日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

テレビCMで感じる「お正月」

2006-12-31 22:11:36 | CMウォッチ
今ごろ、NHKの「紅白歌合戦」が佳境になっているのだろうか?
一体いつ頃から「紅白歌合戦」を見なくなったのだろうか・・・少なくとも10年以上になるような気がする。
今年は「レコード大賞」も、大晦日から30日に放送され、1年の締めくくりイベントが徐々に薄れてきている。
その中で「紅白歌合戦」は、よく頑張っているのかも?知れない。

その「行事感」が失われつつあるのは、何もテレビ番組だけではない。
大手スーパーマーケットは、「元旦初売り」。
二昔前くらい前までの「4日、初荷」というのは、すっかり忘れ去られそうだ。
そのためなのか?今は「おせち料理」を百貨店で予約購入をしても、実際かつてのような「おせち料理」のありがたみやお料理に込められた願いなどが、忘れ去られてしまっているようだ。
もちろん、食の嗜好変化などの影響も大きいとは思う。
「おせち料理」は余り好きではないが、「食の化石」とならないことをやはり願っている。

テレビCMも「お正月らしさ」が、変わってきている。
11月半ば、年賀状の発売に合わせエプソンやキャノンなど、家庭向けプリンターを製造販売している企業は「年賀状は、「商品名」で」と謳い、お正月が近いことを感じさせる。
ところが、かつての「おせちに飽きたら、カレーもね」という、ハウス食品のテレビCMは年々見なくなってきているような気がする。
1970年代のアイドルグループ・キャンディーズが「おせちに飽きたら、カレーもね」と笑顔で言われ、「そうだよな~」と変に共感したのではないだろうか?
と同時に「あぁぁぁ~、お正月だ」と、どこか感じていたのではないだろうか?
もう一つ、フジフィルムの「お正月を写そう」は、とても元気だ。
キャラクターとなる、タレントさんも時代に合わせ「楽しい(日本の)お正月」を、演出しながら、現在の「Photo is・・・」という、写真の持っている「思い出を記録する」という、企業メッセージと関連させている。
昔のように「お正月に家族写真」という家庭は、ドンドン減っているだろう。
でも、「家族の思い出を残すお正月」は、様々にカタチを変え続いていく。
それが「お正月を写そう」なのだ。

季節感が、様々なところで失われてきた。
テレビCMも、その一つなのかも知れない。
ただ、その存在はどこか「ほっこり」する安心感があることも確かだ。

今年は、身内の不幸などがあり「生」や「介護」といったことを、とてもリアルなモノとして、感じた1年だった。
そのなかで、イロイロなコメント・トラックバックを下さった方に、励まされ・考えさせられることもありました。
ありがとうございました。
どうか、良いお年をお迎えください。
来年、みなさまが今よりも「幸せ」だと感じられることが、一つでも多くなりますことを。

ことばの感性

2006-12-29 20:40:15 | 徒然
今日は、日本全国今年一番の寒さのようだ。
今朝などは、乾いたキーンとした冷たい空気が肌を刺すようで、時折降る雪に凍えそうだった。
この寒さと雪で、スキー場は一気に滑走可能となったところが、多いようだ。
スキー場関係者とすれば、ホッとしていることだろう。

新聞各社のWEBサイトでも、この寒さを取り上げているところが多い。
特に、京都・金閣寺の雪の風景はテレビニュースなどでも取り上げていた。
新聞各社の金閣寺の記事を読んでみると、とても面白い表現を見つけた。
それが、讀賣新聞の“チョコに粉砂糖”…金閣雪景色に歓声だ。
金閣寺の金色が「チョコレート」というのは・・・世代の違いなのか?はたまた金色紙に包まれたチョコレートというイメージなのか?私などは、驚く表現だ。
私などは、平凡で言い尽くされている「絵葉書のよう」という、ことばぐらいしか思い浮かばない。

ことばだけではなく、様々な表現というのは、それまでの経験やモノの見方などに影響されているといわれる。
その中には、読書や絵画鑑賞、スポーツ観戦など高いレベルに触れることで、磨かれる「センス」等も含まれる。
「チョコに粉砂糖」と言う感想を述べた中学生の女の子は、どんなセンスを持ち、磨かれてきたのだろうか?と興味がわくのだ。

