日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

時代と個性にあったファッションを

2019-04-30 21:27:19 | 徒然

今日、平成という時代の幕が下りる。
退位礼正殿の儀では、天皇陛下から国民に向けて感謝の言葉があったことは、平成という時代を表すことだったようにも思える。

天皇陛下の退位に当たって、女性週刊誌などは美智子皇后のこれまでのファッションなどを特集する記事が、数多くあった。
それだけ皇室のファッションというのは、常に話題となり多くの女性の注目となるものであったのだな~という気がした。
女性週刊誌の多くは、美智子さまがお妃候補となった頃に創刊されたものが多かったのでは?ということを考えると、美智子さまの人生そのものが、女性週刊誌の記事と共にあった、と言っても過言ではないのかもしれない。

そしてこのような特集を見るたびに、不敬であることは重々承知の上で感じるのは、海外の王室の妃たち比べると残念感があるということだ。
確かに日本の手の込んだ技法を用いたり、日本らしさのある絵柄の生地などを使ってはいるのだが、どこか古臭さを感じてしまうのだ。
宮中での儀式などで着られる装束などは別にして、皇室の第一礼装であるドレスや公務でお召になる服などは、もっと華やかなのものでも良いのでは?という気がしている。

世界の王室の中でも一番オシャレなのでは?と言われている英国のエリザベス女王のファッションを見ていると、デザインそのものは奇抜なものではないが、色やプリントで華やかさを出し、見ているこちらまで元気が出てくるようだ。
キャサリン妃などは、故アレキサンダー・マックイーンやステラ・マッカートニーのような、英国出身の若手デザイナーの服を積極的に着ている。
自国のファッション産業をアピールする、ということを考えればキャサリン妃のような自国の若手ファッションデザイナーの服を積極的に着る、というのも一つの方法なのでは?

確かに、現在の日本のファッションデザイナーの中に、ステラ・マッカートニーのようなデザイナーがいるのか?と言えば疑問だ。
言い換えれば日本のファッション業界は、このような若手デザイナーの育成をサボっていた、ということにもなるのではないだろうか?
日本全体のファッション傾向は、カジュアル志向となりユニクロを代表とする、ファストファッションばかりが話題になる。
それで、日本のファッション文化は育つのだろうか?
先日エントリしたように、1970年代後半から1980年代世界のファッションシーンで、日本人デザイナーが世界から注目を浴びた。
当時注目を浴びた日本人デザイナー自身も、既に還暦を過ぎているにもかかわらず、後継者となるようなデザイナーは?という疑問がある。
それだけではなく、彼らのデザインが皇室向きのものか?という点でも、なかなか難しいものを感じる。
ファッションデザインとしての表現と、着られる現実的な服とでは大きく違うからだ。

エリザベス女王のように、見ている私たちまでもが元気になるようなエレガントで華やかなファッションもまた、皇室のファッションなのではないだろうか?
何より、そのようなファッションを新皇后である雅子妃は、着こなせるのでは?と感じている。



「平成」が終わろうとしている今だから、「平成」という時代を検証する必要がある

2019-04-28 22:06:56 | アラカルト

Huffpostを見ていたら、菊池武夫さんのインタビューが掲載されていた。
Huffpost:洋服はカルチャーの一部だと思う ファッションの平成30年史【菊池武夫さんインタビュー】

掲載の元となっているのは、博報堂の「ひらけ、みらい生活総研」のサイト内にあるインタビュー記事だ。

菊池武夫さんが、BIGIをはじめられたころと今とでは生活者のファッションに対する考えや捉え方が、随分違うだろう。
それはBIGIに限らず、川久保玲さんのコムディギャルソンや山本耀司さんのY’sなども同じなのではないだろうか?
1970年代~1980年代の頃は、ファッションは生き方とはどこかで同期していたような気がする。
だからこそ、コムディギャルソンを好む人は、ピンクハウスのような服を着ることは無かった。
だからと言って、コムディギャルソンのファンが、ピンクハウスを毛嫌いするようなこともなかったし、その逆もなかった。
「ファッションに対する感性やデザイナーに対する共感性が違う」と思っていたからだと思う。
言い換えれば、ファッションの多様性が若者たちの価値観に影響を与えていたのかもしれない。

