明日からいよいよ師走。
今年最後の月が始まる。
華やかなクリスマスの飾りが街を彩る季節でもある。
このころになると、海外の有名ハイブランドが一斉にホリデーシーズン広告をネットで展開するようになる。
エルメス:ホリデーシーズン・クリスマスギフトサイト(動画「ペガサスの登場」)
エルメスは、パリの本店を舞台にエルメスホリデーシーズン用の商品を軽やかな楽曲に合わせ、紹介している。
ヴァンクリーフ&アーペルは、「ダイアモンドブリーズ」というテーマで、アニメーションでホリデーシーズンの商品を紹介している。
ヴァンクリーフ&アーペル:Diamond Breeze
他にもルイヴィトンなどもホリデーシーズン向けの動画広告を作っているのだが、年に1回のホリデーシーズン広告ということで、とてもワクワクするような動画広告を創っているように感じる。
一方、バブル経済我崩壊してからの日本のテレビCMは、年々つまらなくなってきている気がする。
テレビそのものが無い我が家だが、入院中病院で見ていたテレビのCMは、ハッとするようなモノはほとんどなく、商品をアピールすることに終始している様に感じたのだ。
その為、SNS界隈では1970年代~1980年代にかけての「懐かしのテレビCM」と題する投稿に、数多くの「いいね」がつけられ、「この時代のテレビCMって、お金をかけている以上に生活者にアピールする力がある」とか「とにかく、クリエイティブさを感じる」等というコメントが、数多く見受られる。
何となくだが、今の日本のテレビCMが印象に残らないのは、創り手に「ワクワク感」が無いからでは?という、気がしている。
上述した海外のハイブランドのホリデーシーズンの広告は、年に1回大々的に打たれる広告でもある。
もちろん、ホリデーシーズン=ギフトシーズンということもあり、生活者の財布の紐も緩みがちなため、売り上げが大きく伸びる時期でもある。
だからこそ、それなりの費用をかけ広告を制作し、ネット広告用としての動画つくるのだ朗。
経済状況が良いとは言えない日本だから、ホリデーシーズンの広告にワクワクさが無くても仕方ない、という「諦め」のようなモノを感じてしまうのだ。
本来であれば、この季節は街中のクリスマスイルミネーションと同じように華やかなモノが、見たい季節でもあるはずなのだ。
テレビCMの世界だからこそ、やや荒唐無稽な内容であっても許されることは、あるはずだ。
海外のハイブランドのような「ホリデーシーズンをワクワクさせる広告」を、日本の企業も展開して欲しいと考えている。
財布の紐がかたいなら、財布の紐ではなく、財布を持つ人の気持ちをワクワクさせてほしいのだ。
今朝のニュースで、オーストラリアが国の法律として「16歳未満のSNS利用禁止」を議会で可決した、と報じられていた。
CNN:オーストラリア、16歳未満のSNS禁止へ 世界初
これまで米国やEUが、TikTokの利用禁止などを訴えてきた、ことはあったが、SNS全般の利用禁止、ということは度々ニュースなどで取り上げられてきたが、あくまでも法的な規制ではなかった。
その理由として、TikTokなどから個人情報が流失するのでは?という懸念があったからだ。
個人情報の流失というだけでも問題なのだが、流出する先が中国である、ということがより問題視された、ということはご存じの通りだ。
その一方で、10代におけるSNSの利用は精神的な問題となる、という指摘が再三されてきた、ということもまた事実だろう。
日経新聞:SNSの太陽「若者に重大なリスク」米公衆衛生トップ
この日経新聞の記事は、昨年掲載されたモノなので、今回のオーストラリアにおける「16歳未満のSNS利用禁止」の一つの方向性を決めるモノとなったのではないだろうか?
