日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

医療にも「コスト重視」の時代になってくる

2018-02-27 22:33:30 | アラカルト

先週、ある大学病院が開催した「がん」についての講演会に行ってきた。
私自身が、がんという病気を経験したという理由が大きいのだが、今のがん治療は日進月歩で進んでいる。
8年前にはできなかったダビンチ(と呼ばれている手術ロボット)による前立腺がんの手術が、保険適用でできるようになってきたり、次々と新しいがん治療薬が登場し、話題になってきた。
患者自身が、がんという病気を知り治療についての情報を積極的に得なくては、最良の治療を選択することができなくなりつつある、という時代でもあるのだ。

新しい治療薬と言えば、数年前1年間の治療費で家が買える、と話題になった「オブジーボ」がある。
悪性度の高い皮膚がん「黒色メラノーマ」の治療薬として登場した、「免疫チェックポイント阻害剤」と呼ばれる新しいタイプの薬だった。
現在は、ある特定の肺がんなどにも使われるようになり、薬価そのものは発売当初の半分くらいまでに下がってきている。
特定のがん種だけではなく、様々ながん種にも適用されることで薬価が下がったことは、喜ばしいことだがその一方で、「高額な治療薬は、本当に患者の為になっているのか?」という議論も起き始めている。

「高額な治療薬」の保険適用は、逆に皆保険制度の負担を重くするばかりで、国民全体の利益に結びついているのか?という問題が起き始めている、ということなのだ。
上述した「オプジーボ」という免疫チェックポイント阻害剤は、これまでとは違う発想で誕生した新薬であり、日本の製薬企業・小野製薬が創り出したこともあり、日本では何としても保険適用ということはしたかったと思う。
それだけではなく、これまでような特定のがん種だけではなく、様々ながん種での適用が可能となる「汎用性の高いがん治療薬」という点でも、保険適用となっても国民の利益が十分にある、と考えられると思っている。

ただ、「オプジーボ」に代表されるような「これまでとは違う発想で創られた、汎用性の高い高額な治療薬」が、次々と登場してきているというのも、現状である、という話だった。
その一例となるのが、製薬会社・ノバルティスが開発した「急性白血病の治療薬・CAR-T治療」と呼ばれる、ゲノム治療(精密化治療)薬だ。
この「CAR-T治療薬」の場合、1回の治療が5千万円を超すという高額すぎるほどの治療薬なのだ。
「オプジーボ」の場合、薬価が下がる前で1年間で3,200万円で、「家が1軒買える治療薬」と話題になったが、それ以上の価格の薬なのだ。
効果よりも高額なコトがネックとなり、多くの患者に使えないと、医療の現場側からも批判(?)の声が、上がっているという(今回の公開講座で臨床医の先生のお話しだ)。
そもそも「急性白血病」は小児がんに多い病気で、「CAR-T治療」は完治の期待がされている。
ノバルティスが開発した治療薬とは違う手法で「CAR-T治療」の研究が米・中では進んでおり、日本でも多くの患者が受けられるような「CAR-T治療」の承認に向け、臨床試験を行う予定である、という話でもあった(最後は、病院の研究実績PRの話にだったような気がするが・・・苦笑)。

臨床医であっても、患者さんに経済的負担が少ない治療を目指す必要がある、という認識が生まれている、ということなのだ。
先日の公開講座の話から、これから先の医療は「高額な治療でも受けたい人」と「標準治療の範囲で最良の治療を受けたい人」へと2分化されていくような気がした。
しかし、皆保険制度の日本では「医療にもコストパフォーマンス」が求められる時代がきている、ということを実感しつつ、「標準治療で最良の治療を受ける」為には、どうしたらよいのか?ということも考えさせられたのだった。


「データ」は嘘をつく?

