日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

顔を上げ、空を見よう

2020-05-29 19:15:47 | 徒然

今日、東京の上空にブルーインパルスが飛んだ。
「新型コロナウイルス」と最前線で奮闘している、医療者関係者に対する感謝を表す為の飛行だった。
テレ朝News:ブルーインパルス感謝飛行”空撮ノーカット” (動画)

Yahoo!のコメントなどを読むと、多くの人が「感動した」という言葉を寄せている。
決して医療者からのコメントではなく、自宅ベランダから見た人、出かけた時に偶然見た人、様々な人達が様々な場所で、ブルーインパルスの飛行を見ていたようだ。

「五月晴れの青空に描かれた白煙と、一糸乱れぬ編隊飛行の美しさ」に「感動をした」という言葉が多かったように感じた。
と同時に一つ感じたことがある。
それは、ブルーインパルスの飛行を見るために、人々が空を見上げていたということだ。
当たり前といえば当たり前のことなのだが、「新型コロナウイルス」の感染拡大が毎日伝えられるようになった頃から、無意識に背を屈め、下ばかり見ていたのではないだろうか?
それが「自粛生活」が始まると、更に背を丸めうつろな視線で下を見つめ、呼吸が浅くなっていたような気がするのだ。
おそらくこのような状況が続くことで、気持ちが殺伐とし些細なことでも攻撃的な言葉を投げかけることに、疑問を感じなくなってしまったのでは?ないだろうか?

それが今回のブルーインパルスの飛行を見て多くの人が、空を見上げることになった。
空を見上げることで、「自粛生活」ですっかり忘れていた空の広さや風の心地よさ、そんな自然の力を感じ取るだけではなく、深く深呼吸をすることで気持ちそのものを切り替えることができた、と感じられた方も多かったのでは?と、感じている。

そして思い出したCMがある。
2010年の年明けに流れた「サントリーBOSS」のCMだ。
残念ながら、公式サイトなどでアーカイブのCMを見つけることができなかったのだが、私としてはとても印象深いCMだった。
場面は、スカイツリーが開業する前の東京。
映しだされるのは、下を向きスマホの画面に見入る人たち。
そんな人たちに「上を向こう!」流れる楽曲が、坂本九さんの「上を向いて歩こう」だった。
このCMそのものは、その後発生した「東日本大震災」等の影響もあり、見ることができなくなってしまったが、この時使われた「上を向いて歩こう」は、その後サントリーのCMなどに出演していた俳優さんやミュージシャンの方々によって、違うカタチで使われることになった。

社会が暗くなると、人は下を向き呼吸が浅くなる。
と同時に、上述したように心まで下向きになり、殺伐とした意識を持ち、他人を様々なカタチで傷つけるようになってしまう。
だからこそ「顔を上げ、空を見上げる」ことが、大切なのかもしれない。
今日のブルーインパルスの飛行は、その切っ掛けとなる飛行でもあったような気がする。




同じデータでも、視点を変えると違う発想になる

2020-05-28 19:59:43 | ビジネス

Yahoo!のトピックスに、「なるほどな~」と感じる記事があった。
Diamond on-line:「コロナ収束は日本人のマジメさや清潔さのおかげ」という勘違いの恐ろしさ

内容については、記事を読んでいただければと思うのだが、この記事で注目しているのは「新型コロナウイルス」の感染による死亡者、という数字だ。
記事にある通り、日本は政府の力で「新型コロナウイルス」を封じ込めてきた、という実感を持っていない人たちのほうが、多いのではないだろうか?
確かに全国を対象とした「緊急事態宣言」によって、GW中も外出を控え「自粛生活」を送ってきた人たちが、ほとんどだろう。
その間、目立って活躍をしていたのは大阪府知事の吉村さんをはじめとする、一部の自治体の首長さんだった。
特に吉村大阪府知事のメッセージは、全国に伝えられ一つの安心材料になったのではないだろうか?
そのうえで、日本人の自主的な抑制生活や日本独特の公衆衛生感などが、欧米の国々で見られた国のリーダーによる強いメッセージ無しで、ここまで感染拡大を防止することができた、というのは確かだと思う。

