Yahooのトピックスに、ジャーナリスト・後藤健二さんを殺害した「IS国の覆面男」についての記事が取り上げられていた。
Yahoo:後藤氏殺害の「覆面男」。彼はなぜ「殺人鬼」になったのか
この「覆面男」については、すでに様々なメディアが人物を特定していた。
一部では、イギリス出身のラッパーという説もあったようだが、どうやらそのような人物ではなく、ごくごく普通の青年だったようだ。
しかし、彼を「殺人鬼」へと変えてく過程を読むと、あるきっかけがあったのだと理解できる。
それは、中東出身者というだけで、警察などから不当に拘束され時には厳しい尋問にあい、そのような経験をするたびに、欧州社会に対して絶望していったようだ。
おそらく最終的に、彼を「IS国」へと向かわせたのは、仕事を失い結婚すらできなくなったことだろう。
彼が受けた不当な拘束や尋問の数々は、第2次世界大戦前~戦時中の「特高」と呼ばれた警察や、1950年代に米国で吹き荒れた「レッドパージ」を彷彿とさせる。
問題なのは、「なぜ彼が殺人鬼になったのか?」ということではなく「なぜ彼を殺人鬼へと変貌させたのか?」ということだと思う。
そして、彼が受けた様々な拘束や尋問が行われたのは「中東出身者=危険人物」という、ある種の「レッテル」だったのだということもわかる。
違う言い方をするなら、「人種的な先入観」による差別や偏見が、彼を「殺人鬼にした」ということになるように思えるのだ。
この「先入観」というのは、実は誰しもが持っているモノで、様々なところで「判断の基準」となることがある。
それは人物に対してだけではなく、商品や企業などにもあることだ。
商品や企業に対して使う言葉があるとすれば、それは「ブランド」というになるかもしれない。
ただ注意しなくてはならないことは、その「ブランドの良しあしを決めている」のは、自分の判断ではなく他者から与えられた情報などによる「バイアス」を素にしている、ということだ。
「認知バイアス」とか「確証バイアス」が加わることで、正しい判断ができなくなる、ということは知られていることだと思う。
その意味で、「ブランド構築」という戦略はとても難しく、生活者との公正で真摯なコミュニケーションが重要である、ということになる。
「情報化社会」と言われて久しいが、それらの情報の中には「様々な先入観を植え付ける情報が含まれている」ということを、十分理解する力が必要である、ということだけではなく、国という組織がそのような「先入観」で人を見る怖さということを感じさせる記事だと思う。
中日新聞のWEBサイトに、「在留資格に介護新設へ」というタイトルの記事が、掲載されている。
中日新聞:在留資格に「介護」新設へ 外国籍労働者受け入れ促進
これまで外国籍労働者=低賃金で労働者が集まりにくい仕事に就かせる、ということが半ば当たり前のように「研修制度」という名の下行われてきた。
そして、過酷な労働条件から逃げ出すような外国籍の労働者も、少なくなかった。
時には、犯罪に手を染めるような労働者もいた。
「外国籍の労働者を雇用する」というのは、雇用をする側にとっても様々なリスクがあると思う。
だからと言って「使い捨て」のような働かせ方をしているのは、問題だろう。
もし彼らが母国に帰ったとき、「日本は、ひどい国だった。日本人ばかり優遇され、自分たちは研修という名のひどい扱いをされてきた」という話がされるよう出れば、日本にとても決して良いことではない。
ただ、昨今の国の「成長戦略」の一つとして掲げている「観光」や「医療」という視点で考えてみると、違う発想が出てくる。
たとえば、日本の病院で行っている「人間ドッグ」を受診するために、わざわざ来日する人がいる。
このような人たちにとって、日本の病院で過ごす「人間ドッグ」は、気持ちの良い(?)体験かもしれない。
そのような現場に、日本語以外が使える医療者がいれば、アジアの富裕層にとっては「魅力的」で「安心」があると思う。
治療を優先されるような「急性期病院」などでは、あまり関係のないことかもしれないが、「アジアの富裕層も受け入れる体制」として、アジア諸国の人たちを受け入れる、という考えはあるのではないだろうか?
その範囲を広げれば、観光地のインフォメーションセンターのようなところには、必ず日本語以外の言葉が話せるスタッフを常駐させることで、海外からの観光客はガイドブックなどに掲載されていない日本を楽しむことができるだろう。そのサポート体制という点では、都市部や有名観光地などはともかく、地方では整っていないのでは?