2018-02-26 16:46:16 | ビジネス

安倍内閣が打ち出した「働き方改革」だが、ここにきて雲行きが怪しくなってきた。
雲行きが怪しい理由は、基となるデータの信頼性が崩れ始めている、という点だ。
朝日新聞:「最長残業」根拠に首相答弁 違う質問比較
朝日新聞:残業データ異常値、新たに233件 厚労相が明らかに

日ごろから様々なデータを扱う人はもちろん、余りデータを扱わない人であっても「同一内容の質問」でデータを収集しないと、比較する意味が無いということはわかると思う。
何故なら、質問内容が同じだからこそ「比較」することができるからだ。
その前提条件が崩れてしまった場合、再度同じ質問内容で再調査をするしか方法は無い。
もちろん、対象者は前回の人とは別の人で行う必要がある。
データの客観性と公平性が保たれなければ、調査をする意味が無いからだ。

このような状況になっても、安倍さんはまだまだ強気の発言をしている。
もしかしたら、安倍さんは「データ分析の基本」をご存じないのだろうか?と、勘繰ってしまうくらいだ。

ただ、時々ビジネスの場面で「データは嘘をつく」と言われることがある。
多くは、調査・分析をし予測をした結果と大きく外れてしまった、という場合に言われるコトがある。
他にも調査をする側が意図的であるかどうかは別にして、自分たちに都合の良い報告をしてしまう、というケースもある。
同じデータであっても、並べ方で印象が大きく変わる、ということだ。
そして案外見過ごしやすいのが、質問形式の回答によるデータだ。

今回のデータと原因が同じように思えるのだが、実はそうではない。
質問内容が、回答者の解釈によって回答内容が変わってしまう、という場合だ。
「〇・✖形式」のような二者択一の分かり易い質問であっても、このような解釈の違いによる問題は起きてくる。
例えば「〇〇は、好きか?」という質問か「〇〇は嫌いか?」という質問か、ということだ。
「好きでも嫌いでもない」という回答者は、「好きか?」という質問であれば、「好き」という回答が多くなり、「嫌いか?」という質問であれば「嫌い」という回答が多くなる、という傾向にあると言われている。
だからと言って「どちらでもない」という回答を加えると、「どちらでもない」が多くなりすぎて、データとして使えなくなる場合も出てくる。

今回の「裁量労働制」についてのデータは、元々データとして使えるものではないので、このデータを基にした話は進めるべきではないと思う。
このまま「裁量労働制」を「働き方改革」の柱とするなら、「働き方改革」そのものが間違った方向へ進んでしまう可能性のほうが高いからだ。

しかし、上述したように「データ」は客観的で公平性の高いモノである、という思い込まず、複数のデータと比べる必要があるということなのだ。


野木亜紀子さんが突き付けた「いじめ」という問題

2018-02-24 22:45:12 | 徒然

今年の冬ドラマの中でも話題の一つとなっているのが、TBS系「アンナチュラル」だろう。
視聴率そのものは、余りふるっていないようだが(それでも関東地区でも10%前後。他の地域ではもっと高い視聴率を獲得しているようだ)、ドラマのテーマが「法医学」ということを考えれば、健闘をしているのでは?という、気がしている。

というよりも、ドラマを見てみると視聴率云々で語られるようなドラマではないのでは?、という気がしてくる。
それだけ「今」の問題を切り取った内容だからだ。
その「今」の問題の脚本を書いていらっしゃるのが、一昨年社会現象とまで言われた「逃げるは恥だが役に立つ」の野木亜紀子さんだ。
今回の「アンナチュラル」は、野木さんのオリジナル脚本で、脚本そのものを書かれたのは昨年の秋で、ドラマそのものも昨年の間に撮影を終えているという。

にもかかわらず、昨年暮れから今年初めに社会問題となったテーマを取り上げているのは、野木さんの時代を読み取る力があるからなのだろう。
そして昨夜(2月22日)放送は、「今の問題」というよりも長い間大きな社会問題になっていながら、解決できないでいる「いじめ」がテーマだった。
テーマがテーマなだけに、内容そのものも重苦しく、深い悲しみを感じるものだったが、ドラマ後半の台詞一つひとつがとても生きている、と感銘を受けた視聴者も多かったようだ。

子供の死因の第1位は、何かご存じだろうか?
交通事故などによる「不慮の事故」だ。
その後に「小児がん」などの病気となるのだが、中高校生に限って言えば「不慮の事故」の次が「自殺」なのだ。
未来があるはずの子どもたちが「自死を選ぶ」、という社会は決して幸せな社会ではないと思う。
しかし、今だに解決の糸口が見つからない問題でもある。

