日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

ハロウィーンは「仮装会」?!

2017-10-31 21:40:18 | アラカルト

今日は、ハロウィーン。
都市部の繁華街では、仮装をした人達が賑やかに繰り出しているのだろう。
中日新聞:ハロウィーン本番、渋谷は大混雑 仮装若者「非日常楽しい」

ハロウィーンが、今のようなイベント化し始めたのは、ここ数年のような気がしている。
確かに、仮装をして仲間といっしょに騒ぐのは、楽しいコトだとは思うのだが、なんとなく「ハロウィーン」そのものの意味が抜け落ち、「仮装会」となっていることに、違和感を感じている。
もしや、「仮装をしカボチャの飾りつけをする日」だと勘違いをしているのでは?と、要らぬ心配までしそうになる。

ご存じの方も多いと思うのだが、元々「ハロウィーン」はケルト人の「収穫祭」と「悪霊を追い出す」という宗教的な意味合いがあった。アメリカに渡りカボチャで作った提灯・ジャックオーランタンを飾り、仮装をした子供たちが「お菓子をくれないと、いたずらをするぞ~」と、言いながら近所の家々を回って歩く、という行事に変化したものだ。
日本では、アメリカの行事をそのままイベント化したようなカタチとなっているのだが、子供たちが仮装をするのではなく、大人が仮装をして非日常を楽しむイベントと独自の発展をしているように思っている。
お菓子をもらいに歩かないので、製菓会社からすると期待ほどの「イベント」ではないかもしれない。

非日常的なことをするのは楽しいし、気心の知れた仲間といっしょになった騒げば、より楽しいだろう。
なんとなくだが、ハロウィーンで騒ぐ(あるいは、はしゃぐ)人達は、別にハロウィーンでなくても良いのではないだろうか?
「非日常的なことをして、騒ぐ」ことが目的だと考えれば、同じ「収穫祭」の意味を含む日本古来の「新嘗祭」に合わせて行う「秋祭り」でも構わないのでは?という、気がしている。
「仮装をする」ということにハロウィーンの意味があると考えると、「新嘗祭」や「秋祭り」では楽しくないとは思う。
そう考えると、「ハロウィーン」の意味付けは「堂々と仮装ができる日」ということになるのかもしれない。

今年、ハロウィーンで仮装した衣装やメイク用品は、「断捨離」よろしく捨てられるのだろうか?
一時の経済効果はあるかもしれないが、その消費や寄付など他に回した方がもっと社会は豊かになるような気がするのは、私がオバサンだからだろうか?


「保育園落ちた」のリアル

2017-10-30 16:40:43 | 徒然

昨年話題になった言葉の一つに「保育園落ちた 日本死ね」があった。
元々は、働きたいお母さんの匿名ブログのエントリのタイトルだった。
はてな匿名ダイアリー:保育園落ちた日本死ね
確かに、過激な言葉が並んではいるが、今の働きたい(働く)お母さんの本音なのだろう。
このブログを切っ掛けに、「私も同じだ!」と声をあげた女性も多く、「待機ゼロ」を目標に掲げる自治体も現れるようになったのは、ご存じの通りだ。

何故、今更このテーマを取り上げるのか?というと、ネットの一部でテレビドラマ「コウノドリ」で扱った「産後うつ」に、話題が集まっているからだ。
実際Tverで見てみたのだが、働くお母さん(だけではなく、働く女性全般)に関わる問題として、とらえる必要があるのでは?と、感じたからだ。

