日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

意外な理由で生産終了となった「チョコフレーク」

2018-09-29 12:17:42 | マーケティング

森永の「チョコフレーク」が、生産終了になるという。
森永製菓:国内における生産拠点の再編について(注意:PDFファイル)

森永製菓のニュースリリースは、「チョコフレークの生産終了」ではなく「生産拠点の再編」によるもの、という説明になっている。
生産拠点を再編するために、「チョコフレーク」を生産終了になる、ということのようだ。
しかし、それだけなのだろうか?という疑問がある。
朝日新聞には、意外な生産終了の理由が記事として掲載されていた。
朝日新聞:チョコフレーク、生産終了へ 森永製菓「スマホ浸透で」

「チョコフレーク」と「スマホ」というのは、意外な気がするのは私だけではないと思う。
それが「つまんで食べる」という食べ方が、理由となると「なるほど」と納得できる部分もある。
確かにスマホを操作するにあたって、チョコレートのような手に付きやすいお菓子は、敬遠されるだろう。
手軽に食べられるお菓子だからこそ、このような問題が起きたと考えられる。

そこで真っ先に思い浮かぶ「つまんで食べるお菓子」といえば、「ポテトチップス」だ。
最近では、「ポテトチップスを食べる用箸」まで登場している。
お箸でポテトチップスを食べれば、手は汚れないのでスマホの操作にもさほど支障をきたさない、と考えられる。
「食べ物を食べながら、スマホを操作するのはお行儀が悪い」などという批判はあると思うが、「スナック菓子を食べながら何かをする」というのは案外やっていることだと思う。
随分前には「ポテトカウチ」と言う言葉があり、当時は「カウチ(ソファー)でポテトチップス片手に、テレビやビデオを見る」ことが、やや批判的な意味も含めて使われていた。
そのテレビやビデオが、スマホに代わっただけだと考えれば、お行儀が悪い云々ではなく随分昔から誰もがやっていたこと、ということに気が付く。

テレビやビデオとスマホが大きく違うのは、「手で操作するか否か」という点だろう。
テレビやビデオの時はリモコンのボタンを触る程度で、その触る時間も短かった。
スマホは、画面に触る時間は長いため食べ物で汚れた手で触りたくない、という気持ちにさせるのだろう。

スーパーのお菓子売り場などを眺めてみると、個装のお菓子が多いことに気づく。
昔ながらの「袋菓子」も多いのだが、大手メーカーのお菓子の場合「食べきりサイズ」と呼ばれる少量サイズ(ポテトチップスなどのスナック菓子)か、箱に入った個装のお菓子が多い。
かつては、トレーに入っていたビスケットなども、1パッケージ2~3枚程度の個装になっている。
他にも「シェアパック」という名前で、少量の小袋を6~8個入りの大袋などもよく見かける。
「皆で分け合って食べる」にしても、それぞれが食べやすいようにパッケージされているのが、今のお菓子の包装ということかもしれない。
以前なら、お皿にお菓子を並べて食べていたのが、一人ひとりがパーッケージ別に持って食べるという、「皆で食べる」という食べ方が、大きく変わってきているとも考えられる。

そう考えると「チョコフレーク」の生産中止とスマホの関係は、意外なコトでもないのかもしれない。
ただ残念に思うのは、「チョコフレーク」の商品群の中に「チョコフレークバー」という、チョコフレークを棒状に固めた個装のお菓子が以前あったのに、現在はなくなっている点だ。
このような商品であれば、スマホを使いながら「チョコフレークを食べる」という若者は、今でもいるのでは?と、思うのだ。

生活スタイルの変化が、それまでの人気商品を市場から追いやる、ということは決して珍しいことではないが、今回の「チョコフレーク」生産終了とスマホの関係は、これまでとはチョッと違う関係であった、という点から今後の市場を考える材料になると思う。

 


HONDAの企業CM「ORIGAMI」に込められたモノとは

2018-09-28 16:57:39 | CMウォッチ

HONDAの70周年記念のCMがmyoutubeで公開されている。
youtube:HONDA“ORIGAMI"

