日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

自動車メーカーの未来は? 

2019-10-31 13:45:11 | ビジネス

日経ビジネスに、センセーショナルな見出しがあった。
記事の内容は、有料会員のみしか読めないのだが、その見出しだけを見ても「やはりな~」という、気がするものだった。
日経ビジネス:「このままでは自動車会社は下請けに」ノーベル賞・吉野氏が警告

実際の記事を読む必要があるとは思うのだが、「やはりな~」と私が感じたのはあるシーンだった。
昨年の秋ごろ、トヨタ自動車とSoftbankが事業提携をする、というニュースがあった。
東洋経済:トヨタ自動車がソフトバンクを選んだ「必然」

この報道関係者向けの発表の時、トヨタ自動車の社長・豊田章男さんがSoftbankの孫さんの方へ行き、握手を交わしたのだった。
これまでなら、Softbankの孫さんがトヨタ自動車の豊田章男さんの方に近づき、握手をしていたのでは?と思える場面だった。
何故なら、孫さんは過去に何度もトヨタ自動車に出向いていて、熱心に「これからのモビリティー」について話をしていたが、トヨタ自動車の豊田章男さん側が断っている、という「噂話」があったからだ。
だからこそ、些細な場面のように思えるこの豊田章男さんと孫さんの動きが、今回の事業提携の主導権がどちらにあるのか?ということを、如実に表す場面だったように思う。

そのような些細な場面から推察できるのは、自動車の未来は通信システムの一つに組み込まれるのでは?ということだ。
実現に向け自動車メーカー各社だけではなくIT関連会社も開発に向け、しのぎを削っている「自動運転」などは、一番分かりやすい例だろう。
グーグルがこれから先どれほど積極的に、関わってくるのか?という点では、疑問なところがあるが今や「自動運転」の為に必要なものは「自動車」そのものではなく、ITやIOTにAIという情報産業が中心である、ということになるのでは?というのが、吉野先生の指摘のような気がする。

とすれば、今の日本の「物づくり」の中心である自動車産業自身が、IT企業の傘下に入らずに生き残ることを考えなくてはならない。
何より、このような「カタチの無いものづくり」そのものが、日本の企業は苦手である、という点を忘れてはいけないだろう。
思い出すのは、Appleが「iPod」や「iPhone」を出したときの、日本のメーカー側の「当社でもこのような技術は持っている」という発言だ。
それらの発言をした企業が、今やPCやスマートフォンの製造を縮小させることになっているのは、PCやスマートフォンをつくり、売ろうとしていたからだ。


ユーザーは、そのような製品を求めているのではなく、自分たちの暮らしの快適さを求めていることに気づかなかった、という「生活者の思考」を見誤ったという、日本の製造業の失敗を二度と繰り返さない為に、自動車産業そのものがドラスティックな思考の転換をする必要がある、ということなのだと思う。



「表現の不自由展 その後」から考える、議論を深める難しさ

2019-10-30 14:03:35 | アラカルト

何がなんだが分からなくなったまま閉幕した感があるあいちトリアンナーレ」。
閉幕はしたが、まだまだ火種がくすぶっている状態だ。
朝日新聞:大村知事、国に不服申し出へ トリエンナーレ補助金巡り

個人的には「どのような芸術作品が展示されようとも、一つの表現として認められる必要がある」と、考えている。
例え私にとって「不快!」と、感じるものであってもだ。
ただ、芸術に政治的要素の強いものをあえて入れる必要があるのか?という点では、「違う!」と思っている。
何故なら「政治的要素の強いもの」を議論するには、まだまだ理解を得られるとは思えないし、芸術作品に対する感じ方というのは一人ひとり違い、政治的要素が加わると「感じ方ではなく主義的な発言を生みやすい」と考えているからだ。
むしろ「芸術に主義を持ち込む」ということに、違和感を感じる。

Huffpostに、「表現の自由」についての、議論が深まらないのはなぜか?という、記事があった。
Huffpost:「表現の自由」、議論が深まらないのはなぜ?ネットに絶望するにはまだ早すぎる。