今年もあとわずか。
ことばの感性だけではなく、社会やひとに対する感性をもっと磨いていく大切さを、この中学生に教えてもらったような気がした。

学ぶチャンス

2006-12-27 21:12:33 | アラカルト
昨日、朝日新聞のasahi.comに天才バイオリニスト姉弟の母が心鍛える「音楽道場」作りという、記事があった。
読まれた方も、多いだろう。
ここで興味深いのは、この「音楽道場」を開くのが、バイオリニストの五嶋みどりさん、龍さん姉弟のお母様だということだ。
現在、五嶋みどりさんはバイオリニストとして活躍されているだけではなく、ニューヨーク周辺の小学校などへ出かけては、バイオリンのワークショップを積極的に展開している。
時々は、日本でも同様のワークショップをされているようだ。

同じ日、漫画「スラムダンク」や「バカボンド」等の作者として有名な井上雄彦さんが、バスケットボール選手の支援をする為に、奨学金生を募集しているという記事があった。
その名も「スラムダンク・スカラシップ」だ。
キャッチコピーにある「高校生でバスケの夢を終わらせない」という言葉が、今の日本におけるバスケットボールというスポーツの現状が現れているような気がする。
井上さんのHPを見ると、車椅子バスケの支援もしていることが分かる。

五嶋さんの考えているプロジェクトも、井上さんが始めている奨学金制度にしても、行政や学校で実施することが難しいことなだろうか?
いや、行政や学校がやらないことに意味があるのかも知れない。
本当は、個人ではなく次々と廃止になっていく企業スポーツの新しいカタチとして、事業展開したり、音楽をキーワードにした企業が新たな才能を発掘する意味を含め、支援できる「社会的事業」だと思うのだが、どうも今の企業は自己保有資産を増やすことばかりで、社会に還元するという発想がないように感じる。

10数年前の年末、ウィルトン・マルサリスが中心となって一流のジャズミュージシャンが、ニューヨークやワシントンDC.の子ども達にワークショップを開催していたテレビ番組を見た。
公立学校に通う楽器を殆ど触ったことがないような子どもたちから、クラブ活動を通じて楽器演奏の経験のある子ども達まで、目を輝かせ指導を受けていた。
それにチェリストのヨー・ヨーマが大学生を対象とした、ワークショップがありそれが発展した形が「シルクロード・アンサンブル」だ(と、記憶している)。

音楽であれ、スポーツであれ子ども達に、間近で世界トップクラスの人たちから指導を受けルチャンスは、子ども達に新しい可能性を与える大切な「学ぶチャンス」なのではないだろうか?
そして、そのチャンスを与えることが、大切になってきているように考える。

都市計画と生活サイズ

2006-12-25 22:27:45 | ライフスタイル
週末、「地域活性化」をテーマにした、ライブトークへ出かけた。
といっても都市計画を生業としている人たちの、ライブトークではない。
デザインとかアートなどで、地域活性化を考えると言うのがテーマだ。
「ソーシャル・デザイン」とでも言うのだろうか?

その話の中で、ふっと考えたことがあった。
それは「(生活者の)生活サイズと都市計画」ということだ。
会社に通勤している人は、会社と自宅が生活サイズと言うことになると思われるが、実は移動距離であって、生活サイズとは言い切れないのではないだろうか?
そして、戦後は移動距離が長くなったために「交通の便の良いところ」が、住宅地へと変化していった。
それが鉄道からクルマへと変わることで、駅前の商店街は寂びれ駐車スペースのある郊外の大型スーパーが生活サイズの中に組み込まれるようになっていった。
それ自体は、成長期のまちづくりとしては、問題がなかったと思う。
ところが、高齢化社会となった時「クルマ社会から歩き社会」へとシフトしていくのではないだろうか?
とすれば、生活サイズそのものは縮小していく傾向になるはずだ。
ところが、「成長期のまちづくり」を都市計画の柱として考えてきた日本の地方のまちは、「とても住みにくい、まちづくり」となってしまったのではないだろうか?