昭和という時代は、戦争と高度成長の時代だった。
「戦争を二度と起こさない」為には、多様性を認め合う必要があった。
一つの価値観、一つの考えのもとでは、独裁者が登場しやすい社会環境に陥りやすいためだ。
そして高度成長を支えたのもまた、企業の持つ競争力という名の多様性だったのでは?という、気がしている。
確かに高度成長を支えたのは、「大量生産、大量消費」であったことは、違い無いだろう。
拡大する市場の中で、様々な企業がしのぎを削り市場を獲得するためには「大量生産」の中でも、それぞれの企業の独自性を持たなくてはいけなかったはずだ。それが市場の中での差別化となり新たな顧客の獲得へと結びついたと思われるからだ。
だからこそ高度成長期の日本は、エネルギッシュで前を向く力が強かったのではないだろうか?

その昭和が終わり、平成という時代になるとファッションの多様性から「みんなといっしょ」という感覚が、強くなり始めたように感じる。
その顕著な姿が、今年の入社式や入学式で見られた「黒のスーツ姿」だったのではないだろうか?
菊池さんのインタビューの中にもあるが、普段のファッションスタイルがカジュアル一辺倒のファストファッションしか知らないとすれば、公の場に着ていく服(TPOによるファッション)というモノは、分からなくなってしまうのは当然かもしれないし、ファッションから何かしらの影響を受けていないことが、「みんなといっしょ」という感覚を生みやすくさせてしまったのかもしれない。

バブルの崩壊と共に平成が始まり、世界的に見れば「戦争の世紀」から「紛争の世紀」へと変わっていった。
「戦争」は国対国の争いだが、紛争はイデオロギーや宗教観、あるいは民族間での争いとなる。
だからこそ、その解決は難しく紛争が新たな憎しみを生み続けるようにもなった(ように感じている)。

昭和という時代を懐かしむつもりはないが、平成という時代を振り返る時「多様性と非寛容性」という言葉が思い浮かぶのだが、本当はどのような時代であったのか?ということを検証することで、令和という時代が開かれていくような気がする。






まちおこしのアイディアは、一つじゃない

2019-04-26 19:28:40 | ビジネス

テレビの見逃し配信サイトを見ていたら「こんなまちおこしアイディアもあるんだな~」と、感心するものがあった。
テレビ東京系:風景の足跡 岩手県平泉毛越寺通り

番組で紹介されている通り、毛越寺は平泉を代表する古刹のようだが、お寺の山門前の通りは、これといった風情のある通りではない。
公式HP:天台宗別格本山 毛越寺
地方ではよく見かける、中途半端(と言っては失礼だが)に整備され「門前通り」という風情がなくなってしまった通りだ。
平泉と言えば中尊寺のほうが有名だと思うし、観光で訪れる人達の目当てはやはり中尊寺だと思う。
公式HP:関山 中尊寺[岩手県平泉 天台宗東北大本山] 
同じ平泉の中で世界遺産に登録されていながら、世間的注目度には大きな差があるように感じているのは、私だけではないと思う。

 だからこそ、毛越寺を中心とした地域は「まちおこし」が、必要だったのではないだろうか?
そして「まちおこし」のアイディアとなったのが、新しい技術バーチャルリアリティーだ。
臨場感を出すために、平泉町の町民に参加をしてもらい、平安時代毛越寺を中心に行われ今も継承されている行事や舞などをCG化し、周辺にあるVRポイントでVRスコープを見ると、そのCGが映し出される、という仕組みになっている。
VRスコープを常時見ながら街中を歩くことができれば、平泉の平安絵巻が楽しめるのかもしれないが、現実的には無理がある。
ただ、全国各地で見られる「伝承会館」のようなところで見るCG画像よりも、より臨場感を楽しめるのではないだろうか?
何より、VRスコープを見た場所周辺では、そのようなお祭りがあったりするのだ。
「今回は、お祭りを見ることができずVRスコープだったが、次回は本物を見たい!」という、気持ちにつなげることができれば新たな観光資源となるのでは?