動画では、本田宗一郎が補助エンジンを自転車に取り付けたところから始まる。
この「補助エンジンをつけた自転車」が、HONDAの始まりだったのだ。
実際、小学生の頃住んでいた浜松では、ご近所のお年寄りの中には、資金難に困る本田宗一郎にお金を貸した方も多く、お年寄りたちは「自転車にエンジンを付けて、ポンポンと走らせておった!」と、いう話を幾度か聞いたことがある。
このお年寄りたちは、バイクと言わず「ポンポン」と呼んでいたことも、懐かしい思い出である。

それから70年、HONDAは創業者である本田宗一郎の「夢」と共に、事業を発展させてきたように思う。
最初の二輪車から自動車とF1レース、そして(小型)ジェット飛行機だ。
そんな本田宗一郎の「夢」を、折り紙という手法で一コマ一コマ撮影したのが、今回のCMだ。
今時、CGを使えばもっと凝ったCMがつくれただろう。
にもかかわらず、あえて人がひとつづつ紙を折る「折り紙」を使い、一コマ一コマ撮影をするという手間暇かかるCMをつくったのは、何故だろう?
「夢」を持ち・描くことができるのは、人にしかできないコトだと、考えたからでは?という、気がしている。

このHONDA“ORIGAMI”のサイトには、HONDAの歴史を見ることができるコンテンツがある(Productの最初に紹介されるA型補助エンジンのプロダクト内)。
「補助エンジンを付けた自転車」というのは、今見るとやや衝撃的なものだ。
あくまでも自転車が主であり、それをサポートする為にエンジンがあるということだとしても、エンジンと自転車のペダルが共存している、というのは、今では考えられないように思う。
それが「ファミリーカーのトヨタ」、「技術の日産」という、1960年代の企業コピーでわかる「クルマ」対する考え方の違い、というものも感じる。
トヨタにしても日産にしても「クルマ」という枠の中で、企業の製品づくりを考えているのに対して、どこか人間臭さのようなものがHONDAには感じられるのだ。
それが「ASHIMO」という、人型ロボットを創り出したのでは?という、気すらしてくる。

人だからこそ見られる「夢」。
「夢をかなえる力」を持っているのも、また人なのだ。
なんとなくだが、そんなことを感じさせるHONDAの70周年CMという気がする。

余談だが、HONDAのヒストリーで紹介されている1988年F1レースの写真は、圧巻というかF1というモータースポーツの迫力のようなものを感じさせる。
と同時に、日本がバブルに踊らされようとしていた高揚感も感じられる1枚だ。





「リア充」と「いいね」

2018-09-27 19:32:43 | アラカルト

Yahoo!のトピックスにも紹介されていた、観光地を中心とした「Instagram」による弊害。
LIOM:「二度と来るな!」インスタ映えに命をかける迷惑観光客が撒き散らす害ビジネス、きょうのひとネタ

最近は観光地に限らず、近所の公園でも春は「桜がきれい」と言いながら、スマホで写真を撮影している方が、年々増加している。
どれだけの人が、その写真をInstagramにアップしているのかは、分からないがInstagramを含むSNSへ投稿している方は、多いだろう(と、想像する)。
それが京都などの観光地。その中でも特に有名な観光地である「清水寺」や「伏見稲荷」、「金閣寺」となれば日本人だけではなく中国などから来られた旅行者もスマホで写真を撮り、SNSなどへ投稿しているだろう。

「観光地で写真を撮る」ということ自体は以前からあったはずだが、それが「害」と言われるようになってしまうのは、Instagramを含むSNSだけの問題ではないと思う。
「自撮り」と言われる、背景に有名な建物などを入れる為、様々なポーズを取り「自分+素敵な風景」ということを競うように撮影することに熱中してしまうことが、問題なのではないだろうか?
観光地に行って、観光を楽しむのではなく、観光地にいる自分にしか興味が無い、ということになるかもしれない。

