先日、文化庁が18の「日本遺産」を認定した。
文化庁:「日本遺産(Japan Heritage)」の認定結果及びロゴマークの発表について(注意:PDFファイル)
「日本遺産」という言葉そのものは聞きなれない言葉だと思うが、文化庁が海外からの観光客誘致のために、日本各地の魅力をアピールする目的で、認定した地域のことだそうだ。
今回は、18地域を「日本遺産」として認定したが、応募そのものは83地域あったようだ。
今回認定された18地域だが、特定の自治体の限定しているところもあれば、「四国お遍路」のように四国各県が一緒になって申請をした地域もある。
その範囲は様々なのだが、共通している点は「特定の地域だけ」をPRするというのではなく、いくつかの点を結び、線と線をつなげ、一つの「ものがたり」を創っている、という点だ。
これは、文化庁が応募の基準として設けていたのだが、この「点と点を結び、線と線をつなげ、ものがたりを創る」という視点が今までの観光地には、なかった点だと思う。
たとえば世界遺産として登録された、「白川郷」。
白川郷に行く人は増えていると思うのだが、その途中の観光を楽しむ、という人はほとんどいないのではないだろうか?
それが悪いわけではないが、白川郷だけを観光するのではなく、白川郷という地域がなぜ今でも残っているのか?という「ものがたり」があったり、その周辺地域との関連性が加わることによって、「白川郷へ行く」ことの楽しみを増やしてくれると思うのだ。
そう考えると、残念だな~と感じる地域もある。
たとえば、ナショナルジオパークに認定されている、山陰海沿岸。
おそらく地元の方たちは、一生懸命その魅力を伝えようとしていらっしゃるとは思うのだが、その魅力がなかなか外には伝わってきていないように感じる。
上述した通り、点として魅力を伝えるよりも線や面(周辺地域を含めた)で歴史や文化、祭りなどを紹介したほうが、スケールメリットが生まれ、観光客の滞在時間が長くなる。
「滞在時間」が長くなるは、経済的な意味でも大きい。
何より、個々の地域では伝えきれない魅力を伝えやすくなる。
そしてこのような「点と点を結び、線と線をつなぐ」ということは、観光事業に限ったことではない。
下町の町工場なども、それぞれが得意としている分野の技術を持ち寄ることで、大企業でもできないような大きな事業を展開することもできる。
それが「下町ロケット」であったりする。
先日亡くなられた村田昭治先生は、「ものがたりを創る」大切さを常々お話をされていたのだが、「ものがたりを体験する」という意味でも、この文化庁の「日本遺産」の認定は、画期的なことだと思う。
最近、街を歩いていて目にするモノの一つに「〇〇ポイント」というのぼりがある。
特に目立つのは、昨年ソフトバンクが加わった「Tポイント」と、楽天が展開している「Rポイント」だろうか?
他にも、イオングループの「WAON」やローソンの「Pontaポイント」などだろうか?
ネット通販でも「アマゾン」や家電量販店の「ヤマダ電機」なども、購入額に応じてオリジナル(?)のポイント制の運用をしている。
この中で、イオンの「WAON」や「アマゾン、ヤマダ電機」のポイントというのは、ポイントを発行している企業と運用している企業が同じなので、使えるポイント先も限られている。
それに対して、「Tポイント」や「Rポイント」、「Pontaポイント」は、いくつもの企業が参加をしている「共通ポイント」になっている。
そして最近目立つのは、「Tポイント」と「Rポイント」のポイントカード発行競争(?)だ。
近所に複数のコンビニがあるので、日替わりというわけではないのだが、用事や品ぞろえ傾向に合わせて、いろいろなコンビニを利用する。
そしてどこのコンビニでも会計をするとき聞かれるのが、「〇〇(ポイント)カードはお持ちでしょうか?」だ。
「持っていない」というと、すぐさま「おつくりしましょうか?」と聞かれることになる。
そして丁重にお断りをすることになるのだ。
「ポイントを貯めれば、買い物のとき安くなるのに・・・」と思われると思うのだが、それと引き換えに相手に提供する様々な(個人)情報のことを考えると、ポイントカードそのものをつくる気になれないのだ。
というのも昨年ソフトバンクが参加を決めた「Tポイント」の規約の中に、購入履歴などを運用会社から個々の企業に提供する、という内容が話題になったからだ。
そもそも「ポイントカードを作ってもらう」ということは、顧客の囲い込みが目的としてある。
昔のような、「購入金額に合わせてスタンプを押してもらう」という程度であれば、購入履歴などは残らない。ポイントが貯まって商品購入の時、割り引いてもらうときに住所・氏名をポイントカードに記入しても、DM発信くらいにしか、使用することができなかった。しかし今の「ポイントカード」は住所、氏名、生年月日などとともに、共通ポイントカードであれば逐次購入履歴が残り、それこそ「購入履歴から、生活の姿」のようなものが、簡単に分析されてしまうような仕組みになっている。
マーケティングをする側としては、願ってもいない「顧客のビックデータ」となるのが、今の「ポイントカード」であり、それだけ企業が個人情報を得やすいともいえる。
逆に言えば、それだけ今の生活者の姿が見えにくくなりつつある、ということだと思うのだが、だからと言って「ポイントを貯めて、お値打ちに買い物」ということばかりを強調するのは、どうなのだろう?
