連日、日本選手の活躍で東京オリンピックそのものは、盛り上がっている。
それまで「東京オリンピック反対」というムードが、選手たちの活躍のおかげで搔き消されたような感じだ。
メダルを獲得した選手たちはもちろん、期待されながらメダルに届かなかった選手たちの真剣な活躍は、感動的だし純粋に素晴らしいと感じる。
だからこそ、気になってしまうのがJOCをはじめとする「オリンピックを運営する側」のことだ。
例えば、お弁当の大量廃棄等は食中毒の危険のあるこの時期だから、仕方ないという部分はあるが、それにしても廃棄される量が半端ではない。
時折ネット等で話題になる「発注ミス」による、大量発注なのか?というほどの、量が廃棄されている。
もう少し、発注時に数量のチェックをすれば、このような大量廃棄は避けられるのでは?と、思ってしまうほどだ。
それよりも、問題なのはこの連日の猛暑(というよりも選手たちにとっては「殺暑」というべきだろう)だ。
テニスの試合等は、スタート時間を遅らせる等急遽対策をとったようだが、この日本の猛暑は誘致時点である程度の想像ができたはずだ。
だからこそ、東京での開催が決まった時「猛暑の真夏ではなく、1964年のような秋開催のほうが良い」という意見が数多く出ていた。
1964年当時の10月開催の時には、昼間でも長袖で過ごす日のほうが多かったような記憶があるが、ここ10年位の10月は半袖でも十分過ごす事ができるほど、秋らしさを感じられなくなっている。
「地球の温暖化の為」と言ってしまえばそれまでだが、それにしてもこの「猛暑」の中、競技をする選手たちの多くは「こんなはずじゃぁ無かった」という気持ちもあるのでは?と、思っている。
というのも、今日の朝日新聞に「オリンピック誘致ファイル」について、「日本の夏は温暖」と記載されていた、という記事があったからだ。
朝日新聞:東京の夏は理想的?「うそつき」と海外メディアから批判
本当に「東京オリンピック誘致」のファイルに、「東京の夏は温暖で、最高のパフォーマンスを発揮できる」と、書いてあったのだとすれば、「大嘘つき!」と批難されても仕方ない。
何故なら、上述したようにオリンピックの誘致が決まった時から、日本国内では「日本の真夏に東京でオリンピックを開催するには、選手たちにとっては(暑すぎて)辛いはずだ」という、意見が出ていたからだ。
と同時に、誘致のプレゼンテーションで当時の安倍首相が「東京電力福島第一原子力発電所事故により発生した、放射能に関する対策は、アンダーコントロールされている」と、説明していたことから「アンダーコントロール」という意味が「管理下にある」というのであれば確かだが、「コントロールをしている」という状況とは、程遠い状況にある、と世間のツッコミがあった。
安倍さんは、首相という立場で「安全」の担保をした、ということになるはずだが、当時は「安全の担保」など、全く感じられるような状況ではなかった。
このように「誘致の為についた『嘘』」が、次々と明らかになって言っている現状を見ると、「オリンピック誘致」が目的であって「オリンピックを開催する意味も意義も無かった」という気がしてくる。
確かに「新型コロナ」という、感染症の爆発的な世界的流行は、誘致の時には想像できない事ではあったが、「東京の真夏が温暖である」とか「東京電力福島第一原子力発電所事故」についての説明が、当時の日本の生活者の感覚からも大きくズレていた、ということになる。
今回のオリンピック関連のニュースの中で、目を引く記事の多くは「大会運営」ではなく、ボランティアの活躍であったり、無観客になってしまったが、応援をしようと会場でプラカードを掲げるスポーツファンの姿だ。
今回の東京オリンピックに限らず、日本で開催される国際的なイベントでは、このような「草の根」で支援をしている人たちの思い等で、支えられているように感じている。
その現実をJOCや組織委、五輪相、小池都知事等は理解する必要があるのでは?