「産後うつ」を発症するお母さんの数は、おそらく日本は他の国々と比べても多いのでは?と、感じている。
それだけ、日本の働くお母さんにとって「妊娠・出産・育児」の環境は、過酷な状況なのだと思う。
確かにメディアに取り上げられる「キラキラと輝く働くお母さん(「ワーママ」と呼ぶらしい)」の姿は、とても素敵だ。
「子育ても、仕事も自分らしく楽しく」といった、コピーが付いて紹介されることが、多々ある。
そして、そのような働くお母さんにならねば!と、思い込んでしまう女性もまた、多いのだと思う。
現実には、ドラマで取り上げられたような「赤ちゃんの泣く声」に「泣きたいのはこっちのほう!」と、苛立ち、書き出した保育園に連絡をするたびに、受け入れられずに消込の線が引かれていき、仕事への復帰に焦るばかり・・・という、お母さんのほうが圧倒的に多いのでは?
だからこそ「保育園落ちた」のメッセージに対して、「私も同じだ!」と共感したのだと思う。

ドラマの「産後うつ」になったお母さんは、早い職場復帰に焦っていた。
早期の職場復帰を望むお母さんたちは、「自分の働く場所がなくなる」ことへの不安要因が大きい。
妊娠から出産までの時間は、半年以上ある(はずだ)。
その半年の間、働きたいお母さんになる女性と企業との間で「キャリアデザイン」の話をすることで、随分「職場復帰への不安」は解消されるはずだ。
当然、父親となる男性もまた企業側と「キャリアデザイン」の話をする必要があるのでは?

政府が「ワークライフバランス」という旗を振り、「働き方改革」を進めようとしていても、現実は程遠い。
その理由をいろいろ考え、検証する動きはあるようだが、一番の問題は「妊娠・出産・育児」が仕事をする上で、マイナスなことだと思われるようになってしまったからではないだろうか?
確かに「妊娠・出産・育児」には、予定通りはあり得ない。
それは、大きな社会問題になりつつある「介護」という視点で考えても、同じだろう。
どんな時にも、不測の事態が起こる可能性を含んでいる。
何故なら、人間だからだ。
しかし、それはマイナスなことなのだろうか?
通常の業務では得られない経験(育児だけではなく、介護も含む)は、これからの社会に必要な視点や発想の源泉になると考えれば、マイナスなことではないはずだ。

「保育園落ちた」の問題は、保育園をつくればよい、という問題だけではない。
企業側にとっても、マネージメントという視点で重要な問題でもあり、社会全体の意識を変える必要がある問題なのではないだろうか?


 


考えない、思い込みが招く不幸

2017-10-28 20:09:55 | アラカルト

大阪の府立高校の女子生徒が、元々茶色がかった髪の毛を「校則」の為に、黒く染めることを学校(あるいは、教師)に強要されるだけではなく、授業を受けさせてもらえない、修学旅行に参加させてもらえない、という精神的苦痛を受けたことで、大阪府を訴える、というニュースが報じられている。
毎日新聞:損賠訴訟「髪染め強要で不登校」高3、大阪府を提訴

今でもこのような教師や学校があるのか?と、驚くばかりだ。
私が中学~高校の頃は、パーマ禁止ということはあり、くせ毛の私などは毎回のように担任から冷たい視線を浴びせられたことは、記憶に残っている。
「心の傷」となった訳ではないが、そのような視線で私を見る担任に対して、「馬鹿だな~」と思っていたような気がしている。
ちなみに私が「パーマの注意ターゲット」になっていた為、パーマをかけてくるクラスメイトもいた。
要は、くせ毛なのかパーマなのか見分けがつかず、適当なターゲットを見つけて注意をしている、というポーズをとっているだけなのだ(と、当時の私は理解していた)。

時代が大きく変わり、「女子高校生」がいつしか「JK」などと記号化されるようになってくると、お化粧はもちろん、パーマをかけたり茶髪にする女子高校生も現れてきた。
お化粧などは、OLよりも丁寧に綺麗にしている女子高校生も多く、「お化粧に気合が入っているな~」と感心をしたほどだ。
そのような女子高校生が、社会の話題になったこともあり、社会が寛容になったのかな~?と、思っていたのだが、決してそうではなかったようだ。