もちろん、日本でも若者のSNS利用についての問題が、様々に指摘されている。
一つは、「いじめ」という問題だ。
LINE等で、クラスメートの間で自分の知らない間にネガティブなやり取りがされ、それが同じ連絡網の中で噂が大きくなり、最終的にターゲットになってしまった子どもが、自死を選ぶような結果を生み出している、という事件はここ10年ほどで目立つようになってきたように思う。
それ以外にも、いじめの延長にいじめの現場を動画撮影し、拡散させる、あるいは拡散させると脅すという行為も、「いじめ」の一つだろう。
動画撮影され、ネット上に拡散されたモノは、「デジタルタトゥー」として、ネット上の半永久的に残ってしまう。
いくら「ネット情報に踊らされないで」などといったところで、大人であっても裏どりがされていないネット情報を信用している人たちは数多くいる。
そのような社会状況を聞きかじっている程度の若者に、いくら「危険だからやめるように」といったところで、説得力はない。
このようなコトを考えると、オーストラリアの若者の利用禁止は、当然の成り行きだったのかもしれない。
そして注目すべきは、オーストラリアのSNS禁止の対象が、利用者である若者ではなくサービスを提供する事業者に対して、という点が大きく違うところだろう。
おそらくアカウント登録時に、本人確認資料の画像添付を義務付ける、等の方法を取ることで、年齢確認をするのでは?と、想像するのだが、抜け道はいくらでもあるような気がしている。
というのも、携帯電話が普及し始めた頃、派遣社員として一時期携帯電話の利用者登録のデータ入力をしていた事があった。
その時、不思議に思ったのは契約者は親なのに、支払い者は高校生のこども、というケースが少なくなかったからだ。
最初は不思議に思っていたのだが、利用者である高校生が親を契約者としてしているのだ。
だから、支払いは利用者本人である高校生であり、親は名義を貸していたようなモノだったのだ。
今では、スマホの契約自体本人確認資料の提示など、厳しくなったのでそのようなことは無くなったと思うのだが、そう考えるとスマホそのものにSNSアプリをインストールできなくする、ということも必要になってくるのかもしれない。
このところ、話題になっている「103万円の壁」。
国民民主党がこの103万円の壁を取っ払い、上限額を上げるという提案をしている。
この話を受け、湧き上がってきた問題が「103万円の壁を取ると、地方税が減る」という話だ。
なぜ地方税が減ると困るのか?というと、「住民サービスの低下を招く」為問題である、というのが声を上げている首長さん達の主張だ。
「住民サービスの低下」というと、「それは、問題だ!」という声が次々に上がるのか?と言えば、想像よりも上がっていないような気がしている。
それぞれの自治体で、どんな住民サービスを提供しているのか?という、事情はバラバラだと思う。
例えば、「子育て世帯に対する支援」に力を入れている自治体もあれば、高齢者が多い自治体は「高齢者福祉サービス」に力を入れざる得ない。
生活者にとって、直結するはずの問題だと思うのだが、多くの生活者から「103万円の壁」についての声が上がらないのは、何故だろう?
いや、上がっているのかもしれないが、主にメディアで報道されるのは「地方税が減る」と言っている首長さん達の声が、ほとんどだ。
ニッセイ基礎研究所 レポート: 「財源がない」は本当か~「103万円の壁」引き上げを巡って~
ここで考えなくてはならないのは、現在パートタイムで働く人達が「103万円の壁」をどれほど意識しているのか?という点があると思う。
今年の春闘は、政府の意向もありベースアップ幅がここ30年の間で、一番大きかった。
大幅なベースアップにより、時給が上がり「103万円以内で仕事をする」ということが、難しくなってきたのではないだろうか?
「103万円の壁」を気にするよりも、月々の給与から得られる「可処分所得」が増える方が、生活者にとっては嬉しいのでは?
現在のような経済的不安定な時代であれば、「貯蓄やNISAなどの投資に回し、お金を増やす」ということを考える生活者も多いだろう。
そう考えると、パートタイムで働く人達にとっての「103万円の壁」とは、収入をえる足枷と感じる人もいたのでは?
