昨年の夏頃から、新薬企業であるノバルティスファーマが、治験を担当する医師(多くは大学教授)に研究費などをサポートしながら、都合の良いデータに改ざんしていた、と言うニュースが度々報道されている。
今日、ノバルティスファーマが出している「慢性骨髄性白血病」の治療薬「グリベック」に関する副作用などの報告を怠っていた、と言う報道があった。
朝日新聞:ノバルティス、重い副作用2579件報告せず 死亡例も
この「グリベック」という治療薬は、がんの治療薬の中でも比較的新しい考えの基で作られた「薬」で、「分子標的薬(または「抗体薬」)」と呼ばれている(ちなみに、肺がんの治療薬「イレッサ」も分子標的薬である)。
「ある特定の抗体を狙い撃ちすることで、がんの成長を抑制する」ことができる、と言うタイプの薬だ。
がんそのものの成長が抑制されることで、「がん=死ぬ病気」から「がん=慢性疾病」と言われる様になった、切っ掛けを作った薬でもある。
何より「グリベック」が登場したことで、「慢性骨髄性白血病」で亡くなる患者さんが減った。
この「グリベック」が承認されたのが2001年。それから10年以上経過して初めてこの様な「副作用」が報告された、と言うことになる。
新薬というのは、とても厳しい「治験」を経てから承認される。
例え承認された後に「重篤な副作用」が判れば、その時点で「治験」の見直しがされるはずだ。
にも関わらず、今回は「重篤な副作用」について、報告をしなかったために起きたと言うことになる。
ここで考えるのは「ノバルティスにとって、顧客は誰だったのか?」という点だ。
違う言い方をするなら、「誰に一番利益を与える必要があったのか?」という視点が、あったのか?と言う疑問なのだ。
「薬などの医療とクルマや家電、一般小売などと一緒にはできない」と思われるかも知れない、が、視点を変えると、薬や医療機器メーカーのビジネスは「B to B」のビジネスだというコトがわかるはずだ。
医薬品、医療機器メーカーからすれば、それらの商品を直接購入するのは、病院であったり薬局というコトになる。
しかし、実際にはそれらの医薬品によって利益を得るのは、患者なはずだ。
医療機器に関しても、それらの機器を使う検査を受けるのは、患者であったり健康診断の受診者だ。
そう考えると、今回のノバルティスファーマの事件は、「B to B 」までしか考えず、本当のユーザーである患者のことは眼中にはなかった、と言うことだと思う。
「重篤な副作用」が起きて一番ダメージを受けるのは、処方をした医師では無く患者だ。
製薬企業のMRと呼ばれる営業担当者は、「自分の顧客は医師である」と決めつけていたために、本当の顧客である患者を見過ごした、と言う見方もできる。
マーケティングの勉強会などで時折言われる、「B to Bの顧客は誰か?」という視点は、実はわかり難い。
「クルマの部品メーカーの顧客は、クルマを製造するメーカー」同じ発想だったのが、今回のノバルティスだ。
実際には、それらの部品を組み立てて作られたクルマを利用するユーザーが、顧客であるべきなのだ。
すなわち「B to B」の先にある「C」の存在を、一番知るコトが重要なのだ。
「B to B」のビジネスだからこそ「顧客は誰なのか?その顧客利益とはなにか?」というコトをしっかり考える必要がある、と言うことをノバルティスの事件は教えているように思う。
Facebookをチェックしていたら、知人の一人があるブログを紹介している人の投稿に「いいね」をしていた。
気になって、元の投稿までアクセスすると「なるほどな~」と、考えさせられる内容だった。
その内容とは、ロックバンド「ゴールデンボンバー」の「ローラの傷だらけ」について、メンバーの鬼龍院翔さんが書かれた内容を取り上げたモノだった。
ゴールデンボンバー:キリショー☆ブログ「ローラ発売一週間」
今回ゴールデンボンバーがこのシングルCDを発売する際、あえて「特典」と言う名の「オマケ」を付けずに発売をしたらしい。
その結果報告というカタチで、メンバーの鬼龍院さんがブログにアップをしたのが、ブログの内容。
このブログでとても興味深いのは「特典付き」と「特典無し」の第1週の売上げ比較をしている点だ。
詳細は省略させて頂くが、「特典付き」CDと「特典無し」CDとでは売上げが大きく違う。
「特典無し」の場合、「特典付き」の1/4にまで、セールが落ちてしまっているのだ。
と言うことは3/4の人達は、「ゴールデンボンバーの音楽」ではなく、「特典」を買いに来ていた、と言うことになる。
尚且つこの「特典」というのが、「握手券」。