そもそもそのような写真をInstagramをはじめとする、SNSへ投稿してしまう理由は何だろう?と考えると、一昨年~昨年あたりに流行をした「リア充アピール」をして、「いいね👍」をもらう為なのではないだろうか?
しかし、そのような「私って充実していて、素敵でしょ!」アピールの写真を見て、「いいね👍」がどれほどつくのだろうか?
最初は、義理のような感じで「いいね👍」をしていても、そのような自分アピールばかりだと、いつしか「いいね👍」がなくなってくるのでは?
多くの人は、自分に向けられる興味はあっても、他人に対する興味はさほど高くないからだ。
背景となる風景は変わっても、その中心にいるのはいつもと変わらない顔、だとすると、興味が無くなっていくのは当然だと思う。

そんなSNSではなく、もっと違う方法で「いいね👍」を増やす方法があるらしい。
今朝のFM番組で、「めざせ、リア充王」という話があり、確かに!と思ったのだ。
TFMリポビタンD トレンドアイズ:「目指せ、リア充王!」

話の中心は、1980年代~バブル期まで人気だったレジャーが、最近すっかり人気が低迷し、かつてのようなレジャー人口ではなくなっている、というということなのだが、そのテコ入れ策として「リア充」をアピールする、ということなのだ。
特に、スキーやサーフィンは道具にお金がかかり、移動するためにはクルマが欲しくなる。
スキーやサーフィンはもちろん、レジャーで使う為のクルマが欲しい若い世代は年々減っている。
そして、これらのスポーツをしながら、自撮りをすることはできない。
レジャーを楽しむ自撮りがあっても良いが、プラスその場所があればより「いいね👍」をもらいやすいだろう。

いずれにしても、人は他人に対してさほど興味は高くないが、美しい風景には興味があることを考えれば、自己満足感たっぷりの「リア充」写真をSNSで見る気はなく、「害」と言われるほどのことをしても「いいね👍」はもらえないということを、理解する必要があるかもしれない。


スポーツ界の騒動で、知りたいことは「真実」

2018-09-26 16:39:53 | スポーツ

昨日、貴乃花親方が日本相撲協会に「退職届」を提出した。
退職理由は、「日本相撲協会からの重圧」ということのようだ。
日刊スポーツ:貴乃花親方、退職届の理由「協会の有形無形の重圧」

相撲については、ここ数年親方や力士による暴行事件などが毎年のように報道され、場所の話題よりも暴行事件の話題のほうが世間の注目を浴びているのでは?と、感じるほどだった。
もちろん、本場所中は取り組みの結果などがスポーツニュースや全国紙のスポーツ面で大きく取り上げられるのだが、それよりも話題として取り上げられるのが、一連の不祥事?なのだ。

今回の貴乃花親方の引退には、相撲協会が今年7月に決めた「親方は必ず一門に所属しなくてはならない」という、約束事があったからだという。
一部からは「相撲協会による貴乃花親方締め出し」の為の約束事なのでは?という、指摘がある。
それにしても、何故これほどまでに相撲協会と貴乃花親方と対立をするのだろう?
何より、貴乃花親方は退職し、引退をすると会見まで開いているのに、相撲協会側は「書類不備」ということで、受理をしていない。
傍で見ていると「蛇の生殺し」のような、印象を受ける対応だ。

と同時に、今年に入ってから相次いでスポーツ界で起きている騒動と、根っこの部分では同じなのでは?という、気もしている。
日大ラグビー部のラフプレー、レスリング、体操、ウェイトリフティングなど、一連の騒動の指導者たちの多くは「昭和のスター選手」だった。特に体操とウェイトリフティングに関しては、かつての名選手でありお子さんたちも同じスポーツで実績を残されている、いわゆる「親子鷹」のような関係にある。
そのため、親子ともども注目を浴び、スポーツ指導などについても、話題になってきたはずだ。
にもかかわらず、何故今頃これほどまでに問題が発覚するのだろう?
そして、いつまでたっても解決した、というよりもグダグダとうやむやになっている(ような気がしている)。
その最たるものが、今回の「貴乃花親方VS日本相撲協会」かもしれない。

貴乃花親方と日本相撲協会との軋轢(?)は、今回の一連の事件が発端ではない(と思っている)。
随分前から、貴乃花親方と日本相撲協会との間には、相撲に対しての考えの食い違いがあり、今回の事件がその溝をより大きくさせた、という印象がある。
その結果、貴乃花親方が退職→引退ということに追い込まれたのだと思うのだが、相撲協会側の説明も貴乃花親方の説明も、何だか釈然としない。
ここまでくると、相撲ファンではない私などは、何が何だか訳が分からなくなってしまう。
おそらく多くの人たちは「それぞれの言いたいコト」を知りたいのではなく、「何があったのか?」ということが知りたいのではないだろうか?