その理由の一つではないか?と思われる記事が、昨年の秋Huffpostに掲載されていた。
Huffpost:「いじめは楽しい」だから笑顔で行われる。
野木さんがこの記事を読まれたかはわからないが、ドラマの中にもこの記事と同じような場面、いわゆる「いじり」とか「ふざけた延長の暴力」などが描かれていた。
「いじめ」をテーマにしたドラマの場合、同様の描かれ方をされる場合が多いのでは?と思うのだが、野木さんは踏み込んで「いじめの加害者は、被害者のことなど何も思っていないし、すぐに忘れる」という内容の台詞を書いている。
「いじめをなくす」というテーマではなく、「いじめをする加害者と被害者」の気持ち(というべきか?)の両方を言うことで、加害者と被害者の心理の乖離を描き出したような気がした。

そして男性教師の「男子なら、ふざけてプロレスの真似事くらいするでしょう」という内容の台詞に、この男性教師もまた「自分がいじめている(相手が嫌がっている)という意識を持たずに、プロレス技をクラスメイトにかけていたのでは?」という、気がしたのだ。
男性教師のこの台詞は、これまで自殺をした子供たちの学校の教師たちが言ってきた言葉の一つでもある。
「自分が感じたことが無い痛みや嫌悪感」を想像することは難しい。
それもまた「いじめ」が表面化しない理由なのでは?

そのような様々な切り口で「いじめ」という問題を脚本家の野木さんは、提議したような気がしたのだった。


自信の表れか? Honda Jet

2018-02-22 21:32:02 | CMウォッチ

Yahoo!のトピックスに、ホンダのジェット機が小型ジェット市場でセスナを抜いて世界1位、というニュースがあった。
Sanlei Biz:ホンダジェット、セスナ抜き初の世界出荷世界1位 小型ジェット市場

軽飛行機市場と言えば、セスナというイメージが定着している。
むしろ「セスナ」という企業名は、軽飛行機の代名詞である、と思っている方も多いのではないだろうか?
私も「軽飛行機=セスナ」という名称だと思っていた。
ということは、「小型ジェット機市場」というか、軽飛行機の市場においてセスナ社は、圧倒的な企業であった、ということになると思う。

その圧倒的な市場占有率を誇るセスナ社を抑えて、小型ジェット機市場においてホンダジェットが1位となったのは、快挙と言えるのではないだろうか?
ご存じのように、ホンダジェットは、創業者本田宗一郎の夢だった。
その「夢」をホンダという企業が引き継ぎ、実現させたのだ。
本田宗一郎が、その「夢」を語った頃は正に「夢物語」だったと思うのだが、その「夢」を実現するために企業が一つとなって、開発をし販売するまでに至る、というのは「夢」を追いかけるだけの情熱だけでは無理だろう。
そこには、自動車開発や二足歩行ロボット・アシモなどの開発で得られた技術やアイディアなどがあり、小型ジェット機を生み出したのではないだろうか?

今日のおめでたい(?)ニュースを前に、ホンダジェットのCMを公開している。
Honda Jet:ONE OK ROCK×Honda Jet「Go,Vantage Point.」

場所は、ニューヨークのブロードウェイだろうか?
交差点にホンダ車を駐車させるなど、相当大がかりなCMとなっている。
その交差点に、Honda Jetが登場し、一般道をまるで滑走路のようにゆっくりと動きだし、離陸する(離陸する道路はブロードウェイではないと思われる)。
実際に離陸をしているのかどうかはわからないが、製作費などを考えると、随分贅沢なつくり方をしているな~、と感じるCMでもある。
単純に、これだけのCMを製作できる、という自信の表れのような気もするCMだと思う。

そして改めてわかることは、ホンダのジェット機を創るコンセプトは「空を自由に駆け回るスポーツカー」ということだろう。
このコンセプトがあるから、自動車メーカーが小型ジェット機を創る意味がある、ということを端的に表しているともいえると思う。

