日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

日本にも「スラップ訴訟」と言論の自由

2022-05-31 20:48:53 | 徒然

Huffpostをチェックしていたら、いつか日本もこのような日が来るのだろうか?と、不安を覚える記事があった。
Huffpost:富豪や大企業が起こす「スラップ訴訟」言論の自由萎縮を懸念し、英政府が撲滅を模索

聞きなれない「スラップ訴訟」という言葉だが、大富豪や大企業が自分たちにとって不利な論調に対して訴訟を起こす、ということのようだ。
いうなれば、「いわれなき事実に対する、名誉棄損の訴訟」ということに、なるのかもしれない。

日本では、大企業のほかに対象となる人物の代表者は、皇族ということになると思う。
何故なら、日本で富豪といってもその多くの方々は、いわゆる企業の代表者のような肩書の方が多く、欧米の「富裕者」のように、先祖代々から引き継いだ財産による富裕者が、目立って社会で活動をしていないからだ。
それは、戦後のGHQの政策によるところが大きいのでは?と、考えている。
もちろん、日本全国各地には、その土地土地の「名士」と呼ばれる家系があるが、現在その「名士」たちの多くは、主要な地元企業の経営者となっている場合が多いのでは?と、考えている。

それ以外の対象者と考えると、やはり皇族の方々ということになると思う。
事実、昨年秋篠宮家の長女・真子内親王の結婚記者会見では、「事実と違ういわれなき物語が喧伝され、深く傷ついた」という趣旨の会見をしている。
その後、父親である秋篠宮殿下もご自身の誕生日会見で、「言論の自由は認めるが、行き過ぎた誹謗中傷は規制される必要がある」という趣旨の話をされている。

これまで、皇室に対して様々なことが言われてきた。
特に、今上天皇が皇太子時代のバッシングのようなものは、相当酷い内容だった。
中には「皇太子は、天皇になる資格はない」ようなコトまで公言され、雑誌等のメディアや「廃嫡運動」のようなコトまで起きた、という記憶がある。
そのような中でも、今上天皇とご一家は、じっと耐え忍ばれた。
現皇室に、訴訟を起こすということはできないにしても、宮内庁等がメディアに対して積極的に「言葉を慎むように」ということを働きかけた、ということもなかったように思う。
そのような過去の事実があったことから、秋篠宮殿下の誕生日会見での「誹謗中傷は、規制される必要がある」という発言が、多くの人たちから反発を招いたような気がするのだ。

そして、今月秋篠宮殿下にインタビューをした内容の書籍が発売され、Amazonのレビューの中でも低評価の内容が削除される、ということが起きた。
Amazon側は、書籍購入者以外の評価を削除した、という理由があったようだ。
とすれば、他の書籍レビューに対しても、同様の措置がなされなくてはならないのに、どうやらこの措置がこの本限定のようだ、ということで再び「言論統制では?」という、指摘がネット上でされるようになったのだ。

「自分にとって、耳の痛い話」というものは、数多くある。
確かに、誹謗中傷といわれるものも少なくはない。
中には、個人的不満のはけ口として批判をする人達もいるコトは、事実だ。
それらすべてに耳を傾け、真摯に受け止める必要があるのか?と言えば、決してそうではない。
ただ、「社会の中にあることば」の多くは、「その社会を反映している言葉」でもある。
耳障りの良い言葉だけが、社会を反映する言葉ではない。

社会的に力(=権力)を持った人たちが、「気にくわないから」という理由で訴訟を起こすようになれば、それは「言論統制」へと繋がっていく。
「自由に自分の意見が言える」という社会は、個々の人たちの「自制」によって成り立つ成熟した社会でもあるのだ。
一方的に「傷ついた」と騒ぐだけではなく、「社会を反映する言葉」として当事者同士だけではなく、社会全体で受け止める必要があるだろうし、「間違っている!」と感じたら、感情的ではない声を上げていく必要があると思う。


楽器のヤマハが、ネットワーク技術者を養成する理由を考える

2022-05-30 11:20:18 | ビジネス

毎朝、新聞とは別にネットニュースのチェックをする、というのが最近の習慣になっている。
やはり、紙媒体である新聞だけでは、モレてしまう情報やニュースがあるからだ。
当然、ネットニュースには「広告」が付きものなのだが、そのような広告にも、企業の動き等が分かる事がある。
今朝、たまたま目に留まったのが「ヤマハのネットワーク技術者養成」という広告だった。