今回の「貴乃花親方VS相撲協会」という問題だけではなく、今年起きた一連のスポーツ界を揺るがしている問題全てに共通することは、多くのスポーツファンが知りたがっている、「事実と真実」を明らかにすることだと思う。
それが、問題解決の糸口となり多くのスポーツファンを再び呼び戻すことになるのでは?



「新潮45」の休刊に思う

2018-09-25 20:10:47 | 徒然

この夏、いろいろな意味で話題となった「新潮45」が、休刊するようだ。
新潮社:「新潮45」休刊のお知らせ

休刊の切っ掛けとなったのは、杉田水脈氏の「LGBTは、生産性が無い」と書いた内容よりも、その後の擁護論による社会的批判だろう。
杉田氏に対する批判も相当強いものがあったはずだが、その批判に対して「火に油を注ぐ」ような結果を招いたのは、擁護論の内容だろう。

そもそも「新潮45」という雑誌は、どのような雑誌だったのだろう?
新聞などに掲載される雑誌の特集見出しを見ても、興味がわかなかったために読んだことは無いのだが、ここ2,3年は「保守的」というよりも「封建的」な内容が目立つような気がしていた。
封建的の先にあるのは、時の政府寄りの内容ということになる。
だからと言って、それが「保守的」なのか?と言えば、そのような印象も無い。
「保守的」というより、「安倍(総理)的(≠右翼)」という感じだろうか?

そのような印象を持っていた為に、杉田氏の掲載見出しを見た時には、さほど驚きはしなかった。
もちろん、文の内容を知って「こんな内容を名だたる出版社が出して、問題は無いの?」という気はしたが、それはあくまでも内容の話だ。
と同時に「新潮45」でなければ、このような文は掲載されなかったのでは?という、気もした。
それほど、「安倍(総理)的」な雰囲気がここ2,3年強くなっていたように感じていた。

不思議に思ったのは、いくら「安倍(総理)的」だとしても、杉田氏に対する反論文を掲載するのでは?と思っていたのだが、そのような反論は掲載されずに、いきなり擁護論が掲載されたコトだった。
様々な考えを雑誌の紙面で論じあう、ということは「オピニオン誌」と呼ばれる雑誌などでは、度々あった。
それが、議論の平等だからだ。
にもかかわらず、いきなり擁護論を展開してしまった理由を、考える必要があると思う。
なぜならそれこそが、休刊の理由となると思われるからだ。

安倍さんが総理大臣になって以来、ネット上では「ネットウヨ」と呼ばれる人たちの意見を多く見るようになった。
「ネットウヨ」と呼ばれる人たちの意見は、杉田氏や擁護論の中心的存在(?)である小川榮太郎氏の考えと似ているような気がしている。あくまでも私の印象の中でのコトなので、「ネットウヨ」と呼ばれる人たち全てを指しているわけではない、という点は先に言っておきたいと思う。
そうするとネット上で展開される内容が、あたかも「主流となる意見や考え」だと「新潮45」の編集者は思ってしまったのでは?という気がするのだ。

出版不況と言われる状況が続く中で、活字中心の雑誌の売り上げは大きく低迷している、と言われて久しい。
そのような状況の中で、何とか売り上げを伸ばそうと考えた時、SNSなどで盛んに「安倍さんを支持するネットウヨ」と呼ばれる人たちを、取り込もうとしたのでは?という気がしている。
もちろん、ネット上には「ネットウヨ」と呼ばれる人たちの意見以外も数多くみられるのだが、「意見としての方向性がまとまっている」と感じられるのは「ネットウヨ」と呼ばれる人たちの意見だったのだのでは?
考えそのものは同じかもしれないが、その表現がバラバラな「ネットウヨ」以外の人たちを、購読者の中心に置くよりも、分かり易く編集がしやすいく、部数も伸ばしやすいという一種の「焦り」のようなものがあったのでは?