日本では三菱のMRJの販売が思うように進まず、発注のキャンセルが出た、というニュースもあった。
それだけ米国市場で日本の小型ジェット機を販売する、ということはハードルが高いのだろう。
ホンダジェットそのものは、日本で造られているわけではない(米国の子会社「ホンダエアクラフトカンパニー」が製造)。
それでも、軽飛行機の代名詞でもあるセスナ社をおさえ1位となったことは、日本の飛行機製造に弾みをつけることになると期待したい。


お知らせ

2018-02-15 22:33:03 | Weblog

明日から、しばらく帰省をするため(母の十三回忌の墓参りの為。十三回忌の法要は既に終わっているので、墓参りのみの予定)ブログの更新ができません。
独居老人の父と、ゆっくりと時間を過ごさせて頂こうと思っています。

来週半ばから、再開予定です。


「新型出生前診断」、施設の充実よりも先に考えることがあるのでは?

2018-02-14 23:14:02 | アラカルト

朝日新聞のWEBサイトに、「新型出生前診断」が受けられる施設拡充の記事が、掲載されていた。
朝日新聞:妊婦血液からDNA分析、新型出生前診断の施設増を検討

「妊娠中に、胎児の情報を得たい」と考える、女性は少なくないと思う。
万が一、何等かの障害を持って生まれてくることが分かれば、それなりの対応ができる、と考えるご夫婦もいるだろう。
反面、そのような情報を得たことで、出産をするのか堕胎をするのか悩むご夫婦もいるだろう。
特に日本の場合、生涯をもって生まれた場合、親御さんにかかる負担は大きい。
それだけ障害者を受け入れる施設も少ないという問題もあるが、障害者が経済的な面も含め自立した生活ができる、という環境も整っていない、という問題も大きいのでは?と、思っている。

それだけが問題なのか?と言えば、むしろ「出生前診断」そのものに対しての理解が、十分にされていないのでは?という気がしている。
日本で行われている「出生前診断」でわかるのは、「染色体異常」の3つの障害だけだ。
その3つの「染色体異常」だけが、先天的な障害ではない、ということは多くの人が理解していると思っている。
まして昨今話題となっている「発達障害」などは、この「新型出生前診断」ではわからない。
むしろ、出産時にはわからない様々な障害を持って生まれてくる子供たちのほうが、多いのではないだろうか?

現在の「新型出生前診断」で判明する「染色体異常」による障害についても、私を含め多くの人たちは理解できていないように思うのだ。
だからこそ、障害者に対しての偏見のようなものがあるわけだが、まず先に取り組まなくてはならない問題というのは、そのような理解と教育なのでは?という気がしている。
そのような教育が十分にされないことで、不利益を得てしまうご夫婦も少なからずいらっしゃるだろう。

「ヒトゲノム」が解析され、徐々に「遺伝子」が関わる病気が分かるようになってきた。
海外、アメリカなどでは「染色体」ではなく、DNA=遺伝子レベルでの「出生前診断」が一般的になりつつある、と正月休みの時に読んだ「遺伝子医療革命」の中にあった。
それだけの診断が可能になってきている背景には、「ヒトゲノム」の解析ができるようになったことで「一人ひとりにあった遺伝子レベルでの治療(=精密化医療)」への期待があるからだろう。
そして日本でも、早晩「遺伝子医療」が行われるはずだ。
京都大学の山中教授の「iPS細胞」研究から起こる移植治療や、創薬による治療がまさしく「遺伝子医療」の一つだからだ。

科学がどんどん進み、その科学の恩恵にあずかるはずの生活者が、知識も理解もできていないというのは、生活者にとって大きな不利益となるはずなのだ。
そう考えた時、「新型出生前診断」をはじめとする、医療診断全般の知識が得られるような環境づくりのほうが、施設増設よりも急務のような気がしてならないのだ。





「生協」がこれからの小売りモデルの中心となる?