楽天などの場合、毎月「現在のポイント数は☓☓、来月△△ポイント分の買い物をすると、シルバー会員(やゴールド会員)にランクアップ。ポイントも多く付きますよ」というメールが送られてきて、「買い物をしないと損ですよ」という気にさせられる。いまどき、そのメールでどれだけの人が「買い物をしようか!」という気になるのかはわからないが、個人的には、「なんだかな~~~」という気分になってしまう。
最近の「ポイントカード」合戦を見ていると、なんだか「個人情報獲得合戦」のように見えてくるのだ。
昨年、サッポロが「極ZERO」という、第3のビールを発売した。
しかし、国税から「第3のビールではなく、税率の高い発泡酒」だと指摘され、追徴課税された上一時生産を中止、改めて「第3のビール」として発売をした、という経緯があったということは、ご存じの方も多いと思う。
その後、サッポロ側が「第3のビールなのか、発泡酒なのか」調べたところ、やはり「第3のビール」であったことが確認され、追徴課税分の115億円分の税金の返還を求めていたが、国税側からは「返還しない」と通知していたようだ。
サンケイBIZ:国税当局がサッポロビールに「115億円返還しないと通知」酒税分類問題
これまで、ビール会社と国税との間には「酒税」を巡って様々な攻防戦が繰り広げられてきた。
「攻防戦」というと穏やかではないが、ビール会社側はビールの酒税が上がるたびに、顧客の確保のために「発泡酒」を創り、「第3のビール」を創ってきた。
それだけではなく、これまでのビールよりも「美味しさ」を追及した「プレミアムビール」の開発にも取り組んできている。
結果として、普段の晩酌には「第3のビール」、お給料日や何かうれしいことがあったときやギフトでは「プレミアムビール」という、「ビール」という市場の中で、棲み分けのようなものができてきた。
これは、ビール会社の努力と生活者の需要と家計のやりくりからできてきた「市場」だとも言える。
その「市場」に水を差すような格好になったのが、今回のサッポロ「極ZERO」の酒税分類だったのだ。
サッポロという大きな飲料メーカーであっても、115億の収益を上げるというのは並大抵のことではない。
せっかく「ビール風味(とあえて呼ばせていただくが)のお酒で、楽しんでいる」左党の方々にとっても、「企業努力分を認めて、楽しく飲ませてよ」という気持ちになっているのではないだろうか?
そして左党の方々にとっては、「どうして?!」と思うような動きも最近でてきている。
それはお酒の大型ディスカウントストアに対する、規制という案だ。
私自身、ほとんどお酒を口にすることはないのだが、お酒のディスカウントストアには時々行ったりする。
というもの、お酒だけではなく独自の輸入ルートで、海外の珍しいジュースなども販売しているからだ。
日本ではなかなかお目にかかれない「ブラッドオレンジジュース」や「ザクロジュース」などは、このようなお店でなくてはなかなか手に入らない、というのが現状だと感じている。
もちろん、海外の珍しいジュースを輸入しているのだから、独自のルートで日本では紹介されていないような小さなワインメーカーやビール会社、時には共同開発といった商品もある。
おそらく、政府が規制したいと考える理由は、現在ある小規模店舗の酒屋さんを保護するためなのだと思う。
小規模店舗の酒屋さんからすれば、ディスカウントストアーの大規模店舗は、脅威だと思うし昔のような商売では成り立ってはいかない。
だからと言って、政府がディスカウントストアーの規制を考えるというのは、いかがなものだろう?