ただそれは欧米から見た「新型コロナウイルス」の感染拡大であり、東アジアから見た時、日本ほど公衆衛生感があるとは思えない(といっては失礼だが)国々でも爆発的な感染拡大にはなっていない、というのが記事の指摘だ。
日経新聞:チャートで見る世界の感染状況 (世界全体)

既にiPS細胞研究でおなじみの山中伸弥教授が指摘している「ファクターX」の存在が、日本人だけではなく東アジアの人たち全体が保有しているモノかもしれない。
山中伸弥:解決すべき課題 ファクターXを参照してください。

記事では「新型コロナウイルス」だけではなく、日本における「生産性」から見た賃金などについても言及をしている。
確かに、GDPという指標で見れば日本は「経済大国」の一つではあるが、「生産性と賃金」という視点でみた時、賃金そのものが低いということがわかる。

「データという数字は、一つのことしか示していない」と思いがちだが、実は対比する数字や視点を変えると、全く違うことを示す。
「データを読み解く」意味と難しさを指摘していると思う。


少しづつ日常を取り戻すのだろうか?

2020-05-27 17:46:55 | アラカルト

長く続いた(?)「自粛生活」が、いったん終了した。
東京を含む関東一円の「緊急事態宣言」に基づく、様々な「自粛」が一旦解除されたからだ。
この「自粛解除」を心待ちにされていた方も、多かっただろう。

そしてこの2カ月以上の「自粛生活」は、様々な社会変化をもたらしたような気がしている。
その一つが「テレワーク・リモートワーク」だ。
「3密」を防ぐ為に、大企業は「テレワーク・リモートワーク」を導入せざる得なかった。
この「テレワーク・リモートワーク」によって、これまでの企業組織の在り方に、疑問を持つようになった人も多かっただろう。
大企業の一部では、時間をかけ5割程度の社員の「テレワーク・リモートワーク」を推進していくという。

「テレワーク・リモートワーク」が増えるということは、「働き方」そのものも大きく変るということになる。
まず人事管理という面だ。
終業時間という枠が無くなってしまうだけではなく、「仕事の成果」という物差しが、仕事の評価となる。
そしてその評価をする管理者もまた「テレワーク・リモートワーク」となるため、これまでのような方法での管理はできなくなる。
おそらく一番困るのは、拙ブログでも指摘させている「肩書だけで仕事をした気になっていた人」だろう。
当然、「テレワーク・リモートワーク」をする人達も、「仕事とプライベートを分ける、メリハリのある生活」が、求められるようになる。
そのような仕事ができない人たちは、これから先「職場での自分の居場所」が、無くなってしまう可能性が高い。

もう一つ「コロナ禍後」の社会変化として参考になるかもしれない記事が、VOUGEにあった。
VOUGE japan:キーワードは社会的責任、脱トレンド、高まる創造性 ポストコロナのファッション予測

「ファッション予測」があるので、「ファッションだけだろう」と思われる方もいらっしゃるかもしれない。
だが、ファッションそのものが社会を映す鏡の一つだと考えれば、これらのキーワードはビジネスパーソンにとっても、「ポストコロナ=コロナ禍後」のキーワードの一つだと考えるべきだと思う。
「社会的責任」なんて、何度も聞いてきた!という感想を持たれる方も多いと思う。
だが、今回の「新型コロナウイルス」の感染拡大によって、企業と社会のかかわり方が如実に現れたように感じている。
「自粛」だけではなく、何かできることは無いか?と動いた企業もあれば、「自粛」だけで終わってしまった企業もある。
企業規模の問題ではなく、社会の問題に対してどう考え・行動したのか?という点が、重要なのだ。
その行動によって、企業に対する評価はこれまでとは、全く違うモノになっているはずだ。
特に、地方の中小企業の動きには、眼を見張るモノがあったように感じている。
そのような企業を積極的に応援したい(そのような企業から商品を購入したい!)、という生活者は多くなったのではないだろうか?

「脱トレンド」と「高まる創造性」は、関連性の高いコトとして考える必要があるだろう。
ファッション産業は、毎シーズンのコレクションで「次のトレンド(=流行)」を提案し続けてきた。
それをあたかも否定したようなニュアンスが「脱トレンド」であり「高まる創造性」ということになるからだ。
だが考え方によっては、一昨年あたりから話題になっている「デザイン思考」とか「アート思考」ということに、結びつくキーワードである、ということに気づくはずだ。
これまでのような「How to」やノウハウでビジネス展開すること自体が、陳腐化すると考える必要がある、ということではないだろうか?

