日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

文化庁頼みの文化事業って・・・。

2019-09-27 21:21:02 | 徒然

美術展でありながら、美術の話題ではなく「交付金」の問題で注目されてしまっている感のある「あいちトリエンナーレ」。
昨日エントリをさせていただいたように、今回の美術展はスタート時点での「ボタンの掛け違え」から始まっているのでは?という、気がしている。

今日のHuffpostには「文化庁は文化を殺すな」という、やや殺伐としたタイトルの記事があった。
Huffpost:「文化庁は文化を殺すな」あいちトリエンナーレ参加アーティストらが署名集め

確かに「あいちトリエンナーレ」の問題は、美術展にふさわしいとは思えない展示(=「表現の不自由展」)という指摘があり、それが「公的な交付金を使って、このような展示をしてよいのか?」という、問題へと発展していった。
この問題が、新聞などの社会面に載るようになったことで、展示に対する脅迫めいた文章が届いたりしたことで、この「表現の不自由展」が撤去されることとなった。

「美術展にふさわしくない展示」という指摘を受けた後、プロデュースを担当した津田大介さんが「ふさわしいモノである」ということを明言し、理解を得られるようなコメントがあれば良かったと思うのだが「鑑賞に来られた方が、表現の自由とは何か?ということを議論する切っ掛けとして欲しかった」という趣旨のことを話したため、「美術展を議論の場とするのか?」と言った、より美術展の目的から離れた議論を呼んでしまったような気がするのだ。

そもそも「表現の自由」というのは、何も美術作品に限ったことではないはずだ。
文学なども「表現の自由」が保証されているはずだし、自由に自分の考えを表現する方法も場所も決められてはいけないはずだろうし、そこに権力的な力によって制圧されることがあってはいけないはずだ。
その意味では、政府機関の一つである文化庁から交付金という名の資金提供を受けながら、文化を殺すのか!というのは、どこか違和感を感じてしまうのだ。

確かに、国として文化を保護することはとても重要なコトだと思う。
その例として挙げられるのは、古典芸能と呼ばれる能や狂言などだろうし、国宝と呼ばれる美術作品などもそうだろう。
現代アートと呼ばれるものであっても、保護や推進をしていくことは「国の文化」として大切なことだ。
だが、最初から「交付金をもらって当然」という発想は、どうなのだろう?
実際、現在開催されているアートフェスティバルの中には、文化庁の協賛(あるいは助成)の名前が無いものもある。
六甲ミーツアート 芸術散歩2019 サポート

記事の中にある「検閲」という言葉から、思い浮かべるのは戦前・戦中の「いわれなき犯罪者」となってしまった作家などの姿だ。
先日も一部新聞にあった小林多喜二の拷問死などは、顕著な例だろう。
朝日新聞:小林多喜二の拷問死、遺族が告訴試みる

確かに、韓国の(慰安婦の)少女像や昭和天皇を焼く映像などは、交付金を出す文化庁として出したくない内容だっただろう。
であれば、最初から文化庁からの交付金などをあてにせず、開催をすべきなのでは?
「アート作品」を議論の種としたい、というのはジャーナリスト的発想だと思うし、芸術作品から何を感じたのか?ということはとても個人的な部分なはずだ。
「好き・嫌い」という部分も含め、支持されることで「自由な文化」は大きく成長していくのだと思うのだが、最初から国とか政府のサポートをあてにするというのは、なんとなく違うような気がするし、国の失敗政策と言われている「クールジャパン機構」に群がった事業の発想と同じだと思うのだ。


「あいちトリエンナーレ」の問題は、どこにあるのだろう?

2019-09-26 20:22:57 | アラカルト

愛知県下に住んでいらっしゃる方でも、さほど興味が持てなくなったであろう「あいちトリエンナーレ」が、美術展としてではなく「補助金」について問題化している。

中日新聞:あいちトリエンナーレ、文化庁が補助金不交付「手続き不備」を理由に

「補助金不交付」となった理由の一つに「表現の不自由展」などの中止が含まれているのでは?という、気がするのだが、そもそも「補助金付き」で行うような美術展なのだろうか?という、疑問がある。
というのも、美術展という目的に対して、美術の専門家であるキュレーターが総監督のような役割を追わず、美術とは関係のないジャーナリストの津田さんがしているからだ。
美術展と言いながら、美術に関する知識などを十分に持っているとは思えない(ように思える)ジャーナリストを起用した時点で、美術展というカタチの全く別物の展示会となってしまうことを理解していなかった、愛知県側にも問題があるのでは?