実際の「新潮45」編集部の考えは、どのようなものであったのかはわからない。
ただ、発行部数を増やしたいがために、ある特定の意見や考えを持つ人達を取り込もうとした「焦り」が、このような休刊という事態につながってしまったとすれば、「言論の自由と公平性」という、あるべき姿に立ち返る時間が必要のような気がする。


「そこに行かないと買えない」という、特別感

2018-09-24 11:30:20 | ビジネス

昨日、2002年のFIFAW杯日韓大会で一緒にボランティアをした仲間と、持ち寄り同窓会をした。
私が参加したボランティア会場が、静岡だったので私以外のメンバーは静岡に住んでいる。
当然のことながら、ボランティア仲間と会うのは静岡県内ということになる。

持ち寄りなので、手作りのサラダなどの総菜やおやつだけではなく、ローカルな人気お菓子も登場する。
ローカルな人気お菓子といっても、特別なものではなく地元でとれた素材を使ったポテトチップスなどだ。
そしてその地元産材料を使ったお菓子は、とても美味しい。
ネット通販などで扱われているものもあるのだが、元々の生産量が限られている為、多くの場合販売期間そのものが限定的でその地域以外で買うということ自体、難しいものが多い。

何もこのようなことは、静岡に限ったことではない。
お盆などで帰省すると、地元では有名なお菓子であっても全国販売をしている、というケースは少ない。
むしろ、全国販売をしていない、というところが、魅力の一つとなっている場合も多いような気がしている。

ネット通販が一般的になるにつれ、日本全国買えないものが無いような気がしているが、案外「地域限定でしか買えない」というものは、多いのでは?という、気がしている。
ポテトチップスなどは、当たり前のように全国各地で買うことができる。
大手製菓メーカーであれば、「ご当地もの味」を買うことができる。
「ご当地味」商品は人気も高く、評判も良いだろう。
そのような馴染みのあるお菓子であっても、地元産原材料という商品になると、地元の製菓会社が手掛けることがほとんどだろう。
そのため、生産量も限られその地元以外では、なかなか手に入らないということになる。

同じ手に入りにくいと言っても、違う理由で手に入りにくいというものもある。
毎年この時期になると、実家の父が「二十世紀梨」を送ってくれる。
名古屋でも見かけない訳ではないのだが、近所のスーパーで見かけたとしても、1週間も販売をされない。

「二十世紀梨」のおいしさは、シャリシャリとした歯触りと、みずみずしさだ。
甘味という点では、最近人気の品種に比べおちる。
ただ「二十世紀梨」が好き、という方も案外多いので販売期間を短くして、販売を続けているのでは?という気がしている。
今回の持ち寄り会で「二十ッ世紀梨」を持参したところ、「好きなんだけど、見かけないから嬉しい」といわれ、なかなかの評判だったのだ。
「二十世紀梨」のように、新しい品種に押され生産地では流通しているのに、全国ではなかなか流通しにくいという場合もあるようだ。

SNSの一般化により、ローカルな人気商品の情報そのものは手に入れやすくなってきた。
だが「そこに行かなくては買えない」という特別感は、地域の活性化にとって重要なポイントだろう。
地域が限定されているローカルな商品だからこそ、販路を全国に広げるのではなく、地域内でも販売を限定にするなどして「そこに行かなくては買えない」という、特別感を維持するようなことが、これからは必要だと思うのだ。







「新潮45」の杉田水脈氏擁護の記事は、炎上商法だったのか?

