日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「フードバンク」か?「残飯処理」か?

2016-03-31 20:32:55 | アラカルト

貧困家庭の子供たちへの「食事支援」として、注目されている「フードバンク」。
その「フードバンク」の在り方を考えさせられるような記事が、毎日新聞に掲載されていた。
毎日新聞:福岡県「売れ残り」貧困の子へ「偏見助長も」現場危惧

数年前から、貧困家庭の子供たちへの食事支援として「こども食堂」と呼ばれる、食事支援が注目されるようになってきた。
これらの「こども食堂」の大きな特徴は、
1.子どもたちが、大人と一緒になって大勢で食事をする
2.暖かい食事が提供される
という点がある。
そのため、地元地域の方たちからの野菜などの提供協力などが、必要と言われてきた。
反面、コンビニやスーパーでのお弁当やお惣菜などは、提供されるという話はあまり聞いたコトがない。
私が知らないだけかもしれないのだが、「こども食堂」の多くは、子どもたちも食事作りを手伝うことで「家庭的な役割」という部分も果たしているのでは?と、認識をしていた。

それに対して福岡県の取り組みは、緊急的な場合であれば問題は少ないとは思うのだが、見方によっては「残飯処理」という、イメージを与えかねない。
このイメージで思い出すのが、今年の節分で大量の恵方巻が売れ残り、処分をされたという写真だった。
excite news:「恵方巻」が問題だらけで、ヤバすぎる 今年も「大量廃棄」と「自爆営業」が相次ぐ
大量廃棄の原因となったのは、「自爆営業」と呼ばれる「アルバイトを含む従業員に無理やり購入させた」ためなのだが、この写真を見て「食べ物を粗末にしている」という印象を持たれた方は、多かったのではないだろうか?
背景にあるのは、上述した通り「自爆営業」というものがあるのだが、コンビニ業界だけではなくおそらく大手スーパーなどでも、同様の「恵方巻廃棄」がされていたのでは?と、考えるとビジネスとは何か?ということを考えさせられる。
むしろ、このような食品廃棄を減らすためには、業界全体が「食品廃棄量を減らす」ことに力を入れる必要があるのでは?と、考えるのだ。

福岡県での取り組みを考えると、「フードバンク」という、貧困家庭の子供たちへの食事支援活動に対して、きちんとしたガイドラインのようなものが必要になってきているのでは?
「フードバンク」が「残飯処理」のような位置づけになりかねないようなことであっては、いけないと思う。
そもそも「こども食堂」の趣旨は、「空腹を満たすため」だけではない。
「空腹と心を満たすため」に、様々な人たちが関わる活動なのではないだろうか?
そのためのサポートとしての「フードバンク」とは何か?
注目され始めている時だからこそ、しっかり話し合いガイドラインづくりをする必要があると思う。


60歳、ファッションモデルが描き出すもの

2016-03-30 21:25:03 | アラカルト

昨年秋、話題になった一人のファッションモデルがいる。
フランス人モデルで、現在はニューヨークで活躍をしているヤスミーナ・ロッシさんだ。
そのロッシさんが、今度は水着のモデルになった!と話題になっている。
HUFFPOST:水着になった60歳モデルは、本当のセクシーを教えてくれる

この写真を見て、身近な60歳女性と比較してしまう方もいらっしゃるだろう。
何より「ファッションモデルをしている女性と一般女性を一緒にすべきではない!」と、思われる方も多いだろう。
私自身、一般女性とロッシさんのような女性と、一緒にすべきではない!と思っている。
ロッシさんが、60歳という年齢ながら(と言っては失礼だが)いわゆる中年太りとは無縁のプロポーションを保つことができるのは、やはりモデルという職業を持っているからだろうし、彼女自身がプロ意識が高いからこそ維持できているのだと思う。

ただ、彼女のような「還暦」になるような女性たちが、今注目されているという点を考える必要があると思う。
彼女が注目されるようになった頃から、書店ではある写真集が話題になっていた。
60歳以上の女性ばかりを街中で撮影した、写真集だ。