2018-02-13 19:26:08 | ビジネス

日経新聞に、イオンが「宅配事業」を始める、という記事が掲載されている。
日経新聞:イオン、定期宅配参入 生協モデルで共働きに的

20数年前、企業研究を目的とした「マーケティング勉強会」に参加するコトになり、「コープこうべ」で「生協」の話を伺う機会があった。
「生協=生活協同組合」の組織自体は全国各地にあるのだが、地域ごとに特色がある。
その中でも「コープこうべ」は、組織自体も古く活動も活発ということで、企業研究として選ばれたのだった。
Wikipedia:コープこうべ

ご存じの方も多いと思うのだが、一般の人が「生協」の宅配サービスを受けることはできない。
まず「生協」へ出資金を出し、会員になる必要があるのだ。
それだけではなく、ご近所の人達といっしょの「グループ」をつくる必要がある。
そのうえで、生鮮食品などは毎週生協の宅配がグループのお世話係の家にグループごとの商品を届けてくれる、というサービスになっている。
そのため、会員以外にとっては「生協」という仕組みそのものが分かりづらく、また一人暮らしで平日の昼間仕事などで不在という世帯には、利用しにくかった。
というわけではないが、20数年前の生協の利用者の多くは「買い物に行きたくても、なかなか行けない」子育て世帯が多かったと、記憶している。

その時の生協の問題は、「子育て後の世帯をどうつなぎとめるのか?」という点だったと思う。
子供が幼稚園や保育園に入園するようになると、お母さんたちは働きに出ることが多くなり、在宅が基本となる生協の宅配サービスそのものの利用が難しくなってしまうからだ。
何より「グループごとへの配送」というのが、大きなネックになっていた。
不在がちなグループのメンバーの食材を、帰宅時間まで預かるというのは、グループの世話係としては荷が重い。
そのような声が会員から多くあったのだろう、最近ではグループではなく全くの個人宅への配送もするようになったりしている。

「生協」のサービスの配送サービスのメリットの一つは、「買い物に出かけにくい」という人の家に生鮮食料品を含めた食品を届けてくれる、だった。
その視点で考えれば、高齢者世帯が多くなりつつある地域では、「買い物に出かけにくい」という世帯も増えてきているはずだ。
いわゆる「買い物難民」と呼ばれる人たちだが、この問題は都市部・地方に関わらず問題となってきている。
今回、イオンが生協をモデルに「定期宅配サービス」を行う、というのは「買い物難民の解消」ということが大きな理由の一つだと思う。

であれば「定期宅配サービス」ではなく、現在の「ネットスーパー」と同じサービスでも問題はないはずだ。
それをあえて「定期宅配サービス」とするのは、地域のコミュニティーにイオンが入りたい、という考えがあるからではないだろうか?
生協のような「グループ」ではなく、あくまでも個人客を対象とするにしても、定期的にその地域を訪問することで、店舗ではわからない生活者の姿が見えてくるはずだ。
イオンの狙いは、この点なのではないだろうか?


石牟礼道子さんが伝えたこと

2018-02-10 22:11:58 | 徒然

「苦海浄土」の作者である、石牟礼道子さんが亡くなられた。
実は私にとって、読み進めることができていない作品でもある。
昨年、NHKのE-テレ「100分で名著」で「苦海浄土」が取り上げられた時も、テキストの半分くらいで力尽きた(という感じ)。
それくらい、私にとって「苦海浄土」という本を読むことは、とてつもなくエネルギーを必要とするだけではなく、読みこなすだけの感性と想像力が無い、ということを思い知った作品でもある。

「苦海浄土」という作品は、「水俣病」患者さんたちの言葉を集めた作品だと石牟礼さんは、言っていたようだ。
そのため、第1回大宅壮一ノンフィクション賞を辞退している。
「私が書いたのではなく、水俣病の人たちが書かせた」という、思いが強かったのでは?とも言われている。

NHKのE-テレ「100分で名著」の解説を担当された批評家で随筆家でもある若松英輔さんは、「苦海浄土は未完のままなのでは」という内容のことをテキストの中で、書かれていた。
それほど、石牟礼さんにとって「水俣病」という病気で苦しむ人達の姿から感じ取る様々なコトは、終わりのないモノだったのかもしれない。