今回の「あいちトリエンナーレ」での「表現の不自由展・その後」については、この企画を立ち上げる前から「議論」をすべきだったのでは?という気がしている。
「総合監督として、何故ジャーナリストの津田大介さんを選んだのか?」という、スタート地点だ。
拙ブログでも、このテーマを何度か取り上げてきたが、国内外で開催される「芸術展」の総合監督となる方は、美術関係者ばかりだ。
何故なら「芸術の表現の自由」という枠の中で、政治的要素を切り離すことができ、なおかつ「芸術作品としての表現の自由・不自由」についての議論を、巻き起こすことができる人財だからだ。
にもかかわらず、美術に関しては疎いと思われるジャーナリストである津田大介さんを起用したことが、不思議だったのだ。

スタート地点での違和感を解消することなく、見る側が「政治的要素を強く感じる」内容の展示を推し進めてしまった、ということが今回の問題をより、分かりにくいものにさせ、より大きな騒動に発展した理由の一つが、主催者側の愛知県は、津田さんを起用したことについての明快な回答を示していない(ように思える)という点にあると思う。

Huffpostの記事は、この「表現の不自由展・その後」についてだけをクローズアップして、「表現の自由」ということを論じているわけではないと思う。
それは是枝監督の「国は、お金を出しても口を出さない、のが西欧では当たり前」と言う言葉からわかる。
西欧では、王侯貴族がお金に糸目をつけず芸術のパトロンとなってきた、という歴史がある、ということも影響しているとは思う。
そのような歴史的、文化的背景を理解した上で「日本的な公的文化支援」を、国や自治体が行うことは、国民にとっても大きな利益があるはずだ。
問題なのは、「責任者」となるべき人が釈明とか主張をするのではなく「説明をする」ということを、していないからだ。
「説明をする」ことによって、様々な意見や考えが出やすいはずなのに、釈明や主張ばかりになってしまうと返す言葉の多くは「一過性の感情的言葉」になってしまう。
分かりやいのが、今回の騒動が表面化した時に起きた「愛知県庁への凸電の嵐」だろう。

もう一つ今回の騒動で感じたことは、「補助金をもらえることが当たり前」と考えていた芸術家もいた、ということだ。
「補助金がもらえて当たり前」ではなく「補助金を出させてほしい!」と国や自治体が思うような作品を創ることの方が、大切なのではないだろうか?
芸術家が自由に表現をし続ける為には、自己満足な表現では意味が無いように思えるからだ。
芸術家と補助金を出す側とが、対等な関係にならなくては、このような議論が深まるスタートにもならないように思えるのだ。


LVMHが、ティファニーを買収したい理由を考える

2019-10-27 18:36:38 | ビジネス

Yahoo!のトピックスにもあった、LVMHのティファニー買収の話。
ブルーム―バーグ:仏LVMH、米宝飾品事業の拡大に向けティファニー買収を探る

このニュースを見た時、「ティファニーの財務状況が悪いのだろうか?」という、気がした。
日本のバブル経済が崩壊する前の1980年代、財務面でティファニーを支えていたのは三越百貨店だった。
意外な印象を持たれる方もいらっしゃるかもしれないが、三越百貨店とティファニーの関係は、随分古いと聞いている。
だからこそ、三越の一番良い場所にティファニーが入り、バブル景気の頃はティファニーのアクセサリーを購入する人の賑わいが、三越全体の賑わいを創り出していたような印象を持っていた。

LVMHが、ティファニー買収に乗り出したのは、米宝飾品事業拡大だけの問題ではないという気がしている。
というのも、LVMHは過去に経営不振に陥っていた仏高級ファッションブランドを次々と買収した、ということがあったらからだ。
LVMHの買収によって、息を吹き返したブランドもあるが、かつてのようなラグジュアリー感があるのか?と、「売れ線だけど・・・」という印象を持ってしまうようになってしまった。
デザイナーの冒険心のようなものよりも、トレンドを押さえ売りやすいラグジュアリーブランドという、印象になったように感じるからだ。
このような買収劇を繰り返してきたLVMHだからこそ、「宝飾事業の拡大」という名目とは別にティファニーそのものの財務状況があまり良くないのでは?という、気がしている。