地域全体を巻き込んでの「美術展」の始まりは「越後妻有・大地の芸術祭」の成功だったように思う。
この「越後妻有・大地の芸術祭」は、地域活性化を目的とした「芸術祭」だった。
その後、ベネッセが中心となって行った「瀬戸内国際芸術祭」が開かれ、この2つの大規模な地域を巻き込んだ「芸術祭」の成功により、各地でチョッとした「芸術祭ブーム」のようなものが起きたように感じている。
その「芸術祭ブーム」に乗った一つが、「あいちトリエンナーレ」だと考えている。
世界に目を転じれば、芸術とサイエンス、テクノロジーを組み合わせることで、地域の新しい産業と文化を創り出している所もある。
リンツ:Ars Electornica

このような大規模な美術展などを成功させるには、相当なプロデュース力のある人材が求められる。
「越後妻有台・大地の芸術祭」には、北川フラムさんという芸術の分野での実力者の方がプロデュースに関わっている(一時期、離れていらっしゃったようだが、現在も総監督として名前がクレジットされている)し、「瀬戸内国際芸術祭」はベネッセの創業者である福武氏が直島に美術館を創ったことなどが切っ掛けで、ベネッセの文化事業として発展基盤を創ってきた(現在は、ベネッセの手から離れているはずだ)。

このような成功をした大規模美術展などを見てみると、成功するためにはやはり美術の専門家とよばれる人材が、運営などに大きく関わっている、ということがわかる。
しかも、1度きりの関わり方ではなく継続的に関わることで、その美術展が大きく発展することができるだけではなく、関わるスタッフを含め努力を継続的に行うことができるのだ。

Ars Electornicaにしても、開催の目的が一過性のものではなく「地域の活性化」の一つとして「芸術祭」を位置付けており、それが通年的に情報が発信されることで、「芸術祭」が継続されているような仕組みになっている。
そのように考えると、「あいちトリエンナーレ」はそのような明快なビジョンがあったとも思えず、そのための人材を招聘したようにも思えないのだ。

津田さんとしては、ジャーナリストとして社会の問題提起の一つとして「表現の不自由展」を考えたのだろうが、それは芸術なのか?という、スタート地点を見誤ってしまった結果のように思えるのだ。
何より、何故愛知県は美術の専門家ではない津田さんにプロデュースを依頼したのか?という、疑問がある。

 


フォーエバー21の撤退は、ファストアッションの衰退なのか

2019-09-25 20:34:12 | ビジネス

新聞各紙が、「フォーエバー21撤退」というニュースを報じている。
NHK NEWS WEB:フォーエバー21来月末に日本撤退「売上不振で赤字」

フォーエバー21本社がある米国では、既に破綻というニュースが出ているので、日本撤退は当然のことだろう。
2000年代、H&Mに始まった世界的なファストファッションブームだが、雨後の竹の子のように次々とブランドが立ち上がり、そして消滅をしていった感がある。
ブームの切っ掛けとなったH&Mについても、以前ほどの勢いは感じられない(ように思う)。

名古屋の場合、このH&Mが入っている松坂屋の向かい側にフォーエバー21があり、その裏手にはユニクロがあった。
フォーエバー21の店舗から北へ行くとGAPがあり、その先にはオールドネイビーがあった。もう少し北に行くとZARAがある。
一時期「ファストファッション通り」と言っても良いほどの、活況を呈していた場所が名古屋の繁華街・栄にあったのだ。
それが今では、H&MとGAP、ZARAの3店舗しか残っていない。
ユニクロの場合、名古屋駅の複合ビルへの移転の為の閉店、ということになっているので、フォーエバー21やオールドネイビーなどとは、撤退理由が違うにしても、ここ数年で随分ファストファッションブランドが、名古屋の繁華街から無くなってしまった感がある。