「ヤマハ」というのは、楽器製造・販売を世界的に展開している「ヤマハ」のコトだ。
そのヤマハが、「LANネットワーク技術者養成」プログラムを展開しているのだ。
ヤマハ:ヤマハネットワーク技術者認定試験

ヤマハが楽器の講師養成ではなく、ネットワーク技術者の養成?と、不思議に思ったのだ。
このようなネットワーク技術者の認定試験は、独立行政法人の情報処理推進機構が実施している「ネットワークスペシャリスト試験」が一般的に知られていると思うのだが、民間企業がこのような技術者養成のプログラムを展開する、というのは珍しいような気がする。
そもそも、楽器製造の企業がIT産業の技術者養成、ということに違和感があった。

その疑問は、ヤマハのサイト内にあるインフォメーションやニュースリリースを見て、何となく理解することができた。
というのも、ヤマハはLAN機器等を含むネットワーク製品を発売している。
NECやBuffalo等の通信機器の企業ではない、ヤマハがネットワーク機器事業に参入するには、それなりの理由があってのコトだろう?と考えられるからだ。
それは、IT等の技術の進化によって「音楽を演奏する・音楽を聴く・ライブを観る」という、「音楽にまつわる環境の変化」が大きく関係している、ということからなのでは?という気がしたのだ。
特に、ライブ配信等はデータ量としても多く、LAN等のネットワークシステム構築には、ZOOM等とは違う考えが必要なのかもしれない。
コンサート会場等での、音響を事業の一つとして展開してきたヤマハとしては、コンサートや映画館、ライブ感のあるスポーツ施設等でのネット配信等は、それまでの事業の延長にあるということなのだろう。
だからこそ、その為の技術者の養成が重要だと、考えたのではないだろうか?
その考えは、ヤマハが音楽教室の先生を養成することで、全国各地に「音楽教室」が展開できた、ということと似ているような気がしている。

情報処理推進機構の「ネットワークスペシャリスト」のような一般企業向けではなく、ライブ会場等の配信に対応できる特化したネットワーク技術者の養成ということなのでは?と、いうことのように思える。



「炎上商法」とマーケティング

2022-05-29 21:28:26 | マーケティング

日経新聞のWebサイトに、ビジネスパーソンであれば、是非目を通しておいてほしい、という記事があった。
日経新聞:気づけばステマで大炎上 行動経済学の失敗防ぐ5カ条

まず記事を読む前に使われている画像を見て、この商品について思いだされる方も多いのでは?と、想像している。
今の春「効果が期待できない」として、消費者庁が「景品表示法に基づく措置命令」が出された商品だからだ。
消費者庁:大幸薬品株式会社に対する景品表示法に基づく措置命令について (注意pdfファイル)

この措置命令については、「なぜ今頃?」と疑問を持っている方も、少なからずいらっしゃるとは思う。
何故なら、この商品は「コロナ禍」になる数年前から、登場した商品だからだ。
「景品表示法による措置命令」ということであれば、商品が発売された直後にでなくてはいけないのでは?と、感じてしまうのだが…という疑問はさておき、措置命令が出された理由は、「テレビCM等で謳われているような効果が認められない」という内容だった。

生活者の多くは、「商品やサービスの情報」をテレビCMや様々なメディアから得ている。
最近では「インフルエンサー」と呼ばれる、著名人を使いSNS等で「商品やサービスのある生活」をさりげなくアピールすることで、テレビCM等とは違う広告を出すようにもなってきている。
言い換えれば、「広告」そのものの表現場所が、以前より多くなり、生活者に対して多面的になってきている、ということでもある。