主婦の友の社:OVER 60 Street Snap

タイトルにある通り街中で撮られたスナップ写真なのだが、掲載されている女性たちは世間一般に思われるような「60歳のおばあちゃん」という雰囲気は微塵もない。
お化粧もバッチリしていれば、着こなす洋服も三宅一生だったりする。
大振りのアクセサリーやハイヒールも、体の一部のような感じだ。
何より「若作りではない、ファッションの楽しみ方を知っている」という、印象がある。
そして高齢女性が、堂々と写真集に登場するという時代になった、ということだと思う。
言い換えれば、「世間の何とかよりも、私らしさを大切にしたい」という、生活意識の変化だともいえるかもしれない。

このような意識変化に、どれだけ日本の企業はついてきているのだろう?
日本の企業の場合、若い世代に注目しがちなところがある。
少子化社会以前であれば、若い世代をつかむことは、市場を拡大するうえで重要だった。
しかし、少子化社会の今の日本では若い世代よりも、高齢者を市場の中心に考えることが重要になりつつあるのでは?
もちろん、ロッシさんや写真集に登場するような女性ばかりが、「素敵な高齢女性」というアイコンになる必要はない。
ただ、年齢を重ねるごとに若さとは違う魅力にもっと目を向けることで、新たな社会的価値観が生まれてくるのでは?という、問いかけをしているような気がするのだ。



経営側と生活者の意識の違い

2016-03-28 19:16:50 | ビジネス

Yahoo!のトピックスに、「クリスピー・クリーム・ドーナッツが相次いで閉店する理由」について、取り上げている。
元の記事は、The PAGEに掲載されたものだ。
Yahoo!:クリスピー・クリーム・ドーナッツ 相次ぐ閉店理由は?

実は、クリスピー・クリーム・ドーナッツそのものを、食べたことがない。
その理由は、ミスタードーナッツよりも高いということ。
もう一つの理由は、確かに見るからに「フワフワ」のドーナッツはおいしそうなのだが、ミスタードーナッツの定番である「オールドファッション」のようなタイプのほうが好きだからだ。
これは、あくまでも私個人の嗜好の問題なので、世間的な評価ではない。
ただ、セブンイレブンが火付け役となった「コンビニドーナッツ」の主流が、この「オールドファッションタイプ」ということを考えると、案外、私のような嗜好の方が多いのでは?という、気がしている。

個人的なことはさておき、この記事を読んでみると今回の閉店は「意思のある撤退」ということのようだ。
「これまでのドーナッツよりも、より美味しいドーナッツを作れる体制づくりのため」の撤退、という趣旨のようだ。
確かに、事業を始めてある程度の期間が経つと、売り上げなどが下がる時期がある。
この時期を「軌道修正の時期」と判断し、一時期的に「撤退」するという方法は、経営者として十分あり得る判断だと思うし、それができなければ逆に経営者としての資質に問題がある、ということになるかもしれない。

しかし、下にある「読者コメント」を読むと、実に辛辣なコメントが並んでいる。
特に目立つのが、「甘すぎる」という点と「商品に対して高いと感じている」という内容だ。
「甘すぎる」と評される理由を考えると、もしかしたら今の日本人の「味覚志向」に合っていないのでは?と、感じるのだ。
というのも、今発売されている飲料水をヨーグルトなどが「微糖」と表示される商品が、目立つようになってきたからだ。
かつてのように「甘い=食べやすさ・飲みやすさ」から「甘い=太る・メタボ」というイメージに変わってきているような気がするのだ。
単に「甘い=太る・メタボ」という分けではないが、「ダイエット」を謳う商品には決まって「甘さ控えめ」とか「微糖」という言葉が使われるようになり、それらの「甘さ」が、「甘さの基準」となってきているようなところはないだろうか?
確かに「本場の味」を再現することは、大切なことかもしれない。
しかし、食品の場合「味覚」は商品を購入するときの重要な部分だ。
「本場の味」を追及するあまり、生活者からそっぽを向かれるのは本末転倒だろう。

そうして「価格」という点でも、ミスタードーナッツという、すでに「国民的ドーナッツ店」があるコトを考えれば、生活者はどうしてもミスタードーナッツと比較をして購入することになる。
事実、コンビニドーナッツは、ミスタードーナッツよりもやや安い価格設定になっている。
言い換えれば「ミスタードーナッツよりも高くても、買ってもらえるドーナッツなのか?」という点だ。

ただ、記事を読む限りでは、そのような「味や食感、価格」などの見直しのための一時期的撤退とは、読めない。
商品を提供する側とその商品を購入する生活者とのギャップの大きさこそ、本当は「テコ入れをする」部分だと思うのだ。