フランスの企業でありながら、米の宝飾店・ティファニーの買収を考えている理由には、欧州の宝飾店の買収が難しいからなのでは?という気もしている。
欧州の宝飾店から見れば、米国のティファニーは「新興宝飾店」に過ぎない。
仏のショーメは、ナポレオンの戴冠式の王冠をつくり、日本でも人気の高いヴァンクリーフ&アーペルやカルティエなども、欧州の王室御用達の宝飾品の企業だ。
歴史も顧客も、ティファニーとは歴然とした差がある、プライドの高い宝飾品の企業なのだ。
いくら資金力のあるLVMHであっても、単に財務状況だけを見て買収相手をさせてもらえるような企業ではないのだ。

それだけではなく、米国における宝飾品市場の拡大というよりも、アジア市場の拡大という目的のほうが大きいような気がするのだ。
特に中国などは、米国、日本に次ぐ市場規模を持っている。
先日の「右目を隠す広告」が、香港で起きているデモを支持していると、批判され早々に広告を取り下げた、という話題を覚えている方も多いと思う。
それだけ、ティファニーにとって中国市場は大切にしたい市場である、ということになる。
とすれば、買収を考えているLVMH側も中国市場を考え、ティファニーを切っ掛けに傘下にあるブランドの展開も考えているのでは?ということなのだ。

LVMHのティファニー買収が上手くいくか、否かは分からない。
ただ、このような話題となるモノを理解する必要があると思う。



ハロウィンの「騒ぎ方」を、変える必要がある

2019-10-26 22:28:41 | 徒然

来週の31日は、ハロウィンだ。
ここ数年、東京の渋谷あたりでは「大騒ぎをする日」として、世間の注目を浴びるようになっている。
昨年は、車を横転させてり痴漢行為による逮捕者が出るまでの、大騒ぎとなった。
このようなコトがあったために、今年は既に「ハロウィン対策」が発表されている。
Huffpost:ハロウィンの渋谷、どうなる?条例で路上飲酒禁止、警備や啓発に1億円以上を投入へ

「流石、渋谷!」という気がするほど、警備や啓発に投入される金額が大きい。
ハロウィンだけの為に、1億円を投じて警備や啓発するというのは、正直驚きだった。
逆に言えば、それだけの金額を投じても何とか昨年のような大騒ぎを止めさせたい!という、事なのだろう。

ところで、随分前から違和感を持ってこの「ハロウィン大騒ぎ」を見ている。
何故なら、米国ではハロウィンの為に仮装をし「Trick or Treat」と言って、街中を歩くのは子供だからだ。
大人が仮装をしてホームパーティーをするということはあるだろうが、仮装をして街中に出かけるという人達のほとんどは、子どもということになるはずだ。
ところが日本では、子どもたちが仮装をして街中を歩くというよりも、大人が単に大騒ぎをするだけのイベントに成り下がってしまった感がある。
その最たる「騒ぎ」が、東京の渋谷である、ということになると思う。

ハロウィンそのものを楽しむことは、悪いことではないと思う。
翌日の「諸聖人の日」などは、キリスト教文化を持つ諸国でも廃れ、ハロウィンだけが季節の行事のように残っている、とも言われているようなので、日本と事情は大きく変わらないのかもしれない。
ニューヨークの「ニューヨーク・ヴィレジ・ハロウィン・パレード」のように、大人が仮装をして街を練り歩く、というイベントなどもあるが、大人が仮装をして街中で大騒ぎをする、という傾向があるのは日本だけだろう。

昨年も言われていたことだが「ハロウィンだから騒ぐのではなく、騒ぐ名目としてハロウィンがある」というのが、日本の現状だと考えると、どこか空しいように思えるし、イベント化するならニューヨークの「ニューヨーク・ヴィレッジ・ハロウィン・パレード」のような、練り歩くだけではなく大道芸人やバンドなども加わったエンターティメントの要素のある参加型イベントにしていくことのほうが、良いのではないだろうか?
ただ騒ぎ、街に迷惑をかけるようなハロウィンは、既に時代遅れなのでは?