「金髪の留学生でも、黒く染めさせる」と学校側(あるいは生活指導担当教師)が、言っていたという報道もある。
実際、金髪の留学生の髪の毛を黒く染めさせていたのかはわからないし、そもそもそのような学校が、金髪の留学生を受け入れていたのか、大いに疑問のところだ。
何故それほどまでに「黒い髪の毛」に、こだわっていたのだろうか?
おそらく「日本の学校にいる生徒は、黒髪であることが当たり前」という、思い込みがあり、校則にもそのような記述があったのでは?と、想像している。

このような校則がある理由の一つは、おそらく「服装の乱が生活の乱れにつながり、不良の第一歩」ということがあったのではないだろうか?
私のくせ毛が、担当教師の注意ターゲットになった大きな理由は、それだったからだ。
「服装の乱れ」の一つが、茶髪にすることである、と考えた時「生活態度に問題がある」と、決めつけることで、生徒自身の姿を見ることを止めてしまい、と同時に考えることも止めてしまったのだと思う。
「茶髪は当校にふさわしくない生徒」と、レッテルを貼ることで機械的に処理することが、一番簡単で煩わしくないと思っていたのではないだろうか?

しばらく前に、ナチスの親衛隊の一人であったアイヒマンについて、エントリをした。
その時も書いたと思うのだが、アイヒマン自身は凡庸で、どこにでもいるような男だった。
そのごく普通の人物であったはずのアイヒマンが、ホロコースト史上最悪な人物となった大きな理由は「自分で考えることをしなかった」ためだった。
そして、アイヒマン自身が考えることをやめる代わりに作りだしたのが、「命令に対して従うだけ」というルールだった。

今回のこの報道を読んで感じたことが、学校も教師も「アイヒマン」になる要素がある、ということだ。
多感で感受性豊かな時に、このような学校や教師に出会ってしまった彼女だけではなく、生徒全てがかわいそうな気がする。


日清の「音彦」は、単なるパロディーなのか?

2017-10-26 21:55:13 | CMウォッチ

日清のカップヌードルのすすり音を消す、という商品CMが話題になっている。
日清食品グループオンラインストア:麺すすりオンカモフラ―ジュ機能搭載フォーク「音彦」
元々は、TOTOが開発をした女性がトイレを利用する「擬音装置・音姫」のアイディアを基にしている、と言われている。
確かに、麺類をすするという文化は日本独特(あるいは、アジア独特?)なのかもしれない。
もちろん、パスタなどをすすって食べる方は、ほとんどいないと思うが、蕎麦やうどん、ラーメンなどは、やはりすすって食べる人のほうが多いと思う。
実際、落語などでは手ぬぐいと扇子を使って、微妙に蕎麦とうどんの違いをすする音で使い分けているように思う。
麺類を食べるときの「すする音」は、おいしさの表現でもあるのだ。

しかし、欧米を中心に「麺をすする」という文化の無い地域もある。
そのような地域の人たちからすると「すする音」は、不快だと感じるのだろう。
随分前だが会社員時代に、カップ麺を箸に器用に巻き付け、パスタのように食べている女性を見たことがある。
彼女曰く「すすり音」は、食事のマナーとして反していると感じている、ということだった。
その時には「別に、カップ麺を食べる時のすすり音は、マナーに反していないでしょう」と思ったのだが、最近では麺をすすって食べない若い人たちもいる、という話を聞いたことがある。
理由は、上述したパスタのように麺を箸に巻き付けて食べていた彼女と同じだ。
そう考えると、食べ方に対する考え方も時代と共に、変化するものなのかもしれない。

しかし、「時代と共に変化する」と言い切ってしまうのは、どうなのだろう?と、感じる部分もある。
落語の例のように、「音」が作り出す「おいしさ」というものがある。
ステーキが焼きあがる音、野菜を切る音・・・などなど、音と共に「おいしさ」を想像し、時にはある種の幸福感さえも感じさせる。
その一つが、日本人が感じる「麺をすする音」なのではないだろうか?