ファストファッションブランドの代表格・H&Mとユニクロ、ZARAの3店舗が残っている(GAPは「アメリカン・カジュアルブランドのSPA企業」という位置づけとして考えている)、ということを考えると「ファストファッションの終焉」と言い切ってしまうのは、早いようにも思えるのだが、残った3社も生き残りをかけ次々と新しい戦略を出している。
特にユニクロは、デザイナー起用に積極的でこれまでのファストファッションにみられた「有名ブランドの売れ筋二番煎じ」的なファッションからの脱却を図ろうとしているように見受けられる。
ZARAやH&Mは、元々自社で数多くのデザイナーを抱え、自社で「企画・商品化・製造・販売」というSPAによるビジネスを展開してきたが、ユニクロはデザイナー名を表に出すことでより「ファッション性」を高めようとしているように見えるのだ。

そう考えると、これからのファストファッションは「市場とファッションのデザイン力」が合致したうえで、SPAによる生産体制で「極力在庫を抱えない(あるいは、早期のバーゲンで売り切ってしまう)」ということが、重要になってくるということだろう。

そして日本の市場において忘れてはいけないのは、「ワークマン」の存在かもしれない。
ご存じのように「ワークマン」そのものは、ファッション産業とは基本関係が無い。
その時々の時流に合わせたファッションデザインの提案、というものは一切していない。
むしろ、着る人の意見や考え、思考といった徹底した市場重視によるアパレルづくりをしている、と言っても過言ではないと思う。

フォーエバー21そのものは、世界展開を急ぎ過ぎたのかもしれない。
ただ、名古屋店撤退前に行ったとき感じたことは「ファストファッションの一番悪い、安っぽさ感」だった。
おそらくファッションそのものは、「価格・デザイン」などがより重視されていくだろう。
逆に「ワークマン」のような「実用着」に特化することで、「実用美」へとシフトをする、ということも考えられる。

ただ忘れてはいけないのは、実店舗を持つ意味は単に「価格・デザイン」だけではなく「(肌ざわりや生地の質感などの)品質」も生活者はチェックをしている、ということだ。
ファッションの世界では当たり前だったはずの、「価格・デザイン・品質」を忘れたファストファッションが、市場から撤退をさせれらた、というのがフォーエバー21の撤退なのかもしれない。




言葉尻をとらえるよりも、問題の本質に目を向けよう

2019-09-24 18:02:23 | アラカルト

ニューヨークで開かれた「国連気候行動サミット」は、いろいろな意味で注目される会議となった。
中でも一番注目されたのは、グレタ・トゥーンベリさん(高校生・16歳)のスピーチだろう。
Huffpost:グレタ・トゥーンベリさん、国連で怒りのスピーチ「あなたたちの裏切りに気づきはじめています」

彼女の顔を真っ赤にして訴えるスピーチは、とても力強く参加していた大人たちに強烈なパンチをくらわした、という印象を受けた。
たった一人の女子高校生が始めた「地球温暖化に対するデモ(というか、スト)」は、瞬く間に同世代の共感を得、世界各地へと広まっていった。
それだけ若い世代にとって「環境問題」というのは、私たち大人が想像するよりも身近な問題として、とらえているのかもしれない。
彼らの頭の中には「経済がどうだとか、産業が云々」というような思考が無いからこそ、強烈で率直なメッセージが発信できるのだろう。

そして日本では、この会議に出席した小泉進次郎氏の言葉が、話題になっている。
ニューズウィーク:「環境ポピュリスト」小泉進次郎は、楽しくもセクシーでもない温暖化対策の現実を語れ

会議後の共同記者会見で、小泉進次郎氏が「気候変動のようにスケールの大きな問題に取り組むためには、楽しくかつクールで、しかもセクシーでなければならない」と述べたことから「セクシー」と言う言葉が独り歩きをしてしまった感がある。
この記事が指摘している通り、環境問題というのは決して「楽しく、クールでセクシー」に語り、解決できる問題ではない。
まして今の日本は、「福島第一原子力発電所事故」による後処理が、遅々として進まず、放射性物質を高濃度に含んだ汚染水の処理に苦慮している。
東京オリンピック誘致の際、安倍首相が「我々のコントロール下にある」と話していたが、「管理下にある」だけで「対環境問題」としての解決は全くされていないまま時が過ぎていった、というのが現状だろう。