BBCのサイトを見ていたら、「新型コロナ」に関する記事が幾つもあった。
BBCに限らず、世界中のニュースサイトでは、政治や経済の報道とともに、「新型コロナ」に関するカテゴリーのまとめ記事を掲載しているのでは?と、考えている。
BBCのサイトにある「新型コロナ」についてのある記事を読みながら、日本のメディアと海外メディアの大きな違いは「冷静さ」のような気がした。
BBC NEWS:新型ウイルス、イギリスが新たな変異株の温床に?突然変異が起こりやすい条件とは
記事を読んで気づくことがある。
それは、平易な言葉でこの「新型コロナ」の変異株が起きる理由が書かれている、という点だ。
日本では「デルタ株に感染した人が○○人」という内容の記事を見ることはあっても、「変異株が起きる理由とワクチン」という内容の記事をほとんど見たことが無いような気がする。
そのため「変異株が判明した→これまでのワクチンが効かないのでは?→社会不安」という状況になっているような気がするのだ。
しかも「変異株はこれまでよりも感染力が強い」という点が強調される事で、生活者はパニックに陥りやすい。
結果として起きていることが「1日も早いワクチン接種をしなくてはいけない」ということになり、大規模接種会場や職場、学校等での集団接種に殺到してしまうことになる。
それが「集団接種会場」へのワクチン供給が一時的ではあるものの、ストップしてしまい、それがまた生活者の不安を煽っている、ということになっている。
その一方で、若年層を中心に「ワクチン接種をしなくてもOKでしょう」という、楽観的な感覚を持っている人たちもいる。
その理由として挙げられるのは、「若年層は、重症化しない」という、「初期の新型コロナ」の感染情報によるところが大きいのでは?と、考えている。
今現在の「変異株」を中心とした感染リスクは、若年層であっても重症化リスクはあり、活動的な若年層や現役世代を優先にワクチン接種をすべき、という意見があるのもそのためだ。
情報そのものが受け手によっては、アップデートされずにいる、という現実もまたあるということだと思う。
考えそのものは、個人によるところが大きいものなので、強制できるコトではないし、それを責める必要もない。
ただ「ワクチンを接種する・しない」を判断するための情報は、とても重要なはずだ。
ところが、日本では副反応の情報を含め「生活者に対するメリット・デメリット」、「ワクチン接種によって生活の安全性が高まる」等の冷静な情報が、数少ないように感じるのだ。
例えば「変異株」が見つかった時、「これからは感染力の強い変異株によるパンデミックが起きる」という、記事はあったが、それを防御するためには「3密を避け、手洗い・マスクの励行」に終始していたような印象を持っている。
そこに突然「ワクチン接種をしましょう」と言われても、生活者の中には「何を言っているのか分からない(言語的な理解ではなく、真意が理解できない)」ということになりやすい。
結果、生活者の過剰な反応や行動を誘引しているのでは?と、考えるのだ。
若年層の主な情報源となっているのは、ネットだと言われている。
しかも、そのネット情報も相当偏りがある。
ただ、メジャーなメディアが不安を煽るような内容ではなく、一歩引いた冷静な報道をすることで、受け手となる生活者の気持ちは、随分落ち着いてくる。
その内容も難しい専門用語ではなく、平易な言葉であれば「理解しやすい」。
日本では専門用語を多用し、それを「箔付け=権威(主義)」のような意識がある。
むしろ専門家は、①より平易な言葉で、②分かりやすい表現を③冷静にする、ということが、社会不安が強くなっている今一番必要なことなのでは?