日本の「おもてなし」は素晴らしいモノがあると思うのだが、海外の人たちにその素晴らしい「おもてなし」を十分堪能してもらうためには、言葉のサポートが重要であり、その対象は英語圏や中国だけではないと思う。
「研修」という名目であれば、どうしても「安い賃金で働いてもらう」という発想になるのだと思う。
でも、海外から人を呼び寄せる人材と考えれば、これまでとは違い日本人と一緒に働く仲間ということになると思う。
「技術研修」であっても、日本の製品を購入した後の「現地アフターサービススタッフの育成」ということになれば、人材育成になると思う。
「成長戦略」とか「グローバル化」というのであれば、海外に進出するだけではなく、海外から人を呼び寄せるという「双方向」のグローバル化が重要だ。
その人材としての、外国籍の労働者という考え方も必要になってきているのでは?と思うのだ。
昨日のいくつかの新聞で、「インターネット広告が、1兆円を超えた」という記事を掲載している。
中日新聞:国内広告費、ネットは初の1兆円達成
国内の広告費そのものが、大きなスポーツイベントなどがあった関係で、広告費そのものが伸びている。
その中で群を抜いて増えているのが、インターネット広告。
伸び率が12.1%というのは、インターネットそのものがまだ若いメディアということもあるとは思うのだが、それだけで12%近くの増加となるのは、社会全体が情報媒体としてインターネットを認めた、ということにもなる。
それだけではなく、インターネットそのものがとても身近なメディアになってきている、と読み取ることができる。
媒体別の広告費の推移というのは、その時々の「メディアの主役」をはかる物差しという部分があった。
今でも「信用性の高い媒体」と言われているのは、新聞だろう。確かに朝日新聞の「慰安婦問題」などで、その信用は随分落ちたとは思われるが、テレビにはニュースからバラエティーまで幅広い番組があるために、「信用性」という部分では、まだまだ新聞のほうが上だと思う。
しかし、広告費という視点で見ると、新聞よりもテレビのほうが圧倒的に強い。
その理由は、上述した「幅広さ」にある。
ニュースのような報道性と正確性が求められる番組だけでは、視聴者はついてこない。
バラエティーのような肩の凝らない番組があるこそ、視聴者はチャンネルを合わせるのだ。
インターネットの場合、広告そのものがテレビとは違う考え方で作られている。
今でもインターネット広告の主流は、テレビCMとの連動型(「この続きは、ネットで」と表示されるテレビCMのコトだ)だと思うのだが、インターネットでの広告というのは、広告費が潤沢な大企業だけが広告しているわけではない。
それが「楽天」や「Amazon」のショッピングサイトの広告だ。
Yahooのトップページに表示されるのは、潤沢な広告費がある大企業が中心なのだが、新聞社のWEBサイトやfacebookなどに表示される広告というのは、「楽天」や「Amazom」などのショッピングサイトの広告であったり、企業の通販サイトであったりする。
いわゆる「バナー」と呼ばれる広告だが、この「バナー広告」そのものは特別な工夫があるわけでも、経費をかけた広告でもないのに、思わずクリックをしてしまうことがある。
インターネットの広告は、そのようなビジュアルで引きつけるだけではない。
検索をしたとき、上位に掲載されるほとんどが何かしらの広告だ。
「そんなこと、わかりきっている」と思われるのだが、この「広告らしくない広告」もまた、テレビなどの今までのメディアでは打ち出すことができなかったタイプの広告だろう。
言い換えるなら「インターネット上の広告」というのは、広告なのか情報なのかボーダーな広告だともいえる。
インターネットというツールそのものが、発信される情報が新聞やテレビ、雑誌などのように限られたところだけではない、という性格が、このような「ボーダーな広告」になるのかもしれない。
ということは、逆にこれまでのような広告の考え方とは違う発想の広告表現が必要になってくるかもしれない。
今日の朝日新聞のWEBサイトに「女は家」意識、立候補の足かせ 政治の場に残る壁、というタイトルの記事が掲載されていた。
朝日新聞: 「女は家」意識、立候補の足かせ 政治の場に残る壁
この記事とは別に、「夫婦別姓」についての最高裁の判断が出る前に、公明党の幹事長が「夫婦別姓導入、判決前に法改正をすべき」という見解を示している。