この中で問題として挙げられるのが「インフルエンサー」による、SNS発信の広告の在り方だ。
SNS上(だけではないが)で、最近頻繁にみられるようになってきた「インフルエンサー」による広告。
ほとんどの場合、「AD」とか「Promotion」という文言を、何気なく小さな文字が左隅等に表示されるようになっている。
見落としそうなほど、小さな文字の時も多いのだが、一応表示することによって「広告」ということを表している、ということになっている。
それが、「インフルエンサー」を起用した場合、「どこまでが広告で、どこからが広告ではないのか?」という線引きが、わかりにくい、という問題が起きている。
特に、著名人ではなく、SNSのフォロワーが多い一般の生活者を起用した場合、このような問題が起きやすくなっているのでは?と、考えている。
その理由は、「フォロワーが多い=インフルエンサーである」という、意識をどれだけ持っているのか?という点だろう。
もちろん、このような場合は商品やサービスの提供を受けているので、当事者としては理解しているはず、と企業側が思っているはずだが、そこに認識のズレが起きてしまうと、「ステマ」と化し、炎上してしまう可能性が出てくる、ということなのだ。

マーケティングの要素の中に「Promotion=広報」が含まれている、ということは拙ブログに来られる方なら、よくご存じのはずだ。
仕事として日頃意識的に考えているのであれば、その「線引き」をはっきりさせることも可能だろう。
しかし、SNSのフォロワーが多いというだけで、その「線引き」をはっきりさせることができる生活者がどれだけいるのか?という点が問題なのだと思う。
SNSでの「インフルエンサー」起用は、企業にとってメリットが多い(はずだ)。
だからこそ、担当者は「インフルエンサーの起用」について、はっきりとしたガイドラインのようなものを設け、両者の間で理解と情報の共有をする必要がある、ということなのだと思う。

上述した「クレベリン」の問題に関しては、Diamond on-line で疑問の記事が掲載されている。
ご興味のある方は、ご一読願いたい。
Diamond on-line:消費者庁の露骨な「クレベリン潰し」、背景に片山さつき氏の影がちらつく空間除菌連?


情報発信力について考える

2022-05-27 21:48:01 | アラカルト

SNSの中でも若い人たちが使っている、と言われているTikTok等をほとんど見ていないのだが、ここ2,3年のヒット曲は、TikTokから人気になったモノが多いという話を聞いたことがある。
ご存じの通り、TikTokは動画として流せる時間が、とても短い。
短い時間で、人を引付させる為に、イントロがなく演奏時間も短いものがヒットする、といわれるようになってきた。
今やTikTokは、立派な広告メディアとなっている、ということなのだと思う。

他にもLineの動画「Line Voom」やInstagramでは、自分とは全く関係のない「おすすめ動画」が、勝手に流れてくる。
それはMetaのFacebookの「Watch」についても同じだ。
あまりにも関係のない「おすすめ動画」を消すために、それなりの労力を使うことになるのだが、勝手に流れてくる動画を消す度に気づくことがある。
それは、日本人が発信している動画よりも「中国からなのでは?」と思われる、動画が全体的に多いという点だ。
言論統制の厳しいはずの中国から、大量に発信されている個人動画を消す為に労力を使う、という状況になっているのだ。
内容も、「料理をしました」のような「生活の知恵公開」のようなものが多いコトを考えると、政治的な要素がないので中国当局も野放しにしているのかもしれないし、逆に「言論統制等していません」アピールなのかもしれない。
ただこのような傾向は、アジアから発信されている動画全体の傾向かもしれない。

一方、日本から発信される動画の多くは、Lineでのやり取りを公開する文字と音声による内容が多く、それも「腹いせ」というと言葉が悪いのだが、相手の不倫やDV等を懲らしめてやったような、内容がほとんどだ。
他に見受けられるのは、テレビ番組の一部を切り取ったようなものが、目立つような印象を持っている。
すなわち、私が必至になって削除したりブロックしたりしている「SNSの動画」には、国や地域によって随分違っているものの、日本人個人が発信しているものが全体的に少ないような印象ということなのだ。

もちろん、日本では「ユーチューバー」と呼ばれる人たちがいる。
中には、ユーチューバー専門の事務所まである(すでに、過去形かもしれないのだが)。
YouTubeとSNSの動画の大きな違いは、その動画映像の長さだ。
SNSの動画は、3分程度がほとんどで「見る側を飽きさせない」という、時間設定になっている。
一方、YouTubeは10分以上の内容が多いような印象がある。
上述したように、ヒット曲の傾向から見る「楽曲の短さ(=TikTokの長さ)」と、SNSの動画はほぼ同じくらいの時間なのだ。
それが「動画を作る」という、ハードルを下げているのかもしれない。

「動画を作る」という、ハードが低くなっているのは日本でも同じはずなのだが、アジア諸国の中でも特に中国からの情報発信が多いというのは、とても興味深いものがあると思う。
もしかしたら、日本の情報発信下手が、このようなSNS上でも起きているのだろうか?