「伝える専門家」には、そのような技量もまた求められるのだと、BBCの記事を読みながら感じたのだった。
23日、東京オリンピックの開会式があった。
この開会式をめぐっては、様々な問題がクローズアップされた。
そして分かったことは、「東京オリンピックが利権イベント」であった、ということだ。
特に、開幕直前に発覚した、開会式のイベント関係者の醜悪な過去については、当初は続投を表明していた組織委会だったが、海外のメディアが報道したことで、関係者の辞任や解任ということになった。
それは同時に、「何故この人が選ばれたのか?」という疑問を国民に知らせ、結果「様々な利権と思惑」で東京オリンピックが運営され、そのために巨額のお金が投入されている、ということが判明したのだった。
おそらく「東京オリンピック・パラリンピック」の後に予定されている、「大阪万博」もまた、同じ構図の「利権イベント」に終始するのでは?という、気がしている。
ただ、そんな事が無かったかのような、新聞やテレビ、ラジオの「オリンピック報道」を視聴していると、参加しているアスリートたちの活躍とは別に「何だか、感動の押し売りみたいだな~」と、天邪鬼な私等は感じてしまうのだ。
これらの問題は、参加しているアスリートたちの問題ではない。
その点だけは、ハッキリさせておきたい。
ただ、必要以上の感動話をつくろうとするメディアに、辟易としている、というだけなのだ。
と同時に、IOCやJOC関係者などが「オリンピックが始まってしまえば、人はスポーツの素晴らしさに感動し、コロナに関連するネガティブなコト等忘れてしまう」と言った趣旨の言葉を、思い出すのだ。
その言葉通り、上述した通りメディアは「メダル獲得選手の感動話」をつくるために、家族や関係者を引っ張りだして、お涙頂戴のような演出をする。
メダルを獲得した選手や家族、関係者が感涙するのは当然だと思うし、そのために汗や涙を流した日々を思い出す事もあるのは、当然のことだろう。
そこにクローズアップしすぎると、期待されながら結果を残せなかった選手たちはどんな気持ちになるのだろう?
かつてマラソンランナーの円谷幸吉さんは、そのプレッシャーから「もう走れません」と遺書を残し、自死をしている。
円谷さんほどではないにしても、日本はオリンピックになると、国を挙げて選手にプレッシャーをかけ続ける、という傾向が強い(ように感じている)。
そのため「オリンピックを楽しみたい」等と、選手が発言をすると「けしからん!」となるのだ。
選手と自分たちとは、全く別であるにもかかわらず、どこかで「同一化」したような感覚を持ってしまうのだろうか?
と同時に、このような「感動」は、一種の「同調圧力」のような社会的雰囲気を、つくりだしてしまう。
ヒットラーが、プロパガンダとしてオリンピックを利用したのは、有名な話だが、プロパガンダではないしても「オリンピックで感動しないのは、おかしい」という社会的雰囲気に包まれるように感じるのだ。
今回は「コロナ禍」という中でのオリンピックだ。
「コロナ禍」によって、仕事を失ったり経済的に厳しい状況に追いやられた人たちも、数多くいる。
そのような人たちにとって、オリンピックそのものを手放しで楽しめる環境ではない、ということも、心にとどめてメディアは報じて欲しい。
今夜、東京オリンピック2020の開会式がある。
先週から昨日までの開会式イベントのゴタゴタは、終了したのか?と思っていたら、今日も色々あったようだ。
それは21日、AmebaTVに出演していた、オリンピック組織委会参与の夏野剛氏が、「(自粛によって中止になった)クソのようなピアノ発表会なんて、どうでもいいでしょ。(中略)オリンピックに比べれば、一緒にするアホな国民感情がある。今年選挙があるから乗らざる得ない」という趣旨の話をしていたことが、再び問題発言として、取り上げられている。
中日スポーツ:東京五輪に無観客を望む国民感情はアホなのか 組織委・夏野剛参与の発言が波紋「クソみたいなピアノ発表会なんかどうでもいい」
この発言を知って「また!?」と、「問題の論点が、理解できていない」という気がした。
参与という立場でありながら、ご自身の発言の影響力が分かっていない、というのは、とても残念な方だな~と思ったのだが、先週からトラブルを起こしている方は、世間からズレた感覚の方々だった。
夏野氏からすれば、自分のお子さんのお稽古事の発表会よりも、有観客でオリンピックをすることの方が大事である、ということは分かった。
夏野氏が指摘している通り、Jーリーグや音楽ライブ等でも「新型コロナ対策を実施して、有観客」で実施している。
問題なのは、オリンピックに関してこのようなアナウンスが、徹底されてこなかったという点だろう。
組織委会をはじめ政府が言ってきたことは「安心・安全」だけで、具体性のあるものは無かったように思う。
参与という立場であり、これまで様々なビジネス実績を持って、その要職についているのだとしたら、国民が安心できるシステムを何故、つくりあげてこなかったのか?という点が疑問に感じたのだ。
そこで改めて夏野氏の経歴を見てみると、あることに気づいたのだ。
オリコンニュース:KADOKAWA、オリンピック開会式の『公式プログラム』発売中止 小林賢太郎氏の解任を受け
現在夏野氏は、「公式プログラム」の発売を中止した、KADOKAWAの代表取締役社長なのだ。
組織委会の参与が関係している企業が「公式プログラム」の発売をする予定であった、ということでもある。
参与という立場ではなく、KADOKAWAの代表権のある社長という立場であれば、「公式プログラム」を発売したかっただろうし、当然それに伴う利益も考えていたのでは?