大規模チェーンのディスカウントストアーは、それなりのリスクをとってオリジナルの商品開発や独自の輸入ルートを持つ努力をしている。
小規模店舗の酒屋さんの顧客は実は個人ではなく、飲食店で昔ながらの「御用聞き」のような、小さいからできる機動力のようなところで、商売をしている。
そのような事情も理解されず、なんとなく一部の人たちの都合で様々な規制がされ、生活者の楽しみがなくなるような気がするのだ。
いずれにしても左党の方にとっては、ゆっくりとお酒を楽しめなくなりそうな話題が目立つこの頃だ。
「まだGWではない」という気分でいるのだが、街中を歩いていると「GW中か?」という気がしてきた。
街中を走る営業車両などが、少なくなっているわけではないはずなのだが・・・今日のお天気が、行楽気分にさせたのかもしれない。
GWに限らず、長期の休みになると話題になるのが「各地の交通渋滞」だろう。
今年は、今週末が高速道路の下りのピークで、来週の水曜日が上りのピークだと予想されているようだ。
そんな交通渋滞の時、多くの人は車という限られた空間でどのように過ごしているのだろう?と、フッと気になった。
今では、ワンセグ機能を搭載したカーナビはもちろん、Padのようなタブレットでも動画を見ることができる。
小さなお子さん連れであれば、「アンパンマンのDVD」は必須、という話も聞いたことがある。
でも、本当にそうなのかな?という疑問が、今朝のFMを聞いてわいてきたのだ。
もしかしたら、FMだけではなくAMのラジオなどを聞きながら、運転をしている人が多いのでは?という気がしたのだ。
というのも、FMを聞いていると定期的に「交通情報」が流れる。
朝の情報番組の時だけではなく、番組の合間合間にニュースや天気予報と一緒に「交通情報」が、流れるのだ。
とすれば、ラジオ番組を聞いている人の多くは、車に乗っている人なのでは?
特に、長距離を運転するトラックドライバーさんやタクシードライバーさんにとっては、その地域地域の「交通情報」というのは、とても重要な情報だろう。
もう一つ最近感じることは、テレビとは違い映像がない分自由度があるのでは?ということだ。
特にCMなどは、その時々の社会情勢を映し出すような内容のものが多く、思わずクスッと笑ってしまうものから「そうだよね~」と共感できるものまであり、もしこのCMを映像化したら生々しい印象になってしまうのでは?という気がする内容が、案外多い。
最近の自民党のように、テレビ番組の責任者やテレビ局の担当者を呼びつけるようになってくると、メディアそのものが息苦しくなってしまうのだが、そのような状況の中でもラジオという媒体は、比較的自由な空気感がある。
おそらく、「社会的影響力」という部分で「テレビほどではない」ということだと思うのだが、この「テレビほどではない」という点が重要なのだと思う。
メディアというと「テレビ、新聞、インターネット」という時代になってきていると思うのだが、外れてしまった?ラジオの持つ面白さを考えると、決して古いメディアではなく、むしろ自由さと情報量の大きなメディアだという気がする。
何よりも、運転をしながら、家事をしながら・・・という、何かの行動(や動き)に制限を与えない、という脇役メディアであることが、ラジオの強みで、古くならない理由なのかもしれない。
昨日、朝食を食べながら新聞を見ていたら、ある訃報に気が付いた。
慶応大学の名誉教授をされていた、村田昭治さんの訃報だった。
新聞の訃報にある通り、数多くの財界人を育てた名物教授であった。
私は、直接ご教示をいただくことはなかったのだが、仕事で長い間ご教示をいただいていた大学の先生が、出されるたくさんの宿題に村田先生の著書が含まれていた。
おかげで、ずいぶん村田先生の著書を読ませていただいたし、私がマーケティングという仕事をするうえで、とても勉強になることが多かった。
村田先生の「マーケティング論」というのは、「目先の収益の上げ方」ではなく、「企業が社会の一員として、どのようなポジション(あるいはスタンス)であるべきか。また、企業の持つ社会的影響力を、どのように社会に還元するのか」ということを、中心に述べられていたように思う。
本の読み方、解釈は様々なので「違う!」という方もいらっしゃると思うのだが、村田先生のおっしゃっていた「チャームな企業(=魅力的で、人が笑顔になるような企業)」というのは、そのような企業なのではないだろうか?と、考えている。
そして今そのような企業が、どれほどあるのだろう?