それを、不快と思っている人たちに合わせることも重要かもしれないが、不快と思っている人たちに「おいしさをイメージさせる音」であることを知ってもらうことのほうが、もっと大切なのではないだろうか?
それぞれの食文化の違いがあるからと言って、片方だけに合わせるということに、疑問を感じるのだ。
同じ麺類でも、パスタをすする人はほとんどいないだろう。
何故なら、パスタをすすって食べるのは、余りおいしいと感じないからではないだろうか?
それに対して、蕎麦やうどん、ラーメンをすすって食べるのは、そのように食べるほうがおいしいと感じるからなのでは?
「感性の違いや文化の違い」と言ってしまえば、それまでだが、違う文化を知り、理解するほうが、豊な食文化を創り出すような気がするのだ。


新しい「がん対策基本計画」に示された、今後の医療政策

2017-10-24 22:28:01 | ライフスタイル

衆議院選挙の結果の余韻が、まだまだ続いている。
小池さんが「ガラスの天井ではなく、鉄の天井があった」という趣旨の発言には、「どうなのかな?」という、疑問を感じている。
「ガラスの天井」は、多くの女性が感じる問題ではあるが、小池さんの「鉄の天井」は、ご自身が招いたものなのでは?という、気がしている。

政治のニュースばかりに注目している間に、新しい「がん対策基本計画」が、毎日新聞のWEBサイトに掲載してあった。
毎日新聞:がん基本計画 新計画は「がんの予防」など三つの柱に

「がん予防」と言っても、具体的な予防策が取れるのは「子宮頸がんワクチン」くらいで、この「子宮頸がんワクチン」に関しても、今現在は任意の接種となっており、積極的な予防接種にはなっていない。
理由は、今現在も進行している「子宮頸がんワクチン接種による副反応」の裁判の関係が、あるからだろう。
他の予防策として挙げられている「受動喫煙」に関しては、自民党のたばこ愛好家の議員さんたちの激しい抵抗にあい、まったくと言ってよいほど進んではいない。

そのような諸問題を抱えながらの「第3期がん対策基本計画」だが、その中で注目したい項目がある。
それが「がんゲノム医療の推進」だ。
人のゲノム解析そのものが、短時間で(比較的安価で)できるようになったこともあり、ここ数年で「がんに対するゲノム研究」が進んでいる。
この「ゲノム研究=遺伝子レベルでの治療研究」により、より効果が高く、副作用の少ない治療が可能になる、と期待されている分野で、米国では既にオバマ大統領時代に「精密化医療の推進」の中心として位置づけ、研究が進めらえている。

一見「がん治療」だけを対象とした研究のように思えるのだが、「ゲノム解析」を基にした治療というのは、がん以外の病気にも応用ができると、言われている。
現在難病と言われている病気の中でも、遺伝子が発症に大きくかかわっている、と考えられる病気全般に応用できるのでは?という、期待があるのだ。
しかし、難病の患者を対象としたゲノム治療を中心に考えると、「対費用効果」を考えると決して効率(という表現はあまり使いたくないが)が、決して良いとは言えないはずだ。
それに対して、「がん」に罹患する日本人は2人に1人と、圧倒的に数が多い。
研究サンプルとして扱える「ゲノム」の数が、違うのだ。
患者数が多ければ、治験を含め治療効果なども図りやすく、「ゲノム医療」の基盤づくりにもなりやすい、などが考えられるのでは?と、思っている。
生活習慣病の中でも糖尿病などの個別化治療に対する期待がある、という話も聞いたことがある。

今回の「がんゲノム医療の推進」は、上述したような「がんゲノム研究」を切っ掛けに、様々な病気の予防・治療への応用が可能なのではないか?という、期待もあるのでは?と、感じている。
そして、「精密化治療」によって、創薬の研究・開発などを促すことにもなるのでは?と、考えている。


 