もう一つ考える必要があるのは、「住民サービスの低下」ということを言う前に、「独自で税収を増やす」ということを自治体自ら考えてきたのか?という点だ。
自治体の税収を増やす方法は、「住民を増やし住民税の増やす」とか「地域経済の活性化による増収」等が、基本的な方法だろう。
そのような努力した自治体として、明石市が挙げられると思う。
前市長の泉房穂さんは、まず「子育て支援」を打ち出すことで、若い世帯に「住みやすい・子育てしやすい明石市」を実施。
結果として、若い世帯が明石市へ転居し街全体に活気が戻り、税収もアップさせることに成功している。
このような政策を打ち出した時には、市の予算の内削られた分野もあったと思うのだが、最終的には税収が増えたことで削られた事業分野も復活したのでは?と考える。
これまでのように「あれもやります、これもやります」という、総花的であいまいな事業予算を組むのではなく、自ら税収を増やす為の優先事業を決め、住民に理解を求め、地域経済の活性化を促すことで「税収を増やす」ということを考える必要があるのではないだろうか?
少なくとも可処分所得が増えた生活者は、これまで購入を我慢してきたモノ・コトに対する購入に積極的になるだろうし、それを地域の中で消費してもらえるような街づくりを考える必要があると思う。
昨日、名古屋市長選挙があった。
Yahoo!等のニュースでも取り上げられていたので、結果はご存じの方も多いと思う。
前名古屋市長であった、河村さんの政策をそのまま引き継ぐような、結果となった。
しかも、選挙前に言われていた下馬評が高かった他の候補者を(表現は悪いのだが)瞬殺するような、圧倒的な得票数だったようだ。
昨日の名古屋市長選、1週間ほど前にあった兵庫県知事選、1か月前にあった衆議院選挙の時にも感じたことなのだが、「政治家とは、どんな人物であるべきなのか?」という点だ。
見解は人それぞれだと思うのだが、おそらく共通しているのは「現在よりも、より良い社会にしてくれるリーダー」像なのではないだろうか?
そんな有権者の思いとは別に、世界の政治的リーダーたちは「(今よりも)より良い社会にしてくれる人」が、選ばれているのだろうか?
そんな時、古典について解説をするYoutube channelを見ていて「なるほど」と、思ったのだ。
その古典とは、プラトンの「ティマイオス」と「クリティアス」を取り上げていた内容だったのだ。
プラトンについて、説明をする必要はないと思う。
古代哲学というか西洋哲学の祖ともいえるソクラテスの弟子でありソクラテスの言葉を残した人物でもある。
ソクラテスの話は「対話」によって、成り立つのだがこの「ティマイオス」と「クリティアス」もまた、「ソクラテスがこんな話をした」というところから、始まる。
その話の初めにあるのが「国を治める人物」についてなのだ。
この時ソクラテスは「国家の守護者」という言葉を最初に挙げている。
そして「国家の守とは、「勇気があり、並外れて『知を愛する』という素質が備わっていなくてはならない」という、ある種の定義のようなモノを指し示している。
ここで気になるのは「知を愛する」という言葉だ。
哲学の英語「philosophy」は、ラテン語の「知を愛する」という、意味からきていると言われている。
言い換えれば、政治家に求められる資質の一つは「より良い社会にする為の哲学を持っている人」ということにもなる。
それだけではなく、ソクラテスの有名な言葉「無知の知」という言葉もまた、「知」ということを大切にしている。
では、この時代の「知」とは何か?