そして、この「原発事故」により休止していた火力発電所の再稼働などにより、「温暖化対策に積極的ではない日本」というイメージもついてしまっている。
「原発事故」直後から、全国各地で見られるようになったメガソーラー発電にしても、決して良いトコロばかりではない、ということもわかってきた。
その一例が、山を切り崩して設置した場所などで起きた、自然災害の問題だ。
バブル経済以前に工業用地として開発され、バブル崩壊後塩漬け状態になっていたような広大で平たい場所であれば、設置場所としては問題が無かったと思うのだが、「太陽光発電バブル」のようなブームに乗って、全国各地で無理な「ソーラーパネル設置」が行われた為に起きた、自然破壊だ。

それでは!ということで期待された「大型風力発電」もまた、日本の気候風土には合わなかったようで、動かなくなった風力発電機を地方の海岸沿いで見かけることがある。
それだけではなく、周辺住民の健康被害という問題もクローズアップされたことは、記憶に新しいのではないだろうか?

おそらく、人が「生活の利便性」を求めれば求めるほど、自然を痛めつける生活になるのではないだろうか?
とすれば「どこで折り合いをつけるのか?」ということを、真剣に考える必要があると思う。

国連でスピーチをしたグレタさんの強い口調や小泉進次郎氏の「セクシー」と言う言葉がけしからん!などと、いうことよりも、問題の本質を考えることが「地球温暖化対策」の第一歩のような気がする。

ちなみに小泉進次郎氏の「セクシー」と言う言葉は、英和辞書に掲載されている意味ではなくスラングに近い意味のような気がするので、野党の皆さんもその点を十分理解して、国会論戦をして欲しいと思っている。


老舗だからこそ、時代の変化に敏感でなくてはならない

2019-09-23 19:02:39 | ビジネス

Yahoo!のトピックスにもあったのだが、英国大手の旅行会社「トーマス・クック」が破綻した。
BBCニュース:英旅行大手トーマス・クック、破産申請 旅行者15万人の帰国作戦が開始

「トーマス・クック」と聞いて、トラベラーズチェック(「旅行小切手」)を思い浮かべた方もいらっしゃるかもしれない。
クレジットカードが今ほど普及していない頃、学生が海外に行く時は現金以外はトラベラーズ・チェックに替えて、行くことが多かったのではないだろうか?
その時よく使われたのが、トーマス・クックだったような記憶がある。
言い換えれば、それほど「トーマス・クック」は旅行代理店としてではなく、信用の高い「総合旅行業」の顔でもあったのだ。
その「トーマス・クック」の破綻のニュースは、かつての旅行と今の旅行が大きく変化している、と感じさせるには十分だった。

破綻理由の一つに挙げられているのは、英国のEU離脱問題、欧州から近く人気のあったトルコなどの政情不安などがあるようだが、旅行代理店を利用しない旅行客が、ネットなどを利用して自分で旅行をするようになったため、ということがあるようだ。
インターネットなどによる情報収集や予約が、簡単に誰もができるようになったことが破綻の遠因になっていることには、違い無いだろう。

まだまだ日本では、ツアーによる旅行が一般的のように思えるのだが、日本を訪れる海外からの旅行客には、アジアと欧米とでは随分「旅のスタイル」が違うように感じることがある。
ここ数年「爆買い」で話題になった中国人観光客をはじめ、アジア系の旅行客の多くは、日本と同様に「ツアーに参加する」という、いわば団体旅行者が多いように思う。
確かに「ツアー」であれば、観光スポットを効率よく回ることができ、何より自分で旅行のプランを立てる手間はいらない。
逆に言えば、「自分の好きな時に、好きな場所に行く」という、「自由度」は制限されてしまう。
「自由度のある旅か、効率の良い旅か」という、二者択一をした時、アジアを中心とした国の人々は「効率の良さ」を選ぶ傾向が強いのだろう。

その一つとして考えられるのが「海外に行く」ということが、「特別なこと」という認識が強くあるからかもしれない。
地図を眺めてみても、アジア諸国は陸続きで行ける安全な観光地、というのは案外少ないようにも見える。
一方、欧州などは多くの国々が隣接しているため、「海外旅行」と言ってもその感覚のハードルは低いのでは?という、気がするのだ。
それだけではなく、オランダ・フランス・スペイン・ポルトガル・英国などはアフリカやアジアに「領土」を持っていた、という歴史的背景も「海外旅行」に対する感覚の違いがあるのではないだろうか?