この内容でおわかりだと思うが、国民的(?)アイドル「AKB48」と同じ売り方をしているのだ。
「ゴールデンボンバー」と「AKB48」と同じ結果が出るとは思わないが、実際の「AKB48」のファンの数というのは、CDセールの数字とは大きくかけ離れている、と言うことだと思う。
そして、鬼龍院さんはミュージシャンらしく「分析」をしている。
そう考えると、「人は商品やサービスそのものよりも、『特典』に引きつけられる」という見方もできる。
例えば、マックの「ハッピーセット」などは、その成功例かも知れない。
メニューそのものは代わり映えしないが、毎週のように「ハッピーセット」に付く「おもちゃ」が替わるので、子ども達(だけはないかも知れないが)は、「おもちゃ」欲しさに毎週のように、通い詰めることになる。
目的は「期間限定・数量限定・オリジナル=プレミアム」なおもちゃをコレクションしたい!と言う、欲求があるからだ。
ミスタードーナッツの「ポイントを集めて、オリジナルグッズをプレゼント」というのも、基本的な考えは同じだ。
では単純に「特典欲しさにモノを買うのか?」というと、そうとも言い切れないと思う。
「特典がつかないと、欲しいモノがない」というよりも、「欲しいものが見つからない」と言うのが、本当のところの様な気がする。
それだけ今の日本の生活者は「モノ・コト」に溢れている、と言うことだと思う。
この傾向は今に始まったコトでは無く、1980年代後半にはその傾向が現れている。
1988年の西武百貨店は、「ほしいものが、ほしいわ。」という糸井重里さんのコピーを使っている。
この頃から日本の社会は、様々な商品やサービスが溢れていた、と言うことだと思う。
だからこそ「特典」を付けるコトで、他社との差異をはかる様になったのではないだろうか?
その結果として、本体である商品やサービスの本質と生活者を視るコトよりも、目先の売上げを「成果」だと思ってしまったのではないだろうか?
日本の「失われた20年」というのは、そんなところにも原因があるのかも知れない。
昨日、1日出先で仕事をしていた。
お昼になり、近くのコンビニまでお昼ご飯を買いに出掛けた時、「アレ?どこか違和感があるな~」と感じる人に出会った。
その人は、筋骨隆々な体格を自慢するかの様なランニングを着、坊主頭に野球帽を被っていた。
一見すると「昼休みのランナー」という感じだ。
何気なくみていると、その人の手には女性用のミニボストンバッグ。
「え!」っと思い足下を見ると、若い女性に人気の「グラディエータータイプの白いハイヒールサンダル」を履いている。
ハイヒールサンダルということもあり、歩き方が不自然というか、どこかぎこちない。
私が「どこか違和感がある」と感じたのは、そのミニボストンバッグとハイヒールサンダルの為だったのだ。
しかし、道行く人たちはそんな「彼」の姿を気に留めることも無く、通り過ぎていく。
もしかしたら、この界隈では案外有名人なのか?と思いながら、「何かの罰ゲームみたいだな~」と感じながらいた。
その帰りの地下鉄車内で、「なんか違うな~」という人を見かけた。
車内が混み合っていたので、最初は30~40代の女性かと思っていた。
少しずつ車内が空いてきて、フッとみるとどうやら男性のようだ。
ハーフパンツにサンダル、と言うカジュアルなスタイル。
にも関わらず、どこか「違う」と感じてしまう。
何故だろう?としばし考えていると、その男性が「女性向けのTシャツ」を着ていることに気がついた。
週末に折り込まれるユニクロなどの広告を見て頂ければわかると思うのだが、「Tシャツ」と言っても、女性と男性では襟の開きが違う。
表示は同じ「クルーネック」となっていても、女性向けは鎖骨あたりが見えるくらい襟開きが大きい。
それだけでは無く、襟付けそのものも違っている。
以前は、女性も男性も同じだったのだが、ここ数年は女性向けと男性向けとでは襟のデザインが違うのがトレンド(?)となっている。
だから「女性向けTシャツ」だと、気づいたのだった。
昨年、ある男性が「ユニクロのヒートテックは、奥さんの買い物に紛れ込ませて自分の分を買っている」という話をしていたのを思い出した。
理由は「婦人物は、襟開きが大きいのでYシャツのボタンを外してもチラ見えしない」ということだった。
体格的に女性物が着ることができる方なので、その様な選択をされたのだと思うのだが、その時は「へ~~~」と思った程度だった。
昼間見た「ハイヒールサンダル」の男性はともかく、Tシャツなど元々「ユニセックス」なファッションアイティムなどは、女性向けの商品であっても男性が着る、と言う時代になってきたのだろうか?