「リストラ」という名前の「首切り」を積極的に進めることで、業務改善を図ろうとする企業。
本来の「リストラクチュアリング」とは、「事業再編」であるはずなのだが、肝心の「事業再編」ではなく「事業改善をするためにとりあえず、首切りをする」という、「首切り」が目的の「業務改善」になってしまっているのではないだろうか。
その最たる企業が、いわゆる「ブラック企業」と呼ばれるような、企業だと思う。
ところで、村田先生はマーケティング論を中心に経営などについての著書ばかりだと思われるかもしれないが、中には異色ともいえる?本がある。
すでに絶版になってしまっているようなのだが「なぜ彼はいつも笑顔なのか」という、エッセイだ。
この本を拝読したとき、いわゆるマーケティング論では十分理解できなかった村田先生の「マーケティング思考」というものを、理解することができたような気がした。
それはマーケターとしてではなく、人に対する接し方とか生き方がビジネス(思考)に反映される、ということだった。
実は、私がマーケティングについてご教示をいただいた先生から、「マーケターにとって一番大切なことは、1日の中でどれだけ『ありがとう』ということが言えるかです」と、言われたことがある。
私たちは様々なサービスを受けることで、豊かな生活を送っている。
そのサービスが受けられる国、というのは実は決して数多くはない。
何より、些細な心遣いを見逃さず「ありがとう」というためには、サービスを提供してくれている人を十分に観察する必要がある。
人は自分のことばかりに目が行きがちだが、マーケターとして必要な視点は「自分」ではなく「他者である」ということなのだ。
そんなことを、とても平易な言葉で書いてあったのが、村田先生のエッセイだった。
亡くなられたのが、16日でその1週間後に訃報を知らせるというも、村田先生らしいと感じている。
ただ、今のような先が見えにくいときだからこそ、村田先生のお話をもう少し伺いたかった。
昨日、総理官邸に落下?した「小型ヘリコプター・ドローン」。
個人的には、「ドローン」そのものがこれほど普及?していたのか?と、事件よりも普及していたことに驚いた。
そして事件そのものについては、「いつか起きるのでは?」という気がしていた。
というのも、昨年だったと思うのだが「これから10年~20年で無くなる仕事」として、「人による宅配事業」が挙げられており、その理由がこの「ドローン」を使った宅配事業へのシフト、ということだったからだ。
「宅配事業として活用する」というのであれば、当然のことながら「目的地を設定して、その目的地に到着・荷物を落とす(置く)」ということが、必要だからだ。
その場合、航空法などで決められている「飛行ルート」などは考えてはいないだろうし、そもそも「飛行ルート」そのものを設定する、という考えがあるのだろうか?ということが、気になったからだ。
もちろん、ほかにも「宅配事業」での重要ポイントである「お届けの確認」そのものの問題などがあるだろうし、この「10年~20年で無くなる仕事」を発表したのが、日本のIT研究機関ではなく米国のIT研究機関であったこともあり、日本の商習慣と合うのだろうか?という、疑問を感じていた。
個人的には、頭上に「ドローン」がいくつも飛び交うような街の光景は、見たくない!と思ったのだが・・・。
そう考えると「ドローン」の活用先というのは、このような「宅配事業」ではなくもっと他の事業分野なのでは?と思っていたのだが・・・。
日本では「空撮機能を備えた、小型ヘリコプター」という活用のほうが主流のようで、確かに「ドローン」という表現ではないが「撮影用カメラ搭載、小型無線ヘリコプター」という名前を通販で見かける。
購入する人の多くは、趣味の領域だとは思うのだが、機能そのものを考えればこのような使い方をする人が出てきてもおかしくはない。
むしろ、このような商品が普及している、ということに対する認識の甘さのような部分が、今回の事件に結び付いたようにも感じている。
ただ、このような事件が起きたからと言って「厳しい規制をする」という方法では、対処できないのではないだろうか?