おそらくトーマスクックの破綻は、上述したようなネットや格安航空などだけではなく、ネット→インターネット決済のような決済システムを含め、今という時代に遅れてしまったからなのではないだろうか?
今や海外旅行に行く為には、「トラベラーズチェック」ではなく、クレジットカードが当たり前になった。
老舗企業だからこそ、社会的信頼が高いという「ブランド価値」を認識した、時代を読み取り先取りするような発想と行動ができたはずだ。しかし多くの老舗企業が破綻する時、その時代を読み取る力が失われた時だ、ということをトーマスクックの破綻は、教えてくれているように感じるのだ。


最新のテクノロジーだから、使い勝手が良いわけではない

2019-09-20 22:24:27 | ビジネス

今日、「高齢者の健康」というテーマの市民講座に出かけた。
市民講座というよりも、コーヒーを飲みながら講師となる大学の先生が、ご自身の研究テーマを話すという、気軽なものだ。

そのお話しの中の一つに「認知症」があった。
多くの人にとって「認知症」と言う言葉そのものに興味がありながらも、自分はなりたくない!という気持ちが強いのではないだろうか?
世界中の製薬会社では「認知症治療薬」の開発を進めていたが、治験の結果思うような成果が見られず、撤退を決めたという話もあった。
週刊現代:世界中の製薬会社が次々と撤退「認知症の薬」はやっぱり作れないのか

だが、今分かっていることの一つに「人と接する機会が多いと、認知症になりにくい傾向がみられる」ということが、分かってきているようだ。
そのような「機会を阻む要因」の一つとして考えられているのが、「聴力の低下」だという。
聴力の低下により、周囲との会話が分からなくなり、それが人と接すること(=外的コミュニケーション機会)を阻み、より孤独な環境に陥りやすい、ということのようだ。

確かに、社交的な人、何等かの仕事を持ち続けている人は、高齢になっても若々しく、行動的で好奇心などもあり「認知症」そのものとは縁が無さそうだ。
もちろん「認知症」と言っても、様々なタイプ(アルツハイマー型認知症、レビー小体型認知症、脳疾患系認知症などなど)があるので、外的コミュニケーション機会が多ければ、認知症にならないと言い切れるわけではないと思うのだが、全体的傾向として「外的コミュニケーション機会」は関係があるのでは?ということらしい。
となると、上述した「聴力の低下」は補聴器などの道具によって、カバーできる問題ということになる。

ここで問題なのは、聴力の落ちた高齢者にとって「最新テクノロジー」の小型補聴器というのは、高額な割りに使い勝手が良いとは言い切れない、という話だった。
「最新テクノロジー」の小型補聴器というのは、とてもコンパクトで「補聴器をつけている」とは分からないものらしい。

見た目もスッキリ、コンパクトで良いはずなのだが、視力も落ち指先の動作も若い頃のような訳にもいかず、小型乾電池を入れ替えること自体が難しい、という問題があるようなのだ。
日常生活を快適におくるための「補聴器」が、逆に快適でないツールになってしまっている、というのだ。
もちろん、「補聴器」を必要としている方は高齢者とは限らないので、最新テクノロジーを搭載した小型補聴器のほうが便利な方も、たくさんいらっしゃるはずだ。
ただ、これまで「補聴器が必要」とされてきた聴覚障害を持った方以外の、「高齢者」という新しい層が増えている、ということなのだ。

とすれば「高齢者にとって使いやすい補聴器」という市場を考える必要がある、ということでもある。
お話しをされていた先生は「旧来型の(安い)耳掛け式補聴器」が、一番使い勝手が良い、という趣旨の話をされていたが、とすれば「イヤーアクセサリー」としての「耳掛け補聴器」という考えも必要になってくるだろう。
何故なら、現在の65歳以上の高齢者は、日本の人口28%以上を占める大規模な市場だからだ。

「最新のテクノロジー」ではなく「使う人に寄り添う道具」という発想が、これから先の日本の高齢者社会には必要な気がする。







ピンチをチャンスに変えるユーモア

2019-09-18 11:53:19 | マーケティング

Yahoo!に「ココアシガレット」の話題が掲載されていた。
元となったのは、日経クロストレンドの記事だ。
日経クロストレンド:「ココアシガレット」が人気再燃 老舗駄菓子会社のしたたか経営

子どもの頃「ココアシガレット」を、煙草のようにくわえた経験がある方は多いだろう。
何より、駄菓子屋さんに行くと色とりどりの駄菓子の中でも、パッケージが本物のタバコのような形状で、目を引いた。
モデルとなったタバコは、発売当時人気があった(?)ピースだろうか?