そのように考えると、今回の東京オリンピックは関係者の利権でがんじがらめになっている、という気がしてくるのだ。
だからこそ、中止や延期ではなく強行開催へと突き進んだのではないだろうか?
1984年のロサンゼルス大会が「商業化オリンピック」の始まり、と言われているのは、拙ブログでも何度も書いてきた。
「商業化オリンピック」というのは、スポンサー企業がオリンピックのマーク等を独占的に使ったり、CMに使ったり、聖火ランナー募集のキャンペーンを実施し、企業名の入った伴走車両を走らせたり、という意味だ。
しかし、今回の東京オリンピックは「商業化されたオリンピック」ではなく「利権オリンピック」なのではないだろうか?
オリンピックの本質云々ではなく、全く異質な「利権ビジネス」がオリンピックというイベントを利用している、そんなコトが開会式直前になって次々と露呈した、ということなのだと思う。
昨日になって、再びオリンピック・パラリンピックの開・閉会式の演出担当者の一人がまた、解任された。
今度は、漫才コンビを組んでいた時代に「ホロコースト」を揶揄していたコトが、判明したためだ。
この問題を指摘したのは、日本ではなく米国のユダヤ人団体だったようだ。
明日、開会式が予定されているオリンピックだが、直前になってこれほどセレモニーイベント関係者が、バタバタと過去の問題で辞任・解任されるということは、異常だろう。
この異常さから見えてくるのは、オリンピック・パラリンピックの仕事だから「崇高な理念に基づかなくてはならない」というよりも、オファーを出したほうも受けたほうも「お友達」感覚で、「オリ・パラの開会式、閉会式の演出、ちょっと頼む」、「オリ・パラの演出、カッコいいじゃん。OK」程度の軽い感覚だったような気がするのだ。
ご存じのように、当初予定されていた狂言の野村萬斎さんを中心としたクリエイティブチームは、昨年時点で解散させられているので、今回の件はその後を継いだとされる広告代理店の方を中心とした、クリエイティブチームということになる。
この広告代理店の方というのは、ご存じの通りタレントの渡辺直美さんを揶揄した事が表面化し、批難された事で辞任をされた方でもある。
ということは、この時点で今回のような事が起きる事が、予測できたのでは?という、気もしている。
ただそのコトに対して、組織委会やJOCが興味がなく、広告代理店に丸投げていた、ということだろう。
今回のことで日本の社会の問題そのものが、露わになったのでは?という、気もしている。
小山田圭吾氏や絵本作家ののぶみ氏等は「いじめ」という犯罪。
今回解任させられた小林賢太郎氏は、「ホロコースト」という、近・現代史を学んでいれば、その問題をお笑いで取り上げるべき内容ではない、ということを知っているはずだが、「ウケ狙いで…」と答えていることから、日本の教育という問題もあったのでは?ということなのだ。
「ホロコースト」に関していうなら、「受験に関係ないから」という理由で、学ばない生徒も多いかもしれない。
そのため「ホロコースト」を揶揄したコントで、笑った人たちも沢山いたのでは、ないだろうか?
少なくとも海外の人たちは、笑うどころか怒りの対象となるようなテーマであるにもかかわらず、日本ではお笑いのネタとして使われても、違和感なく受け入れられてしまった、という点が、問題なのだと思う。
しかも「ウケ狙いで…」と答えているということは、1度や2度ではなかったのではないだろうか?