人工知能Iに足りないモノ、できないコト

2016-03-26 21:39:12 | アラカルト

昨日、「AI(=人工知能)がヒットラーを礼賛」というニュースがあった。
マイクロソフトが開発中のAIの「Tay(テイ)」が、Twitter上でヒットラーを肯定したり、人種差別的な言葉を発したりしたため、実験を中止することになった。

中日新聞:人工知能がヒットラー礼賛 マイクロソフト実験中止

このニュースを聞いて、実は内心ホッとしている。
なぜなら、今現在の人工知能では「(相手となる)人の心や思いを、想像・理解するまでには至っていない」ということを知ったからだ。

世の中にはヒットラーの思想や考えに傾倒している人は、少なからずいる。
使われる言葉を、アルゴリズムのような方法(とは、限らないとは思うが)で分析をし、関連づけるだけではこのような実験結果になることは、想像がつく。
単に「ヒットラーを礼賛したり、肯定したりするのはダメ!」と、人工知能に教え込むことはできるだろう。
大切なことは、ヒットラーの思想や考えに傾倒する人達の「心のうち」を理解し、反論することだと思ったからだ。
逆に言えば、今の人工知能は、そこまでで「心のうち」のような、言葉として発せられないようなことを理解することはできない、ということだろう。

先日、人工知能VS囲碁の名人との対戦があり、人工知能が圧勝した。
おそらく、チェスでも同じような結果となったかもしれない。
というのも、ある程度「指し手」のパターンが分析できれば、予測するコトができるのが人工知能だからだ。
「行動」に対しての分析は、与えられるデータが増えれば増えるほど、予測パターンは増えてくる。
そのような積み重ねは、人工知能が優位ということなのだと思う。
昨年話題になった「10年後、人工知能に取って代わられる職業」の多くは、このような「行動パターン」の分析の積み重ねで、予測できる職業だった。

しかし、「人」は「行動」では測れないモノがある。
それが「こころ」ということになるのかもしれない。
「10年後、人工知能に取って代わられる職業」の一つに上げられた、証券会社のトレーダーにしても、アルゴリズムに連動して、株価を予測するだけであればトレーダーは人工知能のほうが判断が早いと思う。
その結果、一斉に同じ値動きが起きる可能性もある。
ところが、このような連動した値動きとは逆の行動をする人もいる。
人が行う取引の中では、このような「人と逆の行動をする人」がいることで、その後株価が安定することもあるのだ。
このような「逆の行動を起こす人の心理」こそ、人らしさの部分なのではないだろうか?
それは単純に「儲けるチャンス!」と相場を読み切る力、あるいは「勘」なのかも知れないが、それはデータの蓄積で、答えられるものではないような気がするのだ。

全く違う分野で挙げられていた「外科医」も、同じだと思う。
確かに「手術の技術」という点では、人工知能のほうが失敗が少ないかもしれない。
しかし、術後のケアというのは、「患者のこころと向き合う」場面ばかりだからだ。
患者の不安な気持ちを察して、「どんなことに対して不安を持っているのだろう?」と想像し、患者に声をかけることができるのが、優秀な医師だからだ。
「患者の不安」は、一人として同じではない。言い換えればパターン化できるものではない。
そのようなことが、果たして人工知能にできるのだろうか?

確かに、今の脳科学では「人のこころ」に対する研究が、盛んにおこなわれている。
それでも、人工知能が「人のこころ」を理解することはできないと思うのだ。
なぜなら「こころ」というものは、その人がそれまでに経験し、感じたことの積み重ねに、想像(あるいは創造)が加わったものだと思うからだ。

人工知能の研究が進めば進むほど、「人のこころ」の複雑さと豊かさを理解する大切さが、重視されるような気がしている。


不平等の上に成り立つ平等

2016-03-25 19:58:10 | 徒然

ベルギーで起きた連続テロ。
犯人のうち2人は、自爆をし1人は逃走中。新たに、関与をした5人目が浮上している。
このようなテロ事件が起きるたびに、世界各地では「憎しみの連鎖を断ち切り、祈りをささげる」と言われているのだが、昨年起きたパリの同時多発テロ以来、収まる気配がない。