「たまたま偶然」、「何かの勘違い」ということも考えられるのだが、華奢な体つきの若い男性で「気に入っている」ものであれば、女性向け・男性向けということは気にしなくなりつつあるのかも知れない。
そんなコトを考えた1日だった。
既に新聞などで報道されているので、ご存じの方も多いと思う。
予備校の「代々木ゼミナール」が現在27校のうち20校を閉鎖する、と発表している。
新聞などの報道をそのまま読めば「少子化に伴う、生徒数の減少」ということが大きな原因、と言うことになる。
また、一部報道によれば「東大合格者数が、他の予備校に比べ圧倒的に少ない」ということも、一因だと言われている。
もちろん、これらの理由で閉校するというのはわかるのだが、20校という数の多さに驚かれた方も多いのでは無いだろうか?
ところで「予備校=大学受験」という視点で見れば、生徒数の減少は大きな問題だと思う。
しかし「勉強を教える」という視点に変われば、チョット違ってくるのでは無いだろうか?
例えば、以前ほどではないとは言うが今でも世間は「お受験」や「中学受験」に熱心な親御さんたちは多い。
ここ名古屋でも、南山大学が附属小学校を新設や進学塾が小学校を新設したことで、チョットした「お受験ブーム」(?)が起きているようだ。
「お受験向け教室」のチラシが、週末入ってくる。
その教室の授業料の高さに驚くばかりなのだが、「お受験」を考えている親御さんにとっては、さほど高いとは思わないのだろう。
他にも、幼児期からの語学教室や理科教室など、「塾」そのものが特化し始めているらしく、その様な広告を最近目にすることが多くなってきた。
と言うことは、「受験生≠高校生や浪人生」と言うのが今の社会なのだと思う。
他に考えられるのは、「受験生は都市部にいるとは限らない」という点だ。
確かに、日本全体が「少子化傾向」にあるが、都市部に比べると地方はまだまだ進み方がゆるやかだ。
何より、地方に行けばいくほど「予備校」が少ない、と言う現実がある。
その様な地方で、都市部と同じ様な授業を衛星通信で行っているのが「東進ゼミナール」だ。
だからと言って、今更「代ゼミ」が「東進ゼミナール」のような、衛星通信などで授業を行っても意味が無い。
むしろ、「代ゼミ」がこれまで培ってきたKnow-howを活かして、地方に「海外大学進学向け予備校」などの展開、と言うほうが現実的な気がする。
と言うのも、海外の大学で求められる学生と日本の大学で求められる学生とでは、大きく違うからだ。
「受験テクニック」が求められるのが「日本の大学」、「学力+自主性や明確な進学目的、意欲」が求められるのが、海外特に米国の大学だと言われている。
社会が「グローバル化」していく中、日本の大学だけが「進学先」ではない。
そう考えると、「海外の大学に進学する為の予備校(クラス)」が、今の予備校に用意されているのだろうか。
それだけでは無く、「予備校=学びの場」と考えれば、社会人向けの「Back to Campusクラス」のような、「社会人のための大学・大学院受験クラス」があっても良いのではないだろうか?