読売新聞:公明幹事長「夫婦別姓導入 判決前に法改正を」
一見関係のなさそうな二つの記事だが、実は「女性が働く」という視点では、どちらも共通している点がある。
それは「女性が働き続ける」ための社会の意識、という点だ。
そして、おもしろいことに「夫婦別姓」についての意識が、女性と男性とでは随分違う、違うというよりも真逆である、ということを今朝のFM番組で知った。
街頭インタビューでの内容だったのだが、「夫婦別姓で家庭はどうなると思いますか」という趣旨の質問に対して、男性は「夫婦別姓になると、家庭が崩壊する(崩壊しないまでも、「家庭」という体をなさない)」という意見が圧倒的に多かったのだ。
それに対して、女性は「人との信頼関係の上で成り立つので、別姓であっても関係ない。利害関係がない関係だからこそ、別姓云々ではない、信頼関係を互いに作りあげていくことが大切」という意見が多かった。
結婚をすると、苗字が変わるのは圧倒的に女性が多い。
それによって、働く女性は様々な不利益を感じる場面が多くなる。
仕事は旧姓のままで公的な書類は結婚後の苗字で、というケースが出てくる。というのも、営業職の女性などは旧姓で仕事をしたほうがメリットが高い。
また、個人としてのアイデンティティが失われるような気がする女性も少なくない。
というのも、少子化に伴い「一人っ子同士の結婚」が、当たり前になりつつあるからだ。
その意味では「家」という問題が、絡んでくる。
女性側からすれば、男性の姓を名乗ることで、自分の家が消滅してしまう(=自分のアイデンティティを失う)、ということなのだ。
昔の発想でいえば「お家断絶の危機」ということになると思う。
そのような事情を抱えている女性側からすれば、「男性は姓を変えずにいる」という現実に疑問や不満を持ってしまうのだと思う。
だからこそ「家庭は、利害関係がないからこそ信頼が重要。姓の問題ではない」と、いうことになるのだと思う。
一方、男性側からすれば「家に嫁に来たのだから、当然(自分の苗字に)変わるものだ」ということになるのかもしれない。
この「嫁に来た」というところから、「嫁は家を守り、親(女性側からすると義理親)の介護をするものだ」ということになるのかもしれない。
「女性が働く」ということは、このようなこれまでの社会通念を変える、ということであり、そのためには男性の意識も変わらなくてはならない。
ただこの「夫婦別姓」という問題が話題になるとき、なぜか「別姓か否か」という2者選択で論じられることが多い。
「別姓か否か」ではなく「夫婦で選択するために話し合う」という、一番大切な部分が見落とされているような気がする。
それは「女性が結婚後どう働くのか?」ということにも、関係する問題のような気がするのだ。
「女は家=家事も育児も介護も女性」そのうえで「働いてもいいよ」、というのでは、女性側の選択の余地はない。
まず、そこからが話のスタートだと思う。
日経新聞のWEBサイトを見ていたら、ビックリするような記事があった。
日経新聞:NHK受信料、テレビない世帯も ネット拡大で検討 総務省見直し着手
昨年秋、我が家にNHKの方がいらっしゃった。
「受信料をお支払ください」ということだったのだが、「テレビがありません」と答えると、「携帯電話のワンセグ機能でテレビをご覧になっているということはありませんか?」と言われ、「ワンセグ機能のないガラケーを使っています」といっても、「一度確認をさせてください」と、食い下がられた。
パソコンもテレビが見られる機能を付加したいるモノも多くみられるようになってきているが、パソコンでテレビを見ている人そのものが、どれほどいるのだろう?
現在使っているPCには、テレビの受信機能が付いていないので、当然テレビを見ることはできないのだが、それでもテレビを見ない不自由さというモノは、ほとんど感じない。
そもそもNHKというかテレビ局の人たちには、「国民はテレビを毎日見ている」という、固定概念がありすぎるのではないだろうか?
今や「テレビは、高齢者のモノ」と一部で言われるようになってきた。
「若い世代のテレビ視聴離れ」ということは、随分前から指摘されている。
にもかかわらず、「国民はテレビを毎日見ている」という固定概念から離れられずにいるのは、テレビ番組を制作し放送している側であって、その考えはとても都合がよい考えだからなのではないだろうか?
