明日で、私たちの生活を大きく変えた、2020年という年が終わる。
昨年の今頃は、「コロナ禍」でこれほどの社会変化が起きるとは、想像もしていなかった。
それが現実の問題となり、様々なリーダーたちの発言が注目される1年でもあったように思う。
それは国のリーダーだけではなく、企業においても同じだったはずだ。
そのような1年を締めくくる今日の日経新聞のWEBサイトに、興味深い記事があった。
日経新聞:「知の巨人たち」コトラーがドラッカーから得た学び
コトラーもドラッカーも、ビジネスパーソンであれば、一度はその著書を手に取ったことはあるはずだ。
私も考えに迷ったときなどは、コトラーやドラッカーの本を再読している。
再読しながら、思考を深めるということを繰り返すことで、一つの道標を見つけることができる気がするからだ。
だからと言って、コトラーもドラッカーも難しいことを書いている訳ではない。
訳者の力もあるとは思うのだが、平易で分かりやすい言葉で書かれている。
だからこそ、普遍的な内容であり時代が変わっても、ビジネスの基本を思い出させてくれるのだ。
この記事の中で、日本のビジネスパーソンの中には「ドラッカーは既に過去の人」のような捉え方をしている方がいる、という部分がある。
確かに、HOW TOを求めている人にとって、ドラッカーの本にはHOW TO となる回答は用意されてはいない。
それはコトラーについても、同じだろう。
だからこそ、受け手となる読者が思考を深め、今の問題の本質を見つける手立てとなるのだ。
むしろHOW TOばかりを求めていれば、そのHOW TOそのものが既に陳腐化していることに、気づかないのではないだろうか?
ドラッカーが何度も指摘をしている「イノベーション」とは、HOW TOから生まれるものではない。
社会の問題をみつめ、解決するためにはどうしたらよいのか?という、思考の繰り返しの中から見つけられるモノなのではないだろうか?
それだけではない。
「イノベーション」とは、オリジナルな発想からしか生まれてこないのではないだろうか?
HOW TOのような、既に誰かが見つけた手順を繰り返しても、それは「誰かの成功例」をなぞるだけで、「イノベーション=変革」をおこすことにはならないはずだ。
昨日エントリしたように、今年起きた最大の社会的危機「コロナ禍」によって、これまでのようなHOW TOや前例踏襲では、太刀打ちできないことが分かってきた。
「ビジネスを止めずに、今できることとは?」と考えた時、たどり着いた一つの方法が「リモートワーク」であったり「ZOOM」等を利用した会議やミーティングだったはずだ。
この秋ごろから盛んに言われるようになった「DX(デジタル・トランスフォーメーション)」などという、カタカナ語に惑わされることなく、自分たちの事業分野の中でどのような変革ができるのか?それが、どのように社会に貢献できるのか?ということを、考えることが重要になってきているはずなのだ。
このような変革の時代だからこそ、普遍的な知の巨人たちの智恵を借りる必要があるのでは?と、感じている。
今年1年、ありがとうございました。
今年ほど「社会の変化・生活者の変化」を感じた年は、なかったように感じている。
と同時に日本のトップが口にした「自助」ではなく、「利他による助け」が認識された年でもあったような、気がしている。
日本のトップたちが「自助」という言葉を使う限り、効果的な「コロナ対策」は出せないだろうし、出す気はないだろう。
そんなことを認識した、1年でもあったように思う。
日本に大寒波が覆っているようです。
くれぐれもお大事に、そして良いお年をお迎えください。
明日になれば、東証の「大納会」がある。
「大納会」で今年の株式相場から見た「日本の経済状況」が、どのようなモノであったのか?ということがわかる日だともいえる。
「株価=日本の景気」ではないが、一つの目安となるだろう。
「新型コロナ」の感染拡大により、日本だけではなく世界中の株価が下がった。
日本の場合、多くの生活者が感じている「景気実感」と「株価の動き」が、連動しているとは言い難い状況ではあったが、「新型コロナ」の感染拡大によって、敏感に反応したのは株価であった、ということを考えれば「株価」もまた、社会を移す鏡の一つ、ということになるだろう。
そして「コロナ禍」によって、これまで「なんとなく思っていた懸念」が、表面化したことも確かだろう。
その一つが、「コロナ禍」によって、女性の自殺者が急増した、という点だ。
これまで、年間の自殺者数の内訳をみると男性の方が女性よりも多い傾向があった。