今回のオリンピック・パラリンピックの開会式・閉会式の演出関係に関していうなら、これまで日本の教育や社会が「見て見ぬふりをしてきたツケ」が、世界と向き合い露見した、ということなのかもしれない。
オリンピックの開会式で楽曲を提供する予定であった、小山田圭吾氏の過去に「いじめ」という名の犯罪により、「サブカルチャー」という言葉が、注目を浴びるようになった。
そして一連の報道の中で語られる「サブカルチャーだから、あのような露悪なコトができた」という、ニュアンスを伝える文を目にするようになった。
この「サブカルチャーだから、露悪なコトをしても良い」という指摘に、違和感を感じている。
おそらく一般的に言われている「サブカルチャー」と呼ばれるモノは、「メインカルチャー」に対する対擬語なのだと思う。
「メインカルチャー」は、その時代時代の主流となっている(あるいは支配的)文化なので、「サブカルチャー」は反主流的文化ということになるだろう。
「反主流」なだけで、「文化」であるコトには変わりないはずだ。
しかも彼の「いじめ」という名の犯罪を掲載していた「rockin'on」は、200,000部(現在)の発行部数と言われている。
この記事が掲載された1990年代は、音楽雑誌の休刊や廃刊が続いた頃でもあり、発行部数だけでいえば、決して「サブカルチャー」の雑誌とは言えないのでは?と考えている。
rockin'onの創業者であり、出版社社長である渋谷陽一氏が、「偉そうな(=メインカルチャーの)音楽雑誌」と言っていた「MusicMagazine」の発行部数が150,000部(現在)ということを考えれば、決して「サブカルチャー雑誌」とは言えないだろう。
そのように考えると「サブカルチャーだから、メインカルチャーよりもファンが少ない」とは言えず、その境界線もまたあやふやなモノである、ということになる。
強いていうなら、テレビや一般雑誌に取り上げられるのか?否か?という、程度のことになるだろう。
当時はまだまだ、情報や娯楽の主役がテレビであった、ということを考えると、確かに「渋谷系」と呼ばれた音楽は、「主流の音楽」でなかったかもしれないが、テレビCM等では案外起用されていたと、記憶している。
また(あくまでも個人的に)「サブカルチャーの音楽」を上げるとすれば、米国のTHE VELVET UNDERGROUND&NICO (デビュー時には、アンディー・ウォーホールが関わっていたコトで、注目されたバンド)等だろう。
残念なことに、彼らを語る上で「ドラッグ=薬物使用」という行為も含まれていたために、「反社会的行動を容認する若者文化=サブカルチャー」というのであれば、今回の「露悪自慢話」に通じると解釈をされるのかもしれない。
ただ「Culture=文化」は、「いじめ」という名の犯罪を良しとするものではない。
それは「メイン」であろうと「サブ」であろうと、同じはずなのだ。
にもかかわらず「サブカルチャーの世界では、あのようないじめ自慢話をカッコイイ、と受け止められていた」という説明そのものに、嫌悪感を感じるのだ。
何故なら、上記に上げたTHE VELVETUNDERGROUND&NICO等、1960年代~1980年代の「サブカルチャーのアイコン」の様に言われていた人たちは、ドラッグはやってはいたが、「いじめ」のような人を傷つけるような行為はしていないからだ。
小山田氏をはじめとする、同様のことをし・自慢していたミュージシャンたちは、「サブカルチャー」どころか「Culture=文化」の本質を理解せず、勝手に「俺たちこんな悪い事していたんだぜ(凄いだろう!)」的な自慢話と喜々することは、その人自身が「残念な人」であるという告白でしかないし、掲載を決めた雑誌社そのものも「残念な企業」ということになるだろう。
先週末から、小・中・高時代に行った「いじめ」の問題について、当事者である小山田圭吾氏が「辞任」したコトで、一応この問題は、決着をしたということになった。
決して、納得のいく決着とは言い難いのだが、当事者である小山田氏が「担当を降りる」ということで、JOC組織委会は胸をなでおろしただろう。