「現実を直視できない=事実を知ることが怖い」ということもあるのかもしれないが、現実を知らなくては事業の経営など成り立たないと思うのだ。
確かにNHKの受信料の徴収の仕方には、疑問点が多い。
まず、テレビ受像機を購入した時点で、自動的にNHKと受信契約がされる、ということになっている。
その為に、過去ホテルなどが裁判を起こす、ということもあった。
受像機1台に対して、1契約ということになると、ホテルなどは部屋数すべてのテレビが契約対象となるからだ。
そしてそのテレビそのものの稼働率(というべきか?)が高いわけではない。
契約そのものが、NHKに有利になるような内容になっているのだ。
そして、テレビの視聴離れが若年層を対象に進み、逆にインターネット利用者が増えていることに目を付けたのが、今回の見直しの理由だろう。
しかし、youtubeやコニ動などがインターネット上見られることが多い、ということはあってもインターネット利用者が、テレビ番組を見ている、というわけではない。
そもそも今現在、インターネット上で見られるテレビ番組などは、NHKのアーカイブなどを中心に数が限られている。
しかも、それらはすでに有料となっている。
それとも、NTTなどが積極的にセールスをしている「光TV」などのコトを言っているのだろうか?
利用されている方もいらっしゃるとは思うのだが、無料で視聴できるわけではないし、NHKの地上波が見られるのはごく限られた地域で、試験放送的な扱いになっているし、当然、受信料が徴収される仕組みになっている。
上述したように、「なぜ若年層を中心にテレビの視聴離れが進んでいるのか?」ということを考えずに、何とか受信料を徴収するということばかりを考えるのは、ビジネスの基本からすればおかしな話だ。
こうなってくると、いかにテレビを視聴している・していないにかかわらず「受信料」という「税金を徴収するのか」という、コトにばかり腐心しているように思えてくる。
そして、いつまでも総務省が受信料の徴収を検討する、というのであれば、「メディアとしての中立性などない」のがNHKである、という認識が一般的になる。
そのような社会的認識が広まることそのものが、NHKにとってプラスなのか?マイナスなのか?ということそのものも、NHK自身が考える必要があると思う。
昨年から産業界から「個人情報」を、ビッグデータとして使えるようにしたい、という働きかけが政府にあった。それを受け、「個人が特定されるような情報は、わからないようにしてビッグデータとしての活用を検討」という話が出ていた。
このニュースが流れた時、今の企業のマーケティング力の低下を嘆いたのだが、それを示すかのような本を最近書店で見かけるようになった。
新潮社新書:マーケティングの嘘
私もどんな内容だろう?と思い読んだのだが・・・。
結局は、最近言われている「ビッグデータ」や思い込みや先入観で市場を見ると、大きく違うことがある、という内容であった。
その顕著な購買層として、子育てママや(元気な)団塊世代を取り上げている。
確かに、納得できる部分もあるのだが、「どうして?」と疑問に感じるところも多々ある。
何より、著者が行っていることそのものが「マーケティング」の手法の一つで、「マーケティング」そのものは嘘をついてはいないからだ。
おそらくこの著者は、「マーケティング」を「ビッグデータ」から分析したような市場調査に基づくモノだと、考えているのだと思う。
確かに「市場調査」というのは、実務としてのマーケティングではとても重要なコトであり、そのデータは十分考慮しなくてはならない。
問題なのは、そのデータではなく使い方なのだ。
あくまでもこのような膨大なデータを基にした「市場調査」というのは、「市場の傾向」を観るためのものであって、その傾向が本当なのか?実際は、どのような動きが市場に生まれているのか?ということは、実際の現場となる場所に行って、注意深く生活者の姿を観る必要がある。
たとえば、この本でも取り上げている「子育てママ」。
夕方、小さなお子さんの手を引いて仕事帰りの買い物をしている女性たちの買い物かごを観察していると、出来合いのお惣菜を買っている人は、案外少ない。
というのも、今の保育園などでは「極力、母親の手作り弁当」を言っている場合があるからだ。
逆に団塊の世代のほうが、出来合いのお惣菜を購入している人が多い。
「やっと自分の時間が持てたのだから、家事からも解放されたい」という気持ちがあるからなのだろうか?と、買い物籠に入れられている出来合いのお惣菜を観ながら、想像している。
本で紹介されているような、調査のために生活日記のようなモノをお願いする、というのは、実は個人の生活を丸裸にするような手法で、調査を依頼された側としては抵抗感があるのでは?と、思っている。
しかも、調査対象となる人が限られることを考えると、それもまた実際の生活者像を見誤る可能性も感じる。
「マーケティング」の中の「市場調査」というのは、ビッグデータだけでも個人の生活調査だけでも、実際の生活者を見ることはできない、と考えている。
何より、「生活者を調査する」という、上から目線で生活者を観ること自体、違っているのでは?