まちおこしには、様々な方法がある。
そして「正解」と呼べるものは無い。
だからこそ、地域地域に眠っている「資源」を見つけ、「資源」をどのように活用できるのか?ということを、地域全体で考える必要がある。
移住だけではなく、人を呼び寄せる「観光」もまた重要なまちおこしの方法なのだ。
そのアイディアの一つとして毛越寺周辺で見ることができるVRスコープを使った観光も、十分アリだと思うのだ。


スリランカのテロとオウム真理教事件

2019-04-25 20:49:45 | 徒然

先週末、スリランカで起きた連続爆破事件。
キリスト教の教会が中心に狙われた事件だったことから、早い時点でイスラム過激派の関与が、疑われていた。
そして、ISに感化された若者たちが中心となって起こした事件だったようだ。

ISの中心拠点だったシリアでは、殲滅作戦が功を奏しほぼいなくなったのでは?と言われていた。
と同時にシリアから逃げ出したISの戦闘員が、世界各地に散らばっただけでは?という指摘もされていたように思う。
そして今回の事件で、シリアからISの戦闘員が世界各地に散らばっただけではなく、新たにISの掲げる思想(というべきなのか?)に感化された若者たちが新たな活動を自国でもするようになった、という現実を見せつけたような気がする。

それだけではなく、このような過激派に心酔する若者の中には比較的裕福で高学歴の若者たちがいる、という事実に、かつて日本を震撼させた「地下鉄サリン事件」を引き起こしたオウム真理教の幹部たちを思い出すのだ。
BBC NEWS:高学歴で海外留学の経験者も スリランカ爆破、実行犯の素顔
ご存じの方も多いと思うのだが、教祖である麻原彰晃に心酔し、事件を引き起こした若者の多くはいわゆる一流大学で理工系を専攻し、「論理的思考」の持ち主でもあった。
にもかかわらず、傍から見れば荒唐無稽の絵空事のような話を信用し、最終的には「地下鉄サリン事件」を引き起こしてしまったのだ。
逮捕後、彼らの口から「なぜ、荒唐無稽のような話を信用し、麻原彰晃という人物に心酔してしまったのか?」ということは、ほとんど聞くことができなかったように思う。
ただ、今回スリランカで連続爆破事件を起こした犯人だけではなく、ここ20年くらいの間でテロ事件を起こした中心的人物の多くが、「地下鉄サリン事件」を起こしたオウム真理教の幹部たちと重なって見えるのだ。

社会的にも経済的にも「安泰」が約束されているような若者たちが、何故ISやオウム真理教のような反社会的思想に心酔してしまうのか?
もしかしたら「安泰が約束されている」からこそ、このような反社会的思想に心酔してしまうのではないだろうか?
「安泰が約束されている」ということは、社会にある理不尽なことや格差など「社会の嫌な部分」を見ることなどほとんどなく、自分が置かれている立場が安全で将来が保証されているとは思っていないし、考えたこともないのでは?
そんな「世間の狭い」中で、荒唐無稽であっても過激な劇薬のような考えに触れることで、ある種の「理想」のようなものを感じてしまうのだろうか?

事実ISに参加した欧州の若者たちの中には、「ISの思想はイスラムの教えの中でも純粋さがある」という話をした若者もいた(ような記憶がある)ことを考えると、彼らの純粋さ=イノセントは「無知」という意味のように思えるのだ。


川口市で起きたクルド人生徒へのいじめと外国籍労働者の受け入れ

2019-04-23 20:57:32 | 徒然

先週末、一部新聞などに報道されていた埼玉県・川口市で起きたクルド人生徒へのいじめ。
徐々にその実態が分かってきたようだ。
毎日新聞:埼玉・川口の小学校でクルド人いじめ深刻 支援者「特別視せず平等に対応を」

このニュースを聞いたとき、とても残念な気持ちになった。
見た目が大きく違う外国籍の子どもたちは、小学生くらいの子どもたちにとっては格好のいじめの対象となりやすいだろう。
もちろん、白人系の外国籍であれば反応そのものも大きく違っていただろう、ということは想像がつく。

私たちの潜在意識の中なのか、社会的刷り込みなのかは分からないが、欧米出身の白人>日本人>黒人や日本以外のアジア地域の出身者というある種の優劣的意識を、残念ながら持ってしまっている部分は否めない。
いくら生物の授業の中で「人類の始まりは、アフリカである」と教えられても、その優劣意識を覆すまでには至っていない。
だからこそ、遺伝学者たちが「人種による優劣は無い。そのような概念は差別を助長させる」と、声を上げるようになってきたのだ。
朝日新聞:「人種」の概念、化学で使わないで 米で差別助長を懸念