それが学問という範疇ではなく、様々なモノ・コトに心を、その本質を知る為に努力をし続けることなのでは?という、気がするのだ。
あくまでも、私の解釈でありYoutubeの内容ではない、と断っておきたいのだが、世界各国で自己権威を示す為に様々な諍いを起こしている国のリーダーたちにはこの「知」というモノが感じられない。
それは日本においても、同様なのかもしれない。
というのも、安倍政権の頃だったと思うのだが、盛んに言われた言葉の一つが「反知性」だったからだ。
この「反知性」という言葉は、机上の理論に頼り現実を見ないことへの反発のようにも、とらえられていたようにも感じるのだが、そこには「身体的に感じることを大切にする」のではなく、「暴力的で、自分の力で多くの人をねじ伏せる」という、自己中心的なところがあったのではないだろうか?
このような「暴力的で、力で多くの人をねじ伏せる」社会は、決して豊かな社会ではないし、いわゆる二極化を生み出しやすい社会だともいえるのでは?
それが、今の日本の政治家の一つの姿だとしたら…「善き国をつくる」ことを、政治家の皆さんは古典から学んで欲しい、と感じている。
今朝FM番組を聞いていたら、「え!」と思うような、トピックスがあった。
名古屋に本社がある興和が、ミノムシが吐き出した糸を素材として、量産する、という話だった。
東海テレビ:世界初“ミノムシの糸”使った繊維を商品化 興和が新ブランドを立ち上げ天然素材で環境にもやさしく
このトピックスを聞いた時、思い出したことがあった。
それは10年ほど前、話題になった「クモの糸」を人工的に創りだした、ベンチャー企業・スパイバーだ。
TECHBLITZ:クモの糸に着目して開発された「夢の素材」資源・環境・食料問題解決へSpiber
「クモの糸」のスパイバーは、学生ベンチャーから始まった企業なので、今回の興和とは開発費などに関しては雲泥の差だったのでは?と想像しているのだが、スパイバーの場合「クモの糸」という繊維にこだわらず、クモの糸に含まれるたんぱく質に注目することで、繊維だけではなく、化粧品などへと利用できる範囲が広がっているようだ。
スパイバーのクモの糸の時にも話題になったのだが、クモの糸は繊維としてはとても強い。
デリケートな素材の代表の一つシルクも、実はとても強い繊維だと言われている。
市販されている、「シルクのあかすり」等は、ゴシゴシ体を洗うと肌が真っ赤くなるほどだ。
シルクは蚕という蛾の一種からつくられる素材だ。
今回興和が注目した「ミノムシ」もまた、蛾の一種であるということを考えると、蛾が創り出す糸はとても強い繊維なのかもしれない。
説明によると、自然界の中で一番強度がある繊維、ということになるようだ。
その為、真っ先に考えられたのが「防弾チョッキ」のようなものだったようだが、もしかしたらそのようなものよりもより身近なモノに活用されるのでは?と、期待をしている。
例えば、シニア向けのパーソナルモビリティーの一部に使うとか、プラスチックに変わる医療向けの装具(ギブスなどの固定具やサポーター)、インテリアという分野も考えられるかもしれない。
アパレルというのであれば、アウトドア向けということも考えられそうだ。
あくまでも個人的な願望としては「防弾チョッキ」のようなモノではなく、生活者が快適で安心して日常使いできるモノへの活用を考えて欲しいと、思っている。
今朝、ネットでニュースのチェックをしていたら、詩人の谷川俊太郎さんの訃報を知った。
産経新聞:評伝・谷川俊太郎さん 透明な詩情、音楽のように 日常語で深く広い世界へ読者誘う
谷川さんの詩というよりも、谷川さんが使われる言葉にどことなく安心された方も多かったのではないだろうか?
安心する理由は、産経新聞の見出しにある通り「日常語」=飾らない普段使いの言葉を、軽やかに表現されていたからだと感じている。
例えば、10年ほど前だっただろうか?ネスレの企業CMに「朝のリレー」という詩が、起用されたことがある。
谷川さんご自身が朗読をされている動画が、Youtubeにあった。
Youtube:谷川俊太郎作者ご本人が朗読する「朝のリレー」
世界各地の地名が登場するのだが、リレーをするのは子供たちだ。
そこに大人の姿は無い。
それは「朝」という時間を、どのように受け取とっているのか?ということにも繋がっているのだろう、とその時に感じていた。
そして使われる言葉は、私たちが毎日当たり前に使っている、飾り立てた言葉ではなく平易で普段使っている言葉だ。
だからこそ、心の中に何かしら響くものを感じるのではないだろうか?