「コロナ禍」によって、社会が大きく変るとは思わない。
ただ、ゆっくりと変化し続け、気づいた時には「コロナ禍前」と違う社会になっていた、ということになるのではないだろうか?

 


「リア充」という空虚とリアリティ番組

2020-05-24 21:31:05 | 徒然

テレビ番組の「テラスハウス」に出演中だった、女子プロレスラーの若い女性が亡くなられた。
テレビが無い我が家では「テラスハウス」という番組が、どのような番組なのか、全く分からない。
分からないなりに、情報を集めてみると、若い男女が「共同生活をしている姿を現実のように見せる」という番組のようだ。
そして今回亡くなられた方は、ある放送回からネット上に誹謗中傷を書きこまれるようになったようだ。
スポニチアネックス:木村花さん「テラハ」”コスチューム事件”以降にアンチ急増、誹謗中傷1日100件・・・母にも矛先

Instagramが若い人たちの間で話題になり始めた頃、「リア充」という言葉が流行った。
Instagram用に「充実した私の暮らしぶり」を、アピールするような写真のことを「リア充」と呼んでいた。
ただ、多くの人たちは「リア充(笑)」というようなニュアンスで、「現実はそんな生活じゃないんでしょ」というような冷淡な見方をしていたのではないだろうか?
むしろ「リア充」をアピールすればするほど、そのInstagramを見ている人たちは冷めていったのではないだろうか?
それくらいの冷静さは、持っていたと思う。

だからこそ、テレビ番組の中の出来事は「現実のことではない」という、冷静さを持って視聴者は見ていたのでは?と、思っていたのだが、そうでもなかったようだ。
と同時にテレビに出ている人は、誹謗中傷も「有名税の一つ」だと考えていた、ということだろうか?
それとも自分にとって遠い存在であり、番組でつくられ・誇張されている人格と、素の彼女とは別である、という認識ができない、という人達が誹謗中傷をし、それがエスカレートした、ということだろうか?
とするなら、メディアリテラシーという以前に、現実と非現実の線引きができない人たちが、増えているということになると思う。

そしてこの「コスチューム事件」に関していうなら、いくら演出とはいえ「プロレスラーの衣装をダメにする」という、筋書きや演出は、この亡くなられた方に対して、失礼すぎるのではないだろうか?
亡くなられた方だけではなく、プロレスという格闘技をされている方全てに対して、失礼なことだと思う。
何故なら、プロレスという格闘技をされている方にとって、リングに立つ衣装は「舞台衣装」と同じだからだ。
その大切な「舞台衣装」をダメにされたら、テレビカメラがある・無しに関わらず、激怒して当たり前だ。
その怒りも分からずにいたとすれば、出演者に対する敬意が無い、ということになる。
違う言い方をするなら、この番組に携わっている大人は、亡くなられた方だけではなく「プロレス」という格闘技をどこかで「小ばか」にしていたのだと思う。
あるいは「番組の演出なんだから、上手く笑ってまとめてくれ」という、甘えがあったのではないだろうか?

何となくだが、今回の「テラハ」の一連の流れを見てみると、テレビを視聴する側も演出をする側も、出演者に対してどこか「自分のほうが上位者である」という意識を持っていたのではないだろうか?

そして最近感じることは、「誹謗中傷」する言葉を平気で使う人達が、増えてきているという気がしている。
今の閉塞感漂う社会の中での、ストレス発散という意味もあるのかもしれない。
ただ、そのような言葉を使い続ければ、その言葉は自分自身を傷つけるナイフとなって、戻ってくるのでは?
人を傷つける言葉を投げかければ、他の人からも同じように人を傷つける言葉を投げかけられても、傷つくことはないと思われても仕方ないからだ。