これまでは企業が市場を創り、リードしてきた。
そしてしばらく前は「生活者が市場を創る」と言われてきた。
おそらく、これからは企業と生活者が一緒になって市場を創るという時代になると思う。
というよりも、すでにそのような市場になってきている。
「ビッグデータをビジネスに活用する」というのは、確かに効率がよさそうだが、そこから考えられたマーケティングはあくまでも「傾向を知る」ためで、いかに生活者とコミュニケーションを取りながら、市場を考えるのか?ということが、大切なのだと考えている。
朝のFM番組を聞いていて、以前から気になっていたモノがある。
「東北食べる通信」という、食べ物付情報誌だ。
東北食べる通信HP
この「東北食べる通信」という、食べ物付情報誌が創刊されたきっかけは「東日本大震災」によって、被害を受けた東北の漁業関係者を力づけることだった。
ネットやメディアだけの情報では、「今の東北を知ってもらうことは難しい」ということと、東京電力による「フクシマ事故」によって東北一円の漁業が「放射能に汚染されているのでは」という、ある種の風評被害をなくすコトを目的に創刊された、と聞いた覚えがある。
確かに、震災直後に起きた「フクシマ事故」によって、一時は「東北全体が、放射能に汚染された」というイメージがあったこともあった。
その「放射能汚染」のイメージは、沖縄へ青森からの「冬の贈り物」として届けられた雪が汚染されているのでは、と本土から放射能疎開をしてきた人たちに声によって破棄された、ということまで起きた。
そんな状況が続く東北の漁業や農業を何とか復興させようと、創刊されたのが「東北食べる通信」だ。
この「東北食べる通信」のユニークな点は、上述した通り「食べ物付」という点だ。
ちなみに、昨今流行りの「おまけつきムック本」のように、「おまけ」として「食べ物が付いている」というわけではない。
「食べ物」のコトを十分知ってもらうために、情報誌と一緒に販売をしているのだ。
取り上げる食べ物も、「震災被災地の物を買ってください」という気持ちではなく、「東北にはこんなにおいしい食べ物があるんですよ!」という自信を持って情報を発信しようとしている。
それは、生産者と生活者を「美味しいモノで結び付けよう」とする、あたらしいビジネスモデルでもある。
だからだろう、この「東北食べる通信」の成功を受け、兵庫や加賀能登など各地の「食べる通信」が昨年暮れあたりから出始めた。
あくまでも個人的な予想だが、おそらくこの「食べる通信」というビジネスモデルは、地方の第一次産業を活気づける一つの力になるのでは?と考えている。
というのも、今まで地方の第一次産業が一番弱かった部分というのが、自分たちから情報を発信するという点だったからだ。
たとえ一般情報誌などに紹介されても、その美味しさを体験できなければ、「美味しそうだな~」という創造の部分だけで終わってしまう。
それが生産者や生産地域の情報とともに、食べ物が付くことによって、受け手となる生活者は「体験」ができる。
その「体験」が、次への購買へと結びついてくる。
「農業の6次産業化」とは別の活性化策だと思う。
その意味で、注目されるビジネスモデルなのではないだろうか。
Yahoo!に掲示されるある広告を見ていて、思ったことがある。
「便利そうな機能ほど、使わない」ということだ。
たとえば、アパレルで「リバーシブルで2Wayの着こなし」という宣伝がされている商品は、数多くある。
「1枚で2通りの着こなしができる」というのは、確かに便利でおしゃれの幅が広がりそうな気がする。
ところが、実際にリバーシブルとして2Wayの着こなしを楽しんでいる人は、どれだけいるのだろう?と、疑問になる。
というのも、私自身、リバーシブルとか2Wayの着こなし、と言われる服を買っても、2Wayの着こなしなどしたことがないからだ。
結局、最初に買ったときの着こなししかしてない。
それと同様に、工業製品を中心に「あれもできます、これもできます」という便利機能があるのは、十分わかっているのに使いこなす機能というのは、限られている。
そして、便利機能を使いこなせなくても、不自由はない。
製品能力の50%も使いこなせていない、という方は案外多いのではないだろうか?