今問題?となっているのは、小山田氏がつくった楽曲を使わなくなる事で発生する、開会式の演出に穴があくという点だ。
ネット上では、様々なアイディアが出ているようだ。
その中で「別に華美な演出をしなくてもいいのでは?」という意見がある。
「選手団入場→聖火点灯→天皇陛下の開会宣言」という、本来あるべき姿に戻せば、小山田氏のつくった楽曲は必要ないし、小山田氏の辞任に難色を示した、と言われるヴィジュアルチームの偉い人も必要なくなる、というアイディアだ。
おそらく今のような、華やかな演出の「オリンピック開会式(と閉会式)」になったのは、1984年のロサンゼルス大会からだったのでは?と、記憶している。
この時の演出は、「流石ハリウッド!!」という感想を持つほど、スペクタクルで大掛かりな演出がされていた。
これ以降、花火が打ちあがるのは当たり前、スタジアムが一つの劇場になったかのようなセレモニーが、1時間以上続くようになった(気がしている)。
ご存じのように、1984年のロサンゼルス大会は「商業化したオリンピックの始まり」とも言われている。
聖火ランナーにスポンサー枠を設け、スポンサーが「聖火ランナーになりませんか?」と、自社製品の販促の為に使い募集したり、競技の中継ではスポンサー企業のCMが大量に流れる等、それまでのスポンサー企業との関係にビジネス的要素が強く含まれるようになり、それは大会ごとに強くなっていったような印象を持っている。
それが、今回のゴタゴタ騒動と日本国内での「新型コロナ」の急速な感染拡大により、最高位スポンサーの1社である、トヨタ自動車がCMを放映しない、と昨日発表をしている。
CMを放映しないだけではなく、社長を含めた幹部役員も開会式には出席をしない、という。
朝日新聞:トヨタ、五輪CM放映せず 社長らの開会式出席も見送り
トヨタ自動車側としては、高額な契約料を支払った上CMを放映しない、というのは「トヨタ自動車」という企業のプロモーションとしては、手痛いはずだ。
しかしあえて、CM放映をしない、社長を含めた幹部役員の開会式出席の見送りを選んだことは、ある種の「英断」として世界的に評価される可能性のほうが高いかもしれない。
そのような企業が追従することとなれば、これまでの「商業化されたオリンピック」が、本来あるべき姿に戻る切っ掛けとなる可能性が高い。
特に先進諸国の生活者にとって、競技の邪魔をするCM等は「無用の長物」であり、邪魔なだけなのだ。
そう考えると、今回の「東京オリンピック・パラリンピック」は、「商業化していないオリンピック」に戻る切っ掛けとなるかもしれない。
今月に入り、新聞やラジオ等の主要メディアは、「東京オリンピックモード」となっているようだ。
元々東京オリンピックのスポンサーとなっている企業が提供している番組等は、世間の「オリンピック開催に疑問」と言われながらも、東京オリンピック開催前提で番組が作られていたので、今更おどろく事ではないが、先日発覚した小山田圭吾氏の「いじめ」という名の犯罪についても、ビックリするほど触れていない。
ネットで見ていても、この問題を大きく取り上げているのはスポーツ紙で、主要新聞社のサイトでは、ほぼ触れられていない。
このことを考えると、主要メディアそのものが「見て見ぬふりをする」、「嵐が過ぎ去るのを待っている」という、事なのだろう。
ここまでケチがついたオリンピック・パラリンピックを、楽しめる人達がどれほどいるのか?疑問なところがあるが、報道する側は、必要以上に「スポーツの素晴らしさ」という感動の安売りをするのだろうな~、と思っている。
今回の小山田圭吾氏の「いじめ」という名の犯罪については、ネット上に上がっているので改めて書く必要はないと思うのだが、一つ疑問がある。
それは「いじめ」という犯罪の現場となった、学校側の対応だ。
小・中・高と12年間という長い年月を、被害者となった障害者は「いじめ」を受けてきた、ということになる。
12年という年月は、決して短い時間ではない。
その間、学校は一体何をしていたのだろうか?