特に日本では、異なる国籍を持っている人たちと接する機会がほとんどない為、接し方そのものが分からないということもあるだろう。
今回いじめのターゲットとなってしまったクルド人についての、知識や理解も十分できないまま外見の違いで、いじめのターゲットとなってしまった可能性も大きいのでは?と、感じている。

もちろんいじめの対象がクルド人であろうと、日本人であろうと、やってはいけないことだ。
しかし今の日本の社会は、自分たちのテリトリーの中に異分子と感じられる人に対して、徹底的に排除するという傾向が強くなりつつあるように感じている。
見た目にも自分たちとは違うクルド人だからこそ、一番分かりやすいいじめのターゲットとなってしまっただけではなく、学校側もその対応ができず、いじめを助長させる結果になってしまったのではないだろうか?

何より残念だと感じたのは、せっかく日本人ではない子どもたちを学校が受け入れたのだから、クルド人の文化や社会などを積極的に学区全体を巻き込んで、教えなかったのか?という点だ。
「異文化に接する」という機会は、とても貴重でましてクルドの人たちは国を追われ、日本に逃げ延びてきた人たちが多い。
まさに、現実的な異文化を知り、シリアなどの戦火による悲劇を直接的に学ぶチャンスでもあったはずなのだ。

また彼らがイスラム教徒だから差別を受けて当然、という考えであれば、「外国人労働者受け入れ」という政府の政策そのものが揺らぎかねない。
何故なら、「外国人労働者」として受け入れるであろう東アジアの国々の多くは、イスラム教徒の国だからだ。

小学生くらいの子どもたちにとって、自分たちと見た目や言葉、文化が大きく違う人との接し方が分からないのは、当然だと思う。
だからこそ、大人たちがキチンと教える必要があったのではないだろうか?



高齢者ドライバーの免許返上を考える

2019-04-21 07:43:40 | ライフスタイル

一昨日、東京・池袋で起きた高齢の男性が運転するクルマによる自動車事故。
自動車事故としても、規模の大きいものだった。
この事故に巻き込まれ亡くなられた、母娘さんのご冥福を祈りたい。

このような高齢者が運転する自動車事故は、ここ数年で急激に増えている。
実際、高速道路などを逆走する運転者の多くは、高齢者である。
そして、このような悲劇的な事故が起きるたびに言われるのは、「高齢ドライバーの運転免許証の返納」だ。

認知能力が落ち始めた高齢ドライバーが、簡単に免許を返上できない理由も、盛んに言われている。
過疎地のようなところでは「移動手段がクルマ」で、「クルマが無くては、生活に支障をきたす」というのが、免許を返上できない大きな理由になっている。
しかし今回の事故を起こしたドライバーは、東京都23区内に住んでいる。
このドライバーの住んでいる地域での、公共交通機関の利便さが分からないのだが、公共交通機関で移動する、という発想がこの運転手には無かったのだろうか?という、疑問が出てくる。
事実、このドライバーは「運転免許の返上」ということも、周囲に話していたという話もある。
もしかしたら、自身が運転能力の低下を感じていたのかもしれない。
それでも、運転をしたのはなぜか?

実家の父も認知機能については、問題が無いと言われていたのだが、緑内障の発症を切っ掛けに運転免許を返上した。
ところがいざ運転免許を返上するとなると、クルマ以外での移動手段に不安があった。
不安を解消するために、高齢者が利用できるバスのフリーパス(半年間一定の金額を前払いすれば、バスが乗り放題になる)への切り替えや、タクシーの利用など「移動手段のサポート策」をする必要があった。
万全策を整えたと思っていたのだが、思わぬ原因が公共交通を利用するハードルを上げていたことに気づいたのは、半年ほど経過した時だった。

それはJRを利用した時のことだ。
乗車駅から降車駅までの運賃を運賃表で確認し、財布から運賃分の代金を出し、券売機に投入するという、一連の動作が思いの他時間がかかるのだ。
私のように日ごろ地下鉄などを利用していれば、このよう動作はスムーズで周囲に迷惑をかけることなくできる。
しかし、今までクルマでの移動が当たり前だった父にとっては、運賃表で確認→財布からお金を出す→券売機に運賃を入れる→切符を取る→自動改札機に切符を通す、という一連の動きが思ったようにできず、戸惑っていたのだ。
戸惑うだけではなく、周囲に迷惑をかける(あるいは周囲の視線が気になる)という思いがあり、それが自尊心を傷つけているのでは?という気がしたのだ。
「自尊心」というと、自意識過剰のように思えるかもしれないが、かつて当たり前にできたことができない、という自身の老齢化をまざまざと実感することで自尊心が傷つくのでは?と感じている。
当然、父はJRを利用するような場所には行かない、あるいは誰かに連れて行ってもらう、ということになった。
それが3年ほど前からICOCA(JR西日本他関西の鉄道会社の共同電子マネー)が利用できるようになった。
最初は使い方に戸惑いを見せた父だったが、今ではICOCAも使いながら出かけるようになった。