失敗の分析は、しっかりやろう

2017-10-23 19:44:35 | ビジネス

昨日行われた衆議院選挙。
おそらく衆議院解散の時には、野党第一党として「立憲民主党」という政党になるとは思ってもみなかっただろう。
何故なら「立憲民主党」という政党は、まだ立ち上がったばかりで、しかも小池さんの「希望の党」から外された「民進党」の人たちが中心となってできた政党だったからだ。
解散の時には、メディアを含め「希望の党」がどのくらい議席を獲り、与党に迫ることができるのか?という、話ばかりだったような気がする。
結果はご存じの通りとなった。

「希望の党」が失速した原因の一つに、小池さん自身が言った「(民進党の人たちを)すべて受け入れるわけではない」という、発言に対して「民進党」側や「民進党」の支援団体である連合などから、反発の声が上がり、その頃から「希望の党」という政党そのものが、ギクシャクしてしまったような印象を持っている。
だからと言って、メディアなどが書き立てている「排除」発言が、失速の原因なのだろうか?という、疑問がある。

「希望の党」が、公示前の話題ほど議席をとれなかったのは、小池さんの「排除」という言葉ではなく、政策や公約そのものが、よくわからない内容だったからではないだろうか?
違う言い方をするなら「保守」であるが「自民党と違う」ということが、分かり易く示すことができなかったような気がするのだ。

例えば、「首班指名」の話題が出た時、「希望の党」選出の議員で結党時の仲間を指名する、という趣旨の発言をすれば、多くの有権者は納得したと思う。
残念ながら、小池さんは自民党の石破さんなどの名前を挙げていた。
これでは、自民党とどう違うの?という、疑問を有権者が持ってしまうのも仕方ないことだろう。
「結局、安倍さんが嫌いなだけで、自民党と同じなのだな」と、有権者が思ってしまうような発言だったように感じるのだ。

他にも、小池さんの発言には自民党時代には「YES」と言っていたことが「NO」という発言に変わったりしていた。
その象徴的な発言は、「原発」に関する内容だろう。
小泉元総理のように、「福島第一原子力発電事故以来、いろいろ調べてみたら原発はリスクが大きいと分かった。だから脱原発をしなくてはいけない!」という、考えを変えたプロセスがあればまだ、納得ができる。
しかし「環境問題に積極的に取り組む」と話していた時に「原発推進」と言っておきながら、今になって「脱原発」では、「票取りの為の発言か?」と思う有権者は多いのでは?

日本の政治家は「公約は公約であって、政策として実現できるわけではない」という趣旨のことを、うそぶく方がいらっしゃる。
何よりも有権者自身が、公約の実現を期待していないのかもしれないし、忘れてしまうのかもしれない。
政治家の皆さんにとっては「公約は、選挙の為のものであり、当選してからは別。公約など早く忘れてほしい」という気持ちもあるのかもしれない。(テレビ東京「池上彰の総選挙ライブ」:政界の悪魔の辞典より)
そのために、政治に対しての興味・関心が薄れていくのかもしれない。
だからと言って、選挙期間中にあまりブレた発言をするのは、有権者の混乱と不信を招くだけなのでは?

今回の選挙に関していうなら、安倍さんにとっての難であった「森友・加計問題」を、北朝鮮の執拗な挑発活動を「国難」と有権者を不安がらせ、それを改憲に結び付け、ご自身の難問をすり替えた策は、成功だったような気がする。
自民党を圧勝させたのは、北朝鮮だったのかもしれない。



既に選挙は終わった?!

2017-10-21 22:16:17 | アラカルト

明日は、衆議院選挙の投票日だ。
しかし、台風21号の接近ということもあり、期日前投票を既にしてしまった、という方も多いのでは?
ニュースでは、期日前投票に出かける人が多く、投票場所によっては60分待ちというところもあった、という。
もしかしたら、今回の選挙は今日までの期日前投票で、ほぼ終わってしまっているかもしれない。

さて、今回の選挙の話題の中心は、小池百合子さんの「希望の党」のはずだった。
しかし、小池さんが民進党から離党し、希望の党に合流したいという候補者の一部を排除してしまったことで、新たな話題ができてしまった。
それが、枝野さんが中心となって立ち上げた「立憲民主党」だ。
民進党を急いで離党し、希望の党に合流した候補者の中には、「しまった!もう少し待つべきだった」と、思っている人もいるのではないだろうか?