この記事で初めて知ったのだが、この「ココアシガレット」が若い世代で人気になっているという。
人気の理由が、若い世代で人気のシンガーソングライター・あいみょんが自身のInstagramに「ココアシガレット」をくわえた写真を載せた、ということのようだ。
実は今朝聞いていたFM番組でも、この「ココアシガレット」を製造・販売をしているオリオンについての話題があり、違う視点での人気の復活があった、という話があったのだ。

ご存じのように「ココアシガレット」の形状が、タバコに似ているということから、昨今の「禁煙社会化」により、売上は低迷していたという。
別に「ココアシガレット」とタバコは別ものなのだが、やはりその形状やパッケージから「教育上よろしくない」という、社会的雰囲気もあったのだろう、と想像する。
ところが、オリオンはこの「形状とパッケージが似ている」という、ネガティブ要素をユーモアという発想の転換で乗り切った、という。

それは「タバコが吸いたくても吸えない方に、ココアシガレット」というアプローチだ。
「2011年からオリオンはあなたの禁煙を応援します」という、メッセージのコピーもつける、という念の入れようだ。
確かに商品そのものは駄菓子なので、喫煙のような心地よさ(非喫煙者なので、喫煙者の心理が分からずこのような表現になってしまい、申し訳ない)は得られない。
しかし「タバコを吸った」という疑似経験は得られるだろう、ということのようだ。
事実、このようなキャッチコピーにより「(子供の)駄菓子」が「大人の駄菓子」へと市場を拡大させることに成功させた、というのがFM番組での話だった。
「柳の下の二匹目のドジョウ」というわけではないだろうが、電子式タバコに似せた「マイコス」というメンソール駄菓子を発売している。
ネーミングとパッケージの巧妙さもあり、海外からの観光客から大人気になっているという。

とはいうものの、この「マイコス」だけではなく、駄菓子の定番「コーラ味のラムネ」なども、コピー商品ではないか?と、訴えられている。
「コーラ味のラムネ」の時には、「コーラ味だが、飲み物のコーラではなく菓子である」という主張により、勝訴をしているという(10年くらいかかったようだが)。
「マイコス」に関しては、当初の「my QOS」から「my COS」の表記に変更している。

「ココアシガレット」にしても「コーラ味のラムネ」、「マイコス」などは社会的問題であったり訴訟相手が世界に名だたる大企業であったにもかかわらず、ユーモアと発想の転換によってピンチをチャンスに変えてきている。
今の日本の企業に足りないモノがあるとすれば、オリオンのようなユーモアと発想の転換なのではないだろうか?と、考えさせられるのだ。

 







視点を変えると、市場は広がる ーシャープの「TEKION」保冷グローブー

2019-09-17 20:14:28 | ビジネス

朝日新聞のWEBサイト内に「apital」という、医療情報のページがある。
「apital」に、おそらく来年の東京オリンピックに向けた商品として位置づけられて開発されたのでは?という、商品の紹介があった。
朝日新聞 apital:熱中症、手からクールに防ぐ シャープが冷却グローブ

確かに、来年開催予定の東京オリンピック、パラリンピックは、大暑の頃から開催される。
今年の暑さを考えれば「殺人的オリンピック、パラリンピック」と言われかねない状況での開催だ。
本来であれば、もっと涼しくなった10月ごろの開催のほうが、選手にとっても大会関係者にとってもベストだとは思うのだが、いわゆる「大人の事情」で、開催そのものが7月の猛暑真っ盛りの頃と決まってしまったようだ。

決まってしまったものは仕方ない。
対策を取るだけだ。
その一環として、降雪機を設置による暑さ対策を実施したようだが、効果は見られなかったようだ。
デイリー:五輪会場で”前代未聞”降雪実験も気温は変わらず・・・組織委「清涼感を与えるもの」

WEBニュースで知った時は「子どもの雪遊びイベントじゃないんだから・・・」という気がしたのだが、「清涼感を与えるもの」という組織委の言葉はどこか言い訳じみているように感じる。
この他にも、様々な方法で酷暑に開催されるオリンピック、パラリンピックを乗り切る為の策が、考えられているはずだが、決め手となるような策はまだ無いのでは?