「運転免許の返上策」として様々な交通手段のサポート策が提案をされているが、実は実家の父のように「乗り物に乗る為に必要な動作」が思うようにできず、運転免許を返上できない高齢者もいるのでは?
交通手段のサポートの充実は必要だと思う。
と同時に、利用するための一連の動作を検討し、高齢者の負担が少ない方法を考える必要があるように思うのだ。


多様性が、当たり前になるかな?

2019-04-19 20:16:11 | アラカルト

4月スタートのテレビドラマを、見逃し配信サイトで見ている(Tver様様の状態である、笑)。
その中で気づくことがある。
それは「多様性」ということだ。
一つはテレビ東京系の「きのう何食べた」。
もう一つは関西テレビの「パーフェクトワールド」だ。
どちらもマンガの原作があるので、ストーリーをご存じの方も少なくないと思う。

「きのう何食べた」は、テレビ東京の「(深夜の)食テロ」とも呼ばれた「孤独のグルメ」などと同じ時間帯のドラマなのだが、主人公がおいしい料理を食べる、というよりもゲイカップルという二人のごくごく平凡な日常と、簡単美味しい、食材を無駄にしないレシピで話が進んでいく。
そしてゲイカップルというと、どこかキワモノのようなイメージが先行しやすいように思っていたのだが、決してそのようなことは無く、ゲイ云々ではなく、ごくごく普通の人の暮らしが描かれているように感じるのだ。
他人同士が同居生活をしているのだから、当然それなりの諍いもあるし、仲直りもある。
主人公の一人シロさんが料理を作れば、もう一人の主人公であるケンジさんが後片付けを当たり前のようにしている。
洗濯物をたたむのも役割分担を決めて、どちらかがするというよりも、自然に二人で協力しながら家事をするのが当たり前になっている、というように感じる場面が多いのだ。

考えてみれば、ゲイのカップルなので社会的役割分担である、「仕事は夫、家事は妻」という構図が無い。
もちろん、このようなゲイカップルばかりではないとは思うのだが、同性の同居だからこそ社会的役割にこだわることができない(あるいは必要が無い)、ということなのだ。
そしてこのような生活ができるのは「相手のことを大切に思い、理解し合いたい」という気持ちが、あるからなのでは?という気がしている。

しかし、同性の同居という生活スタイルだからなのか?と、考えたとき、同性カップルの暮らし方の考えは本来であればとても自然で当たり前なのでは?
むしろ、「夫は仕事、妻は家事」というような社会的役割分担にこだわることの方が、生活の息苦しさの要因になっているのでは?という、気がしてきたのだ。

もう一つの「パーフェクトワールド」は、単純に言えば恋愛ものドラマということになると思う。
イケメンでスポーツ万能、一級建築士という夢を叶えた高校時代のスーパーヒーローに憧れる主人公の地味な女性との恋愛ドラマ、というのは確かに王道中の王道恋愛ドラマだ。
ただ違っているのは、かつてのスーパーヒーローが事故により半身不随になり、いきなり主人公の女性に無様な姿を見せつける、というところだろう。
決して障害者を馬鹿にしているわけではなく、障害を持つ人と健常者との恋愛という一見お涙頂戴的なアプローチではなく、障害を持つ人の悩みとそれに戸惑う主人公という、おそらく健常者が感じ、戸惑う姿をキチンと描いている。
だからこそ、公式サイトのトップには「いつかこのドラマが、ただのありふれたラブストーリーになりますように」と、ドラマの制作意図が書いてあるのだと思う。

これらのドラマは、恋愛も暮らし方もゲイだからとか障害者だからという視点ではなく、「人」としての多様性の中でこれまでの概念に縛られることのない社会とは何か?それが当たり前になる(経済だけではない)社会の豊かさの一つを見せてくれているのでは?という気がしている。