その「住みにくいまちづくり」のモデルを、JR・地下鉄・私鉄などがほぼ縦横無尽に走る東京にしてしまったことに、今地方が置かれている問題になっているような気がするのである。
と同時に、今年4月くらいまで熱心に行われてきた「平成の大合併」は、「生活サイズ」を無視したモノではなかったのではないだろうか?
「平成の大合併」の目的は、行政施設の集約化ということもあったのかも知れない。
それが今検討されている「道州制」へと、発展していくのではないだろうか?という不安がある。
「道州制」そのものを余りよく理解してないので、あくまでもイメージ的な部分での話となってしまうのだが、日本の経済・産業のあり方として、結局「東京にお金が集まり、モノづくりをしている地方は貧しくなる」という気がするのだ。
と言うのも、江戸時代からモノづくりによる利益は、江戸=東京に上納されると言うシステム(=参勤交代)で発展してきたからだ。
江戸には、お金が集まっても産業が集まることはなかった。
そして今、モノづくりそのものが人件費の安い海外へと、拠点を移し始めている。
もちろん、モノづくりの根幹となす研究・開発(=知的財産的分野)などは、国内で行われているが。

実は、都市計画はまちが成長し成熟していく過程において、フレキシブに変化できるだけの融通性が必要な気がする。
そのゆとりが、東京にあるのだろうか?
ゆとりのない東京に住んでいる人たち(=霞ヶ関)が、モノを考えてもそれは地方にあった「生活サイズ」ではないのではないだろうか?
そんな気がするのだが・・・。

クリスマスケーキ考

2006-12-24 20:29:04 | ライフスタイル
今日は、クリスマスイブ。
ご自宅で、ご家族や友人たちと一緒に「クリスマス・ディナー」を囲んでいる方も、少なくないだろう。
とっても、テーブルの上にはお寿司にローストチキンという「和洋折衷」という家庭が、殆どではないだろうか?
そして、忘れてはいけないのが「クリスマスケーキ」。
このクリスマスケーキにも流行があるのをご存知だろうか?

私が子どもだった、1960年代の主流は「バタークリームケーキ」だった。
当時の冷凍保存の技術などから考えれば、「大量につくり保存の利くバタークリーム」主体のケーキは、ある意味仕方なかったと思うのだが・・・決して、子どもに評判の良いケーキではなかった。
ただ、デコレーションのバラだとかチョコレートでできたメッセージプレートなどは、当時の子どもでも取り合いなった。

1970年代に入ると「アイスクリームケーキ」が登場する。
それはそれは、センセーショナルな出来事だった。
と言うのも、アイスクリーム=夏のお菓子だったからだ。
そのアイスクリームが、ケーキになって冬でも食べられる?!ということが、とにかく驚きの出来事だった。
でも、初めて見た「アイスクリームケーキ」は、発泡スチロールのケースの大きさに対し、小さかった。
何よりも、ケーキよりも驚いたのは「煙をモクモクと出す白い物体」だ。
「煙をモクモクと出す白い物体」とは、ドライアイスのこと。
一般家庭における、ドライアイスとの出会いであった。

時は流れ・・・バブル景気を経て、今では世界各国の「クリスマスケーキ」が食べられるようになった。
その先陣を切ったのは、イタリアの「パネトーネ」。
イタ飯ブームにのって、日本でもクリスマスのお菓子として紹介された。
「お菓子」という表現をしたのは、ケーキよりもパンに近い食べ物だからである。
フランス料理がブームになると「ブッシュ・ド・ノエル」というケーキが、百貨店のケーキ売り場のメインを飾った。
「ブッシュ・ド・ノエル」というケーキそのものは、大分前から売られていたのだが、ケーキそのモノが地味?な印象がある「薪型」ということも有り、生クリームの丸いホールケーキにその主役を奪われていたのだ。