今でもその傾向は大きく変ってはいないのだが、「コロナ禍」によって女性の自殺者が急増したのだ。
男女比の問題ではなく、これまで「自殺者が少ない」とされてきた女性の急増の背景には、女性が置かれてきた「経済的問題」が大きいという指摘がある。
ご存じのように、女性が多く働く職場の多くが「コロナ禍」によって、大打撃を受けた業種が多い。
業種の問題だけではなく、雇用形態そのものも不安定な非正規雇用であったため、「コロナ禍」により一番最初に職を失うこととなったのが、女性であったということなのだ。
20年以上前のように、奥さんがパートに出て家計の足しにしているのではなく、シングルマザーとして家計を担っている女性も多くなってきている反面、その女性たちの多くが非正規雇用という働き方をしている、という現実がある。
その結果として、いつ収束し安定して働けるような環境になるのか分からない状態で、経済的不安が募り自死を選ぶ女性が多かった、ということになると思う。
これまで「雇用調整の一つ」と考えられていた「非正規雇用」という働き方が招いた、社会的悲劇と言えるかもしれない。
それを「自己責任」と切り捨ててしまうには、社会として問題だろうし、改めて「経済弱者」と言われる収入が不安定な人たちを「雇用調整の一つ」として扱う企業の責任はどうなのか?ということも露わになったような気がする。
それだけではなく、これまでビジネス本などに書かれていた「HOW TO」や「前例踏襲」のような、方法論が全く通じなくなった1年でもあったような気がする。
それは、数年前一時話題になった「ノマドワーカー」と呼ばれた働き方が、カタチを変え「リモートワーク」として、定着したこともその一つだろう。
もちろん「ノマドワーカー」のような、カッコ良いイメージは「リモートワーク」にはないし、現実は個人の時間や仕事の成果(あるいは到達・達成)などの管理の難しさなどがあったが、「出勤して仕事をする」という意味そのものが、問われるようにもなった。
言い換えれば「オフィスが、必要なのか?」ということまで問われるようになった、と言っても良いかもしれない。
今年1年で起きた様々なことを考えると、これまで当たり前だと思っていたことが、「当たり前なことなのか?」という疑問符が打たれた年でもあったし、価値観や人の行動そのものを「コロナ禍」によって変えざる得ない年でもあった。
逆に考えれば、今年経験したことをどのようにとらえ、問題意識を持つことによって、来年以降のビジネスの展開が大きく変る、ということにもなるだろう。
海外とのビジネスを展開するにしても、海外に拠点を置くのではなく海外に住むスタッフとリモートで仕事や問題点などを共有し、展開をするということも可能になるのではないだろうか?
それは国内でも同じで、東京でなくてはできない仕事なのか?と、突き詰めて考えた時「東京である必要は無い」と、考える企業も出てくるかもしれない。
「コロナ禍」は、私たちの価値観やこれまで当たり前だと思ってきたことを、大きく転換させる外部的圧力だったのかもしれない。
先日から自民党幹事長の二階さんの「会食」について、色々な意見が出ている。
特に「新型コロナウイルス」の東京都の感染者が、連日「過去最高」という数字を更新していた時期であったため、重症化リスクが高いと言われている高齢の政治家が集まって、食事をするということ自体「感染予防の意識が無いのでは?」という声が相次ぎ、「政治家自身が、感染予防をせずに会食をしているのに国民に『自粛』を要請するのは、本末転倒」という指摘もされている。
このような指摘や声に対して、昨夜二階さん本人が「会食が目的ではない」という趣旨の話をしている。
東スポ:二階幹事長”会食”そのものを否定「8人で会っただけ」「飯を食うために集まったんじゃない」
スポーツ紙をリンク先に選んだのは、同席をしていたみのもんたさんのコメントがあったからだ。
ただ二階さんの言い訳は、苦しいものがある。
ステーキ店で集まれば、当然「食事」をするはずだ。
食事をせずステーキ店に行けば、ステーキ店側からすれば迷惑この上ない。
食事をするために集まっていないのであれば、議員会館などの会議室でも十分だろう、という指摘もされているようだ。
何より、今年「新型コロナウイルス」の感染拡大によって、多くのビジネスパーソンは「ZOOM」等による「ネットワークミーティング」をすることになり、それが「ZOOM飲み会」へとプライベートにまで活用されるようになった。
二階さんほどの年齢ではないにしても、「ZOOM」を使うために四苦八苦された中高年も数多くいて、今では当たり前のように使いこなされているのではないだろうか?
