「フィールド実験」を対象としたのも、異例の受賞ともいえるかもしれない。
ただこれまでのノーベル賞は「貧困軽減」に関して興味を持っていた、ということは言えるだろう。
2017年にはバングラデシュで「少額融資」によって経済の自立を促すグラミン銀行の創立者ムハマド・ユヌス氏が、平和賞を受賞しているからだ。

今このような「貧困軽減」に注目して、経済を動かしていこうという機運が世界中で高まりつつある、と言っても過言ではないかもしれない。
それはこれまでのように、経済大国の企業が経済が豊ではない国に行って、現地法人を立ち上げ雇用をする、というのではなく、現地の人たちが自分たちの力で自立する経済発展の仕方だと言えるかもしれない。
それは同時に、今問題となっている「気候変動」などの環境問題と一緒に考え、解決の道を探ることでしか、解決できないことのような気がする。
何故なら、現在の経済大国では「気候変動対策と経済成長」というビジネスモデルを持っていないだけではなく、現在の経済優先のビジネスモデルから脱却する為には、相当な抵抗勢力があり決して簡単なことではないからだ。

とすれば、旧来のビジネスモデルを基にした「国の生産力=GDP」を「経済の物差し」とするには、これから先世界的に太刀打ちできない諸問題がおざなりになっていく、ということが明白だからだ。
何より、経済大国と呼ばれる国に目を向けると、「GDP」が世界で1位と言われる米国では「経済格差」が広がり続けている、という指摘もある。
トランプ氏の主だった支持者は、ご存じの通り「忘れ去られた人」と言われる、経済的落ち込みが全米でも大きな地域の人たちだ。彼らの不満である雇用や安定した収入が得られない環境ではあるが、米国としての「GDP」は世界1位だ。
既に「GDP」という物差しで、その国の生活者の豊かさを測ることができない、というのが経済大国であるはずの米国ですら起きている、というのが現状だろう。

経済大国で起きている「経済の格差」による社会的問題は、「GDP」とは全く関連性が無いということが分かる。
高度成長期のように「GDP」という物差しが、国民の豊かさの指標となった時代は既に終わっていて、その物差しで貧困国の経済発展を考えようとしたとき、そのビジネスモデルが陳腐化してしまっているのでは?と、考える必要があるのではないだろうか?



ネットフリックスは、次の映像文化の担い手となるのか?

2020-01-20 20:22:00 | ビジネス

Yahoo!のトピックスにも取り上げられていた「ネットフリックスのジブリ作品の世界配信」というニュース。
ブルームバーグ:ネットフリックス、ジブリ作品を世界配信へー日米とカナダを除く

このニュースを見て、ネットフリックスがこれからの映像文化を担うようになるのか?という、気がしたのは私だけではないと思う。
昨年のアカデミー賞でも、ネットフリックスの作品が候補となったことを記憶されている方も多いのでは?
今年は、ネットフリックス作品が米アカデミー賞の候補として昨年以上に上がっているという。
日経新聞:米アカデミー賞、Netflix作品が最多ノミネート

このような状況になってくると、ネットフリックスそのものが映画の製作会社であり配給会社である、ということになる。
ネットフリックスはオリジナルドラマなどを制作し、ネットで配信するという方法で、有料ユーザーを獲得してきという実績があるからだ。
それがテレビから映画へと移っただけのように思えるからだ。
とはいうものの、映画製作には莫大な費用が掛かる(はずだ)。
これまでのようなテレビドラマのような製作費以上の費用が、映画製作にはかかっているだろう。

そう考えると、ネットフリックスがジブリ作品を日本と米国およびカナダ以外の国での世界配信を決めた、というのは欧州でのネットフリックス有料ユーザーを獲得する為の足掛かりだとも考えられる。
ご存じの方も多いと思うのだが、ジブリ作品は欧州特にフランスなどで、とても評価が高く人気もあると言われているからだ。
元々、映画ファンが多いと言われる欧州であっても、ジブリファンの多くが映画館になかなか足を運べない(であろう)子どもたちである、ということを考えると、ネットフリックスを通じて好きな時に好きなだけ鑑賞できる、というのは、大きな魅力だろう。
もしかしたら、このようなネットフリックスの動きを見て、ディズニーなども欧州でのネット配信に本格的に参入するかもしれない。

これまで映像文化の中心となっていたのは、映画の制作会社ではなく世界に配給することができる配給会社だった。
それに代わろうとしているのが、ネットフリックスなのかもしれない。


「データ」の奪い合いが、国レベルで始まった

2020-01-20 14:46:40 | ビジネス

今朝の新聞各社の一面に掲載されたのは、「三菱電機へのサイバー攻撃」だった(のでは?)
一企業へのサイバー攻撃ではあるが、この事件そのものが意味するところは、一企業の問題ではないということを示していると思う。

3,4年ほど前だったと思うのだが、ITに詳しい方が「これからの『戦争はボタン一つで、相手の国のインフラを破壊する』ことになると思う」という趣旨の話をされていた。
敵対する国の建物などを、ミサイルや爆撃機を使って目に見える破壊をするのではなく、敵対する国の生活者が必要としているインフラをボタン一つで破壊する、それが近未来の戦争だ、という話だった。

今年トランプ氏のイランの指導者殺害指示、というのはある意味「古い戦争の仕掛け方」のようなことになるし、敵味方という構図が分かりやすい戦争の仕掛け方だともいえる。
もちろん戦争を仕掛けているようなものなので、その判断と行動は批難されるべきものではあるが、今回の三菱電機へのサイバー攻撃は、それよりも攻撃された時、誰が攻撃をしたのか?という点が分かりにくく、実質的な被害範囲も分かりにくいという点で、(表現として適切ではないかもしれないが)新しい「戦争」という気がしている。