2018-09-21 19:20:17 | 徒然

この夏、「LGBTと生産性」という内容で、世間から非難を浴びた(と思われる)自民党の杉田水脈氏の記事に対して、擁護の記事が「新潮45」に掲載されている。
元々杉田氏の記事は「新潮45」に掲載されていたものなので、杉田氏に対する批判に対する擁護記事が同じ「新潮45」に、掲載されるのは不思議なコトではない。
ただこの擁護記事を書かれた方の中のお一人・小川榮太郎氏の記事が、杉田氏以上の批判というよりも炎上状態になっているようだ。

実際の記事を読んではいないので、記事の内容について批判するのは止めたいと思うのだが、記事の中に「(LGBTの権利を保障するのであれば)痴漢にも触る権利を保証する必要がある」という趣旨のことが書いてあり、「犯罪を助長させる内容」と非難されても仕方ないだろう。
事実「痴漢」という行為は犯罪であり、杉田氏の記事の問題はLGBTの人権を蔑ろにしているのでは?という、まったく違う内容だからだ。

この「触る権利」という言葉が出てきたのは、「#me too」の動きが米国から世界へ拡がりを見せた時、フランスの大女優・カトリーヌドヌーブさんが「口説く権利がある」と言った発言に触発されたのでは?という、気がしている。
もちろんカトリーヌ・ドヌーブさんは「口説く権利がある=断る権利がある」という意味での発言をされていたのだと思うのだが、小川氏はご自分の考えの都合の良い解釈をされていたのだろう。

むしろ問題なのは、このような杉田氏の書いた内容から大きく外れ、LGBTという問題の本質を考えたとは思えない記事を掲載してしまった「新潮45」側にあるような気がしている。
様々な意見や考えが、自由に述べられる社会というのは、文化的にも経済的にも豊かな社会だと言われている。
だからこそ、一方的な記事だけではなく、反対の考えの記事も掲載する必要があると思う。
なぜなら、いくら雑誌不況などと言われている出版業界であっても、それなりの社会的影響力があるからだ。
残念ながら「新潮45」では、杉田氏に対する反論記事が掲載されていた、という記憶は無く、いきなり「擁護記事」が掲載されてしまったような気がしている。
それだけ杉田氏の記事が、「社会的に問題を提議した」ということであれば良いのだが、問題を提議したというよりも、記事の内容そのものが炎上しただけで終わってしまった、という感じがある。
それに対して、(私が知らないだけかもしれないが)杉田氏の反論が無いまま、今回の「擁護記事」は場外乱闘のような炎上記事になってしまった。

出版側として、このような批判的な内容で雑誌が話題になってしまう、というのは決して良いものではない。
一部の書店では「新潮社」の本を撤去する、というところも出てきているようだ。
Huffpost:新潮社の本、書棚から撤去する書店も。「新潮45」の寄稿に怒り
書籍を扱う書店にとって、「ことばの暴力」を感じさせ、自重できる判断力が新潮社には無いと感じたからだろう。
流石に、この事態になり新潮社側は社長コメントを発表したが、時すでに遅し・・・という感がぬぐえない。
毎日新聞: <新潮45>杉田氏擁護特集で社長コメント「常識を逸脱した」
「常識を逸脱した内容をチェックすることができなかった」ということを認めたに、他ならないからだ。

このような当たり前のチェックよりも掲載を優先させたことを考えれば、販売部数を伸ばしたかった炎上商法と、揶揄されても仕方ないのかもしれない。


 


「みんな」いう呪縛

2018-09-20 20:09:59 | アラカルト

Huffpostに「みんな化語」という記事があった。
Huffpost:電車での飲食は「日本の恥」なの?蔓延する”みんな化語”の5つのタイプ

まず先に言っておきたいことがある。
この記事を書かれた方は、叱りつけた男性が「日本」を言う言葉を使うことによって、「電車での飲食をすることは、日本人みんなが恥ずかしいとだと考えている」という前提で、書かれているように思うのだが、記事を書いた方の「みんな化語」とする定義と、電車での飲食を「日本の恥」と考えるのは、別の問題のような気がする。
それともこの記事を書かれた方は、叱りつけた男性が「自分が(多くの日本国民=みんなを代表して)『日本の恥』と言っている」と、感じたということだろうか?