今回Yahooに表示されたPCの広告「富士通:ホームセントラルパソコン」も、15インチよりやや大きな画面のPCで、①タブレット②ディスクトップ型PC③フォトフレームの3通りの使い方ができる、という「1台3役」のスペックを強調した内容になっている。
確かに、1台3役というのは、ユーザーにとって魅力的だと思う。
問題は、ユーザーが1台3役という機能を使いこなせるのか?という点だろう。
重たいPCを持ち運ぶことなく、仕事ができる、というのはとても魅力的だと思う。
その意味で、タブレットは便利だ。
流行りのタブレットの大きさでは、不自由を感じている人にとって15in位のというサイズは、見やすいサイズかもしれない。
反面、タブレットという携帯性を考えると、15in位のというサイズは、大きすぎる。
「携帯性」という部分では、A4サイズ以下が望ましいだろうし、軽さも重要なポイントになってくると思う。
しかしディスクトップPCとして使うのには、15inというのはやや小さい。
最近のディスクトップの画面の大きさは20inくらいが主流になっていることを考えると、画面の小ささ感はぬぐいきれないと思う。
据置型ノートパソコンと思えばよいだけの話かもしれないのだが、その割にはデザインがディスクトップに近い。
ディスクトップパソコンの操作性とノートパソコンの携帯性を両立させた、ということかもしれない。
フォトフレームという点で考えると、PCのような機能は必要ではない。
むしろシンプルで操作性のわかりやすいモノのほうが、世代を問わず使いやすいのでは?
何より、フォトフレームにどのようなニーズがあり、どのような人が使っているのだろう?と、考えるとこのPCユーザーと合致するのだろうか?と、疑問に感じてしまうのである。
そう考えると、便利さを追求した結果「どっちつかず」の商品になってしまったのでは?という気がしてくるのだ。
このような「便利さを追求した結果、どっちつかずの商品」というのは、上述した通り案外多いと思っている。
ユーザーと作り手(多くの場合は、企業だが)との間で「便利さ」という意味のズレが、このような商品を作ってしまっているのでは?
「数多くの商品に囲まれて生活をする」という生活スタイルは、今や時代遅れの感はある。
なんといっても「断捨離」の時代なのだ。
だからと言って、一つの商品に様々な機能を付加して「一つに集約し、便利さを売る」というのも、違っているような気がする。
むしろ、ユーザー側となる生活者自身が「シンプルなモノを組み合わせる」という「便利さ」を求めているのではないだろうか?
そんなことを考えてしまう「便利機能満載PC」のインターネット広告だった。
産経新聞に掲載された、曽野綾子さんのコラムが問題になっているらしい。
毎日新聞:産経新聞 曽野綾子氏コラムにNPO法人が撤回求め抗議文
曽野綾子さんのコラムを読んだわけではないので、その感想は控えさせていただくとして、問題として取り上げられている「アパルトヘイト」に対する認識に、ビックリした。
何より、作家という職業でありながら「人種の違いが文化の違い」という趣旨のことを、コラムで書いていることに驚きを感じたのだった。
「アパルトヘイト=南アフリカにおける人種隔離政策」については、改めて説明をする必要はないと思う。
それだけではなく、アフリカ系黒人の人たちが世界の様々な国で受けてきている、差別は拙ブログなので説明をするまでもなく、過酷で悲しい出来事ばかりだ。
「自由の国・アメリカ」ですら、いまだに黒人差別は残っており白人警察官が黒人の青年を射殺する、という事件(というべきか)は後を絶たない。
黒人であっても、オバマ大統領のようになれる可能性を秘めているのがアメリカという国だが、反面その可能性への道にたどり着けない黒人やマイノリティーの人たちが、たくさんいて、その人たちの多くが経済的、社会的差別を受けているという事実も知る必要があるのではないだろうか?
それでも、アメリカという国が大きく成長し続けることができた理由の一つが、「様々な人種を受け入れ、その中から生み出される多様性のある文化や価値観」があったからだと思う。
曽野さんのいわれる「居住区域を人種で分ける理由=文化の違い」としてあげていることは、むしろ「(その人たちが持っている)社会的価値観や、育ってきた風土・習慣、宗教」に影響されているのではないだろうか?