不満をビジネスに買える(変える)

2022-05-26 19:51:13 | ビジネス

今朝、FM番組を聞いていたら、マーケティングに携わる者として「ついに!」という話があった。
それは「不満買取センター」というビジネスモデルが、注目を浴びている、という話だ。
サイトを見るとわかるのだが、「不満」をこのサイトでプレゼンテーションをし、その内容によってポイントが付く、というビジネスモデルだ。
もちろん、このような内容だけで、サイト運営ができるはずがない。
このサイトは「生活者の不満を企業に結び付ける」コトで、収益を上げている(=ビジネスモデル)のだ。

本来であれば、企業のマーケティング担当者が「生活者の不満や問題点」を探し歩くはずなのだが、今の生活者のように多面的で考え方や思考が、多方面にわたっていると、一人の生活者の持っている「不満や問題点」そのものを探る労力というものは、果てどないモノとなってします。
このような場合、「カスタマーセンター」等と協力しあうことで、利用者や生活者の「不満や問題点」を探る、ということになる。

しかし、「カスタマーセンター」に寄せられる内容の多くが、一過的な感情に任せたような不満が多くなると、「生活者の不満や問題点」そのものを見つけにくくなってしまう。
まして今の「カスタマーセンター」は、いわれなき不満をぶちまけられる「心病むような感情労働の場」の一つとなっている。
そのような企業側にとって、リスクとなりかねない問題点を、「買い取る」という方法で、企業へ橋渡しをするというのは、面白い発想なのでは?と、思ったのだ。

「不満買取」といっても、上述したような「カスタマーセンターの担当者が心病む」ような不満の伝え方では、「買取」の対象とはならない。
買取判定を行うのは、人ではなくAIなのだ。
感情に任せた口汚い不満を並べても、「買取対象」とはならない、ということになる。
「不満」ではなく「改善の提案を行う」という、発想が必要となってくるのだ。
言い換えれば「不満を伝える側(=不満を買取ってもらう側)」にも、それなりの理由や根拠となるモノが必要になる。
それだけではなく、「その理由や不満の根拠」から「どうして欲しいのか?」という改善点を伝える必要が出てくる。
いうなれば「改善のプレゼンテーションを行う」という、ことなのだ。
それを判定するのがAIということになれば、自分の不満ばかりとつらつらと述べたところで、AIには響かない。
違う言い方をするなら「AIから共感性を引き出すことはできない」ということになる。

今という時代だからこそ、このようなビジネスモデルが、誕生したのだと思う。
しかも「不満(=問題点)を買取る」という方法は、とても興味深い。
これまで「80%のサイレントコンシューマー(=不満を持った物言わぬ購入者)」を掬い上げ、それを商品やサービスに結び付けよう、という様々な試みはされてきたはずだが、効果的であった!という方法を見つけるコトができないでいた企業は、数多くあるだろう。
それが、「改善」というアプローチで、企業側に提供されるというのは、企業にとって大きなメリットだ。

そのように考えると「不満買取」というビジネスは、「生活者の御用聞き」であり「企業が十分にできなかった新しいワンクッション置いた、生活者とのコミュニケーションツール」ということになるのかもしれない。
このようなビジネスが、低迷する日本経済を変えるきっかけを作っていくのかもしれない。
提案を受けた企業が真剣に「生活者からの改善点に耳を傾ければ」の話だが。