「IT」は、技術だけを指しているのではない

2020-05-23 08:06:44 | ビジネス

朝日新聞のWEBサイトに、花火職人さんの記事があった。
今回の「新型コロナウイルス」の感染拡大の為、全国各地で開催される「花火大会」が次々と中止に追い込まれている、という。
そんな中、収入云々ではなく「花火をあげることで、社会の雰囲気を変えたい」と、意気込んでいる花火師さんが紹介されていた。
朝日新聞:「収入ほぼゼロ」花火に危機 希望たくし一斉打ち上げへ

有料会員の記事なので、全文を読むことはできないが全体の概略はわかると思う。
確かに、花火職人さんたちは冬の頃から夏の花火大会に向け、数多くの花火制作をしているのだろう。
それが「3密」のリスク回避の為、中止になってしまったのだ。
当然収入もほぼゼロという状況になってしまうだろう。

考えてみれば、今のようにリモートやテレワークが一般的になりつつある状況を考えると、リモートで花火を楽しむ。しかも特等席で鑑賞する、という方法もあるのでは?という、気がしたのだ。
確かに、現地で見る花火のような臨場感は無いだろう。
何より、花火が夜空に炸裂する音の迫力は、リモートでは興ざめと感じてしまうかもしれない。
だが、逆にリモートだからこそ様々なアングルで、花火を楽しむことができる、ということもあるはずだ。

今回の「一斉打ち上げ花火」は、スポンサーがついていないのかもしれないが、通常の花火大会ではテレビ局や新聞社などのメディアが付いている場合が多い。
そのようなメディアスポンサーがついているのであれば、リモートなども比較的やりやすいような気がするのだ。
 
このような企画の場合、一番重要になってくるのが「鑑賞料」という、費用を如何に徴収するのか?ということだと思う。
新聞社などは、今回の記事だけではなく「有料会員記事」を設定している。
とすれば、「鑑賞料」という費用徴収も今あるシステムを活用する、という考えもできるのではないだろうか?

今回の「新型コロナウイルス」の世界的規模の流行で、多くの人が気づいたことの一つが「IT」という技術だと思う。
インターネットを通して、世界トップクラスの音楽家が演奏や歌唱で人を勇気づけようとしたり、チャリティーなどをしてきた。
身近なところでは、ZOOMなどを利用した「家飲み会」を開催した人達も多いだろう。

「IT」の本来の意味である「情報技術(=information technology)」だけではなく、「興味や関心を広げる技術(=interest technology)」であり、それが「物理的・心理的距離を縮めるツール」にもなると、実感したのではないだろうか。


 


「コロナ禍後」の問題は、経済だけの問題ではない

2020-05-21 21:03:15 | マーケティング

定期的にチェックをする雑誌のWEBサイトがある。
その一つが、VOUGE japanだ。
そして今日チェックをしていたら、少し驚いた。
ご存じのように、VOUGEという雑誌はファッション誌だ。
そのファッション誌に「資本主義」に関するコラムがあったからだ。
VOUGE japan:資本主義以外のオルタナティブはないのか?マーク・フィッシャー「資本主義のリアリズム」が放つメッセージ

記事自体は4月17日に掲載されていたモノなので、1ヵ月以上古く「ブックレビュー」という形態なので、VOUGEの読者が積極的に読むのか?という点においては、言及を避けたい。
ただ、「ファッションと資本主義」という、相容れないような二つの言葉が並ぶということに、「今」という社会を感じさせるのだ。

確かに社会を映す鏡のような役割を「ファッション」もまた、果たしてきたと言っても過言ではないだろう。
第2次世界大戦下では、どの国の女性たちも着飾ることを止め、動きやすいだけではなく、色彩も暗い色の服を好むと好まざるとにかかわらず、着ていた。
もしかしたら、今の「新型コロナウイルス」の世界的流行は、第2次世界大戦中と似た社会的雰囲気があるのかもしれない。
それは「自由な市民生活ができない」という点で、共通しているのかもしれないという気がするのだ。

政府によって様々なモノ・コトが統制されるため、戦時下では「資本主義」などという経済の在り方は、どこかへ行ってしまう。
その状況と似ていると考えれば、今改めて「資本主義」を考えることは、重要だと言えるだろう。