多くの日本人にとって「通勤電車などでの飲食は、乗車マナーとしてどうなの?」という、抵抗感はあると思う。
同じ電車での飲食であっても、それが行楽地などへ向かう人たちが多い電車の中であれば、さほど抵抗感はない人のほうが多いのでは?
「車中で食べる」という行為とは別の、非日常的なエッセンス(=行楽)などが、加わることで人の受け止め方は大きく変わるのではないだろうか?
逆に日常の続きの中で「車中で食事をする」という行為になると、抵抗感を感じる人が多い、ということであって、それが「みんな化語」と結びつけるのは、やや違和感を感じる。
車中でパンを食べていた女性が、「日本の恥だ!」と叱りつけた男性が下車した後も体を小さくしていたのは、自分の行為(=車中でパンを食べていた)に対してではなく、人前で叱られたコトに対して「身の置き場がない」恥ずかしさを感じた反応だったのでは?

書き出しの内容と、話しのテーマが一致した内容ではないのでは?、ということをまず押さえておく必要があると思う。
そのうえで「みんな化語」ということを考えてみると、「みんな」と言う言葉を使う様々なシチュエーションで、その「みんな」と言う言葉の力(というべきか?)が、変わってくるのではないだろうか?

子どもの頃、欲しいものがあると「クラスのみんなが・・・・」と言って、親にねだったりした経験を持っている人は多いと思う。
「みんな」と言う言葉を使うことで、「自分だけが取り残され、仲間外れにされる」という、ニュアンスを持っていたように思う。
だからこそ「そんな嫌な思いをしたくない(あるいは「嫌な思いをさせたくないでしょ?」という一種の脅し?)」ということを、言いたくて「みんな」と言う言葉を、使っていたのではないだろうか?
多くの親はそのコトを知った上で「家はうち、他所はよそ」と言い切ることで、交渉を不成立にさせていた(私が子どもの頃は、そのような親が多かったように思う)。

上述の「車中での食事」のような場面の場合、その場面に他の人がいなくても心のどこかで「私だけが、車中で食べているわけではない。他の人もやっていること」という、言い訳のようなものを言いながら自分の行為を肯定している、ということがあるのではないだろうか?
そのような「自分の行為を肯定する時」というのは、もう一人の自分が「でも、やってはマズイよね」という、否定的な気持ちもあるはずだ。
むしろ自分のやっていることに対して、否定的な気持ちがあるからこそ「みんなやっている」という言い訳をすることで肯定しているのではないだろうか?

記事に書いてある内容は、とても興味深いものだと思う。
それよりも「みんな」と言う言葉を使う自分自身を客観的に見ることのほうが、重要だという気がする。


いつもと違うことをやってみる=新しいワクワクがある?!

2018-09-19 17:33:48 | ビジネス

アメリカの大学で、面白い実験をした結果レポートがあった。
GetNavi WEB:ポップコーンを「箸」で食べると「おいしくなる」という研究が。どういうこと?

この実験は、日本ではなく米国の大学で実施されたものなので、日本で同様の実験をして同じ結果になるのかは、分からない。
ポップコーンではないが、日本では既に「ポテチ用箸」というモノが、商品化され販売をされているからだ。
なんとなくだが、日本では「ポップコーンを箸で食べている」という人が、既にいるのでは?という気がするからだ。
ポテトチップスとポップコーンとでは、どちらが箸で食べやすいのか?という、問題はあるとは思うのだが「潔癖症」と自負されている方などは、案外「箸でポテトチップスはもちろんポップコーンも食べている」のでは?と、想像している。

この記事で、注目する点は「ポップコーンを箸で食べる」という行為ではなく、「いつもと違った方法で食べたり、飲んだりする」と「どのような気分になるのか?」という点だ。
アメリカ人にとって、「ポップコーンを箸で食べる」という行為は、「いつもと違う方法で食べる」ということになるだろう。
この実験では、「いつもと違う方法で、水を飲む」ということも実施している。
その方法は、参加者の自由な飲み方ということになっていたようだが、「封筒に水を入れて飲む」とか「猫のようにペロペロのなめるように水を飲む」など、やや奇想天外な飲み方をされた方もいらっしゃったようだ。
そして、そのような「枠にはまらない飲み方をしたほうが、美味しい」と感じたという。