それが今年になると「シュトーレン」と呼ばれる「パン系お菓子」が、注目されている(「されていた」)。
日本でもケーキ店ではなく、パン屋さんで販売されているようだ。
この「シュトーレン」、初めて見たのは東京にあったドイツパンのお店で、バブルの頃だった。
イロイロな料理本を探してみると、ドイツ~スイスにかけて食べられる「お祝いの食べ物」らしい。
パネトーネ」など、本場?キリスト教のクリスマスケーキは、地味で夏の果物を干したドライフルーツや秋のナッツを使ったモノが多い。
「ブッシュ・ド・ノエル」を含め、形もシンプルで余りデコレーションには、凝ってはいない。
「恵を頂くき、キリストの生誕を祝う」という、シンプルな宗教心を反映しているのだろうか?
とすれば・・・来年はディケンズの「クリスマス・キャロル」にも登場したことがある、イギリスの「クリスマスプディング」 に注目が集まるのか?

「日本には、宗教がない」と言われる、ただ「宗教がない」からこそ、世界のクリスマスケーキを楽しむことができるのではないだろうか?
楽しむだけではなく、そこにある文化と言うものも楽しめれば、もっと素敵なことなのだが・・・。
みなさまに「メリークリスマス!!」



時が経つのは早いもの-ライブドア事件が残したもの-

2006-12-22 21:33:34 | ビジネス
今日、「ライブドア事件」の中心人物・堀江被告に懲役4年の求刑が出た。
時折りしも、今日はライブドアの株主総会があった。
丁度1年前、堀江さんを初めとした会社幹部の面々は株主総会後の打ち上げを兼ねた、忘年会をどこかのホテルの宴会場でやっていた。
「ライブドア事件」が発覚してから頻繁にテレビのニュースに登場した、あの一種異様な?盛り上がったカラオケ大会のようなパーティーだ。
それが今年に入り、「ライブドアの粉飾決算」が発覚し「ライブドア事件」へと発展していったのだ。

今日の新聞各社がWEBサイトで配信している「ライブドア」関連のニュースを見ると、経営陣を一新したライブドアは、外国人の取締役を迎え、旧経営陣に損害賠償を求めるなど、「旧ライブドア」からの脱却を図っているようだ。
この1年、ライブドアの社員(関連企業を含む)にとっては、激動の年だったことだろう。
そして、「ライブドア」という企業が巻き起こした「企業の社会的価値」という考えは、イロイロな企業に影響を及ぼしたように感じる。

阪神と阪急の合併に始まり、日清食品と明星食品、HOYAとペンタックスなど「同業ライバル企業合併」が、目に付く1年でもあったのだ。
これまでのように「株価の安い優良企業」に目をつけ、金銭的買収をもちかけ拡大路線をとるのではなく、「企業の強み×2」と言う方法によって、より市場優位になる企業合併というか、「何でもあります総合企業」ではなく「これが得意です専門企業」の集合化という時代に変化してきた、とも考えられそうな「合併」が多く目に付いたのだ。
「昨日の敵は、今日の味方」というカタチで、日本の市場を守り、海外市場への特化企業へと変化しつつあるとも考えられる。

「ライブドア事件」が残したことは、「企業倫理」ということだけではなく「企業の生き残り」ということにまで影響を与えたように思う。
さて、企業はこのように「生き残る手法」を模索できるが、増税に実質賃金値下げと言う働く生活者に生き残る方法はあるのだろうか?
企業が生き残る為には、国内消費を増やす必要があることは経済学者でなくても分かっていることなのに、この国のお金を考える経済学者や関係者は、違うことを考えているようだ。
と言うことは・・・一人ひとりが「企業」として、自分が特化できる得意分野を持ち寄って「起業」するしか方法はないのだろうか?
それも「(しがない働く人たちの)大企業」とならなくては、様々なメリットもなさそうなのだが。

明日は冬至、パンプキンケーキはいかが?