「規制をする」のではなく、侵入させないための策を考えることのほうが大切な気がする。
それは、「テロ対策」という視点でも、必要なのではないだろうか?
たとえば、先日エントリしたように一部のIT関係者からは「これからの戦争は、ITを使ったものになる」と言われている。
たとえばこの「ドローン」のような小型無線のヘリコプターを使って遠隔操作で、相手のインフラを機能不全にさせるということも考えられる。
だからと言って「撃ち落とす」のでは、他の施設などに影響を及ぼすかもしれないし、いくら小型ヘリコプターとはいっても、空からこのようなものが落ちてくれば、通行人などに被害を及ぼす可能性もある。
とすれば、やはり「侵入させない」防御策を、ITという視点とともに考える必要がある、ということをこの事件は教えているような気がする。
今日の朝日新聞の朝刊に、とても目を引く全面広告が掲載されていた。
キャッチコピーが「失うものは美しいもの」、サブコピーとして「水は足りていますーダムは ほんとうに必要か皆で考えましょうー」という、一種の「意見広告」だ。
サブコピーの内容から、環境保護団体の意見広告のように思われたのだが、広告主は意外にもアウトドアウェアなどを製造・販売している「パタゴニア」だった。
意外と言っては、失礼かもしれない。
もともと「環境問題」に対して、意識の高い企業なので、その意味では「当然」なのかもしれないのだが、日本のダム建設に対して興味があるとは思ってもいなかった。
ご存じの方も多いと思うのだが、「パタゴニア」が一躍有名になったのは「ポーラテック」という、ペットボトルのボトルから再生繊維を作り出し、製品化したことだった。
「ポーラテック」という素材そのものが、ペットボトルの再生品ということからもわかるように、もともと企業として「環境」に対して興味・関心の高い企業で、HPを見ても「環境的及び社会的責任」という、表現をしている。
多くの企業が「社会的責任」の一つとして、「環境問題」をとらえているのに対して、「環境問題」を中心に社会的責任を考えている、という企業姿勢をよくあらわしている。
その「パタゴニア」が長崎県に建設予定されている「石木ダム」の建設の是非を問うような広告を、全国紙に掲載したのだ。
建設が予定されている「石木ダム」も、計画から随分時間が経過し、当初の「取水量」を必要としなくなったのだろう。
そのようなダムは、全国各地にまだまだあるのではないだろうか?
そのような時間の経過とともに、必要性に疑問符を打たれるようになってきたダムと周囲の環境破壊を天秤にかけた場合、どちらにメリットがあるのか?ということを、問うことを目的としているようだ。
今までの「ダム建設反対運動」の中心は、地元住民ばかりでその地域以外の人たちから注目されることなど、ほとんどなかった。
それが今回「パタゴニア」という海外の人気アウトドアウェア企業が、支援をすると発表し全国紙に「意見広告」を掲載する、ということは異例なこと。
この「パタゴニア」の支援で広告が掲載されたことで一番慌てているのは、案外ダム建設を管轄している国土交通省かもしれない。
もし、国土交通省が慌てていないとすれば、この「意見広告」の意味と社会的影響力を理解していない、ということになるだろう。
なぜなら、「パタゴニア」の目的は世論を巻き起こすことだからだ。
先回エントリーをした直後に、PC画面が真っ暗!