小池さんとしては、「立憲民主党」の立ち上げは、思いもよらないことだったという気がしている。
何故なら、「立憲民主党」が立ち上がった途端、結党の話題だけではなく、民進党支持者だけではなく、無党派層の「自民党を支援したくない人たち」までの受け皿となってしまったからだ。
「希望の党」を支持してもいいかな?と思っていた人の中には、「積極的に支持したい」という人ばかりではなかったはずだ。
「消去法で希望の党」という支持者にとっては、もしかしたら「立憲民主党」のほうが、自分の考えに合っている政党かもしれないし、そのような人たちは小池さんが思うよりも多いのではないだろうか?
マスコミは「合流したい民進党候補者を排除」したため、「希望の党」が失速した、と書き立てているように感じるのだが、「排除した」からではなく、新しい受け皿ができたから失速したのでは?と、考えている。

それを表すのが、Twitterのtweet数だろう。
自民党は下野した反省から、SNSを積極的に活用するようになっている、といわれている。
自民党SNSの支持者の一部が、「ネットウヨ」と呼ばれる人たちなのだろう。
自民党のTwitterのtweet数は、希望の党と比べると随分多く、政党の中では一番多かった。
その自民党のtweet数に、あっという間に迫ったのは、立憲民主党だった。
政党が立ち上がってわずかな時間で、これほどの反響があった政党は、これまでになかったように思う。
もちろん、SNSというツールの登場によるところが大きいのだが、逆に考えれば、テレビCMで政党をアピールするよりも、SNSでアピールしtweetをしてもらうことのほうが、支持を集めやすいかもしれない。
SNSで話題となり支持を集めたからといって、それが選挙の数字につながるわけではないのだが、少なくとも、立憲民主党の登場により、希望の党が一気に話題の中心から外れてしまった、というのは事実だろう。

東京都知事という立場で、政党の党首となった小池さんの態度に、疑問を持った人も少なからずいたと思う。
それが希望の党という政党への疑問となった可能性は、十分ある。

明日の投票日よりも、今日までの期日前投票のほうが、選挙結果に与える影響は大きいような気がしている。
できれば、公示以降の期日前投票の支持政党データを見てみたい、と思うのは私だけだろうか?


グッドデザイン賞を受賞した、小湊鐡道が教えてくれること

2017-10-18 21:07:51 | ビジネス

先日、「グッドデザイン賞」の一つ「ロングライフデザイン」について、エントリをした。
長い間私たちの生活の中に溶け込み、使われ続けているデザインは、シンプルで控えめだ。
しかし、そのデザインを見るだけで、商品が特定されるだけではなくある種の懐かしさや安心感というモノを与える。
長い間親しまれてきたデザインというものは、デザインという範疇を超え企業にとっての重要な資産となっている、ということを示したような気がした。

そして、今日千葉の小湊鉄道がグッドデザイン賞を受賞した、というニュースがあった。
小湊鐡道が「2017年グッドデザイン賞」を受賞
鐡道の車両デザインが受賞の対象ではない。
鐡道とその沿線の里山が、対象となっているのだ。
この受賞で、考えたことがある。
それは、今盛んに地方で行われている「まちおこし」の企画だ。

ここ10年以上「まちおこし」として使われるのは「芸術祭」だろう。
これは新潟県の妻有地区で始まった「越後妻有 大地の芸術祭」が注目された。
それに続いたのは(?)は、瀬戸内海に浮かぶ島を船で結んで廻る「瀬戸内国際芸術祭」だろう。
「瀬戸内国際芸術祭」の会場の一つは、産廃の島と呼ばれた豊島で、今では産廃の島ではなく芸術の島という、イメージが定着しつつある。
このような過疎化が進む地域での芸術祭の成功が、「まちおこし」の方法として注目され今では、都市規模に関係なく、全国各地で「芸術祭」が行われるようになってきたように感じている。