たとえば、世界に12億人の信者がいる、と言われているイスラム教にしても、イスラム教の信徒さんは何も中東の人たちだけではない。インドネシアなどのアジアにも数多くの信徒がいて、イスラムの教えに従い生活をしている。
中東圏の人たちを黄色人種という人種と考えるかどうかは別にして、インドネシアの人たちは、アジア人(=黄色人種?)となるのではないだろうか?
これは一つの例に過ぎないが、人種の違い=文化の違いではない、ということを端的に示していると思う。
実は、曽野さんに関しては、ここ2,3年ある種の違和感というか「今の社会を知らないのでは?」と、感じることが何度かあった。
特に、「女性の社会進出」ということに関しては、とても冷たいというか、随分古臭い感覚の持ち主だという印象がある。
それだけではなく、なんとなくアジアをはじめとするこれから成長を遂げようとする国の人たちに対して、一種の蔑視感があるようにも受け取られる発言が見受けられ、このような人が退任したとはいえ「日本財団」という大きな社会支援団体の代表を務め、今は安倍政権を支える一人といわれている(らしい)ことが、日本にとってマイナスイメージのような気がするのは、私だけだろうか?
日経新聞のWEBサイトをチェックしていたら、サイボウズのCMについての記事があった。
日経新聞WEB:涙がとまらない「働くママCM」 サイボウズの意図
実際のCMはこちら→働くママたちに、よりそうことを。
このCMが問いかけていることは、働くママたちではなくむしろ働くパパや経営者に向かってのメッセージなのだと思う。
「女性が働く」ことが、当たり前になってきたのは実はここ30年ほどのコト。
実際私が就職したころは、「女子は、2,3年で寿退社をしてもらう」というのが、普通だった。
「女性が働く」ことは、当然だが2,3年で退職してもらいある一定年齢の女性が働く、というコトが一般的だったのだ。
それが「男女雇用機会均等法」ができたことで、女性の働く期間も時間も増えた。
この時の考え方は「女性も男性と同じように働ける機会を均等にする」というコトだった(ように思う)。
しかし、女性には「出産・子育て」という時期がある。
「出産・子育て」を考えずに、「男性と同じように働く」ということは、無理な話。
逆に「出産・子育ての時間を大切にしたいなら、(寿退社ができる)一般職で働いてください」と、企業や産業界のメッセージと受け取った女性も多かったのではないだろうか?
その「ツケ」が、ある意味出生率という数字であったり、専業主婦にあこがれる「若い女性の保守化」に結びついているのではないだろうか?
企業も産業界も「等身大の子育てをしている働く女性」を、見て見ぬふりをしてきたのだと思う。
それが、昨年安倍さんが打ち出した「女性が輝く社会」という言葉で、「女性の社会進出」の後押しがあって、改めてクローズアップされてきたように感じる。
その一つの例が、この1月から始まった「子育てに奮闘する父親」を扱ったドラマなどに、見て取れる。
数年前であれば、おそらくドラマの主人公は「子育ても仕事もパーフェクトにこなす、スーパーママ」だったと思う。
それが、「自称イクメン、子育て中の妻から見たらダメイクメン」という設定になっている。
ということは、社会全体の認識が「育児=女性(妻)」から、「育児=夫婦」となる時期が来ている、というコトのように感じている。
であれば、企業や経営者は「数年先どんな働き方ができる企業になる必要があるのか」ということを、今真剣に考える必要があるのではないだろうか?
それはこのCMにあるような「働くママ」だけではなく、「介護をするママ」にも通じるところがあるのではないだろうか?
女性側からは何度も出ている声ではあるが「働き方を変えるのは、女性ではなく男性」なのでは?
おりしも、高収入の専門職に対して「自己裁量による働き方」の本格的法整備が始まる、というニュースがあった。
「企業が働き方を決める」のではなく、「個人が働き方を決める」ということは、一見良いことのように思える。
ただ、その前提にあるのは「企業側が求める成果を出すための自己裁量」ではなく、「ライフステージと個人の考え方を優先させる自己裁量」なのではないだろうか?
「働くママ」も「介護をするママ」も、女性や特定の人が孤軍奮闘して支える経済は、決して豊かな社会ではないと思う。