契約は、公平なものではない・・・という事実

2019-04-17 21:01:05 | ビジネス

朝日新聞などに、大手ネット通販会社が一方的に規約変更をしている、という記事が掲載されていた。
朝日新聞:「規約を一方的に変更された」楽天で9割、アマゾン7割 

「規約などは両者で話し合いの上、変更する」いう趣旨の文言が、契約書に記載されていると思うのだが、どうやらそうでもなさそうだ。
少なくとも大手ネット通販会社と取引先との関係は、ネット通販会社>取引先だったようで、その力関係があるからこそ「一方的に規約を変更させる」ことができたのだと思う。

注目すべき点は、楽天の9割という高い数字だ。
もちろん、アマゾンの7割という数字も決して見のがせるような数字ではないが、楽天の9割というのは群を抜いて多いということはもちろん、楽天の場合、「一方的な規約変更ありき」の契約だったのでは?と、疑いたくなってしまうような割合だ。

確かに日本ではECサイトのフロントランナーだったのは、楽天だった。
今でもアマゾンやヤフーショッピングには出店せずに、楽天のみという企業もある。
だからこそ、楽天側は強気で規約変更を、一方的にすることができたのかもしれない。

しかし一方的な規約の変更というのは、ビジネスの在り方としていかがなものだろう?
規約変更の中には、出店事業者に優位になる内容のものも、あったかもしれない。
ただこの記事を読む限り、楽天優位の規約変更であり、出店事業者側が泣き寝入りをしていたのでは?という、気がしてくるのだ。
そのような楽天への出店を止めれば良いだけ、ということになるとは思うのだが、長い間楽天に出店してきて、突然止めますとは言いづらいのではないだろうか?
「浪花節的」と言ってしまえば、それまでだが「それなりのお付き合いを(楽天とは)してきたので、断りづらかった」というのが、出店事業者側の気持ちがあったのでは?

ただこの大手ネット通販側の「一方的な規約変更」というのは、ネット通販だけに限ったコトではないようにも思うのだ。
よく言われる「大企業の下請けいじめ」と言われる内容も、根っこの部分は同じなのでは?という気がするのだ。
製造業などでよく言われることだが、利益を出すために部品1個の値段を、ギリギリまで下げさせる、という下請けや孫請けの利益などを考えない(?)大企業>下請け・孫請けという力関係によって成り立つ、取引構図だ。
それと同じような構図が、製造業だけではなく小売り業でも起こっていた、という見方もできる。

果たしてこのような取引構図というのは、日本の経済にプラスとなっているのだろうか?
一つわかることは、このような記事が出てしまったことで、楽天に対するイメージが悪くなった、ということだろう。
生活者にとって、欲しいものは出店事業者の商品であって、楽天で買うことではない。
同じ商品が違うサイトにあれば、楽天から購入する理由は無いからだ。





上野千鶴子先生の祝辞と社会の厳しさ

2019-04-16 20:40:15 | 徒然

先日、東大の入学式で上野千鶴子先生の祝辞が、話題になっている。
東京大学HP:平成31年度東京大学学部入学式祝辞

東大のHPに祝辞全文が掲載されている、ということを考えると、東大側としてもそれなりの意図をもって、上野先生に祝辞を依頼したということなのだろう。
そして上野先生は、その期待以上の内容の祝辞を述べられたのでは?という気がしている。

ご存じの方も多いと思うのだが、上野先生は「女性学(あるいはジェンダー)」の論客だ。
その話しぶりや話の内容から、それなりの批判というか反発を受けることの多い方でもある。
社会経験のある女性から見れば、実体験として上野先生の話を、現在進行形の問題として受け止められた人も多かったのではないだろうか?
その反面、入学式に参列をした父兄の中には現実感が無かった方も多いのでは?という気がしている。