しかし、マーク・フィッシャーは「これまでの資本主義」ではなく「これからの資本主義」が必要なのではないか?という指摘をしているように感じるのだ。
というのも今現在「資本主義」と相対する経済の在り方が「社会主義(あるいは共産主義)」であり、「社会主義(あるいは共産主義)」を標ぼうしていた国々の多くが、立ち行かなくって来ているからだ。
少なくとも「資本主義」はベストではないが、他よりも良いということなのだと思う。

だからこそ考える必要があると思うのだ。
今の「資本主義に足りないモノとは何か?ということを。
それが「経済以外の問題」ということではないだろうか?
違う言い方をするのなら「社会的弱者」という視点を加えた、「資本主義」だ。
そして「利益のみ」に価値を見出すのではなく、「公正さや誠実性」等に価値の重点に置き換えることが「コロナ禍後」の「資本主義」のような気がする。


「コロナ禍」下で生まれるイノベーション

2020-05-20 20:02:57 | ビジネス

「新型コロナウイルス」感染拡大の為に、自粛指示によって次々と中止になっている「スポーツイベント」に新しい「観戦スタイル」を提案するかもしれない記事が、読売新聞のWEBサイトにあった。
それが、ヤマハが開発し先日実証実験を行った「リモート応援システム」だ。

ヤマハのプレスリリース:ご自宅でテレビやネット中継を見ながらスタジアムに声援を届ける新技術

このような実証実験がスムーズにできたのは、やはりJリーグのチームが地元にある、ということが大きいのだと思う。
ただ、この実証実験から得られるモノは、多いのではないだろうか?
何故なら、プロ、アマ問わず「無観客試合」という経験そのものが、なかったからだ。
この春無観客で行われた大相撲も、力士たちからは「見に来てくださるお客さんの声援が、大きな力になっていた」と、異口同音のように話をしていた。
それだけ、大相撲を含めスポーツには「選手を応援する歓声」が、試合を演出する大きな要素である、ということなのだと思う。

しかし、現実にはスポーツ観戦に行きたくてもいけないという人達は、たくさんいる。
リリースの中にあるように、病気やケガなどの身体的な理由の人たちもいれば、サッカーなどの代表戦のように試合会場が遠い為行きたくてもいけない、という時もある。
メジャーリーグや海外サッカーのファンにとっても、それは同じかもしれない。
身近なところでは、テレビ中継が少ないと言われる「パリーグ」のファンにとっても、嬉しいシステムかもしれない。
そのような「地理的距離」を縮めるという点においては、このような「リモート観戦システム」は、とても有効だろう。

ただ、リリースの中にある「音楽フェス」となると、ハードルが高そうだ。
それは、ステージ上のミュージシャンと一体になり、他の観客同じリアクション(?)などがあるため、「音楽フェス」に参加している実感が得られないのでは?という、気がしたのだ。
むしろ歌舞伎の「大向こう」のような声掛けなどがある舞台などには、向いているかもしれない。
アプリの内容によっては、海外のクラシックイベントを自宅で見ながら拍手をする、ということも可能なのかもしれない。
リモートで美術館の学芸員が、美術館内の作品を説明しながら、画像を見ている人からの質問に答えたりすることも、可能となるかもしれない。

もう一つ考える必要があるとすれば、それは「収益=マネタイズ」という点だろう。
youtubeなどで見られる「投げ銭」のような方法もあるだろうし、ゲームと同じように「課金」という方法もあるかもしれない。
視聴予約をする時に「観覧費」という課金の仕方もあるだろう。

そしてこのような「リモート観戦システム」は、「コロナ禍後」も社会の中でも、使われていくシステムのような気がする。
それは上述した通り「距離を縮める」システムだからだ。
「自粛」とか「3密」によって、人が集まることができなくなったことで、このようなイノベーションも生まれる。
イノベーションは「社会の問題は何だろう?」と、考えることから始まるのかもしれない。


安倍内閣が、「検察庁法改正法案」を見送った理由を、考えてみる

2020-05-19 19:43:05 | アラカルト

このところ世間の話題となっていた「検察庁法改正法案」が、見送られる見通しとなった。
朝日新聞:首相、検察庁法改正案の今国会成立を断念 世論の反発を受け

実は、このニュースを聞いたとき本当に安倍さんは、「世論の反発」を感じて国会成立を断念した訳ではないのでは?という、気がしていた。
事実、今日の朝日新聞には、森法相が「現行案のまま成立を目指す」という、意向が掲載されている。
朝日新聞:検察庁法改正、現行案のまま成立めざす姿勢 森法相