二階さんをはじめ「会食」に集まった人たちが「ZOOM」を使えなくても、セッティングを秘書などにサポートしてもらえば、問題なかったはずだ。
そのような発想もなく「人と会う時はホテル内の飲食店や料亭」という、古い政治の固定概念から抜け出していなかった、ということを露呈させただけだったのかもしれない。
当事者たちは、そのようなことにすら気づいていないだろう。
ちなみに、みのもんたさんのコメントにあるように「政治や社会などの話はしていない」とすれば、「世間話をするために集まった」だけで、二階さんが言われるような「意見交換」という内容ではなかったのではないだろうか?
そもそも「会食」とは、その字の通り「会って食事をする」ということなので、二階さんの発言は苦しい言い訳にしか聞こえない。
だが、この二階さんの発言に限らず今年は、政治家の醜い言い訳が目立った年だったように感じている。
それは安倍前総理の「モリカケ・桜」に始まり、「アベノマスクの業者選定」など「新型コロナウイルス対策」についても、他人事のような口調でいざ本題に迫ろうとすると、のらりくらりと言い訳のような回答しか出てこなかった。
特に先日の安倍前首相の「桜を見る会前夜の会」にまつわる釈明会見だろう。
終始「私の監督不行き届き」と言った趣旨のことを言いながら、「秘書がやったこと」という言葉は「既視感」があり過ぎる場面であり、国会答弁での発言との相違箇所は100を超えた。
これほど醜態を晒した政治家の姿は見たことが無かったのでは?というほど、責任感が感じられない発言が多く、言い訳とは言えないような「ツッコミどころ満載感」のある政治家の発言が目立った1年だったような気がする。
今年を振り返った時、新聞やニュースなどで一番多く取り上げられたのは、「新型コロナウイルス」に関連するものだろう。
今年の漢字一文字も「新型コロナウイルス」に関連した、「密」という漢字だった。
「新型コロナウイルス」が与えた影響は、社会だけではなく、むしろ経済に与えた影響が強かったのでは、ないだろうか?
と同時に、各国の首相の対応やメッセージ力というモノも、注目を浴びることになった。
クリスマス休暇を前に、ドイツのメルケル首相が感情も露わにした「自粛」のメッセージは、これまでの冷静なイメージのメルケルさんからは想像もできないほどの、熱の入った内容だった。
だからこそ、ドイツ国民だけではなく映像を見た日本を含めた諸外国の人々の心に、響いたメッセージだったような気がしている。
言い換えれば「新型コロナウイルス」に翻弄された一年だったのだが、この年末にサントリーが「視点を変え、希望をもとう」というCMを公開している。
youtube:サントリー「2020年の希望」篇90秒
バックに流れる楽曲は、ご存じベートーベンの第9番「歓喜の歌」の英語ヴァ―ション。
そして歌っているのは、今年ストリーミングチャートで年間首位を獲得したYOASOBIの幾田りらさん。
幾田さんの美しい歌声と映像がマッチしている。
そして「新型コロナウイルス」の感染拡大で、忘れてしまっていた「日常」が「コロナ禍」の中にもあり、その中には「次への希望」がある、と気づかせてくれているような気がする。
先日知人と話しをしていた時、その知人が中々興味深いことを話していた。
それは「窓から見える風景が、人によって違う」という話だった。
「コロナ禍」で、多くの人は俯き下ばかりを見る生活になってしまったように思う。
当然「窓から見える風景」は、明るいものではないはずだ。
しかし顔を上げ、空を見ている人には全く違う風景が見えているはずだ。
その方は「窓から見える風景」と、表現をされたが違う言葉にするなら「気持ちの持ちよう」ということなのかもしれないし、違う視点で考えること、ということになるのかもしれない。
その「窓」の話を聞きながら思い出したことは、キリスト教における「窓」は「イコン」と呼ばれ、英語にすると「アイコン」になる、ということだった。
私たちがほぼ毎日のように使っているPCに表示される「アイコン」は、作業への入り口だ。
とすれば「違う窓」を見ようとすることで、これまでとは違う発想、視点が生まれてくるはずだ。
それは特別なモノではなく「日常の中にある」のように思えるのだ。
この年末、来年に向かって少しでも顔を上げ、空を見ることで、「日常の中にある希望の窓」が見えてくるかもしれない。
サントリーのCMは、そんなコトを気づかせてくれたような気がしている。
昨日の朝日新聞に、興味深い記事があった。
「新型コロナウイルスを99.99%不活性化」という記事だ。
朝日新聞:コロナを「99.99%」不活性化 殺菌用LEDを量産へ