2006-12-21 23:01:23 | ビジネス
今日、所用があり近くのショッピングモールに行った。
一応百貨店もある、チョッと洒落た雰囲気があるところだ。
欲しかったモノは見つからなかったのだが、ウィンドショッピングをしながら発見したことがあった。
それは、「明日は冬至」ということだ。

別に「明日が冬至」ということを、発見した訳ではない。
「冬至」にまつわるイロイロなモノ・コトが現代風にアレンジされ、季節のプチ・イベントになる可能性を発見したのだ。
その一つが「パンプキンケーキ」。
特別に変わった「パンプキンケーキ」と言うのではない。

「カボチャを食べ、お風呂にゆずを浮かべる」というのが、冬至の過ごし方だ。
「カボチャ」といった時思い浮かぶのは、「カボチャの煮もの」がおそらく一般的ではないだろうか?
ところがこの「カボチャの煮もの」、家庭では評判がイマイチと言う場合が多い。
特に中年男性などには、人気薄のメニューなのだ。
「季節の行事食」としては是非食べたいモノだし、最近では「抗酸化食品」だとか「アンチエイジング食材」として注目を集めているのに、その食べられかたは「・・・」ということなのだ。

そこで提案したいのが、「パンプキンケーキ」や「カボチャのキッシュ」等だ。
いわゆる「野菜のケーキ」だ。
カボチャだけではなく、リンゴやドライフルーツなどを組み合わせることで、栄養価などもアップし、お子さんや女性だけではなく、男性にも少しは食べやすくなるのではないだろうか?
「キッシュ」などは、あわせる食材によってはワインなどとも相性が良くなる。

実際、帰りがけに寄った百貨店の地下で見つけた「カボチャのチーズケーキ」を勧めてくれた店員さんは、「明日は冬至ということで、買って帰られる方も多いですよ」と言っていた。

季節の行事食を、時代に合わせアレンジしてお客様に提案することも、商売では大切なことなのだ。


ジャージは、ホームウェア?それともパジャマ代わり?

2006-12-20 22:40:13 | ライフスタイル
毎日新聞のWEBサイトにパジャマ:「20~30代男性、着用3割」 世代が若くなるほど寝るときの服で外出と言う記事が掲載されている。
この記事を読んで「あ!自分も・・・」と思われる方は、案外多いのではないだろうか?
実は、私もパジャマと言うよりTシャツにジャージのパンツと言うスタイルで寝ている。
もちろん、この季節は上下ジャージ+フリース製カーデガンだ。
と言うのも、「自宅で過ごすときくらいラクな格好で過ごしたいが、新聞の集金や宅配などを受け取る時は、ある程度サマになった格好が良い」というなんとも身勝手な?理由があるからだ。
その希望を叶えてくれるスタイルが、ジャージなのだ。

確かに、今のジャージはれっきとした「ホームウェア」だ。
通販のホームウェアなどを見ても、総合スーパーの衣料品売り場でも「ホームウェア」として、売られている。
何より、一昔前のような「ジャージらしいジャージ」ではない。
各スポーツメーカーは、スポーツウェア的要素を保ちつつ、街着としても通用するようなデザインを積極的に展開している。
もちろん、ここで言う「ジャージ」は、もっとラフなモノだとは思うのだが・・・。

ただ、このジャージ姿で外出をするか?と問われると、さすがにしない。
ゴミ出し程度でも、一応トレーナーにイージーパンツには着替える。
これが、40代のオバサン年齢の感覚だ。
でも、日曜日の夕方などのコンビニで、ダウンコートの下に上下ジャージを着てで買い物をしている若い男性を見かけたことは、1度や2度ではない。
最初はビックリしたのだが、今や違和感もなくなった。
さすがに、スーパーマーケットでは見ることはないが、若年層のファッションのカジュアル化は、驚くべきスピードで進んでいる。
(実質)生活圏ではラフなスタイル、仕事圏ではお決まりのビジネススタイルでと言うのが、今のファッションスタイルなのかも知れない。

でも・・・パジャマ代わりにしているジャージで買い物だけはヤメて欲しい、と思うのは私がオバサンだからだろうか?
「他人の目」を、もう少し意識して欲しいだけなのだが・・・それは、無理な話なのだろうか?