ではなぜ、見送ったのか?というと「内閣支持率」が低下し続けているからだ。
Bloomberg:安倍内閣支持率33%に低下、6割超が検察庁法改正案に反対ー調査

Bloombergの記事の元が、朝日新聞なのでこのような厳しい数字が出たのかもしれないのだが、いわゆる「危険水域」と呼ばれる30%以下に近づいているのが、今の内閣支持率ということになる。
もちろん、この調査が朝日新聞ではなく、讀賣や産経であればもっと違う支持率となるのかもしれないが、いずれにしても「政権運営」の柱の一つとなる「内閣支持率」の低下は、安倍政権にとって危機感を持たせるには、十分だったと思う。

安倍さんにとって「支持率」の内容よりも「支持率」そのものが重要であり、「危険水域」と呼ばれる内閣支持率がこれまで以上に下がってしまうと、自身の保身にも影響が出てきてしまう。
それだけではなく、「安倍さん支持者」と言われている作家の百田さんなども、批判的な言葉を言うようになってきた。
「安倍シンパ」と呼ばれる人たちからの、批判は安倍さん自身にとってショックだったのでは?と、想像するのだ。
安倍さんからすれば「裏切られた感」があったのでは?と、想像してしまうのだ。

もう一つ理由があるのでは?と、考えている。
それが「今は新型コロナで大変な時期なのに、不要・不急だと思われる法案を今通す必要があるのか?」という、「抗議」の意見だ。
この抗議の内容から読み取れるのは「法案には反対しない。ただ今は時期が悪い」ということだと、受け止めているのでは?ということなのだ。

確かに「不要・不急の法案」と言われてしまえば、1,2カ月して「新型コロナウイルス」終息の兆しが出るまで、議論を伸ばせば、法案が通るだろうと判断してもおかしくはない。
法案そのものに反対をしているわけではない、と安倍さんが考える可能性が高い。
だからこそ、森法相の「現行の案を通す」ということになるのだ。

これらのことを考えると、上述した通り「支持率が低下しているのは、新型コロナという『感染症拡大』によるもの」と考えているだけで、支持率低下の本当に意味は理解していないし、当然失策に対する反省も失策から学ぶことも無いだろう、「#検察庁法改正に抗議」の狙いと目的も理解していないのでは?思っている。



何故政府は、国内の中小企業にマスクや医療用ガウンを、依頼しなかったのだろう?

2020-05-18 21:11:01 | アラカルト

朝日新聞のWEBサイトに、「何故、政府は日本の中小企業に医療用ガウンなどの依頼をしなかったのだろう?」と、疑問に感じる記事があった。
朝日新聞:パリコレで活躍する匠の技 町工場が医療用ガウンづくり (ビデオ映像につき音声あり)

この記事では、4月に経産省からの打診があり、医療用ガウンをつくることになった、ということだが「材料費や経費などを除くとほとんど利益が無い」ということらしい。
おそらく取り上げられた町工場だけではなく、全国の縫製工場で同様に作られているはずだが、どこの縫製工場も似たような条件での依頼ではないか?と、想像することができる。

これまで安倍政権になってから、大企業に対しての様々な経済政策がされてきたが、中小零細企業に対しては冷たいほど具体的な政策がされていない。
今回の「コロナ禍」に対する経済政策でも、大企業向けの内容は大々的に発表されたが、中小企業向けとなるとその告知は、とても小さいもののように思える。

高度成長期の日本であれば、大企業の下には下請け・孫請け・曾孫請けという大きな「ものづくり工場」があった。
そのため大企業に対する経済政策が、曾孫請けまで行き届いていた。
しかし「経済のグローバル化」が言われるようになると、大企業は人件費の安い海外へと生産拠点を移すようになった。
もちろん、米国との経済摩擦などにより「現地法人」をつくることで、経済摩擦を避けるという目的もあったはずだ。