この殺菌用LEDを開発したのは、LEDの量産化で一躍注目を浴びた日亜化学工業だ。
元々LEDの研究開発では、日本は技術が高い。
ご存じの方も多い、ノーベル物理学賞を受賞した名大の赤崎教授と天野教授が共同で「青色LED」の研究・開発を行い、量産化したのは当時日亜化学に勤務し、現カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授となっている中村修二教授によるものだ。
量産化という点では、日亜化学には一日の長がある、ということになる。
LEDではないが、特定の紫外線を照射することで新型コロナウイルスを「不活性化させる」という研究は、神戸大学とウシオ電機との共同研究・開発が進んでいる。
神戸大学:222nm紫外線の人体皮膚への安全性と殺菌効果を立証ーこれまでにない新たな感染症予防・治療開発へ
今世間の注目は「新型コロナワクチン」へと向かっていると思うのだが、日本の場合諸外国に比べ「ワクチンアレルギー」のようなものがある(ように感じている)。
それは日本人特有の「安全」に対する意識のハードルが高いからなのでは?と思っている。
「ワクチン接種」に関していうなら、「副反応」と呼ばれる接種後の倦怠感や微熱が起きただけでも、世間は騒然とする傾向がある。
今回の「新型コロナワクチン」にしても、ファイザーが開発したワクチンによりアレルギー反応を起こした人数に注目された報道があったようだが、「副反応」が起きた割合からすれば安全性が認められたワクチンとほぼ変わらない。
あくまでも、ワクチンの安全性は「0か否か」という物差しで見ている訳ではないのが医療者や製薬メーカーの考え方なのだが、日本では「(副反応などは)起きてはならない」と考えている人が多い、というのが現実だろう。
そのように考えると、日亜化学が量産化を目指しているようなLEDによる殺菌システムや神戸大学とウシオ電機が共同が研究開発を進めているような、汎用性が高く人畜無害であるということが立証されたシステムのほうが、受け入れられやすいのではないだろうか?
それだけではなく、クラスターが発生しやすい場所と言われている、トイレや浴室の脱衣場などには、このようなシステムは導入しやすく、大きな設備投資も必要ではない。
国としては「ワクチン」の確保は、第一命題となっているのは分かる。
ただ、日亜化学や神戸大学とウシオ電機が共同研究開発を進めているような事業に対しても「新型コロナ対策費」を充てて欲しいのだ。
少なくとも「Go Toキャンペーン」の費用を削ってでも、このような予防策に力を入れて欲しい。
特にオリンピック開催を目指すのであれば、選手たちが安心できる環境を提供するためにも、このような殺菌システムを積極的に活用することを検討する必要があるのではないだろうか?
昨日、武田良太総務大臣が、NHKの受信料徴収について「郵便局を利用することで、人件費を軽減したい」という趣旨の発言があった。
日経新聞:NHKの受信料徴収「郵便局の活用を」総務相
武田総務大臣が言った「郵便局の利用」というのは、近所にある郵便窓口での支払いのことではなく、かんぽ生命などの契約をするために戸別訪問をしているかんぽ生命などの社員のことを指しているようだ。
そしてこの報道に対して、Yahoo!などでのコメントは冷ややかな内容が多かった。
理由は、ご存じの方も多い契約に関するかんぽ生命の不祥事があったからだ。
このような不祥事をおこす組織に、受信料の徴収を委託すること自体、問題ではないか?という、指摘が数多くあったようだ。
一度起きてしまった不祥事は、信頼回復の為に必要とされる時間は長く、いつ終わるとも分からないことも多い。
Yahoo!のコメントなどは、信頼回復の難しさを表している。
NHKの受信料の話がNHK側だけではなく、放送事業を管轄する総務省などからも「受信料の未払い」についての話題が時折出てくる。
それに対して「受信料を払っていない世帯が受信できないように、スクランブル放送にしてくれ」という声も、再三出てくる。
技術的なことはともかく、NHKそのものを視聴していない人たちからすれば「見てもいない番組に対して、受信料を支払う必要はあるのか?」という、疑問があるのは当然だろう。
何故なら「NHKの電波を受信していない」からだ。
そのような声に対して、NHK側は「放送法でテレビの受信機を取り付けた場合、受信契約をする」という、「放送法」を持ち出して「不払いを止める」ように勧告をしているのだ。
このようなやり取りが、これまで延々と続いてきているのは、ご存じの通りだと思う。
ただ、このやり取りにどこかチグハグさ加減を感じる人は多いのでは、ないだろうか?