随分前から「東大生の親の収入」が話題になっている。
他の国公私立大学よりも、親の収入が多い傾向にあるのが東大生の家庭だからだ。
Newsweek:東大生の親の6割以上は年収950万以上(2018年9月5日号)
親の6割以上が年収950万以上と言っても、世帯収入として考えればそれほど多くないのでは?という印象を持ってしまうが、世帯収入と言ってもシングルインカム=父親の年収が950万以上という点では、大学進学をする一般的な学生の中でも相当な高収入の父親である、と言えると思う。
もちろん、子どもを東大に進学させるために、それなりの教育を幼児期を受けさせるために母親が付き添うことができる(=専業主婦)家庭である、ということになる。
幼児期の頃から、経済的優位な環境にあり、それをサポートできる家庭環境でもあった、といえるのだ。
だからこそ、上野先生は「(自身の努力だけではなく)そのような環境にあった」ということを言っているのだろう。
そして、参列した父兄の中には「そのような環境=東大に行くために様々な幼児教育を受けることができる機会に恵まれた環境」であった、ということは、肯定してもそれを特別なことだとは思っていないのではないだろうか?

ただ社会に出ると、それまでの「恵まれた環境」とは違う「環境」に出ていくことになる。
「社会の厳しさ」だ。
女子学生の場合、「東大卒なのに・・・」と言う言葉と、女性という二つのハンディを背負うことになると思う。
だからこそ、厳しい社会の中で「勝ち負け」ではなく「支え合う力」必要性を、上野先生は述べられたのだと思う。

(経済的に)恵まれた環境にいては分からないこと、弱者に対する「社会的資産の再配分」とはなにか?ということを上野先生は祝辞として述べているとすれば、それは東大生だけではなく社会全体の問題として捉える必要があるように思うのだ。



セルフレジとキャッシュレス化

2019-04-12 21:44:44 | ビジネス

一部スーパーで徐々に増えつつある「セルフレジ」。
今度は、コンビニでも導入されるようだ。
中日新聞:人で不足対策にコンビニ本腰 ミニストップ、全店にセルフレジ

私が初めてセルフレジを見かけたのは、7,8年前だろうか?
帰省するため、大阪のOCATの高速バスに乗り換え時間に、OCATの隣の地下にあるスーパー(ライフ)を利用した時だったように思う。
大阪難波という立地の為だろう、サラリーマンやOLがお昼のお弁当などを買ったりしており、手慣れた感じでセルフレジを利用していた。
その後、近所のスーパーにもセルフレジと有人レジが登場し、最初の頃は有人レジの利用者が多かったが、最近ではセルフレジの利用者のほうが多いのでは?という印象を持っている。
このようにして、人は新しい機器に慣れ親しんでいくのだな~と、実感をする光景でもある。

スーパーでの導入が早かったセルフレジが、コンビニに導入されるのは、記事にある通り「人手不足の解消」という点も大きいと思う。
だが、それだけではないのでは?と、考えている。
それは政府が進めている「キャッシュレス化」だ。

スーパーなどのセルフレジを利用したことがある方ならわかると思うのだが、セルフレジには支払い方法を「現金・クレジットカード・(専用)電子マネー」から選ぶことができる。
クレジットカードや電子マネーを利用すれば、現金を持つ必要もないし、ポイントも付与される。
スーパーが実施している専用の電子マネーだけしか使えない、という状況であれば利用者は不便さを感じるかもしれないが、ミニストップの場合、イオン系列のコンビニなので既にイオンで使われている「WAON」で決済することができる。
ミニストップ店内には、「WAON」のチャージ機も設置されているので、利用者としてはイオンに行かなくてもチャージができる、というメリットもある。
今後QRコードによるスマホ決済などにも、対応していくようになるかもしれない。
もう一つ考えられるのは、深夜に有人のレジを閉めることができる為、防犯という点でもメリットがあるのでは、ないだろうか。

ただ「人手不足解消」の切り札として、セルフレジの導入というのは、効果としてどうなのだろう?という、疑問がある。
というのも、コンビニの店員さんたちはレジの仕事だけをしているわけではないからだ。
レジ以外の商品の補充や並べ替え、清掃など昼夜を問わず、何等かの仕事をしている。
深夜だから商品の補充や並べ替え、清掃をしなくても良い、というわけではないからだ。
人手不足の解消というのであれば、清掃などは「お掃除ロボット」や(現実にそのような製品があるのかは分からないが)洗浄剤を充填しておけば利用後自動的に洗浄してくれるトイレなどを導入・設置したほうが、若干軽減されるのではないだろうか?

そう考えると、コンビニのセルフレジの導入は「人手不足解消」というよりも、キャッシュレス化の推進(とキャッシュレス化による防犯)という気がするのだ。