もちろん、「イスラム国」と名乗るダーイッシュによるテロ行為であり、許されることではない。
ただ、もう少し視野を広げて考える必要があるのでは?という、気もしている。
それは、欧米で言われる「自由・平等」は、すべての人に与えられていることなのだろうか?という点だ。
米国では、いまだに黒人に対する差別が、横行している。
それは年に何度か日本でも報道される、白人警官による黒人男性への暴行死事件などから、知ることができる。
キング牧師が訴えた「I HAVE A DREAM」という演説以来、40年以上の月日が流れ、アフリカ系の黒人大統領が誕生した今でも、変わってはいない。

欧州であっても、それは同じだろう。
欧州の場合は、かつての統治地域出身者やイスラム系になる。
欧州の「自由・平等」というのは、かつての統治地域出身者やイスラム系に対する不平等の上に成り立つ「自由・平等」なのでは?という、気がしているのだ。

というのも、先日、朝日新聞に掲載されているトマピケティの、欧州に根強くある差別や偏見についてのコラムを読んだからだ。
朝日新聞:ピケティコラム 欧州社会の差別・偏見「イスラム嫌い」の衝動 抑えよ
WEBでは、書き出し部分程度しか紹介されていないのだが、経済学者であるマリアンヌ・バルフォール氏が「イスラム教の家庭出身者の若者が、職業上の差別をどれほど受けているのか」という調査が紹介されている。
「イスラム風の名前(男性)」で求人に応募した場合と、一般的な欧州風の名前とでは、面接の返信割合はわずか5%以下になってしまう。それ以外では20%近い返信があることを考えると、イスラム風の名前を持った男性は、一般的な欧州の名前の男性よりも、随分差別をされていることになる。
それは、いわゆる「高学歴、有資格者」などの好条件を備えていても、同じ結果だったという。
同じような内容を、ピケティと同じフランス人であるエマニュエル・トッド氏も、自著の「ドイツ帝国が世界を破滅させる」で書いている。

昨年のパリ同時多発テロの時、切っ掛けとなったのは「風刺漫画」だった。
イスラム教(およびイスラム教徒)を風刺していることに対する、テロだったと言われている。
テロそのものは、上述した通り許されることではない。
しかし、自分たちが差別や偏見を持っている相手に対して「風刺をする」というのは、「風刺」とは言えないのではないだろうか?
あくまでも「風刺」というのは、権力を持った相手に対して行うことだとすれば、風刺をした側の傲慢さという気がしてくる。
その傲慢さは、自分たちの「自由や平等」が、彼らに対する不平等の上に成り立っている、という認識をもっていないからなのではないだろうか?

欧州における「イスラム教徒およびイスラム系家庭」出身者からすれば、今の欧州の「自由と平等」は自分たちに対する不平等の上に成り立っている、という不満がダーイッシュへと走らせるのでは?という、気がしてくるのだ。

日本でも「格差」という問題が、あらわになりつつある。
「すべての人が平等に扱われる社会」というのは、理想であり現実として難しい。
しかし、それを目指していかない限り、形を変えた「テロ」が起きる可能性はあり続けるような気がするのだ。


お願いする相手が、違っていると思う-演歌復活を政治家にお願い-

2016-03-23 21:59:40 | 徒然

朝日新聞のWEBサイトを見ていたら、「え?!」と思う見出しがあった。
朝日新聞:演歌復活、政治家とタッグ、瀬川英子さん「お力を貸して」

おそらく私と同世代の人たちより下の世代の人たちにとって、「演歌」という分野の楽曲は「おじさんが聞く音楽」だと思っているのではないだろうか?
もしかしたら、団塊の世代の人たちの中には「演歌は聞かない。ビートルズ世代だ」と、いう方もいらっしゃるかもしれない。

「演歌」という音楽カテゴリー(というほどではないが)が生まれたのは、おそらく1960年代後半から1970年代の頃だと思う。
シンガーソングライターと言われる、自分で作詞作曲をし演奏をする、という人たちが登場し、同時に「アイドル」と呼ばれる人たちが次々と、オーディション番組や公開オーディションなどから登場をし、それまで「歌謡曲」と呼ばれていた音楽が、様々なカテゴリー分けされるようになり「演歌」という分野も生まれたような、印象を持っている。

その「演歌」で歌われる世界というのは、男女の情愛にやや不幸のエッセンスを足したような世界観(というと大袈裟だが)を、持っているように思う。
確かに昭和の頃は、そんな情愛の世界観もあったかもしれないが、時代とともにそのような世界観は無くなってきたように思う。
その当時と比べると、恋愛スピードそのものが早くなり、相手に思いを告げる「告白」という言葉は、「こくる」になってしまった。
しかも「ラブレター」ではなく「メール」で、日ごろの思いをやり取りするのが、当たり前になっている。
「思い焦がれて・・・」という、演歌で歌われるような世界そのものが、無くなってしまっている。
今という時代と社会感覚の中では「演歌」で歌われる世界というのは、あまりにもミスマッチな世界なのではないだろうか?
違う言い方をすれば、受け手となる人たちから「共感」されない音楽、になってしまったのでは?