まず、チグハグさを感じる要因の一つが、NHKと総務省側が主張している「テレビの設置=受信料支払いの契約が成立する」という点だ。
これは上述した通り「放送法」という法律で決められているので、「テレビの設置=受信料の支払い」ということになるのだが、テレビを購入した人の多くは「テレビは購入し設置したが、契約書など見たことが無い」という感想を持つのではないだろうか?
実際、テレビを購入し設置しても、NHKの受信契約書なるモノは、添付されてはいない。
「契約書が無いのに、契約をした」というのは、問題ではないか?という主張もできるはずだ。
ただこの件に関しては、最高裁だったか?NHKの主張が認められたような記憶がある。
そして「NHKを受信していないのに、受信料を支払う」ということに、疑問を感じられる方も多い。
この疑問を感じられる方々の多くが、「スクランブル放送の実施」ということを言っているのでは?と、考えているのだが、「NHKを受信していない」という人の中には、「テレビでテレビ番組を見ていない」という人も少なからずいらっしゃるはずだ。
特に若い方などは、テレビをゲーム機につないで、ゲームをされている方も多いはずだ。
このようなテレビの使い方をする人にとって、「テレビ」そのものの考え方がNHKや総務省が考えている、テレビの使い方とは全く違う。
この点は、NHKが目論んでいる(?)オンライン放送との関連も出てくる。
オンライン放送が「テレビの受信に代わる方法」として、NHKが考え受信料を請求してくるようになると「オンライン放送とは何か?」というところから、考える必要があるのではないだろうか?
NHKや総務省の主張しているような考えは、これまでの「テレビを設置すれば、受信料を支払う契約を行ったと考える」をオンライン放送で適用できるのか?と言えば、そもそもオンラインの目的はテレビ番組を視聴するためのシステムではないため、これまでのNHKと総務省の主張との整合性に疑問符がついてしまうからだ。
テレビという道具は、テレビ番組を受信するための道具だからこそ、NHKや総務省の主張がなんとなく通ってきた。
しかしオンラインはテレビ番組を受信するためのシステムではないし、今ではテレビという道具そのものが、テレビ番組を受信するためだけの道具ではなくなってきている。
NHKや総務省は、「今テレビはどのような使われ方をしているのか?」というところから、発想を変えていかないと生活者からの支持は。ますます得られなくなるだろう。
その根本的な問題に目を向けることなく、昭和20年代のテレビ創成期の頃と変わらない主張を続けるのであれば、NHKそのもの体質が昭和20年代から進んでいない、ということになる。
「濡れ手で粟」のようなビジネスをこれまで60年以上してきたため、「道具としてのテレビの使い方の変化」が分からないのだろう。
先週末から日本全体を今シーズン初の大寒波が襲っている。
関越自動車道などでは、2千台以上のクルマが雪に埋もれ動くことができなくなった、というニュースもあった。
今は、解消されたようだが、ここ10年くらいの暖冬で対応が遅れたのかもしれない。
いずれにしても、自然の猛威は人智の及ぶところではない、ということを痛感させられた。
今日の朝日新聞を見ていたら「新型コロナウイルス」が変異し感染力が強くなり、再び猛威をふるっているという記事があった。
朝日新聞:感染力7割増し、欧州各国でもコロナ変異株 英国から
この記事だけを見ると、戦々恐々という気分になる方も多いのではないだろうか?