そのような状況の中で、今回のシャープの新製品はマラソンなどの選手などにとっては、有効な「冷却アイティム」になるかもしれない。
何より、この「冷却アイティム」は、蓄冷剤とボックスを併用することで、ミニ冷蔵庫のような使い方もできる。
マラソンだけではなく、フィールド競技やサッカーなどの競技などでも活用することは十分に考えられるだろう。
一般向けとしても、キャンプなどのアウトドアでも市場があるのでは?と、考えられる。

そしてHPで紹介されてはいない用途があるのでは?と、思っている。
それは「抗がん剤治療」という医療の現場だ。

現在「抗がん剤治療=化学療法」そのものは、入院ではなく日帰り(正しく言うと、仕事帰りなどの短い時間)で治療が受けられるようになってきている。
「がん拠点病院」と呼ばれる病院の多くは、「化学療法室」という専用の病室を持ち、治療している。
治療そのものは、患者負担が軽減されるようになってきているのだが、副作用となると軽減できないものもある。
その一つが、「抗がん剤による手などのしびれ」という副作用だ。
全ての抗がん剤でこのような副作用が起きるわけではないのだが、この「手のしびれ」なども既に「冷やす」ことで軽減されるということが分かってきている。
そのため、保冷剤を用意している病院もあるはずだ。
しかし、大きな保冷剤では重さの問題、小さな保冷剤であれは時間の問題などがあるようだ。
とすれば、このような目的でつくられて保冷グローブなどは、患者ニーズ(=医療ニーズ)が潜在的にある商品、と言えると思う。

このような視点は、がん患者さんにとっては必要だ!と感じるアイティムだとすぐ感じるはずだが、そのような状況に無い人にとってはなかなか見つけづらいニーズだと思う。
だからこそ、より多くの人に「ニーズを聞く」ということから始め、自分たちでは持っていない視点を持つ人を探すことも重要だと思うのだ。
それが企業における「ダイバーシティ」へと繋がっていくような気がする。


「思い込み」というバイアス

2019-09-13 18:45:40 | アラカルト

台風15号による、千葉県内の停電が続いている。
当初の発表は、11日だったと思うのだが、これが日に日に伸びてこの3連休での復旧も難しいのでは?という、状況になっているようだ。
もちろん、現場で復旧作業に当たっている人たちは、この炎天下の中熱中症などと戦いながら、懸命な復旧作業に当たっているだろう。

今朝FM番組を聞いてたら、千葉県内で被災された方々のインタビューがあった。
インタビューを聞いていて驚いたことがあった。
それは「東京湾があるから、台風の被害はひどくならない」ということが、以前から言われていた、という内容だった。
その話を聞きながら、台風と東京湾との関係がまず理解できなかったことと、阪神淡路大震災が起きた時に「関西では大地震が起きない」という都市伝説のような話が以前からあり、作家・谷崎潤一郎などは、地震が嫌だから関西に引っ越した、という嘘のような本当のような話を思い出したのだった。
谷崎潤一郎が、「関西は地震が無いから」という理由で本当に引っ越したのかは分からないが、地震恐怖症であったことは間違いないようだ。
そのような都市伝説のような話が、まことしやかに信じられていたため「阪神淡路大震災」が起きた時、震源地に近い方たちは「まさか、(関西で)地震が起きるとは思わなかった」という言葉を、口々にした記憶がある。

人には「正常バイアス」と呼ばれる、根拠の無い「安全認識」のようなモノがある、と言われている。
災害時などでも「自分は、大丈夫だ」と、心のどこかで「(根拠の無い)安心感や自信がある」という、指摘だ。
そして今日のFM番組での被災された方の「東京湾があるから大丈夫」ということも、同じ「正常バイアス」の一つなのだと思う。

インタビューを受けていたのは、あくまでも被災された個人の方々なので、とても大変な状況での再建ということになるのだな~と思いながら聞いていたのだが、もしかしたら、東京電力にもこの「正常バイアス」による「危機管理意識」がされていたのでは?という、気がしてきたのだ。