「苦海浄土」のテーマとなった「水俣病」は、戦後の3大公害病の一つとしてだけではなく、日本の公害病の象徴として、社会に大きな影響を与えた。
「水俣病」があったからこそ、新潟の「イタイタイ病」、三重県の「四日市ぜんそく」などが、公害病として認定され、企業だけではなく国策としての国の責任を問うことができたのだと思う。
「苦海浄土」という作品もまた、少なからず影響を与えたのでは?という気がしている。

と同時に、思い出した作品がある。
レイチェル・カーソンの「沈黙の春」という作品だ。
ご存じの方も多いと思う。
殺虫剤「DDT」が散布されることによって起きる、環境破壊を訴えた作品だ。
この2つの作品は、環境破壊によって引き起こされる悲劇を訴えている、という点において共通するテーマの作品だと思っている。
それだけではなく、この2つの作品はほぼ同じ時代に出版され、今でも社会に大きな影響を与え続けている。

1960年代、日本だけではなく先進国と呼ばれた国々が経済成長を目指していた時代の影に、寄り添い続けた女性たちの思いを今の私たちは、引き継いでいるだろうか?
石牟礼さんの訃報を聞き、昨今の「環境問題」という言葉が表層的になっているのでは?という気がしたのだった。


「なぜアルマーニ?」ではなく、「アルマーニだから」-銀座の小学校の標準服ー

2018-02-09 21:35:00 | アラカルト

銀座の公立小学校の標準服が、アルマーニが監修し、価格が約9万円もすると、話題?になっている。
「標準服」がある小学校に通ったことも無く、ご近所の小学生たちも私服で通学している地域に住んでいるので、「標準服」という服がどのような位置づけがされているのか分からないのだが、学校行事などで着用するための服だとすれば、着用機会が少ない割には高額な価格だという気がする。
また、制服のように毎日着用するのであれば、子どもの成長に合わせて度々購入するには、やはり高額と言わざる得ない。

今回問題になっているのは、
1.これまでの標準服の約2倍以上の価格である
2.アルマーニ監修である必要があったのか?
3.校長先生が、独断でアルマーニに監修してもらうと決めたようだが、その経緯が(説明を聞いても)分からない
などが上がっているようだ。

おそらく、アルマーニ監修を決めた最大の理由は「アルマーニだから」だと思う。
変に思えるかもしれないが、「アルマーニ監修なら、誰も文句は言わないだろう」という、判断があったのでは?と思うからだ。

小学校の標準服ではないが、かつて大企業の女子社員の多くは「制服」着用、という決まりがあった。
特に、銀行などの金融機関などでは、3、4年に1度くらいのサイクルで制服が、新しくなっていた。
それらの制服のデザインは、著名なデザイナーと決まっていた。
例え出来上がったデザインを見た女子社員が、「このデザインって、どうよ?!」と思っていても、「著名なデザイナーの制服」で、押し通されることが当たり前だったのだ。
何故なら「著名なデザイナーにデザインを依頼した」という、事実が重要だったからだ(と思っている)。
違う言い方をするなら「誰からも文句を言わせない為に、著名なデザイナーを起用する」という、一種の「権威主義」的な発想があったからだ。
それと全く同じ発想で、今回の「アルマーニ監修の標準服」が出来上がったのではないだろうか?

そして「アルマーニの標準服」と話題になっているが、「ジョルジオ・アルマーニ デザインの標準服ではない」ということも、理解する必要があると思う。
実際、この春から着用してもらう「標準服」の写真を見て、「アルマーニのデザインの割に、地味というか普通の服」と思われた方も多いのではないだろうか?
このデザインは「アルマーニ(社)が監修をした子供服」であって、「ジョルジオ・アルマーニのデザイン」とは言っていない。
この「標準服」の価格には、ジョルジオ・アルマーニ氏に対してのデザイン料ではなく、アルマーニ社に対する監修料ということになるはずだ。

出来上がった「標準服」が地味というか普通の服、という印象があるのは当然だと思っている。
欧州の王族、例えば英国のジョージ王子やシャーロット王女の服装を思い浮かべてほしい。
子供らしい、可愛らしい服装ではあるが、ファッション性のある服装という印象は無いはずだ。
逆に、子供にとって、動きやすいシンプルな服が一番である、ということを示しているように思う。
校長先生は「服育」という言葉を使ったが(最近「〇〇育」と言う言葉が氾濫しすぎているような気がしてならないのだが)、子どもの頃からファッションセンスを磨く、あるいは服装という観点から様々な文化を学ぶ、というのであれば、子どもたちにとって動きやすいシンプルな標準服が一番だと思う。