ITとかAIの時代でも、根底にあるのは「人」

2022-05-24 20:54:44 | マーケティング

先週末から、実家に帰省していた時に感じたコト柄を、拙ブログに書いているのだが、改めて「行政におけるマーケティングの重要性」ということを感じた帰省でもあった。
「行政におけるマーケティングの重要性?」と、思われる方も多いと思う。
日本では「マーケティング=ビジネス(=お金儲け)」という、とらえられ方をされている部分が多いからだ。
確かに、「マーケティング」の中で重要なことの一つは「収益を上げる」という点も含まれている。
しかし「収益を上げる」必要があるのは、企業だけに限ったことではない。
例えば、行政における市民サービス。
税収がキチンと確保されていなければ、市民サービスを提供することができない。
行政における税収は、企業における収益のようなものでもあるのだ。
そのような視点を持って考えたとき、行政であってもマーケティングの発想は、とても重要なのだということが分かると思う。

さて、そのようなことをつらつらと考えるきっかけとなったのは、米子市と地域のバス会社が始めた「1日乗車券」のチラシを見たからだ。
米子市広域公共交通ポータルサイト:Y-MaaS わいわいバス

高齢者社会になり、その中でも鳥取・島根の両県は、他の都道府県よりも高齢化が進んでいる、といわれている。
実際、実家に帰省する度にご近所の方々の高齢化は、目立つ。
高齢化が目立つだけではなく、空き家もチラホラ見受けられる。
いわば「日本の高齢者社会の縮図」のような地域でもあるのだ。
そのような状況を打開するということを目的として、このような政策を打ち出したのだと思われるのだが、果たして「使う人」をどれだけ想定しているのだろうか?という、疑問をザっとチラシを見ただけで感じてしまったのだ。
例えば…
①事前登録を必要としている
②スマホ以外は使えない
③ルート検索等ができない
等があるからだ。

①については、事前登録を必要としているとすれば、利用者は米子市に住んでいる人か、米子市に定期的に用事がある人ということになる。
この情報が全国的に知れ渡っていれば、観光で米子市を訪れる人が事前登録をするだろうが、1回しか使わない1日乗車券の為に事前登録をするだろうか?
②だが、意外に思われるかもしれないのだが「スマホ」そのものを持っていない。あるいは海外仕様の為日本国内で使用できるのか不明、という場合があるのでは?ということなのだ。
確かにスマホは便利なツールだが、そのスマホを使いこなせない人たちは、最初から除外されている、ということになる。
ユニバーサルサービスという点で、どうなのだろう?
③ルート検索等の使い勝手については、まず自分がどこにいてどこへ行きたいのか?という状況を把握する必要がある。
観光客の多くは、「〇〇に行きたい、✕✕へ行ってみたい」という場所はあっても、そこまでのルートを把握しているわけではない。
そのためのナビゲーションだけではなく、いつ自分の行きたい場所へ連れて行ってくれるバスが来るのか?という把握ができなければ、ストレスを感じてしまう。
「使う人の気持ちや行動」に、どれだけ応えられているのだろうか?という、疑問を感じたのだ。

運営の名前に「MaaS」という言葉を使っている通り、新しい交通システムとして運用を考えているということが分かる。
分かるのだが、それが「人」に対してどうなのか?という、視点が無ければ「システム」として効果的なモノではない。
マーケティングにおける「誰を対象に、どうすれば問題が解決できるのか?」という、当たり前の視点があまり感じられないのだ。
ITだ!AIだ!といったところで、それらを使う「人」の姿を見なくては、費用をかけたのに効果が低いシステムということになってしまう。
実際、国が行ってきた様々なIT関連の事業が、利用者が少なく事業が打ち切られてしまう理由も、同じだろう。
だからこそ、行政にもマーケティングの基本となる視点が、必要なのだと思うのだ。


「日本人らしさ」の一つかもしれない‐マスクをめぐる様々な動き‐

2022-05-23 14:28:56 | アラカルト

Yahoo!のトピックスを見ていたら、「なるほどな~」という記事があった。
新聞等に掲載をされた記事ではなく、Yahoo!独自の記事だ。
Yahoo!オリジナル:日本人のマスク着用率の高さは、意地悪な性格の裏返し?スパイト行動とは