確かに、このような芸術祭は開催期間中は、多くの人を集めることができる。
越後妻有の場合、若い芸術家たちが転居をしてきた、という効果もあったと聞いている。
ただ、地域によってはこのような「芸術祭」のような企画が、できない地域も多いのではないだろうか?
というのも、このような「芸術祭」には優れたプロデューサーやキュレーターが必要で、その人材は限られているからだ。
それだけではなく、全国各地でこのような芸術祭が行われるようになったことで、「目新しさ」というものも無くなりつつある。

それに対して、今回グッドデザイン賞を受賞した小湊鐡道と里山有志で構成された「まちおこし」は、芸術祭のような「特別なもの」に飛びついてはいない。
むしろ、元々地域にあった資産となるモノを見つけ出し、手入れをし直し、昔の日本の里山の原風景を復活させたのだ。
その里山の美しさに、芸術祭が加わったという経緯がある。

過疎が進む各地では、盛んに「まちおこし」を行っている。
「若者・よそ者・バカ者」が、まちおこしには適任といわれ、実際「まちおこし隊」として都市部の若者を準職員扱いとして、採用する自治体があるが、成功しているとは言い難い部分もあると聞く。
小湊鐡道と里山有志の場合は、そのような「まちおこし」の適任者ではなく、地元の人たち(まさに「有志」)が集まって、「まちを手入れする」ことから始めている。
ここに、これまでとは違う「まちおこし」のヒントがあるのではないだろうか?

 


現場の混乱状態がわかる、広告の制作過程を広告にしてしまう日清カップヌードル

2017-10-17 23:42:36 | CMウォッチ

Huffpostに、分かるな~という記事が掲載されている。
Huffpost:無茶ぶりする偉い人、対応する現場・・・カップヌードルのTwitterが〝あるある”すぎる

電通の新入社員さんの自殺などで、広告の現場が華やかでカッコ良いものではない、ということが理解されつつある。
それどころか、クライアントの無茶ぶり、就業時間無視の訂正、変更指示など、ブラックな一面が世間で認識されるようになってきたように思う。

そのような社会状況の中で、日清のカップヌードルのTwitterによる、広告はクスっと笑ってしまう要素がありながらも、リアリティーを感じる。
特に、その指示内容はマジですか?という変更希望だ。
あくまでも想像だが、「ニューヨークのセントラルパークのような背景の中、(若い)女性が美味しそうにカップヌードルの新製品を食べている」というのが、広告のビジュアル表現の指示だったのだろう。
それが、上がりの広告写真を見るたびに、おかしな指示へと変化していく。
もちろん、ユーモアたっぷりにデフォルメをしているので、随分過剰な表現となってはいるが、同様の「え”!マジですか?」という、クライアントからの指示は、広告制作に携わる方であれば多少なりとも経験があるだろう。

しかも、そのような「無茶ぶり」の指示を出すクライアントは、往々にして最初は丸投げ状態で「まぁ、そんな感じで適当にやってよ」などと、言っているケースがあるように思う(あくまでも、私の経験値だが)。
社内においては、そのような「とんでも無茶ぶり」指示を出す上司を説得するのも、クライアント側の担当者として必要なことなのだが・・・相手は「気分」で言っていることが多く、しかも「センスが良い」と思っている為、説得も一筋縄ではいかない。

このTwitterを単に面白おかしく見せさせる、という日清のカップヌードルの広告は、実はもう一つ大切なことを伝えているような気がする。
Twitterを見ているすべての人に対してではなく、広告制作に携わる人たちだけに対する問いかけだ。
「あなたは、広告をどう考えているのか?」ということだ。
商品広告であれば、当然その商品のブランドイメージを、受け手となる生活者に伝える必要がある。
ブランドイメージは、企業側にとっては「目に見えない資産」であり、広告はその「資産を育てるツール」でもある。
「気分で無茶ぶりを平気でする」ということは、「ブランド」という「資産」に対して(余り)重要ではない、ということを言っているようなものでもあるのだ。
結果、この広告のように「セントラルパーク」のイメージは消え去り、若い女性のさわやかな表情は、中途半端なマンガチックへと変化し、一体何が言いたいのか分からない広告になってしまうのだ。