小学校があるのは銀座という、日本でも有数のお洒落な街なのだ。
かつては様々なファッションブランドの旗艦店が立ち並び、おしゃれな人たちが歩く街でもあったし、今でもそのような雰囲気は残っているはずだ。
「服育」というのであれば、そのような街を歩くことのほうが、遥かの「服育」として効果があると思う。



昔から「ワンぺ育児」が、当たり前だった?

2018-02-08 20:14:32 | ライフスタイル

「あたし、おかあさんだから」という歌の歌詞が、炎上しているらしい。
今日になって、この歌の作詞者と作曲者が相次いで、「謝罪」を発表している。
このニュースを聞いて「謝罪って、一体誰にしたのかな?」という疑問があった。
謝罪の相手は、この歌を聞いて不快に思った人たちに対して、ということなのだと思うのだが、昨年にもあった、おむつのCMなどでも「様々なものを犠牲にして、育児をしているお母さんの気持ちを逆なでしている」などの趣旨の理由で、炎上したコトがあった。

確かに欧州に比べると、日本のお父さんの育児に携わる時間は極端に短い。
短いだけではなく、どこか「気分的な接し方」である、という指摘もされている。
そのため「育児(だけではなく、家事労働を含めた育児)の大変なところだけ、お母さんである私がすることになる」という、事になるのだと思う。
そう考えると、確かに「不公平感」が起きるのは仕方ないだろう。
でも、そもそも日本の育児は「お母さんが一人で頑張る・ワンオペ育児」だったのでは?という気がしている。

それが可能であったのは、男性の多くが「サラリーマン(あるいは、勤め人)」と呼ばれる職に就き、女性が「専業主婦」という、労働分担と収入分担が明確に分かれていただけではなく、夫の収入だけで生活ができ、収入そのものも安定した右肩上がりだったからではないだろうか?
しかし「専業主婦」が登場するのは、実は「高度成長期以降」のことで、それ以前は相次ぐ戦争とその復興期間は、当てにできる男性労働力そのものが、少なかったのではないだろうか?
その環境の中でも、多くの女性は生活をするために仕事をし、育児をしてきた・・・と思うのだ。

そう考えると、日本は「ワンオペ育児」が、スタンダードだったのでは?という気がしてくるのだ。
それでも不満が出なかったのは、「高度成長期」の経済的安定があり、それ以前は周囲の家庭の多くが同じような環境であった、ということがあるような気がしている。

最近の傾向として、「素敵ママの育児」のような情報が、実際の育児をしている女性に「理想と現実」というギャップを生んでいる、ということはないだろうか?
昨年放送されたドラマ「コウノドリ」の中に、育児ノイローゼになったお母さんに「世間は子育てを美化しすぎです。(お母さん)皆、髪の毛振り乱して、必死に育児をしているんです。」という言葉を、働くお母さんでもあるソーシャルワーカーが伝える場面がある。
育児ノイローゼとなったお母さんの姿は、今の「ワンオペ育児」に疲れ果て、仕事と育児の両立ができない自分を、「ダメな母親」と思い込んでしまっているようだった。
何をもって「ダメな母親」というのかは分からないが、「仕事も育児も完璧な女性」という、理想の働くお母さん像を社会全体が圧力をかけているのではないだろうか?
少なくとも「理想の働くお母さん像」という圧力を、お母さんたち自身が感じすぎているような気がする。

炎上した歌の内容について、云々する気はない。
ただ、歌詞の内容にまで食って掛かるくらい、今のお母さんたちは余裕が無いのでは?という気がしている。
おそらく、育児に疲れ果てたお母さんたちが待っているのは、お父さんからの「お疲れ様。育児頑張っているね。ありがとう」という言葉なのではないだろうか?
もちろん、言葉+育児を手伝うという行動があれば、なお良いとは思うが・・・。