サポートセンターなどに連絡するも、PCは復活せず、しばらくお休みをすることになってしまいました。
その間、いろいろ考えることがたくさんありました。
たとえば、天皇皇后両陛下の「パラオ諸島への慰霊の旅」と安倍総理の思考・・・。
これまで、いろいろな場面で天皇陛下をはじめ皇族の皆様は「戦後の平和」について語られてこられた。
そのお言葉には、「今の平和な日本は、先の大戦によって名も知られぬ多くの若者の犠牲によるところがある」という、趣旨だという印象が強くある。
そのような言葉をここ2,3年多くなられたという印象があった。
そして今回のパラオ諸島のご訪問。
多くの犠牲者が出た海に向かい、深々と頭を下げられたお姿は、印象深いものであった
そのような両陛下のお姿を拝見し、感じることは安倍さんは本当に「愛国者なのだろうか?」という疑問だった。
確かに、今の天皇陛下は「象徴天皇」というお立場であり、政治的発言は避けられている。
しかし、たびたび口にされる「平和への願い」と「先の戦争に対する思い」、そして「憲法を守る」いうお言葉を聞くたびに、解釈の仕方を変えてまで、「集団的自衛権」に固執し、自衛隊の活動範囲を広げようとする安倍さんの姿勢は、日本という国のためではなく、自己満足というか、ご自分の思いだけで推し進めているように感じられるのだ。
天皇陛下の意思をくみ取ることが「愛国者」だとは思わないが、それにしても安倍さんの暴走振りは、怖さを感じさせるものがある。
そして「右翼」でもなければ、「愛国者」でもなく、単に武力が好きなひ弱いお坊ちゃまという印象ばかりが強くなるのだ。
その一方で、「これから先の戦争は、武器を持ってドンパチするようなものではない。おそらく日頃当たり前のように多くの人が使っているITを使って、一瞬のうちに相手の国のすべてのインフラを機能させなくなることだ」という話も聞いた。
ITと言っても、スマートフォンやPCなどだけではない、家庭電化製品にも多くのITチップが使われている。その一般家庭で何気なく使っている家電製品のITチップを操作することで、一瞬のうちに相手の国のインフラの機能不全を起こす、という方法が、これからの「戦争」だろう、という話なのだ。
その意味で一番セキュリティー管理が行き届いている国は、(当然のことながら)中国で、米国などはその1/10にも満たないという。日本に限って言えば、そのような危機に一番さらされやすい国で、政府もその部分での危機意識がほとんどない、という。
とすれば、安倍さんが息巻いて「集団的自衛権を発動し、日本も戦える国にするんだ!」といったところで、すでに時代が変わってきている、ということになる。
そのような時代感を持つことの意味などを考えさせられたのだった。
3月に行われた東大の教養学部の石井洋二郎学部長の卒業の式辞とともに、先週末行われた信州大学の山沢清人学長の式辞が話題になっている。
特に信州大学の山沢学長のことばが、朝日新聞で「スマホ止めますか?大学辞めますか?と入学式で学長が新入生に迫る」という、センセーショナルな見出しを付けたために、式辞の内容よりも、この見出しのほうが話題になってしまった感がある。
見出しというのは、ある程度センセーショナルな書き方をするので、割り引いて考えるようにしているが、確かにこの見出しはセンセーショナル過ぎた感がある。
ところで東大の石井学部長と信州大の山沢学長の式辞をよく読むと、共通している点がある。
それは「情報の元は、自分で確認をする」という点だ。
巷にあふれるさまざまな情報をうのみにするのではなく、自分で考え、情報の元を自分でたどり、調べる」ということの大切さを言っている。
東大の石井学部長は、これまで伝説?の式辞とまで言われた「肥った豚になるよりも、痩せたソクラテスになれ・・・」という式辞を引用し、その式辞そのものがオリジナルではなかったこと、しかも式辞では使われていなかったことなどを挙げ、情報の拡散による「虚偽から生まれる真実性の危険性」のようなことを指摘された上で、ニーチェの言葉を引用している。
一方、信州大の山沢学長の言葉は、朝日新聞の見出しほどではなかったものの、新入生にとっては「衝撃」だったようだ。
朝日新聞に掲載されていた、入学式後の新入生の言葉に「スマホがないと、友達も作れない」という言葉が、象徴的だと思う。
この言葉を見たとき、「イヤイヤ、スマホが無い時代のほうがず~~~~~~と長く、その間に学生生活を送った人たちは、スマホが無くても十分友達はできたし、大学時代の友達が、生涯の友達となっているけど!」と、ツッコミそうになられた方も多いのではないだろうか?