実は、既に日本でも「東京型」と呼ばれる「新型コロナ」の変異が認められた、という報道がある。
日刊ゲンダイ:コロナ第3波の元凶は「Go To」だった!国立感染症研究所のレポートでエビデンスが
日刊ゲンダイの記事の見出しが「Go To」になっているため、「東京型」云々というまでわかりにくいのだが、国立感染症研究所のレポートの中には、第2波の時点で既にRNAの変異による「東京型」と呼ばれるタイプの「新型コロナウイルス」が誕生しており、現在の第3波はその「東京型」によるものが、全国各地で見つかっている、という内容だ。
だからこそ「Go To」による感染拡大の確認=エビデンスが判明した、という内容だ。
これらの記事を読みながら、感じたことがある。
記事の中にはRNAや遺伝子情報など、日ごろ私たちが耳にしないような言葉が数多く出てくる。
日ごろ耳にしない言葉=知らない言葉に「感染力7割増し」等の言葉が付くと、不安ではなく恐怖心さえ抱く方も多くなるのでは?という気がしたのだ。
まして、「自分にとって有利だと思う情報を選びやすい」という傾向がある。
「有利な情報」の中には、今回のような「命に係わるのでは?」と思われる情報も、優先的に見出しだけでも受け取ろうとする。
むしろ、内容まで確認をしてその情報を理解しようとするのではなく、断片的な情報を繋ぎ合わせ、自分にとって有利な情報整理をしようとするのが、当たり前の行動だとも言われている。
だからこそ、高校生の頃くらいに「ゲノム知識」を教える必要があるのでは?と、思うのだ。
というのも、今回の「新型コロナウイルスの変異」の仕組みが分かれば、必要以上に不安に感じたりしないのでは?という、気がするからだ。
「新型コロナウイルス」に限らず、風邪のウイルスはRNAの変異だと言われている。
RNAはDNAと違い、二重らせん状態のものではない。
DNAが梯子に4種類の塩基が並んでいるのに対して、RNAは梯子の片方が無い、とても不安定な状態。
だからこそ、短期間で変異しやすくなるのだ。
(このような知識を得るようになったのは、私が乳がんになり、より良い治療を選択するために必要だと考えたことで様々な本を読んだ結果だ。私の場合ゲノム云々を必要とするほどの状況ではなかったのだが・・・)
私が高校生だったころは、ヒトゲノムそのものが全く分からない時代だった。
だからこそ「感染症」に対して、必要以上に不安感を持ち注意深くなった。
「ヒトゲノム」そのものが解読された今、DNA=遺伝子情報などについての知識を高校生位の頃からしっかり理解することで、必要以上に不安感を抱いたり恐怖心を持つことなく、リスクマネジメントとして注意深い行動ができるようになるのではないだろうか?
Huffpostを見ていたら、「それは、当然だよね」という、記事があった。
Huffpost:富裕層への減税は社会のため?いいえ、富むのはお金持ちだけでした。最新研究が「トリクルダウン」を否定
「トリクルダウン」という発想は、18世紀の精神科医が提唱した考えだったようだ。
経済とは全く関係のない(とは言い切れないかもしれないが)精神科医が提唱した「富裕層が潤えば、消費されるお金が増え、まわりまわって貧困層にまでお金が行き渡る」という発想は、一見「なる程な~」と思わせるモノがあるが、現実的には「あり得ない!」と感じる人のほうが多いと思う。
18世紀の頃であれば、今のような複雑な金融商品もないため、単純に「お金の流れ」ということにだけ着目したのかもしれない。
不思議なのは、18世紀の頃と今とでは全く違う経済状況であるにもかかわらず、米国をはじめ先進諸国と言われる国々でこのような「トリクルダウン」という発想に基づいた、富裕層や大企業に対しての減税政策を続けている、という点だ。
一部では「富裕層に対して、増税をするとタックスヘブンと言われる「租税回避地」へお金を移してしまう(国内のお金が逃げる)ことを懸念して、減税をする必要がある」という意見もある。
しかし4年前に発覚した「パナマ文書」等でもわかるように、富裕層だからこそ「タックスヘブン」へ逃げる方法を知っていて、実行するだけのお金がある、ということが判明した。
富裕層であれば、それなりの「金庫番」のような税務に詳しい人物を雇い、自分の手を汚さずにタックスヘブンへお金を移させることも可能だろう。
そのような手段を持たない人たちに、税収の大半を背負わせるのは、ある意味「不公平」な税のありかた、ということになる。
それだけではなく、トマ・ピケティの「21世紀の資本」では、現在の富裕層の多くは彼らが働いて得た資産ではなく、代々引き継がれてきた資産によるものである、という指摘をしている。
「働かずして得たお金」を持っているのが富裕層であり、マルクスの「資本論」の中で述べられている「労働の対価としての賃金」を基に税を支払っているのが、多くの生活者なのだ。
何より米国をはじめとする国々が「富裕層に対する減税政策」をしてきた背景には、政治的思惑もあったのではないだろうか?