批評家の若松英輔さんは、ご自身の随筆の中でリルケの言葉を引用し、「詩はそぎ落とされた言葉で表現される」という趣旨のことを書いていらした記憶がある。
難しい言葉ではなく、平易でわかりやすい言葉だからこそ、伝わるのだということなのだろう。
そしていくらAIが進化し、AIが自由に言葉を操るような時が来ても、「言葉をそぎ落とし、平易でわかりやすい一文」を創ることは、難しいのでは?と、感じている。
何故なら、そこには「言葉から伝わる風景が見える言葉」が、使われなくては受け手となる読者に伝わらないからだ。
仕事上、コピーライティングをすることがある。
難しい言葉ではなく、シンプルで平易な言葉で伝える、という作業は、思いのほか大変だ。
語彙力という問題もあるが、それよりも伝える為に受け手である生活者に「コピー文から風景を見てもらう」ということを考えるからだ。
その意味で、谷川さんの創られる詩はとても勉強になっていた。
谷川さんのような詩人と商売で使うコピーと同列に見て欲しくない、と思われる方もいらっしゃると思う。
それでも、あえて言いたいのは「詩」というそぎ落とした平易な言葉を使い、読者に風景を見させる、ということはとても難しく、大変なことであり、その先にあるのが「伝える・伝わる」ということなのだと思うからだ。
最後に朝日新聞に特集されている、谷川さんのメッセージを紹介したい。
朝日新聞:谷川俊太郎 未来を生きる人たちへ
昨日投開票が行われた、兵庫県知事選挙。
選挙結果については、既に報道されている通りだ。
兵庫県民ではないので、この結果について云々言える立場ではないのだが、この選挙結果と選挙に至る過程を考えると、どこか解せない感がある。
というのも、今回の選挙は「知事の失職」によって行われた選挙だからだ。
失職することになった原因は、既にメディアで報道されている通りで、知事からのパワハラが原因で自死された方がいたこと。
しかも知事をはじめとする副知事(だったと思う)の隠ぺい体質のようなものがあり、身を挺しての告発であったこと。
これらのこととは関係なく、再選された斎藤知事の「おねだり体質」が、知事としていかがなものか?という、問題に発展した、ということがあった。
パワハラ疑惑の件は別にして、「おねだり体質」に関しては、連日のようにテレビの情報番組で取り上げられていた(丁度、入院中だったので連日の報道をテレビで見ていた)。
この「おねだり体質」の方が、面白おかしく(と言っては失礼だが)取り上げられていたことも、今回の選挙結果に結びついたのでは?という気がしている。
ただ、このような問題の本質から離れたゴシップ要素の強い理由での失職・選挙は、新しい「選挙スタイル」を作り出す結果となったのでは?という気もしている。
何故なら、選挙結果から見ると斎藤知事は初当選をしたときよりも、得票数を大きく伸ばしての再選だったからだ。
時事通信: 「SNSが大きなポイント」兵庫県政立て直しに意欲‐斎藤氏
今回の兵庫県知事選よりも前、東京都知事選で立候補した安野貴博氏がまさに、デジタル選挙と言っても過言ではないのでは?という手法だったからだ。
選挙結果としては、残念なコトになったが、都知事選が行われる前に安野氏を知っていた有権者はどれくらいいたのだろう?