その大きな理由は、「復旧目途」が二転三転しながら結局目途が立っていない、という点だ。
今回の台風15号による被害は甚大であったため、「被災地全体の状況」を把握するのに、時間がかかっているということは理解しているのだが、現地で復旧作業をされている方々と東京電力本社で復旧の指示を出している側との間では、情報の共通認識がされていないのでは?という、気がしているのだ。
それを阻害している一つが「(本社側の)正常バイアス」のようにも感じるのだ。

このような災害が発生し「生活インフラ」が切断されてしまった場合、「復旧の目途」となる日数などと復旧までの対応策などが、分かれば受け手となる生活者は、それなりの対応をすることができるだけではなく、安心が得られる。
一番不安になるのは「いつになったら復旧するのか分からない」ということだ。
しかも二転三転する復旧予定では、その不安はますます膨れ上がってしまう。
不安が不信へと発展していく、ということも十分考えられる。
不安が不信へと変わった時、生活者の不満は一気に東京電力へと向かうだろうし、それは「福島第一原発事故」に次ぐものになるのではないだろうか?

企業だからこそ「正常バイアス」に騙されない、危機管理意識を持たなくてはならない、ということも今回の台風15号は教えてくれているような気がする。

 


ワクワクしなくなったのは、ファッションだけではない

2019-09-12 19:11:00 | マーケティング

拙ブログで時折取り上げるファッション専門誌・WWDJapan。
今日、読みながら「ファッションだけの問題ではないのでは?」という、記事があった。
WWDJapan:「かつて感じていた可能性、ワクワクするような感じはこの10年くらいない」by成実弘至教授

成実教授がおっしゃっているのは、あくまでも「ファッション業界」についてのことだ。
10年くらい前というと、日本ではユニクロのフリースやヒートテックがブームになった頃だろうか?
このころから、日本のファッションは「装う」から「着る」へと、変化していったような気がする。
実際昨年から人気となっている「ワークマン」は、その極致と言っても良いかもしれない。
「ワークマン」はご存じの通り、ガッテン系の方々の作業着や手袋、靴などを企画・製造・販売をしている。
言わば「実用面」を最大限に考えて、企画された服などを販売している。
もちろん「実用の美」というものがあるので、「ワークマン」そのものをうんぬんする気はない。
まして価格と製品の質を考えた時、「リーズナブル」という一言では言えないような、企業努力をされているのでは?と、感じる部分も多々ある。

しかし、ファッションそのものがユニクロを代表とするファストファッションやワークマンのような「実用着」ばかりが話題になる、ということもどうなのだろうか?
「着る」だけがファッションの目的でも、楽しさでもない。
やはり「装う」という、気持ちの高揚感もまた時には必要なのではないだろうか?
それは「チョッとオシャレなレストランで食事をする」とか、「久しぶりに友人に会う」、「デートに行く」など様々な暮らしの場面の中にあるのでは?

ところが、成実教授がおっしゃっているように、ここ10年くらいは「実用一辺倒」の生活志向が、商品やサービスに求められるようになってきているような気がするのだ。

しばらく前に、スマホで事前決済をすれば、待ち時間無しで注文をした商品が受け取れるというサービスをスタバで実験的に行う、というニュースがあった。
日経新聞:スタバ、アプリで事前決済 待ち時間なし、まず都内で

これなどはまさに「実用重視」のサービスだと思う。
思うのだが、このようなサービスを受けて「ワクワク(もちろん最初の頃は、上手く決済ができているのか?とか待ち時間無しで本当に受け取れるのか?などの不安が入り混じったワクワクはあると思う)」するだろうか?
とても即物的なコミュニケーションサービスのような気がするのだ。

今年に入り「アート思考」が注目、話題となっているのはその反動のようにも思えるのだ。
「アート」と「デザイン」の違いは?と、以前インテリアデザインを手掛ける方から聞かれたコトがある。
「デザイン」とは、ビジネスとして成り立つか否か、というギリギリのところの芸術であり、「アート」はビジネスとして成り立つことを考えない芸術である、というのがその方の答えだった。
ただ共通しているのは、人を「ワクワクさせる力」が無くては成り立たない、という点がある。

果たして今、私たちの暮らしにどれだけ「ワクワクさせるモノ・コト」があるのだろう?
ファッションに「ワクワク感がなくなった」のと同じように、私たちの暮らしそのものも「ワクワク感」がなくなってきているのではないだろうか?