特に米国の大統領選などでは、1回の選挙パーティーで億というお金を集めることができる。
多くの場合は少額の寄付なのだが、中には政策内容に応じて富裕層が高額な寄付をすることもある。
そのような高額の寄付は、予備選を含め候補者からすれば、大きな選挙資金となるのだ。
だからこそ、高額な寄付をしてくれる富裕層の顔色をうかがう必要も、あったのではないだろうか?
日本の場合はどうなのだろう?
直近でいうなら「アベノミクス」ということになるだろう。
「アベノミクス」では、富裕層ではなく大企業に対しての減税措置ということになる。
その結果大企業と呼ばれる名だたる企業の多くは、「過去最高の内部留保」を得ることになる。
「内部留保」そのものが悪い訳ではない。
「バブル崩壊」や「リーマンショック」等を経験してきた企業とすれば、「万が一の為に、内部留保を増やす」ことも企業存続のためには、必要だと考えるのも無理からぬ話だからだ。
だが「アベノミクス」の期待は、減税によって企業が設備投資などを積極的に行い、それによって下請け・孫請けなどの中小企業にも仕事が回り、正規雇用者も増え、賃金の上昇だったはずだ。
実際「アベノミクス」の内容を読むと、そのような期待はあったかもしれないが、選挙公約として掲げた時点で「そのようなことは起こらない!」という内容であったコトも確かだったし、拙ブログでも指摘させていただいたと思う。
だからこそ、一部の経済学者から「ドアホノミクス」等と揶揄されることになったのだ。
上述した通り「トリクルダウン」という発想は、18世紀初頭に生まれた考えだ。
社会だけではなく経済の考え方も大きく変えた「産業革命」以前の発想なのだ。
にもかかわらず、今でも信じられてきたということのほうが、驚きであり権力者にとって都合の良い考えなのかもしれない。
今回の研究以前にも「富裕層のトップ62人の資産は、世界の半分36億人の合計と同じ」という指摘もされてきた。
そのような実態を改めて示しただけ、ともいえるかもしれないのだが、今このような状況を是正していかなくては、経済だけではなく様々な「格差」からの「分断」と「抗争」が起きるのではないだろか?
例年であれば、来週の今頃は「クリスマスソング」と共に、街が華やかな雰囲気に包まれているはずだ。
しかし、今年はご存じのように「新型コロナ」の感染拡大により、「自粛生活」を余儀なくされそうだ。
「自粛生活」だからと言って、「家族でクリスマスパーティー」を予定されている方も、少なからずいらっしゃるのでは?と、思っている。
ただ、「クリスマス商戦」真っただ中のはずの今頃、例年見るはずの華やかな海外の有名ブランドの広告を目にすることがほとんどない。
普段とさほど変わらない広告を目にするばかりで、「今年のクリスマス気分は感じられないな~」という、印象を持っている。
特にYahoo!のバナー広告には、例年であればエルメスなどの広告が、表示されていた。
エルメスなどの海外有名ブランドの広告は、ストーリー性があるため1回に表示される広告時間が長いだけではなく、相当作り込まれたある種の「ドラマ仕立て」のような広告なので、つい見入ってしまうことも多い。
そんな経験をされた方も、今まで多かったのではないだろうか?