「障害児を普通学級に受け入れる」ということは、とても大変な事だと考えている。
学校側だけではなく、その児童と一緒に学ぶ他の児童父母に対しても、理解と協力を得る必要があると、考えるからだ。
というのも、私が通っていた公立小学校では、身体にハンディを持っている児童、聴覚障害児童、発達障害を抱えた児童を受け入れていた。
当時は「特別支援学級」そのものが少なく、受け入れざる得ないという状況だったのかもしれないのだが、彼ら・彼女らに対する「いじめ」というものは無かった、というのも事実なのだ。
何故なら、小学校の入学式の後、教室で担任の先生が父母のいる前で「ハンディのあるお友達がいます。できる事も沢山ありますが、できないことがあれば、クラスの皆で助け合ってください」と説明をしていたからだ。
まだまだ純真無垢な小学一年生は、元気よく「は~~~い」と返事をしたような記憶が、鮮明にある。
鮮明な記憶として残っているのは、後にも先にもそのような経験が無かったからだろう。
もちろんそれなりの「いじめ」のようなモノはあったし、私自身は相当ないじめられっ子だった。
だが「ハンディがある」という理由で、「いじめ」のターゲットにするような児童・生徒はいなかった記憶がある。
時代が違うとはいえ、公立の小学校ですらそのような準備をし、受け入れていたのだ。
積極的に受け入れをしている私立学校であれば、そのような準備も父母の理解もあって当然だと思う。
にもかかわらず、12年近い年月学校がこの件に積極的に関わっていた、という話が聞こえてこない。
知的障害があるため、学校に訴えることができなかったから、発覚しなかったのか?
元々そのような「いじめ」が起きやすい雰囲気があったのか?
小山田氏が卒業した私立学校のモットーは、「自主的な児童・生徒による自治的活動や体験学習」ということだが、いきなりそのようなことができるはずもなく、場合によっては「自由奔放」という名の「傍若無人」な人間形成の素地となるだけではないだろうか?
ここ数年問題となっている「ブラック校則」のような、管理教育が良いわけではない。
ただ「考え・行動する」というステップの中には、「人の尊厳」であったり「互いに尊重する」ということを、徹底的に教え・指導する必要がある、ということなのだ。
今回の小山田氏の場合、「自由」のはき違えがこのような「いじめ」という名の犯罪を繰り返し、それを自慢するような人になってしまった、という点については学校側も考える必要があるのではないだろうか?
同じ学校の卒業生が、同じようなコトをしているわけではないにしても、筆舌しがたいほどの「いじめ」という名の犯罪を「いじめ」が社会問題となっている頃、自慢げに話すということは、異常さを感じるし、それを修正できなかった学校にも話を聞いてみたいのは、私だけではないと思う。
先週半ばくらいから、パラリンピックの開会式で音楽を担当することになっている、小山田圭吾氏の小・中・高時代のいじめ。
今日になり、辞任を求めるon-line署名活動まで始まった。
このような事態になっても、JOC側は「謝罪をしたのだから、不問」という立場をとっている。
このような状況の中、海外メディアが小山田圭吾氏の「いじめ」という名の犯罪について、報じ始めている。
Huffpost:小山田圭吾さんの「いじめ告白」、海外メディアも報じる。開会式続投を問題視する声も紹介
一つ疑問に感じたことは、JOCは事前に小山田圭吾氏のプロフィール等を知っていたのだろうか?という点だ。
いわゆる「業界」と呼ばれる「村」は、想像以上に小さく様々な情報が簡単に得られる、と言われている。
実際、ミュージシャン同士であれば、1万人を集客するような人気ミュージシャンから、そのサポートをしているミュージシャンまで、互いに知っていると言われている。
確かに小山田氏がつくるような楽曲を「渋谷系」と呼ばれていたが、「渋谷系ミュージシャン」以外のミュージシャンも、小山田氏の様々な話を聞いていたのでは?という気がする。
まして今回は、27年前とは言え「いじめ紀行」なるタイトル他、「いじめ」という名の「犯罪」についての雑誌のインタビュー記事が、元になっている。
とすれば、事前に起用するミュージシャンから、話を聞けばよかっただけなのでは?