「代ゼミ」のリストラは、確かに「時代の変化」によるところが大きいと思う。
しかし、視点を変えるコトで違う展開もあるのでは?と思うのだ。
自動車免許を持っていない私の移動手段は、「公共交通機関」ということになる。
それが実家に帰省すると、つくづく「地方の暮らしは、クルマで維持されている」と、感じる。
この春、実家の父が自動車免許を返上した為、今回の帰省での移動手段は「公共交通機関」になった。
そのコトに関しては先日「バリアフリーって何?」というテーマで、エントリをさせて頂いた。
今回、実家のある米子やお墓がある松江などのJR駅を利用して感じたことは、「駅」という場所を地域との結びつきの「情報発信」という視点で、見直してみると随分「駅の役割」が違ってくるのでは?と言うことだった。
東京駅や名古屋駅など、1日の利用客が多い駅などは「駅」そのものの機能が、「公共交通機関」という役割で十分になっている。
それでもここ10年ほどで、東京駅をはじめとする大都市の顔となる「駅」であっても、随分変わってきた。
何より大きく変わったのは「乗り物に乗るために、駅を利用する」から「駅に来ることを目的とする」という、一種の「複合施設」的な要素を強く打ち出し、集客に成功している。
地方の「駅」は、大都市部の様な乗降客そのものが見込めない。
にも関わらず、昔ながらの「公共交通機関」としての「駅」という役割しか果たしていない、と言う印象を今回の帰省で持った。
同じ「駅」と名の付く人気スポット「道の駅」などは、まさに「目的地」として人が集まる場所となっている。
その多くの理由は、「地方独特のグルメ」や「産直販売」、「足湯」などの「癒しスポットの併設」などがあると思われるが、それだけでは無いと思う。
とにかく「道の駅」で発信される「情報量」が、地方のJR駅と比べると格段に多いのだ。
「道の駅」で休憩をしながら、「チョッと寄り道をしてみようか!」と言う、ローカル情報が沢山置いてある。
そんな「ローカル情報」をチェックするのも、「移動」の楽しみという気がする。
そんな「道の駅」と比べるとJRをはじめとする「ローカル駅」の構内の、寂しいこと。
せっかく「街の玄関」という「顔」を持っているのに、その魅力が発揮されていない様な気がする。
「街の玄関」である駅の印象も街の活性化という視点で考えれば、重要な位置づけになるはずだ。
まして国鉄時代なら話はともかく、民間企業になったのだから積極的に「ローカル情報」などを発信して、「街の魅力をPR」してみてはいかがだろう。
そもそも駅に隣接している「観光案内所」の、不便さや情報発信力の少なさには、本当に驚く。
ローカル駅の特徴かも知れないのだが、「観光案内所=旅館などのチラシ置き場」になっているだけで、地元のお祭りやイベントなどの情報が一目で分かる様にはなっていない。
旅館や美術館へのアクセスなどについても「チラシを見て下さい」という案内では、人は動かない。
「駅」という場所は、その「街への入り口」と言うだけではなく、「街の紹介所」でもあると思う。
街を存分に楽しむ為のアクセス案内は当然のコト、ローカルグルメの紹介やガイドブックなどに紹介されていない「隠れスポット」など、積極的に情報を発信することで外から来た人が楽しい!と思える「時間と場所」を提供することができると思う。
これまでと違う視点で、「駅」を考える必要があるのではないだろうか?
今日Yahoo!を立ち上げたら、「グリコ」の広告が掲示された。
その広告がとても、素敵で「余り良いニュースが無いこの頃。世界には『ごきげん』が不足しているのでは?」という気がした、広告だった。
グリコ:グリコ コーポレートTV-CM「smile.Glico」
俳優の妻夫木聡さんが出演しているTVCMなのだが、見ていてどことなく「ホッと」する。
「安心感がある」と言うよりも、思わず笑顔になるCMだ。
妻夫木さんが演じている人は、先日亡くなられた俳優・ロビン・ウィリアムさんが主演された映画「パッチ・アダムス」の主人公・パッチ・アダムスさんような印象を受ける。
パッチ・アダムスさんと言うよりも、「クラウン=道化師」というほうが正しいのかも知れないが、私が真っ先に思い浮かんだのは、ロビン・ウィリアムさんが主演した映画「パッチ・アダムス」だった。
映画をご覧になられた方も多いと思うが、パッチ・アダムスさんは医師でありながら「ホスピタル・クラウン」と言う、長期入院を余儀なくされている子ども達や死を目の前にしている患者を元気づける為に「病院内の道化師」を始めた人物。
