美術展でありながら、美術の話題ではなく「交付金」の問題で注目されてしまっている感のある「あいちトリエンナーレ」。
昨日エントリをさせていただいたように、今回の美術展はスタート時点での「ボタンの掛け違え」から始まっているのでは?という、気がしている。
今日のHuffpostには「文化庁は文化を殺すな」という、やや殺伐としたタイトルの記事があった。
Huffpost:「文化庁は文化を殺すな」あいちトリエンナーレ参加アーティストらが署名集め
確かに「あいちトリエンナーレ」の問題は、美術展にふさわしいとは思えない展示(=「表現の不自由展」)という指摘があり、それが「公的な交付金を使って、このような展示をしてよいのか?」という、問題へと発展していった。
この問題が、新聞などの社会面に載るようになったことで、展示に対する脅迫めいた文章が届いたりしたことで、この「表現の不自由展」が撤去されることとなった。
「美術展にふさわしくない展示」という指摘を受けた後、プロデュースを担当した津田大介さんが「ふさわしいモノである」ということを明言し、理解を得られるようなコメントがあれば良かったと思うのだが「鑑賞に来られた方が、表現の自由とは何か?ということを議論する切っ掛けとして欲しかった」という趣旨のことを話したため、「美術展を議論の場とするのか?」と言った、より美術展の目的から離れた議論を呼んでしまったような気がするのだ。
そもそも「表現の自由」というのは、何も美術作品に限ったことではないはずだ。
文学なども「表現の自由」が保証されているはずだし、自由に自分の考えを表現する方法も場所も決められてはいけないはずだろうし、そこに権力的な力によって制圧されることがあってはいけないはずだ。
その意味では、政府機関の一つである文化庁から交付金という名の資金提供を受けながら、文化を殺すのか!というのは、どこか違和感を感じてしまうのだ。
確かに、国として文化を保護することはとても重要なコトだと思う。
その例として挙げられるのは、古典芸能と呼ばれる能や狂言などだろうし、国宝と呼ばれる美術作品などもそうだろう。
現代アートと呼ばれるものであっても、保護や推進をしていくことは「国の文化」として大切なことだ。
だが、最初から「交付金をもらって当然」という発想は、どうなのだろう?
実際、現在開催されているアートフェスティバルの中には、文化庁の協賛(あるいは助成)の名前が無いものもある。
六甲ミーツアート 芸術散歩2019 サポート
記事の中にある「検閲」という言葉から、思い浮かべるのは戦前・戦中の「いわれなき犯罪者」となってしまった作家などの姿だ。
先日も一部新聞にあった小林多喜二の拷問死などは、顕著な例だろう。
朝日新聞:小林多喜二の拷問死、遺族が告訴試みる
確かに、韓国の(慰安婦の)少女像や昭和天皇を焼く映像などは、交付金を出す文化庁として出したくない内容だっただろう。
であれば、最初から文化庁からの交付金などをあてにせず、開催をすべきなのでは?
「アート作品」を議論の種としたい、というのはジャーナリスト的発想だと思うし、芸術作品から何を感じたのか?ということはとても個人的な部分なはずだ。
「好き・嫌い」という部分も含め、支持されることで「自由な文化」は大きく成長していくのだと思うのだが、最初から国とか政府のサポートをあてにするというのは、なんとなく違うような気がするし、国の失敗政策と言われている「クールジャパン機構」に群がった事業の発想と同じだと思うのだ。