それが今回のような「グローバルな感染症」が起きてしまうと、海外へと生産拠点を移したことで工業部品が入ってこない、などの問題が起きてきた。
それは、医療用ガウンやマスクなどについても、いえることだろう。
実際、ドラッグストアーからマスクが消えた時、言われたコトが「日本国内で消費されているマスクのほとんどが、中国からの輸入」ということだった。
メーカーそのものは、日本のメーカーであっても生産そのものが、中国であったために輸入がストップしてしまうと、いきなり「モノ不足」という事態が発生してしまったのだ。

とはいうものの、この記事にあるように日本の中小企業の持っている技術には、高いものがある。
取材対象となった縫製工場は、世界のファッションのトップといわれるパリコレで発表される服を、縫製している。
プレタポルテと呼ばれる「既製服」は、コレクションで発表されれば、世界中のバイヤーがブランドに発注をする。
当然、服を発注された枚数だけ同じように高品質の縫製で納品しなくてはならない。
写真で見た「医療用ガウン」にしても、そのシルエットの美しさ(=着心地の良さ)などは、流石!という印象を持った。
それは「医療用マスク」等についても、同じだろう。

それほど「高品質」な医療用ガウンやマスクが日本国内で生産できる中小企業があるのであれば、何故「アベノマスク」には、466億円のお金をかけ、不良品が大量に出るとその検品に800万円のお金をかけているのに、海外でつくる必要があったのだろうか?
それだけの費用を、国内の中小企業に向けたほうが「コロナ禍後」の経済活動につながるのでは?と、考えるのだ。


「コロナ禍」以降のことを考えてみる

2020-05-17 16:41:58 | ライフスタイル

全国に出されていた「緊急事態宣言」が、39県で解除された初めての週末。
百貨店などは、まだ完全営業とは言えないようだが、来週になれば営業を再開する百貨店も多くなるだろう。
百貨店だけではなく、飲食店などでも「ソーシャルディスタンス」を考えた、営業再開ということになるのでは?と、思っている。
このように、少しづつだが「日常」を取り戻していくのかもしれない。

「日常」を取り戻す生活が始まる一方で、「本当に必要なのだろうか?」と疑問を感じることもあった、「緊急事態宣言中の巣ごもり生活」だったようにも思う。
その一つが「リモートワーク・テレワーク」という、仕事のスタイルだ。
もちろん、出勤をしなくてはならない職業・職場は数多くある。
しかし、いわゆる「事務仕事」と言われる仕事の内、「自宅でも仕事ができるのでは?」という意識を持たれた方も少なからずいらっしゃるのでは、無いだろうか?

それだけではなく「(部下の)管理をする」という役職の立場だった方々からすると、「リモートワーク・テレワーク」によって「管理する相手」が目の前から姿を消した、という状況になったはずだ。
となると「(部下を)管理する」という、仕事の位置づけそのものが変わってしまう。
変るだけならまだ良い。職務として必要が無くなるということにもなっていく可能性もある。
違う言い方をするなら、「職場にいる時間≠仕事をしている時間」ということになり、「成果」によって仕事の内容が判断される、ということになる。
その「成果基準」が、誰にでも分かりやすく納得できるものが求められるようになる、ともいえるのが「コロナ禍後」の「リモートワーク、テレワーク」ということになるだろう。

と同時に、これまでの「役職や肩書」というモノが、通用しなくなる可能性もある。
「役職や肩書」というものを、出世の目安だと考えてきたサラリーマンにとっては、大きな意識改革を求められるのも「コロナ禍後」の社会ということになるかもしれない。
これまでの「役職や肩書」の意味が、変わってくるということになるかもしれない。

もう一つ、生活者の意識が変わるとすれば、「人と会う」ということの意味が、これまでとは違ってくるかもしれない。
「リモートワークやテレワーク」という、通信画面によって人と会う機会が増えれば増えるほど、直接人と会うということが貴重な経験となり、それが「特別な時間」という位置づけとなる可能性もある。
それはプライベートであっても、仕事であっても同じだと思う。
むしろ「人のぬくもりを感じる時間・ツール」というものが、これから先どのように提供されていくのか?そのコトを考える必要があるかもしれない。

「コロナ禍後」に社会が、今と急激に変るとは思わない。
ただ「コロナ禍中」に起きた、社会変化によって「コロナ禍前」とでは変わっている、という意識を持つ必要があるのでは?と、考えている。