IT関連の仕事をされている方やSF小説ファンの方などは、知っていたのかもしれないが、一票を投じた有権者全てがIT関連の仕事をされていたり、小説のファンであったとは思えない。
とすれば、確かに街頭演説などの旧来の選挙活動をしつつ、SNSをはじめとするITを使った選挙戦を繰り広げていたのでは?と、想像できるのだ。
何故なら、安野氏は「デジタル民主主義」という言葉をキーワードとして、選挙戦を戦っていたからだ。
問題の本丸ともいえる「パワハラ疑惑」については、再選された斎藤知事本人が関係者を含まない第三者機関を立ち上げ、きちんと解明し説明をする責任があると思う。
この点を、選挙の争点としなかったのか?という、疑問も部外者としては気になったところでもある。
そして、今回の選挙結果は、昔ながらの選挙カーで立候補者の名前を連呼する選挙活動が、既に有権者から受け入れられにくい、ということを示していると思う。
多くの人が利用しているであろう、SNS。
その中でも、「拡散力」があると言われているのが、X(旧ツイッター)とInstagram、あるいはTikTokなのではないだろうか?
私も複数のSNSを利用しているのだが、文字情報としての拡散力があるのは、X(旧ツイッター)なのだ、と実感することがあった。
SNSを利用されている方ならご存じだと思うのだが、SNSにアクセスすると「おすすめ」と「フォロー」という2つのコンテンツ(というべきか?)を見ることができる。
「おすすめ」と言っても、自分とは全く関係の無いテーマでポストされていることが多いので、そのままスクロールをしてしまうことが多いのだが、時には「え!」という情報が発信されていることもある。
例えば、災害発生時などはSNSという情報発信ツールは、上述した通りの拡散力があるため、広く情報を伝えることができる。
例えば年明けに発生した「能登半島地震」等についても、災害発生直後から被災者から情報が発信されることも多かったし、当然支援物資などの情報なども広く共有された。
もちろん、発信される情報の中には虚偽のモノもあるため、鵜呑みにすることはできないが、即時性と拡散力という点では、マスメディアの比ではない。
それほどまでの力を持つようになったSNSだが、先日から私のXの「おすすめ」として、ある企業の不手際に関する怒りのポストがされるようになった。
その企業とは、メルカリだ。
メルカリは「自分にとって不要なものでも、他の人には欲しいもの」という着眼点から、ネット上で個人売買を行うサイトである、ということはご承知の通りだ。
しかし「個人売買」であるがために、様々な問題が指摘されてきたことも確かだ。
「コロナ禍」においては、マスクなどの衛生用品が高額で取引をされたことが問題となった。
衛生面と適正価格を逸脱した価格で売買されていた為だ。
他にも、限定販売品が発売直後から高額で転売されるなどの問題も、度々指摘されてきた。
今回私のXの「おすすめ」として見たポスト投稿された内容は、出品者が購入者の都合によりキャンセルになった商品が返送されてきたが、その返送品が出品した商品と違うものであった、という問題だ。
このことが明らかになると、X上では「私も同様の経験がある」というポストが次々と投稿されたのだが、仲介サイトであるメルカリに対応を依頼しても、全く対応に応じない、という運営側の不手際についてのポストも徐々に増えてきたのだ。
改めて、メルカリなどのCtoCビジネスについて、整理しておく必要があると思う。
メルカリはあくまでも出品サイトを運営しているだけであって、サイト利用として「手数料」を出品者から貰う、というシステムだったと思う(曖昧な表現なのは、実際私が利用したことが無いため)。
売買に関する責任そのものは、メルカリは負わないというのが基本スタンスなのだ。
その為、このような出品者と購入者との間で起きたトラブルには、介入しないことを前提としてシステムを運用している。
しかし今回のように故意的に違う商品(安価な商品など)を返品として出品者に返送する、ということになるとそれは「詐欺的行為」とみなされるのは当然だろう。
このような時の対応窓口を持っていないコトに対して、トラブルに巻き込まれた出品者は怒り、メルカリ側に誠意ある対応を訴えていたのだ。
しかし、この問題に対して対応してきた窓口は、SNS担当であったことから、より出品者の怒りが爆発し、Xに投稿され、より多くの人たちにしれわたった、ということなのだ。
ではなぜメルカリ側が、SNS担当が対応したのか?ということを考えると、やはりSNSの拡散力と即時性に対する懸念があったからなのでは?