確かに「スマホ」そのものは、便利なツールでさまざまな事柄を「検索」するのは、短時間で楽だ。
連絡を取り合うのも、相手の都合を考える必要もなく、メールやLineで連絡をすることができる。
その「短時間で楽」の裏に潜む、思考力と「人としての知的さの喪失」という問題点がある、と思っている。
コミュニケーションというのは、ネットの上ではなく本来人と人が顔を合わせ、その人の言葉で話をすることだ。
そこには、相手の表情を見たり、語気を感じたりするための「感覚や感性」が必要になる。
それこそ、自分の持っている「感」をフル活動させなくてはならないのが、コミュニケーションだ。
なにより、ネット上にある情報の多くは「発信者のバイアスがかかった情報の賛同者」によって拡散している、ということを理解する必要があると思う。
そのようなトレーニングもされないまま、ネット上の情報を信用したり、ネット上の付き合いをコミュニケーションだと考えることは、「知の喪失」だということを、二人の先生は言っているのでは?と思う。
最近、通販のアパレルカタログだけではなく、今日新聞の折り込みチラシとして入っていた百貨店の広告を見ながら、「今はMade in Japan」が、注目なのかな?という気がした。
30年くらい前までは、「日本製」という表示が比較的多かったアパレル商品だが、昨今ではファストファッションの流行もあり、すっかり「Made in Japan」 は高級品となってしまった。
実際通販のカタログを見ても、中国やベトナム製などと比べると、3~4倍の価格がついている。
消費そのものが大きく伸びていない中で、日常的に着る服となるとそうそう高いお金は出せない、というのが生活者の気持ちだろう。
だからと言って「海外に生産拠点をすべて任せる」というのも、さまざまなリスクがある。
何より、生地から製造まで日本製という商品は、細やかでいきとどいた着易さのようなものがある。
一方、そのような生産地だけではなく第一次産業などを担っているのは、都市部ではなく地方である。
今回の地方統一選挙で、自民党は「地方こそ、成長の主役」というコピーを使うほど、地方を元気にしなくては!ということらしい。
しかし現実は、東京一極集中が加速し、地方は衰退の一途になりつつある。
そんな中、東日本大震災の被災地などでは「Made in Japan」ではなく、「Made in ○○(地域名)で、復興するんだ!」という動きが出始めている。
以前、拙ブログでも紹介した「東北食べる通信」だ。
その中でも、石巻の牡蠣養殖をされている方は、「Made in Makinohama」で、ご自分で養殖された牡蠣を世界をマーケットに売っていこうとされている。
東北食べる通信: 牡蠣漁師 阿部さんちのCSA
プリプリとした大きな牡蠣は、美味しそうというだけではなく、食べごたえもありそうだ。
それだけの自信があるからこそ、産地を堂々と謳い海外への進出を目標とされているのだと思う。
考えてみれば、アパレルの生地や縫製だけではなく、伝統工芸にしても日本各地には、その地名のついた産業がある。
「伊万里焼」にしても「輪島塗」にしてもそうだ。アパレルでいうなら岡山の児島で生産されるデニムなどもそうかもしれない。
これらの商品が、海外に紹介されるとけつけられる生産地は「Made in Japan」だろう。
でも、海外の多くの人たちがイメージするのは高層ビルが立ち並ぶ「TOKYO」なのではないだろうか?
とすれば、地域の再生だとか地域創生というのであれば、「Made in ○○(地域名) from Japan」なのではないだろうか?
おりしも、サントリーやニッカウィスキーが本場のスピリッツコンテストで金賞を受賞したり、本場フランスで甲州ワインが高い評価を受けたりしている。
日本食ブームとともに、日本酒も人気になりつつある。
日本の食だけではなく、さまざまな商品をアピールするのであれば、そろそろ「Made in ○○(地域名) from Japan」とする時代になってきているのではないだろうか?
そのような発想で、モノ・コトづくりを考えると、それぞれの地域が持っている見落とされている資産が、違ったモノになるのではないだろうか?