もちろん、現在では攻撃した相手もほぼ特定されつつあるようだが、その証拠となるモノとなるとどれほど確証が採れるのか疑問な点が多いような気がしている。
言葉が悪いのだが、攻撃をした側は「知らぬ存ぜぬ」とシラを切り通すことも可能なのでは?という、気すらしている。
それほど、国家間でのサイバー攻撃は、被害を受けた側の損失が甚大なのに対して、攻撃を仕掛けた側は「何食わぬ顔」でいられるということになるのでは?という、気がするのだ。
しかも、防御を高めても網の目をくぐるように仕掛ける「イタチごっこ」のような状態、というのが今のサイバー攻撃だろう。

とすると、これから先仕掛けてくる相手が欲しいデータとは何か?ということを企業も国も十分理解し、サイバー攻撃にあわないような体制づくりが必要となる。
例えば年明け話題になった「銀行などの口座とマイナンバーとの連携」だ。
生活者側としては、マイナンバーそのものの信頼度が高くない(ように思っている)と思っているが、国としてはマイナンバー普及を目的として銀行口座や健康保険証と連携させる、という案が出ている。
国側は「マイナンバー普及」という目的があるため、様々な方法での連携を模索するとは思うのだが、今回のようなサイバー攻撃が国に対して行われるリスクを考えると、本当に「普及」を目的に銀行口座や健康保険証との連携は大丈夫だろうか?という、疑問を生活者が持つのは当然だろう。

そのリスク回避のためには、どのように考えシステムを構築しているのか、という回答が政府からされない限りは、とてもではないが「マイナンバー」登録をしようとする生活者は、皆無に等しいのでは?
何故なら、自分の知らない所で「自分の健康情報や、銀行の預貯金額、利用状況」などが、まったく関係のない国に渡り、場合によっては悪用される可能性があるからだ。

日本の場合、このようなセキュリティーにたいして危機感が薄いというか低い、という指摘は以前から再三されてきた。
担当大臣が「PCが使えない」と言ってしまったりしたこともあった。
今回の三菱電機へのサイバー攻撃は、「個人データが人質になる」可能性がある、ということを示していると思うし、そのための防御策を至急作らなければ、近未来型の「戦争」を回避することができない、という危機感を持つ必要がある、ということだと思うのだ。



センター試験の国語

2020-01-19 19:28:24 | 徒然

昨日と今日の2日間にわたって行われた「センター試験」。
現在の形式で行われる試験が、今回が最後ということ。
昨年秋、問題となり取りやめとなった民間の英語の試験の利用などの話題もあり、「センター試験」そのものが注目を浴びた感のある、試験となった気がする。

そして昨日の国語で、原民喜之「翳」が出題された、と話題になった。
原民喜に関しては、重たいテーマが多く高校生で読むような小説だろうか?という、気がしている。
もっとも、既に読んだことのある生徒と未読の生徒では、文章の理解が違ってくるということを考えると、高校生では馴染みが少ないであろう原民喜を選んだのは、良かったのかもしれない。
かくいう私も、原民喜の作品はほとんど読んだことが無く、今回出題された「翳」も読んではいない。
ただ、今回の出題内容を原民喜を愛読している大人の方が読んで、自分が思うような回答が正解となっていない、という指摘もあるようだ。

今回の原民喜に限らず、センター試験の国語では「解釈の違い」が問題になることが多い。
読者としての解釈と、出題者の意図を理解した解釈の違い、というと分かりやすいと思う。
「何を言っているのだろう?」と、思われる方もいらっしゃるかもしれないが、大学入試に限らず国語の試験には「一読者としての解釈(あるいは理解)」と「試験の出題者の意図を理解した解釈(あるいは理解)」の二つがある(と思っている)。

試験で試される力は「試験の出題者の意図を理解した解釈」であり「解答」だ。
そのため、一読者としての感想や解釈から解答を選んでも、正解になることはほとんどない(と言ってよいと思う)。
「受験テクニック」と言ってしまえばそれまでだが、この「出題者の意図を理解する」というのは、読書量による文章理解力と似ているようで全く別物だと思っている。
何故なら文章理解力は、作者と自分との対話の中で生まれる直接的な関係であり、その関係性は10人いれば10通りある。
誰一人として同じではないはずなのだ。
ところが試験の問題となると、出題者がどう考え・どのような解答を求めているのか?という作者との関係性の違いが出てくる。
出題者という最大の障壁が、立ちはだかるのだ。

そのため起きることが、自分で考える正解と出題者の考える正解が、違ってしまうということになる。
受験中の短い時間で、そんなコトを考えている余裕はないと思うのだが、国語のような試験の場合このような「ズレ」が往々にして起こる。
そのようなことを避ける為なのか?最近では「論理的国語」なる「国語教育」をする、という話まであるようだ。
確かに「論理的文章」には、作者と読者、出題者との間での齟齬が起きる可能性は、とても低い。
だからと言って「論理的国語」という、特別な国語があるわけではない。
新聞などに掲載されている文には、作者の感情や思いなどは無く、事実を淡々と正確に書いている文章なだけだ。
「国語」としての本質は、何も変わってはいないのだ。

ただ忘れてほしくないのは、実際に原民喜の「翳」を読み、どのように感じ・原民喜の言葉を受け取ったのか?ということだ。
それは試験とは関係なく、受験という場ではあったが原民喜という作家との重要な出会いだったからだ。