ここ数日、昼間は真夏日を感じさせるような暑さが続く名古屋。
当然、この暑さの中マスクを着用して出かけていると、その体感温度は実際の気温よりも高く感じている人が多いのでは?
「コロナ禍」になった直後の今頃、「マスク熱中症」になりかけた私は、マスクを着用するよりもマスクを外す生活をするようにしている。
当然、世間の目は厳しく冷たいものではあるのだが、自分の体調を崩す原因が分かっていながら、体調を崩すことを優先する気はないし、体調を崩し寝込むような状況になったとしても、世間が助けてくれるわけではない。
その状況が分かっているからこそ、「感染リスクの少ない状況であればマスクを取る」という選択をしてきた。
そして、先日やっと国から「マスクを外すガイドライン」のようなものが発表され、「マスクを外す」コトが社会的に容認された気がした。

とはいうものの、Yahoo!等のコメントを読むと「これで感染が再び拡大したらどうするのだ!」という意見がある。
この「再び感染拡大をしたらどうするのだ!」という、思考の根底にあるのがこの「スパイト行動」ということなのでは?という、気がしたのだ。
そしてこの「スパイト行動」は、古くからあったのでは?という点でも、納得してしまったのだ。

というのも、日本は「暗黙の監視社会」ということが言われてきている。
「暗黙の監視社会」というと大げさな印象があるが、「自分が不利益を感じているコトを、他者がその不利益を得ていない」ということを、互いに監視しあっている、ということなのだ。
そのような「不利益を被っている」と感じるものは様々で、それこそ「個人の感じ方」なのだが、それが社会全体の「暗黙の了解」となってしまっているのが、日本の社会であるということなのだ。

悪いコトばかりではないとは思う。
それが「人に迷惑を掛けない」という、行動規範となっている場合も多々あり、それが災害時等では発揮されているからだ。
このような「人に迷惑を掛けない」という行動は、世界から称賛され「日本の精神を見習おう!」ということにつながっている。
すなわち「スパイト行動」の裏返しとしての、「日本人らしい公共性の高さ」ということになっているのでは?と、考えられるからだ。

ただここにきて、この「日本人らしい公共性の高さ」が、マイナス要因になってしまっているように、感じている。
それは「自分で考える」ということと「寛容性」の放棄という点だ。
違う言い方をするなら「自己的視点でしか、物事を見ていない」ということになるのかもしれない。
「他者の視線を気にした行動」であるはずなのに、それがいつの間にか「自分が不利益を被っているのに」という、自己的なモノの見方で判断をしてしまっている、ということだになるのだと思う。
だからこそ、国がガイドラインを発表しなくては「安心」できなかった、ということでもあるのだろう。



ADC受賞を考える、日本の広告のありかた

2022-05-22 19:54:30 | マーケティング

一昨夜、一つの広告賞受賞のニュースが飛び込んできた。
受賞した広告賞というのは、ADC賞と呼ばれるアメリカの広告デザインに対する賞だ。
Art Directors Clubが主催する世界で一番古い広告デザイン賞でもある。
その意味では、「広告のカンヌ賞」と呼ばれる、「カンヌライオンズ賞」よりも、権威ある賞と言えるかもしれない。

その賞を、日本の「日本タンナーズ協会」という団体が制作した作品が、受賞をしたというのだ。
WWD:篠原ともえの革の着物作品が世界的広告賞、ADC賞で2冠達成

見出しだけを見ると、広告賞と篠原ともえさんの着物が結びつかない。
WWDの記事中にある、動画を見て初めてその関係が分かる。
プロモーション(=広告)動画としては、とても地味なつくり方だと思う。
使われている色が「墨」一色で、その濃淡によって表現をされ、まるで「水墨画」のような雰囲気だ。
しかもこの着物の素材は、獣害として処理をされたエゾ鹿の革の捨てられる部分を使って、誂えられている。
この動画を見てわかると思うのだが、受賞をした「日本タンナーズ協会」というのは、日本の皮革染色の事業者が集まった協会なのだ。
その「日本タンナーズ協会」が、デザイナーとして依頼したのがタレントの篠原ともえさんだった、ということになる。