事実、昨年NHKの「紅白歌合戦」に久しぶりに登場した、小林幸子さんは「ボーカロイド」という音楽を加えることで、若い人たちから「ラスボス」と呼ばれ、人気になっている。
ご存じのように小林幸子さんは「演歌歌手」として、ステータスもあり「大スター」と呼ばれてきた人だ。
その小林幸子さんが、「演歌」という音楽カテゴリーに軸足を置きながら、新しい音楽技術である「ボーカロイド」に挑戦するコトで、「新しい演歌」を創ろうとしている。

そのような挑戦もないまま、「演歌」のために政治家に「力を貸して」とお願いするのは、筋違いのような気がするのだ。
確かに掲載されている写真を見ると、「演歌」と親和性の高い政治家ばかりという印象がないわけではないが、政治家にお願いしたところで、「演歌」という音楽が再び多くの人に受け入れられるようになるとは思えない。
むしろ、お願いされた政治家さんたちを見ることで、「自分たちの聞く音楽じゃないな!」と思う人たちのほうが多いのでは?

今までのような演歌で、人気を得ようとするのではなく、小林幸子さんのような「新しい演歌」を創っていくことのほうが大切なのではないだろうか?


モンベルが、農産品を売っている

2016-03-22 22:06:43 | ビジネス

知人に差し上げるギフトをネットで探していたら、モンベルが農産品を販売していることを知った。
モンベル:フレンドマーケット
水産加工品だけではなく、お菓子や麺などの加工品も販売をしているので、「農産品」というくくりでは失礼かもしれない。
気になったのは、アウトドアウェアやグッズを販売しているモンベルが、なぜこのような商品をオンラインショップで扱うのか?という点だ。

ご存じのとおり、モンベルという企業はアウトドアウェアやグッズを製造・販売をしている。
時には、お店の人が自主企画をし「トレッキングツアー」などを開催したりしている。
「山登りやトレッキング、アウトドア好きな人たちが集まった企業」とも言われるゆえんは、このような単なる製造・販売だけにとどまらない「顧客とのコミュニケーション」に積極的な企業だからだ。
その意味では、「顧客と企業がとても近い関係にある」企業ともいえる。

そのモンベルがなぜ?農産品などをオンラインショップで扱うのだろう?
おそらく、モンベルという企業が「自然を相手にする企業」で、そのためには地域の人たちの協力や理解が大切だからなのでは?と、考えるのだ。
確かにアウトドアウェアやグッズを製造・販売するだけなら、「自然を相手にする」という発想はないだろう。
しかし上述した通り、企業文化として「山登りやトレッキングなどのアウトドアが好きな人たちが集まっている」という文化がある。
製品を製造・販売する先の「使う・楽しむ」ということを、重要視している企業とも考えられる。
そして、実際の「使う・楽しむ」という場面を考えると、どうしても「自然を相手にする」ということになる。
特に山登りやトレッキングなどは、自然を楽しむスポーツでもある。
そのためにつくられたのが、「モンベルフレンドエリア」という、会員向け現地サービス地域なのだと思う。

そのような自然を楽しむことができる地域の多くは、それぞれの地域に根差した農・水産品や加工品があることは想像ができる。
それだけではなく、それらの品物は他地域ではあまり知られていない、という場合も多いのではないだろうか?
実際、この「フレンドエリア」内には「フレンドショップ」と呼ばれる店舗があり、そのお店では、地域のお土産なども販売している。

その延長としてこの「フレンドマーケット」があり、それが地域の活性化の一つになっていく可能性はある。
先日、カルティエ現代美術財団が新作文楽の後援をする、という内容をエントリした。
カルティエほどの宝飾品店になると、その商品は芸術作品の域に達することも多い。
カルティエ側としては「アート」というキーワードの結びつきで、後援をすることを決めたのかもしれない。
そしてモンベルもまた、「自然と地域」というキーワードで、このようなオンラインショッピングサイトを設けているのだと思う。