そのような華やかなクリスマス気分を感じる広告は姿を消し、代わりに表示される広告が「新型コロナ」に関する政府広告であったり、時には製薬企業の広告であったりする。
昨日から日本がすっぽりと大寒波に覆われ、各地で積雪を観測したためか?スノータイヤへの切り替えを勧めるタイヤメーカーの広告なども表示された。
「広告」そのものは、その時々の生活者の気分や気持ちを掬い取り、表現することが多い。
それは、その広告を見ている人たちから「共感」してもらうためだ。
これまでクリスマスシーズンに展開されてきた、海外の有名ファッションブランドの広告は、「クリスマスだからこそ、特別なギフトを贈りましょう」という、生活者への訴えかけだったのだ。
それが「新型コロナ」の世界的な感染拡大により、有名ファッションブランド各社が、広告そのものを取りやめてしまったのでは?という気がしている。
それは、日々の生活に追われる人たちが日に日に増えている状況で、例年通りの華やかな広告を出せば「共感」どころか「不快感」を生活者に与えかねない、という判断があるからだろう。
それでなくても、海外の有名ファッションブランドは、多くの生活者にとって「生活に不急の商品ではない」からだ。
「不急の商品ではない」からこそ、クリスマスのような華やかで家族が集まり、楽しい一時を過ごすホリデーシーズン向きの商品であり、楽しいホリデーシーズンとは言い難い今の状況にはそぐわない商品である、ともいえるだろう。
とはいうものの、華やかさを感じられないクリスマスは、どこか心寂しい。
1日も早く、例年通り賑やかな日々を取り戻すためには、「耐える」ことしかないのだろうか?
海外の有名ファッションブランドが表示されないバナー広告を見ながら、今年の社会的雰囲気の暗さを改めて感じている。
昨日の夕方「Go Toトラベル」の全国的一時停止が、決まった。
期間が12月28日~来年1月11日までという、「お正月休み期間」の「Go Toトラベル」利用停止ということになった。
ただ「遅きに失した」という言葉が、当てはまるような判断の遅さだったように思う。
実際、今日の一部新聞報道などによると、この決定が遅かったことで年末・年始の予約が入っていたホテルなどの宿泊施設などは、その対応に追われている、という記事もある。
日経新聞:新型コロナ Go To一時停止、近畿の観光地落胆 対応に追われる
「近畿の観光地」となってはいるが、同様の対応を迫られているのは、全国の観光地も同じだろう。
停止となる28日の2週間前では、現場となる宿泊施設などの混乱は想像できる。
もちろん「Go Toトラベル」を利用しない宿泊であれば、問題はないので個人での利用に切り替える、という方法もあるだろう。
そのような方法で、「経済を動かす」ということを考えられている方の行動を制限することはできない、と思っている。
今日、「第3次補正予算案」を閣議決定している。
讀賣新聞:Go Toトラベル延長に1兆311億円、第3次補正予算案、閣議決定
やはり注目してしまうのは「新型コロナ対策費」ということになるのだが、こちらの予算は1兆3011億円。
延長される「Go Toトラベル」は、見出しにある通り1兆311億円。
何となく、バランスの取れていない予算配分のように感じるのは、私だけではないと思う。
「観光対策費」としての金額が、多すぎるような気がするのだ。
今回の「新型コロナ」の感染拡大によって、医療の現場が疲弊しているだけではなく、非正規雇用者の多くが職を失ってしまっている。
東京新聞:就業者数93万人減 11年ぶり減少幅 非正規をコロナ直撃85万人減<総務省調査>
「経済を動かし、気兼ねなく観光が楽しめる」という社会環境を整えることが急務である、ということが雇用調査からもわかるはずだ。
職を失った人が、「Go Toトラベル」を利用して観光に出かけよう!という、気分が生まれるとは思えないからだ。
既に多くの生活者が、「感染リスクを考えた生活」をしていることを考えると、自分が感染してしまった時、安心して治療が受けられるという体制づくりがされていないと、日々の生活そのものにも不安が起きる。
そのような生活者の気持ちを考えれば、当然予算配分は違ってくるのではないだろうか?
菅総理の後ろ盾である二階幹事長は、全国旅行業協会の会長をしているので、「Go Toトラベル」を一時的にでも止めることに反対だった、と言われている。
しかし「旅行に行きたい!という気分を創り出すのは、「Go Toトラベル」のようなキャンペーンではなく、「新型コロナ」の収束なのではないだろうか?
今回の「新型コロナ対策」における政府の後手後手ぶりは、生活者よりも業界団体の意向を優先させた結果、その業界団体に関連する現場で働く人たちを混乱に陥れ、業務を煩雑にさせているだけではないだろうか?