ある一定世代以上の方々にとって、篠原ともえさんという名前よりもシノラーという愛称の方が、親しみがあるかもしれない。
シノラーと呼ばれていた頃はカラフルというよりも、奇抜さを感じさせるようなファッションを、自分でコーディネートをされていた。
一方、篠原さんご自身は、服飾に興味があるということで、服飾関係の学校へ進学し、服飾の基礎を学ばれている。
単なる奇抜なファッションを着て、目立つようなコトをしていたわけではないのだ。
ということは、この日本タンナーズ協会は、タレント兼デザイナーのシノラーではなく、デザイナー・篠原ともえさんにこのプロジェクトを依頼した、ということになる。
だからこそ、篠原さんご自身が「皮革とは?」というところから勉強をし、皮革染色や縫製といった工程に携わってこられたのだろう。
革きゅん公式チャンネル:篠原ともえが革のプロフェッショナルたちとつくる、エゾ鹿革きもとは

これらの過程を含め今回の広告デザインの賞受賞となったのか?という点は不明だが、「日本のモノづくりの原点」のようなものを広告として作り上げた、という点はこれまでの広告の在り方と違う気がしている。
もちろん、このようなプロジェクト型の広告には、大手広告代理店が関与している可能性は高いのだが、その「大手広告代理店がつくりました」感が感じられない、という点もこの広告賞受賞の大きな要因となったのでは?という気がしている。
それは「モノを売る」というのではなく、「文化を伝える広告」というアプローチがされているからだろう。

と同時に、昨今の「反毛皮・反皮革」の動きに、一石を投じているようにも感じる。
それは、害獣駆除として処分されたエゾ鹿の革を最大限有効活用している、という点だ。
豚や牛のように、家畜として飼育され、食料化された副産物としての「皮革」。
今回のように、自然環境を守る為に害獣として扱われた動物の「皮革」。
動物保護団体等が、声高に反対をしているが「なんでも反対をするのはどうなのか?」という考えに、疑問を呈しているようにも思えるのだ。
「いただいた命のすべてを使い切る」という文化が、日本にはあり、その文化を声高に叫ぶのではなく、この着物の色調のように「静かに」訴えている、という点でも日本的であり、日本のものづくり文化を伝えているような気がするのだ。

いずれにせよ、日本タンナーズ協会、篠原ともえさん2冠受賞おめでとうございました。







駅前商店街に、大型駐車場を?

2022-05-20 20:13:49 | ビジネス

帰省をすると、様々なヒントを得ることがある。
年々寂れていくばかりの駅前商店街に、商店街にあった古いお店を改装し、若い女性がジュース専門店を開業した、というニュースがあったりした。
若い女性が、シャッター街と化している商店街で、しかも古いお店を使ってジュース専門店を開業する、というのはちょっと驚きだった。
地域活性化を兼ねた支援資金援助等を得ての開業なのだが、この先経営し続けることができるのだろうか?と、心配してしまうほど、駅前商店街はさびれている、と言っても過言ではないかもしれない。

特に、商店街にあったアーケードの屋根を取り払った後は、シャッター通りと化していたこともあり、「商店街」という雰囲気すら感じられなくなっていた。
立地という点だけで考えれば、なかなか厳しい事業のスタートなのでは?と、心配するほどだ。
そのような心配をご近所の方に話したら、案の定…というか、想定内の答えが返ってきた。
それは「多分、行かないと思う」という言葉だった。
では「行くとしたら、どんな条件?」と、畳みかけるように聞くと、「駐車場があればね」という答えだった。

東京の住宅地の私鉄沿線のような環境とは違い、「駅に行く」為の交通手段がクルマになっている地域では、「駐車場がない」という理由だけで、行きたいという気持ちにはなれないのだ。
例えおいしい食事処があったとしても、「出かける」という気持ちを起こさせるのは、駐車場の有無なのだ。
これまで「駅前の商店街」という立地だけで考えていたのだが、「その駅前に行く」為にどんな行動をするのか?という視点がすっぽり抜け落ちていたような気がしたのだ。
想像でしかないのだが、日本各地にあるシャッター街と化した駅前商店街は、同じような状況なのでは?という、気がしたのだ。

とすれば、駅前という立地の思い込みを外して、商店街そのものを「平場のショッピングモール」と考える必要があるのでは?と、思ったのだ。
もちろん、既存のショッピングモールのような雰囲気にはならないが、その分個々の店舗の個性というものが出しやすくなるはずだ。
老舗といわれるお店であれば、老舗らしさに新しさというエッセンスを足す。
新規事業体であれば、古い商店街に新しい息吹を吹き込ませるようなアイディア。
そのような「個々のお店の個性の集合体」としての「ショッピングモール」という、発想の転換が必要なのでは?ということなのだ。