主たる事業とはかけ離れているように思える事業であっても、その企業の文化や理念を考えたとき、意外なコラボレーションが起こるということだと思う。


モンベルが、農産品を売っている

2016-03-22 22:06:43 | ビジネス

知人に差し上げるギフトをネットで探していたら、モンベルが農産品を販売していることを知った。
モンベル:フレンドマーケット
水産加工品だけではなく、お菓子や麺などの加工品も販売をしているので、「農産品」というくくりでは失礼かもしれない。
気になったのは、アウトドアウェアやグッズを販売しているモンベルが、なぜこのような商品をオンラインショップで扱うのか?という点だ。

ご存じのとおり、モンベルという企業はアウトドアウェアやグッズを製造・販売をしている。
時には、お店の人が自主企画をし「トレッキングツアー」などを開催したりしている。
「山登りやトレッキング、アウトドア好きな人たちが集まった企業」とも言われるゆえんは、このような単なる製造・販売だけにとどまらない「顧客とのコミュニケーション」に積極的な企業だからだ。
その意味では、「顧客と企業がとても近い関係にある」企業ともいえる。

そのモンベルがなぜ?農産品などをオンラインショップで扱うのだろう?
おそらく、モンベルという企業が「自然を相手にする企業」で、そのためには地域の人たちの協力や理解が大切だからなのでは?と、考えるのだ。
確かにアウトドアウェアやグッズを製造・販売するだけなら、「自然を相手にする」という発想はないだろう。
しかし上述した通り、企業文化として「山登りやトレッキングなどのアウトドアが好きな人たちが集まっている」という文化がある。
製品を製造・販売する先の「使う・楽しむ」ということを、重要視している企業とも考えられる。
そして、実際の「使う・楽しむ」という場面を考えると、どうしても「自然を相手にする」ということになる。
特に山登りやトレッキングなどは、自然を楽しむスポーツでもある。
そのためにつくられたのが、「モンベルフレンドエリア」という、会員向け現地サービス地域なのだと思う。

そのような自然を楽しむことができる地域の多くは、それぞれの地域に根差した農・水産品や加工品があることは想像ができる。
それだけではなく、それらの品物は他地域ではあまり知られていない、という場合も多いのではないだろうか?
実際、この「フレンドエリア」内には「フレンドショップ」と呼ばれる店舗があり、そのお店では、地域のお土産なども販売している。

その延長としてこの「フレンドマーケット」があり、それが地域の活性化の一つになっていく可能性はある。
先日、カルティエ現代美術財団が新作文楽の後援をする、という内容をエントリした。
カルティエほどの宝飾品店になると、その商品は芸術作品の域に達することも多い。
カルティエ側としては「アート」というキーワードの結びつきで、後援をすることを決めたのかもしれない。
そしてモンベルもまた、「自然と地域」というキーワードで、このようなオンラインショッピングサイトを設けているのだと思う。

主たる事業とはかけ離れているように思える事業であっても、その企業の文化や理念を考えたとき、意外なコラボレーションが起こるということだと思う。


伝統芸能もチャレンジする時代。後押しをするのは・・・

2016-03-20 20:18:12 | アラカルト

VOUGEのWEBサイトを見ていたら、興味深い記事があった。
VOUGE:舘鼻則孝による文楽公演が、仏カルティエ現代美術財団で開催

文楽と言えば、数年前橋下さんが「文楽への補助金凍結」と発表し、文楽側から大反発が起きたことがあった。
結局、橋下さんと文楽の関係者が話し合い、補助金凍結は無くなったようだ。
ただ、この橋下さんの発言は「文楽」という伝統芸能が、身近なものではない、ということを示したような気がする。
同じ「伝統芸能」でも、歌舞伎などに比べると人気は当然、実際生で文楽を見たことがある、という人は多くはないと思う。
その理由の一つが、人形での芝居である、ということが大きいような気がする。
大きな会場で上演するのには、向かないため多くの集客が見込めない、という部分も「文楽」という伝統芸能を遠いモノにしてしまっているのではないだろうか。
そんな「文楽」に、チャレンジというか新しい息吹を与えようという動きがある、というのが今回のVOUGEの記事だ。