記事には考察の内容が書かれているが「いつもと違うことをすることで、初めて体験をするような感覚になる」ということが、重要ということだろう。
それは「視点を変える」という点でも、有効な方法なのでは?という気がしている。

「物を買うからコトを買う」ということが言われるようになって久しい。
「商品を買う」ことよりも、「その商品を買う過程の体験を買う」ということなのだが、「商品を買う過程の体験」に何が必要なのか?といえば、おそらく「ワクワク感」や「チョッとした驚き体験」だろう。
だからといって「ワクワク感」や「驚き体験」などの仕掛けは、そう簡単にできるわけではない。
しかし、この実験のように「これまでの常識とか、当たり前」を少しずらしてみるだけで、「新しい体験」と感じるのかもしれない。

多くの企業が「コト消費」ということに対して、悩んでいるような気がしている。
「物」という具体的で、形があれば「つくる」ことは簡単だが、「コト」となると具体性が無く、形が無い。
とすれば、このような「(当たり前を)ずらしてみる」というところから、生活者の「ワクワク感」を探すことも有効な方法だと思うのだ。


「企画」とマーケティング

2018-09-17 12:36:50 | ビジネス

日経新聞のCOMEMOを読んでいたら、大阪ガス エネルギー・文化研究所の所長池永寛明さんのコラムに目が留まった。

日経新聞COMEMO:「企画」が威張る時代ではない 

 マーケティングの仕事では「企画」は、重要な部分だ。
というよりも、市場調査をはじめとする様々な調査をしたうえで、商品や事業の企画、戦略を立てるのがマーケティングだと言っても過言ではないと思う。
そのことから「『企画』が威張る時代ではない」というタイトルは、耳が痛い。

しかし読み進めているうちに、「わが意を得たり」という気がしてきた。
会社員時代、「成功すれば営業の力、失敗すれば企画の責任」と言われてきた。
池永さんが言うことは、真逆?のことを、言われて仕事をしてきたのだ。
おかげで?現場に出ていくことも多く、そのたびに営業担当者だけではなく、お客様からお話しを伺うことができた。
それが、問題解決のヒントとなり、次への改善のアイディアにもつながっていった。
そのような経験をさせていただいたことで、マーケティング力というかマーケティングに必要な発想力や視点が、鍛えられたと思っている。

その中で一番実感したコトは、このコラム中にもある「マーケティングとは『Market-ing』である。”市場は常に動く”生き物の学問である」ということだ。
ただ残念なことに、日本のビジネスパーソンはこの「市場は常に動く」という視点でモノゴトを見るのが、苦手のように感じている。
なぜならHow toを求めてしまう傾向が強いからだ。
「××なら、○○になる」という、定型的な枠に入れ込めば「マーケティングができる=売れる企画ができる」と、思いがちな傾向が強いように感じている。
それは、「マーケティングを教えてください」といわれたときに感じる違和感でもあるし、実際書店で売れているマーケティングの本の多くは、このような類が多い。

「まず、自分が扱う商品がある場所に行って、生活者がどのような行動をとっているのか観察をしてきてから」というと、大概の方は「それは、企画の仕事ではないですよね」という趣旨のことを話される。
広告代理店に依頼した市場調査のデ―タや自社の考えだけで、企画を立てるということは「企業の考えを生活者に押し付けている」という、感覚が無いようなのだ。
その結果、とても狭い視点で考えた「偉そうな企画」が出来上がってくるし、企業の多くはそのような企画を期待しているように感じている。
あくまでも個人的な感想だが、それが「マーケティング」という仕事の意味を大きくゆがめ、理解されないようにしてしまっているのでは?と、感じる部分でもあるのだ(と、愚痴ってしまい、申し訳ない)。

本来マーケティングは、企業と社会と生活者がより良い関係を築く(あるいは気づく)ためのモノだと、考えている。
だからこそ、マーケターは社会で起きている様々なモノ・コトに興味・関心を持ち、勉強をし、幅広い視野を持ち続けるために好奇心を持ち続けなくてはらない(と、思っている)。
だからといって「威張る」必要はない。
肩の力を抜き、しなやかな感性を磨き続けることが、大切なのだと思う。