それを支える一つの条件として、集約的な「大型駐車場」がある事で、「駅に出かけた次いでに買い物をする」という目的ではなく、「商店街そのものに遊びに行く」という感覚になっていく可能性があるのではないだろうか?
米子の駅前というのは、飲食店が乱立している感がある。
その多くは、出張等のビジネス需要を見込んでいるのでは?という気はするのだが、今後もビジネス需要が続くとは限らない。
とすれば、「コロナ禍後」を見据え車で来ても駐車場の心配をすることなく車が置け、帰りは駅前からタクシーで帰ればよい、という安心感の提供ということにもなるのでは?
翌朝、駅前まで公共交通機関で来なくてはいけない、という問題はあるのだが・・・。






パッケージも広告の一つ

2022-05-19 21:15:29 | マーケティング

日曜日から昨日まで、実家の父の様子見の為の帰省をしていた。
高齢者だからというわけでもないのかもしれないのだが、わずかな間で「できなくなる行動」や「記憶の低下」等が急激に増えるコトがある。
そのチェックを兼ね、様子見帰省は必要なのだ、と実感するこの頃だ。

そのような事情はともかく、帰省する度に一つ楽しみにしていることがある。
それは、在来線(伯備線)から新幹線に乗り継ぐ、新幹線側の岡山駅での買い物だ。
買い物といっても、車中で食べるちょっとしたお菓子なのだが、お目当てとなっているものがある。
それは「JRプレミアムセレクト瀬戸内」だ。

例えば、岡山県内で生産される黒豆と蒜山高原のミルクで作られた、チョコレートなどがある。
シンプルな茶色のパッケージに、商品写真が印刷されているというだけのパッケージなのだが、逆にそのシンプルさがあるからこそ、販売されている商品一つひとつにある「物語」となるコピー文を引き立て、安心感を与えているような気がする。

そして今回、購入したときに手渡された紙袋を見て、「広告とは?」ということを考えてしまった。
手渡された紙袋というのは↓だ。


岡山らしく「桃太郎」が描かれている。
もちろん、全国各地には「桃太郎伝説」があるので、「岡山だけが桃太郎ではない!」と、言われる方もいらっしゃると思うのだが、以前から岡山では「桃太郎」を観光PRキャラクターとして起用してきた、という流れがある。
岡山名物の「きびだんご」等も、その一つだろう。

実は、岡山駅で買い物をする前、実家のある米子駅でもお弁当等の買い物をしている。
この時渡された紙袋は、「駅の売店で買いました」感のある紙袋だった。
「駅の売店で買いました」感のある紙袋が、悪いわけではない。
ただ、岡山駅で手渡された紙袋を見て「岡山のPRの為の紙袋」という気がしたのだ。
と同時に、旅で味わう「思い出のカタチ」としても、面白いな~と思ったのだ。

例えば、この紙袋でお土産を友人・知人に渡せば「岡山に行った」ということが分かるだろう。
そこから「岡山での旅の話」へと繋がっていくのでは、無いだろうか?
とすれば、この紙袋は「紙袋」ではなく、一つの「コミュニケーションツール」としての役割も持っている、ということになる。
当然だが、岡山という場所のPRも兼ねている。

昨今のSDGsの流れから、様々な場所で買い物をしても「エコバッグ持参」が、求められるようになってきた。
そのことに反対する気はないのだが、ただ地方の旅をし、このような紙袋で買ったお土産を渡されたとき、買い物をした人はどんな気持ちになるのだろうか?ということなのだ。
「エコじゃない!」と思われる方もいらっしゃると思う。
私のような「素敵なアプローチだな」と、感じる場合もあるだろう。
ただ、地方の地域活性化という視点で考えたとき、その地域全体のPRとしての「パッケージ」の在り方、ということも大切なのでは?と、考えたのだ。
特に、旅に関連するモノであれば、そのパッケージは旅の思い出にも繋がっていくのではないだろうか?