舘鼻則孝さんと言っても、「誰?」という感じだと思う。
実際、名前を聞いただけでは、分からなかったのだが、レディー・ガガがステージなどで履いている「ヒールレスシューズ」をデザインをした方のようだ。
舘鼻さんを一躍有名にした「ヒールレスシューズ」そのものが、舞妓さんの「ぽっくり」から着想したということで、今回のコラボレーションにつながったようだ。
それでも伝統芸能である「文楽」側としては、新作とはいえ「文楽」の世界とは縁もゆかりもない分野の人とのコラボレーションというのは、大いなるチャレンジだったのではないだろうか?
もしかしたら、伝統芸能だからこそ、このようなチャレンジができたのかもしれない。
「文楽の核」となるものがあり、そこへ新しいモノを足していく、という感覚でのコラボでありチャレンジ、というとらえ方をしたのだとすれば、伝統芸能という懐の深さなのだろう。

そして今回、文楽とのコラボレーションを後押しするのは、カルティエ現代美術財団。
日本のファッション企業の場合、このような活動をする企業がほとんどないように思われる。
ファッションに対する考えそのものが違うのかもしれないし、企業文化そのものが違うのだろう。
ただ日本の企業が伝統芸能の新しチャレンジを後押しするのではなく、フランスのカルティエの財団が行う、というのは残念な気がするのだ。

企業の使命の一つに「社会貢献」がある(と考えている)。
とすれば、自社の事業に比較的近い文化・芸術などを支援することも、立派な「社会貢献」なのでは?
多くの日本企業が、成熟期となりつつあることを考えると、このような「社会投資」も積極的に考える時代になってきているような気がするのだが・・・。


伝統芸能もチャレンジする時代。後押しをするのは・・・

2016-03-20 20:18:12 | アラカルト

VOUGEのWEBサイトを見ていたら、興味深い記事があった。
VOUGE:舘鼻則孝による文楽公演が、仏カルティエ現代美術財団で開催

文楽と言えば、数年前橋下さんが「文楽への補助金凍結」と発表し、文楽側から大反発が起きたことがあった。
結局、橋下さんと文楽の関係者が話し合い、補助金凍結は無くなったようだ。
ただ、この橋下さんの発言は「文楽」という伝統芸能が、身近なものではない、ということを示したような気がする。
同じ「伝統芸能」でも、歌舞伎などに比べると人気は当然、実際生で文楽を見たことがある、という人は多くはないと思う。
その理由の一つが、人形での芝居である、ということが大きいような気がする。
大きな会場で上演するのには、向かないため多くの集客が見込めない、という部分も「文楽」という伝統芸能を遠いモノにしてしまっているのではないだろうか。
そんな「文楽」に、チャレンジというか新しい息吹を与えようという動きがある、というのが今回のVOUGEの記事だ。

舘鼻則孝さんと言っても、「誰?」という感じだと思う。
実際、名前を聞いただけでは、分からなかったのだが、レディー・ガガがステージなどで履いている「ヒールレスシューズ」をデザインをした方のようだ。
舘鼻さんを一躍有名にした「ヒールレスシューズ」そのものが、舞妓さんの「ぽっくり」から着想したということで、今回のコラボレーションにつながったようだ。
それでも伝統芸能である「文楽」側としては、新作とはいえ「文楽」の世界とは縁もゆかりもない分野の人とのコラボレーションというのは、大いなるチャレンジだったのではないだろうか?
もしかしたら、伝統芸能だからこそ、このようなチャレンジができたのかもしれない。
「文楽の核」となるものがあり、そこへ新しいモノを足していく、という感覚でのコラボでありチャレンジ、というとらえ方をしたのだとすれば、伝統芸能という懐の深さなのだろう。

そして今回、文楽とのコラボレーションを後押しするのは、カルティエ現代美術財団。
日本のファッション企業の場合、このような活動をする企業がほとんどないように思われる。
ファッションに対する考えそのものが違うのかもしれないし、企業文化そのものが違うのだろう。
ただ日本の企業が伝統芸能の新しチャレンジを後押しするのではなく、フランスのカルティエの財団が行う、というのは残念な気がするのだ。

企業の使命の一つに「社会貢献」がある(と考えている)。
とすれば、自社の事業に比較的近い文化・芸術などを支援することも、立派な「社会貢献」なのでは?
多くの日本企業が、成熟期となりつつあることを考えると、このような「社会投資」も積極的に考える時代になってきているような気がするのだが・・・。