今では日本でも「ホスピタル・クラウン」の有効性(?)が認められ、小児病棟で活躍する「クラウン」も増えつつあると聞く。
「笑いや笑顔」は、人を元気にする力を持っている、と感じる映画でもあった。
そしてパッチ・アダムスさんの写真を拝見する度に感じることは、ご自身の笑顔がとても素敵であると言うことと、その笑顔を見た側も「ごきげん」になる力を持っていると言うこと。
そんなことを思い出すTVCMだ。
考えて見れば、このCMを作っている「グリコ」も同じ様な思考を持っている。
「グリコ」と言えば、「(グリコの)オマケ」となる方も多いと思う。
実は「オマケ」ではなく「おもちゃ」と、言うのが正式だという。
それは創業者である江崎利一氏が、 「子どもたちにとって、食べることと遊ぶことは二大天職」と考えたことから、「食べる+遊ぶ」を一つにする為に「グリコのおもちゃ」が始まった、と言われている。
グリコ:おもちゃの歴史 江崎記念館
何も子どもだけではなく、大人だって美味しいものを食べれば笑顔がこぼれるし、ごきげんになる。
美味しいモノを食べなくても、誰かが素敵な笑顔で挨拶をしてくれたり、声を掛けてくれても「ごきげん」になるだろう。
そう考えてみると、今の社会は日本だけではなく世界中に、「ごきげん力」が不足しているのかも知れない。
「ごきげん」に国境はないだろうし、言葉や宗教、イデオロギーも関係はない。
「Smile. グリコ」は、そんなことを考える切っ掛けかも知れない。
お盆で帰省中、父と何度かJRを利用した。
この春、自動車免許を返納した為にJRで出掛けることとなったのだが、その時「高齢者になること」ということを実感した。
と同時に「バリアフリー」の意味を、考えてしまったのだった。
実家の父は、母が亡くなった後「独居老人」状態でもひとりで家事をし、ご近所づきあいも積極的にしてきた。
免許を返納した後は、電動アシスト自転車でスーパーへの買い物をし、地元のバス会社の「高齢者向けパス」を使い、病院や月命日のお墓参りなど、クルマのない不便さをカバーしてきた。
ひいき目かも知れないが、ご近所の同世代の高齢者と比べても、行動的で自立した生活をしていると思っている。
そんな父が、JRの自動券売機の前で「固まって」しまったのだ。
何故だろう?と、父の姿を見ていると、自分が行きたい先の切符の値段が瞬時にわからないのだ。
それだけでは無く、自動券売機で切符を買うシステムが判っていないらしい。
直ぐに私が券売機で切符を購入したのだが、「何故、固まってしまったのか?」と考えたときに「バリアフリーって何だろう?」と、思ったのだった。
父が固まった理由の「行き先の切符の値段がわからない」というのは、券売機の上にある路線図が良く見えていないことが要因だったようだ。
高齢者になると、券売機の上にある路線図そのものを見ることが、一仕事となってしまっているのだろう。
実際、名古屋の地下鉄の券売機でも高齢者(に限らずだが)が、券売機の前で路線図を眺めながら困った表情で固まっている姿を見かけることがある。
それから、行き先の切符の値段がわかり、お金を入れようとしてもとても入れにくそうなのだ。
「慣れ」と言う部分も大きいとは思うのだが、もう少し「買いやすい券売機」という発想があっても良いのでは?と言う気がしている。
例えば、券売機の画面に路線図が表示され、表示された駅名をタッチすれば料金が表示される、とか硬貨の投入口もやや大きめにしたり、お札を入れるタイミングなどもゆっくり入れても「料金を入れて下さい」と自動音声が流れないなどの工夫があれば、随分買いやすいのでは無いだろうか?
私なども名古屋市交通局や名鉄が発行している電子マネー「manaca(マナカ)」のチャージをする時、わずかなタイミングのズレで「料金を入れて下さい」という自動音声が流れると、焦ってしまうことがある。
高齢者となれば、ますます焦ってしまうのではないだろうか?
これまで「バリアフリー」というと、段差が無いとか通路が広い、エレベーターやエスカレーターが設置されている、といったことを指すコトが多かった。
確かに、車いすやベビーカーを利用している人が動きやすいと言うことも「バリアフリー」だと思うのだが、「高齢者が自立した生活がし易い」ということも「バリアフリー」なのではないだろうか?