SNSでの拡散を止めることを考えれば、担当窓口となるのは当然なのかもしれない。
しかし、このXにポストした出品者が求めているのは、このようなトラブルが発生した時の問題解決についての対応だ。
メルカリ側が、目先のことしか考えなかった為に、より事態が悪い方向へと動いてしまったのだ。
ネットビジネスと実店舗での商売は別物、と考える傾向が最近あるように感じているが、ビジネスの基本は同じなのだ。
ただ、ネットビジネスの方が、問題発生時の対応を迅速かつ誠心誠意に行わなければ、企業のイメージダウンは即時的で大きい、ということだろう。
以前から拙ブログでも指摘をしていたと思うのだが、CtoCビジネスだからこそ、運用をする側(今回はメルカリ)は当事者任せにせず、対応窓口と悪質な購入者排除の為のルールを明確にすべきだったのではないだろうか?
しばらく前から、話題になっているセブン&アイホールディングスの買収の話題。
この買収についての報道がされた時、一部では「小が大をのみ込む」ようになるのか?と、話題になった。
何故なら、ご存じの通り買収を仕掛けたカナダの企業が、日本国内では知られていなかったことや、提案された買収額が思いのほか安かった(低かった)ことも、影響しているのでは?と、考えている。
事実、最初の買収提案の時、セブン&アイホールディングス側が、提案された額が低い(=安く見られたものだ)という趣旨の発言をしていたからだ。
とはいえ、買収提案をしてきたカナダの企業は、コンビニとしては北米では2位の売り上げがあり、他にもガソリンスタンドなどの経営をするという、小売りの大手と言っても過言ではないかもしれない。
そして、当初の提示額よりも買収額を上げてきたこともあり、ここで動いたのがセブン&アイホールディングスの創業家である伊藤家だ。
日経新聞:セブン&アイ自力成長かカナダ社 創業家提案で新局面
まず、改めてセブン&アイホールディングスという、企業だが伊藤雅俊さんが創業した「イト―ヨーカ堂」がその原点だ。
1970年代初め、伊藤さんが米国視察をしたとき見かけたコンビニ形態である「セブン・イレブン」を見て、米国のセブンイレブンと業務提携をしイトーヨーカ堂傘下のコンビニとして始まっている。
それが現在では、母体であったスーパー「イトーヨーカ堂」ではなく、傘下にしていた「セブン・イレブン」の方が売り上げ、事業規模などが上回り、セブン&アイホールディングスの中心企業となった、という経緯がある。
元々米国企業との業務提携から始まったのだから、カナダの小売企業が買収を持ちかけてきたのか?という印象もあるのだが、とはいえご存じの通りセブン・イレブンは日本のコンビニの中でも店舗数や売り上げでもトップのコンビニだ。
そのトップ企業を買収する目的は、単純に「日本の市場を手に入れる」というだけではないのでは?
何故なら、日本の「コンビニ」そのものが、その業態名が示す通り「便利(=コンビニエント)」な存在として、生活に根付いているからだろう。
その事業幅は、食品以外にもPB商品を展開し、金融業も行っている。
このような事業領域の広さもまた、買収側にとっては魅力的だったのではないだろうか?
この買収に待った!と掛けたのが、イトーヨーカ堂を創業し、セブンイレブンという米国発のコンビニを日本に持ってきた、伊藤家だった。
創業家がこのような買収に動く、ということは相当な考えがあるのだろう。
もしかしたら「日本のコンビニを守りたい」という、事業に対する思い入れもあるのかもしれない。
この創業家の動きで、セブン&アイホールディングスは、創業の原点に立ち戻るようになるのだろうか?