こころの浮浪児たち

2006-12-20 16:53:47 | 徒然
先月岡崎市で起きた、ホームレス女性の殺害の犯人として14歳の中学2年生3人が補導された。
逮捕ではないのは、この事件を起こしたとき13歳だったからだ。
数年前から、少年・少女が起こす事件を見ていると「こころの浮浪児」という言葉が思い浮かぶ。
「浮浪児」という言葉から思い出されるのは、第二次世界大戦後の焼け野原で両親も親族も亡くし、自分ひとりで生きていかなくてはいけなくなった少年たちの姿だ。
当然、彼らには家もなければ着の身着のまま。
食べるため(=生きるため)に、引ったくりでも物乞いでも、何でもしなくては生きていけなかった頃のあの少年たちの姿だ。

実質個人所得が年々下がっていると言っても、今現在はそのような家庭は少ないはずだ。
ただ、経済的背景だけではなく子ども達がこころの拠りどころとなる「家庭がない」という意味では、今様々な事件を起こしている子ども達やその予備軍と考えられる「プチ・家出」を繰り返す少女や、「援助交際」という名の売春を簡単にしてしまう少女たちも、同じ「こころの浮浪児」なのではないだろうか?

毎年夏休みが終わる8月末になると、「夏休み期間中、友達の家に泊まり歩くプチ家出」少女たちが、ニュースなどで取り上げられる(結局、家出をきっかけに不登校になる場合が多いようだ)。
そして、観るたびに「この子たちの親は、心配しないのだろうか?」と、疑問に思うのだ。
だが、インタビューに応える少女たちは「家(お母さん)には、定期的に(携帯で)連絡しているから、大丈夫」とか「着替えを取りに行くから」と言っている。
「それにしても・・・その間、自分の子どもがどうしているのか心配ではないのか?」と、要らぬ心配をテレビを見ているこちらがしてしまうのである。
もちろん、そのような少年・少女たちは一握りである。

一方、勉強熱心になりすぎる余り、過干渉となり子どもの居場所を取り上げてしまう親御さんもいるようだ。
今年6月に奈良で起きた、高校1年生男子の放火事件などは正に「親の過剰な期待と過干渉による事件」だろう。
彼もまた、家庭が心の拠りどころではなかったように感じる。

終戦直後のような浮浪児の姿はないが、「こころの拠りどころを失った浮浪児たち」が、潜在的に増えているのではないだろうか?
その背景には「お金や物による(分かりやすい)価値基準」が、社会のモノサシとなっていることもあるかも知れない。
あるいは、大人の都合のよい個人主義などが、あるのかも知れない。
ただ、この子ども達は数年もすれば社会に出る。
そして、また新たな「こころの浮浪児たち」を、作っていくのではないか?と心配するのだ。

時代とともに代わる挨拶

2006-12-19 20:44:02 | ライフスタイル
毎日新聞のWEBサイトに、「年賀状:歯止め利かない発行枚数減 07年は前年比7%」と言う記事が掲載されている。
昨年も、同様のエントリをしたような気もするのだが・・・新年の挨拶も時代とともに変化すると言うことだろう。
しかし、年が明けてから「25日に年賀状を出したが、元旦に相手に届いていない」というクレームが、頻繁にあったというニュースも1月半ばにあった。
郵政公社になってから導入した「トヨタのカンバン方式郵政版」によって、郵便局内で混乱をきたし配達が遅れた、ということだった。

インターネットの利用増とこの年賀状の遅れが、より一層「年賀状離れ」を引き起こしているのではないだろうか?

とはいえ・・・年賀状とネットでの挨拶とでは、やはり貰う方の気持ちが違ってくる。
家族写真の年賀状などは、毎年頂くことでお子さんの成長をみることができる。
ハイハイをしていたお子さんが、七五三や小学校入学の写真などへと変わると、お子さんの顔つきも赤ちゃんから子どもらしいものへと変わる。
下にお子さんができると、お兄ちゃん・お姉ちゃんらしい仕草もうかがえる。
そういう変化を知らせて頂くことも、楽しみの一つではある。

それに対して、独身の友人たちが送ってくれるユーモラスな動画ネット年賀メールは、友人たちのセンスがうかがえ、また楽しいモノではある。
ただ・・・何でもネット年賀メールと言うのは、いただけない。
TPOの使い分けが大切なのだ。
特に、上司だけではなく疎遠になっている友人などには、近況報告を兼ねた年賀状のほうが嬉しい。
年に1回の挨拶だから、自筆の一言を添えて。