少なくとも、比較的経済的余裕のあるシニア~後期高齢者が、気軽に乗り物を使って出掛ける為のハード面での充実という視点も必要だと思う。
「高齢化社会」と言われて久しい日本だが、「健康高齢者が、生活し易い社会」という視点での「バリアフリー」を考える時期にきている様な気がする。
今年の初夏くらいから、地方議員さんたちの「不祥事」が、ニュースになることが多くなってきた様な気がした。
一番話題になった(?)ニュースと言えば、東京都議会での「セクハラ野次」と兵庫県の「号泣議員」さんだろう。
他にも、大阪府議のLINE騒動→丸刈りや札幌市議のtwitter炎上などのニュースもあった。
しかし、これまで何故かこの様な報道がされてこなかったのに、急に報道されるようになった感があり、不思議だった。
その「不思議」の理由を、今朝のFM番組で知り驚いた。
国会議員などに対しては、メディアそのものの注目度も高く、様々な報告をする義務がある。
ところが、今まで地方議員にはその様な「条例」というか、「約束事」が無かったらしいのだ。
言うなれば、地方議員さんたちは「議員」という公職に就きながら、自由気ままに活動してきた、と言うことらしい。
「それではいけない!」と言うことで、この春から「条例」の様なカタチで「地方議員の活動規約」の様なモノが、適用される様になったらしい。
その為に、最近やたらと地方議員さんたちの「不祥事」がニュースとして取り上げられる様になってきた、と言うのが理由だという。
「自由気ままに活動」できるので、田舎に行くと議員さんへの付け届けで就職を斡旋して貰ったりするコトも慣例化していて、「就職に強い議員・政党は○○。××さんには福祉関係をお願いすると良い」という暗黙の了解のようなものができていたりする。
「地方議員」の存在意義のようなものは、その様なモノが多く「地方行政をより良くする為の活動」など、最初から期待されていなかったのかも知れない。
だからこそ、国政レベルではライバルではずの政党が相乗り・支援をする、と言うのは決して珍しいことではないし、そのコトに違和感を感じる有権者も少ないだろう。
「国は国、地方は地方」と言いながら、「国政のほうが、有権者にとって身近」で「地方行政には関心が無い」というのが、実態なのかも知れない。
だからこそ、「地方議員に対する条例」の様なモノが、今まで必要では無かった、とも考えられる。
その一方で、ここ数年話題として取り上げられる様になってきた「道州制」がある。
「国で決める必要のあることは国で。地方が行うべきことは地方に権限を移し、より身近な政策と地域の実情に即した行政を行う」という点で注目(?)されている制度だ。
この制度に積極的な自治体の首長さんたちと消極的(?)な自治体との温度差というのは、案外上述した様な「これまで自由気ままで、責任を問われることが少ない」という感覚の違いなのかも知れない。
選挙民である有権者も地方議会に対する興味・関心は低く、本来であれば「一番身近な政治」であるはずなのに、「一番遠く身近では無い政治」になってしまった結果なのかも知れない。
何より「就職などの口利き」が、地方議員の役割になってしまっていたことが、地方議会を遠いモノにしてしまったのだろう。
昨日、実家から戻ってきた。
今年のお盆は、連日の雨降りでお墓参りや仏様の迎えも送りも、雨の中。
何より、この春父が自動車免許を返納した為、公共交通機関を使っての連日の移動。
タイムスケジュールを合わせる事前リサーチも大変だったが、大雨による電車の遅れが手痛いお盆だった。
そんなお盆だったのだが、お土産を買いに松江までJRを使って出掛けた。
地元は米子なのだが、「お土産」となるとどうしても松江まで出掛けてしまう。
理由は、和菓子・洋菓子の種類が豊富だからだ。
ご存じの方もいらっしゃると思うのだが、松江は茶事が盛んな地域。
その為、お菓子そのものも独特の発展をしてきた地域でもある。
そんなお菓子をいつもお土産として買って帰るのが、私の帰省の楽しみでもある。
ところが、いつも行く和菓子屋さんがお休み。
仕方無く、JR松江駅でお土産用のお菓子を買うことにしたのだが、私が知っている駅中のお菓子の売店ではなく、随分モダンで洗練された売店になっていて驚いた。
その中で一際目を惹いたのが、「生姜のコンフィチュール」。
値段をみると、1,300円もする。
「コンフィチュール」と言うと、なんだかおしゃれな感じがするが、言うなれば「生姜のジャム」。
「生姜のジャムに1,300円」出すのか?と考えると、やはり高い気がする。
しかし、そこにいろいろな物語が加わると、「なるほど・・・」と納得ができる。