一昨日、私のX(旧ツイッター)に、「この発言はいかがなもの」というリポストが、表示された。
その内容が、新聞各社の記事となって、掲載されている。
日経新聞: 「30超えたら子宮摘出」日本保守党百田尚樹代表、SFとして
これまでも、保守と呼ばれる国会議員さんの中には「女性は、子どもを産むのが役目」という趣旨の発言をされる方は、いらっしゃっていた。
その多くは、自民党のご高齢議員さん達だったように思う。
その議員さん達の頭の中は「戦前・戦中の10代で結婚、出産をしてきた女性」を、当たり前と思ってきたのだろう、と想像をしていた。
それは、ご自身の母親の姿だったのかもしれない、と感じるほどご高齢の国会議員さん達だったのだ。
しかし今回の百田氏は、そのような世代ではない。
しかもご自身のYoutubeチャンネルで、リンクを貼った記事の内容を話している。
いくら「小説家のSF」と前置きをしていたとしても、どうなのだろうか?
単に「品性を欠く」とか「前時代的」という範疇の話ではない、という気がするのだ。
そして昨日、ご自身の発言があまりにも批判的意見が多い、ということに気づかれたのか?一転、謝罪をしている。
FNNプライムオンライン: 「30歳超えたら子宮摘出手術」「25歳超えて独身は結婚できない法律に」日本保守党・百田尚樹代表“問題発言”謝罪
この発言に対して、いくつものツッコミどころがあるのだが、「25歳超えて独身」というのは、男性にも適用されるのだろうか?
おそらく百田氏の中では、女性限定という意味だと思う。
そしてそのイメージの根拠となっているのは1980年代初めのころに言われた「クリスマスケーキ説」なのだろう。
お若い方はご存じないと思うのだが、女性の結婚適齢期を指す言葉の一つで「クリスマスケーキのように24までは、それなりの嫁ぎ先はあっても、25になると嫁ぎ先は無くなる(=結婚相手として見られなくなる)」という考えだ。
当時の女性は圧倒的に、高卒か短大卒で就職をする人が多かった。
高卒で就職すれば、24歳になるころは社会人5年、短大卒でも3年の経験がある、ということになる。
このくらいの年齢で、寿退社をしてもらえれば、企業側にとっても「(男性が)職場結婚の相手を見つける」というメリットもあったはずなのだ。
特にこのような傾向が強かったのが、バブル経済前の銀行や商社、大手メーカーなど日本経済をけん引するような大企業だった。
そのような考えに囚われ続けての、発言なのだろう。
ただ、女性の妊娠適齢期と呼ばれる年齢があることも確かだ。
35歳を過ぎてしまうと、妊娠しにくくなる、というデータはある。
日経新聞:女性が妊娠する能力は35歳で本当に急降下するのか?
妊娠という視点だけで考えれば、百田さんのいうことは大きく違ってはいないだろうが、だからと言って子宮を摘出してしまえば、「更年期障害」という症状があらわれてしまう。
一般的に、「更年期障害」は閉経の前後10年に起きる、と言われている。
閉経とは関係なく、病気などにより子宮を摘出してしまうと「更年期障害」のような症状に悩まされ、病院に通う女性も少なくない。
このようなコトを知っていれば、安易に「子宮摘出」等という言葉は、出てこないはずなのだ。
そして、乳房と同じく子宮は、女性の象徴ともいえる臓器に対して、このような乱暴な発言をしてしまう、ということは若い女性にしか社会的価値が無い、と考えているのでは?
百田氏は、あくまでも「作家の戯言」のようなコトを言うことで、胡麻化しているが、これらの言葉は百田氏の本音に近いのでは?という気がしている。
「女性は、男性にかしずいて、男性のいうことを聞けば良い」というような、印象すら受けるのだ。
それが、百田氏が立ち上げた「日本保守党」という政治団体の本質でもあるのでは?という、気もしている。