上述した通り、日清のカップヌードル側はこのTwitter上の広告制作を見せることで、受け手となるTwitterユーザーに注目をしてもらうだけではなく、「楽しさ(カップヌードルを食べて、楽しい気分になってほしい)」ということを伝えたかったのだと思う。
「ブランド力」があり、既に市場で認知されている商品だからこそできる手法であって、間違っても同様の手法を他社がまねをしても、失笑を買うだけという理解はする必要がある。




コーチの社名変更

2017-10-16 21:31:46 | ビジネス

フォーブスに掲載されている「コーチの社名変更」の記事が、Yahoo!のトピックスにピックアップされていた。
フォーブス:社名変更の「コーチ」を待ち構える厳しい現実

コーチが、「タペストリー」という社名に変更する、という話は既に報道されている。
ご存じの方も多いと思う。
個人的には、何故今なのか?という疑問があった。
他のファッションブランドを傘下に置く為に、買収をしたからといって「コーチ」という社名を変えるというのは、それまで創り上げてきた「コーチ」という、ブランド力を一度リセットさせるのでは?と、思ったからだ。
現在のコーチの主力商品である、バッグなどに関しては今まで通り「コーチ」という名前を引き継ぎ、新たなファッションブランドグループをつくる為の社名変更、ということのようだ。

記事にある通り、ファッション業界には数多くのブランドが存在するが、その多くはわずか数グループの企業集団の中に組み込まれている。
「組み込まれている」という表現は、心地よいものではないかもしれない。
現実には、LMVHモエ ヘネシー・ルイ・ヴィトンという一大勢力に対抗するように、ケリング、リシュモンというグループが存在している。
特にLMVHの場合、名前が表す通りシャンパンで有名なモエ、ブランデーのヘネシーに、鞄のルイ・ヴィトンが一緒になって始まったグループだ。
LMVHのファッションブランドの買収が始まったのは、1990年代からだったように記憶している。
しかも、あっという間にいくつものファッションブランドを買収していった。
その買収の仕方に当然反発を感じるブランドもあり、ケリングやリシュモンという、新たなファッションブランドグループが生まれたと、思っている。
しかし、これらの動きはすべて欧州のファッションブランドだった(中には、KENZOのような日本のファッションブランドも含まれているが、コレクションなどの発表場所はパリなので、欧州とした)。

その意味では、コーチが新たに創っていきたいファッションブランドグループは、米国が中心ということになるのだろう。
欧州に関しては、上述した3グループがほぼ抑えてしまっている。
ただコーチの欧州のファッションブランドのグループ化が厳しいのでは?と、思われる理由の一つは欧州ブランドほど高級化していない、という点があると思う。
元々米国のファッションは、「リアルクローズ」と呼ばれる、現実的に着られる服が中心で、しかもオフィスワーカーを対象としている。
コレクションの内容を見ても、パリやミラノのコレクションに比べ、地味というか凝った演出は少ない。
コーチ自体、欧州のブランドのような高級感ではない「日常使いの使いよさ」狙いファンを増やしてきたのではないだろうか?
何より、今米国発の勢いのあるファッションブランドが、育っていないような気がするのだ。
コーチが、新しいファッションブランドを育てながら、新たなファッショングループを創り上げていく、というのであれば意味があると思う。
残念なことに、そのような意図が見えないのだ。

「タペストリー(つづれ織り)」というネーミングには、ファッションの経糸と横糸を自由に織りつづる、という思いがあるのだと思う。
そこには、よりグローバルなファッション企業へ変わっていきたい!という考えがあると思っている。
であれば、欧州のようなファッショングループとは違う、創り方をして欲しい。