私がこのジャムを買った大きな理由は、その「生姜」にある。
「出西生姜(しゅっさいしょうが)」と呼ばれる、「生姜」を使っていたからだ。
「出西生姜」というのは、出雲地方の中でも「出西(しゅっさい)」と呼ばれる狭い地区で生産されている生姜で、爽やかな辛みと香り、繊維の少なさが特徴の生姜。
そして「出西生姜」の株を、隣の地区で栽培しても同じ生姜ができない。
本当に狭い地区でしか栽培できない「生姜」なのだ。
とは言うものの、その様なことを知っている人は地元の人くらいで、ほとんど知られていないのが現状だろう。
父から「出西生姜」について、いろいろ話を聞いていた私は「美味しさだけではなく、珍しさや貴重性もあるのだから、この価格は当然だろうな~」と思い、購入したのだった。
おそらく、この「生姜ジャム」のように、その商品にまつわる話がキチンと伝えられ、その価値に納得することが出来れば、この1,300円という価格は、決して高いモノではないとおもう。
ただ、残念なことにこの様な「物語」が発信できていないと、その価値に納得できる人は少ないはずだ。
バブルの頃、「商品に物語性を加える」ということが盛んに言われた記憶がある。
バブル崩壊後は、その様な話が聞かれなくなってしまったが、地域の手間暇かけた農産物の加工品を販売するには、「新鮮・おいしい」だけではなく、この様な物語性もまた重要なポイントなのだ。
台風の11号は、全国各地に大きな被害をもたらして去って行った。
台風一過となった今日は、再び夏の暑い日となった。
暑くなると欲しくなるモノがある。
左党の方は「ビール」というコトになるかも知れないが、諸般の事情でアルコールはドクターストップのため、もっぱら「氷菓子」になる。
今日、買い物に出掛けた時スーパーのアイスクリーム売り場に、懐かしいパッケージのアイスクリーム(正しくは「ラクトアイス」だが)があった。
懐かしいパッケージと言っても、その商品そのものは「新商品」。
今まで慣れ親しんできた商品を「ラクトアイス」として、売り出したのだ。
その「慣れ親しんできた商品」というのは、「甘酒」。
以前から、フリーズドドライの甘酒などを販売していた森永製菓の新製品として、夏向け商品としてこの夏から発売した商品のようだ。
この「甘酒アイス」が登場ずるまでの経過を見てみると、生活者の生活志向の変化の様なモノを感じる。
俳句では「甘酒」が夏の季語というコトは、余り知られていないのかも知れない。
江戸時代の頃は、夏になると「甘酒売り」が登場しよく売れた、と言う。
それほど夏バテには、効果があるのが「甘酒」だったのだが、今の私達にとって「甘酒」は冬の飲み物というイメージが強い。
おそらく、初詣で境内で振る舞われる「甘酒」のイメージがあるからなのだろう。
そんな冬のイメージを変えたのが、ここ数年続く猛暑と「節電」という気がする。
と言うのも「熱中症対策」として、これまで上げられていた「スポーツドリンク」だが、大量摂取をすると体に良くない、と言うことが言われる様になってきた。
そこにテレビの情報番組などで紹介され、話題になっただけではなく、その前にあった「塩麹ブーム」もあり「味噌や醤油、お酒以外の麹調味料」が体によい、と言う認識が広まっていたコトも、「甘酒」という古い商品を今によみがえらせるコトが出来たと思う。
ただ、そんな話題を上手につかみ、じわじわと「夏の甘酒」という市場を作ってきた様な気がする。
もちろん森永だけではなく、麹を扱う企業なども「夏の甘酒=夏バテ防止、健康飲料」というPRをしてきた。
ただ「飲料」は手軽である反面、「冷たさ」を求めるには、やや弱い。
それだけでは無く、クックパッドなどでは「甘酒のアイス」などのレシピも掲載されている。
実際、私も作ったことがあるのだが、意外なほど簡単に作れる。
だからと言って、多くの人が積極的に「甘酒アイス」を作る訳ではない。
やはり手軽さや便利さと言う点では、スーパーやコンビニで買う方に軍配が上がるだろう。
何より、これまで「甘酒」に手を出しにくかった男性なども購入の対象となる。
その意味では「甘酒市場の拡大」がし易い商品、とも言える。
ちなみに食べた感想だが・・・当たり前だが「甘酒のアイス」だった。
「甘酒」独特の味と香りが苦手な方には、抵抗感のある商品だと思う。
そして、わずかながらアルコールが含まれている点で、お子さん向きだろうか?と・・・改善の余地はあるかも知れない。
お知らせ:明日12日からお盆休みのため帰省いたします。
その間、拙ブログのエントリができないと思われます。
みなさま、良いお盆休みをお過ごし下さい。