個人的には、何故今渋谷系のミュージシャンを起用するのか?分からないのだが…。
というのも2000年代に入ってから、ヒット曲を出し続けているミュージシャンやバンドは、いわゆる「○○系」というカテゴリーに収まらないタイプの楽曲が、人気となっているからだ。
おそらく、起用を勧めた代理店の人が小山田氏と同世代で、自分にとって好きな音楽だったから、という程度のような気がするのだ。
そんな理由で、起用されるの?と思われるかもしれないが、二転三転したオリンピック、パラリンピックの開会式及び閉会式のセレモニーイベントで、最終的に起用されたミュージシャンの顔ぶれを見ると、そのような印象を持ってしまうのだ。
ただ、海外で報道された内容は、日本での報道内容や小山田氏本人の謝罪Twitter、出版元編集長の謝罪等よりも、詳細な内容となっており、このような内容の「いじめ」という名の犯罪を犯した人物を起用する、というJOC側の態度に疑問を投げかけるだけではなく、JOC側の「問題認識に低さ」を海外に知らしめてしまった、という気がする。
元々「新型コロナ」の日本国内での感染拡大及びワクチン接種等が進んでいない等の状況から、「中止すべきでは?」という海外報道もあった。
それほど開催に向け疑問を投げかけられている状況の中で、海外ではとてもデリケートな問題として取り上げられている「人権(あるいは人としての尊厳)」を蔑ろにする人物の起用等、考えられないはずだ。
そのコトに気づかないJOC側に、オリンピック、パラリンピックを開催する資格があるのだろうか?
朝日新聞尾Webサイトに、EUが2035年までにハイブリッド車(HV車)も販売禁止にする、というニュースが一昨日あった。
朝日新聞:EU、2035年にハイブリッド車も禁止 EV化へ加速
そして昨日、EUが2030年までに再生エネルギー電源を65%にし、ガソリン車の販売も禁止する、という記事があった。
朝日新聞:EU、30年に再エネ電源65% ガソリン車販売禁止も
いずれもEU内での話とはいえ、HV車が主流になっている日本では、厳しい条件を突き付けられた、という印象がある。
EUでの発表が1日ズレているが、いずれもHV車を含むガソリンで動く車についての考えを発表した、ということには違い無いだろう。
ただ、EV車=エコカーなのか?という点で、考えてみる必要があるのでは?という指摘を、昨日の朝のFM番組でされていた。
その内容というのは、「EV車は確かに電気で動くクルマなので、単純に考えればCO2の削減に大きく貢献すると、考えられる。だが、そのEV車の動力部分を製造するためには、HV車を含むガソリン車よりも、多くのエネルギーを必要としている。再生可能なエネルギーを使っているから、エコロジーというわけではない、という趣旨の話があったからだ。
確かに「EV車=エコ」というイメージで、とらえられているけど、その製造工程で使われるエネルギーはどうなのか?ということを考えることも、SDGsでは重要な点だろう。
それだけではなく「造られた車を解体す時は、どうなのか?」という点も含めて、「製品のエコ化」を考えなくてはならないだろう。
それは単に「走行時にCO2の削減となっている=エコ」という単純な発想では、問題解決とはならない、ということに気が付くはずだ。
クルマで使われるプラスチックを「リサイクルされたプラスチック」替える、という程度の変更であれば「エコカー」とは言え無くなるのでは?という、気がしている。
そのように考えた時、現在の車の販売台数の多くをHV車が占めている、という点は、将来的な自動車の動力部分の開発などで有利になるかもしれない。
何故なら、現在主流となっている、HV車の売り上げの多くが日本だからだ。
このような状況を「ガラパゴス化した日本の自動車メーカー」が、製造工程においても「製造時の消費エネルギーの転換と省エネ化」によるEV車の開発ができるかもしれない、と期待する部分も個人的にはある。
何故なら、エコロジーな生産工程はどのようなシステムなのか?という、事を考えるのは同じだからだ。
むしろ、EV車の製造工程にこだわる必要が無いので、全く違う視点の発想で生産工程とその材料や素材を選ぶ事ができるからだ。
HV車という成功体験を持って、EV車の生産ラインや材料、素材を考える必要が無い=既成概念にとらわれない、という発想が日本の自動車メーカーにできるとすれば、現在EV車の生産・普及が進んでいる中国等よりも「これまでと同じ感覚で乗れるEV車」の生産が可能になるかもしれない、という期待ができるのでは?
むしろ、周回遅れのような今の状況では、材料・素材等から徹底的に見直しをして、生産工程でも環境負荷をかけないクルマづくりを目指す必要があるのではないだろうか?
今回、EUが発表したHV車を含めたガソリン車の販売停止は、日本にとって逆風だろう。
だがその逆風と考えるのではなく、周回遅れを挽回するチャンスととらえれば、新しいモータリゼーションという文化と共に新しいクルマができるのでは?と、期待したいのだ。