SNSが変えるネットビジネス?D2C

2019-10-24 21:02:14 | ビジネス

日経新聞のWEBサイトを見ていたら、アマゾンが戦々恐々としているビジネスが、急進しているという。
と言っても、日本での話題ではなく米国での話だ。
日経新聞:米ネット直販、アマゾンも揺るがす SNS駆使で台頭

日経の記事は、有料会員向けの記事の為、記事内容全体がつかみにくいと思う。
D2Cについて、分かりやすそうな記事があった。
DIGIDAY:「D2Cは新しい概念ではなく、顧客との関係性だ」オイシックス・ラ・大地株式会社・執行役員 奥村孝司氏

日経の記事にもあったように、D2Cという直販販売というのは新しいビジネスモデルではない。
分かりやすいところだと、PCのメーカー直販サイトだろう。
ネット上で、大まかな価格を知り、ベースとなるPCにCPUなどのバージョンを選び、自分が欲しいPCをつくる、という方法だ。
私が現在使っているPCは、このような方法で購入したものだ。
何故なら、市販をされているPCにはゲームなどがあらかじめインストールされている為、ゲームなどをしない私にとっては不必要だったからだ。
そして、ゲームなどがインストールされていない分、市販されている同等のスペックのPCよりも比較的安価である、という点も魅力の一つだ。

PCのようにある程度規格が決まっていると、このような「自分仕様」のPCをネット上でつくり、見積もり提示をしてもらい、購入の検討をする、ということはし易いだろう。
もう一つメリットがあるとすれば、C2C(「生活者と生活者」)という商取引よりも、遥かに安心感がある、ということになると思う。
それはご存じの通り、C2Cには「商品に対する補償」という点で、常に不安があるからだ。
実際、購入した商品を手に取ってみなくては、ネットで見てイメージ通りのものなのか?という、保証はないに等しい。
何よりも、C2Cで過去問題になったのは「盗品」を、販売していたということが発覚したことだろう。
それに比べ、D2Cは企業側との直接販売ということもあり、安心感と保証がある。

今は企業がSNSを積極的に利用し、企業PRをしている。
これまでの広告との違いは、SNSを使った企業PRは個人との繋がりが持てる、という点だろう。
「商品を購入する・しない」ではなく、「企業に親しみを持ってもらう(あるいは、共感性の創造か?)」という点で、メリットがあるはずだ。
そのようなSNSでつくられた「企業と生活者との直接的な関係」は、規格化されたモノを顧客に合わせたカスタマイズ化しやすいだろう。

もう一つ考えられるのは、中小零細企業にとってもビジネスチャンスとなるかもしれない、という点がある。
元々中小零細企業の不利な点は「大量生産ができない」ということがある。
しかし、生活者と直接つながることで「オーダー注文」という方法が可能になる。
これはファッションに限らず、家具などにも当てはまることだと思う。
そしてSNSによる繋がりが、中小零細企業にとって「大企業の下請け」では気づけなかった「モノづくり」を、見つけることができるかもしれない。

まだまだ、D2Cビジネスの輪郭が見えづらいところもあるが、様々な視点で注目する必要があるかもしれない。


30年以上前と変わらない思考が、経済を停滞させているのかも?

2019-10-23 21:34:24 | ビジネス

テレビ東京系でビジネスパーソンを描いたドラマが、放送されている(テレビの無い我が家は、Tverでの視聴)。
今回は、米国企業からヘッドハンティングされ、日本の商社に転職をした女性管理職が主人公だ。
テレビ東京:ドラマBiz ハル~総合商社の女~

サブタイトルにやや引っかかるモノを感じない訳ではないが(苦笑)、第1話の放送を見た時「30年以上前と変わらないんだな~」という部分があった。
商社と言っても、取り扱うものは、百貨店以上の取り扱い商品や商材がある。
石油プラントのような対国を相手にするような事業から、町の飲食チェーンのような生活に身近なものまで、幅広い。
今回の主人公は、そのような中でも「経営企画室」という、商社の中で中心となる事業部が舞台となっている。
第1話では、ラーメンチェーン店の事業縮小→最終的には撤退という話だった。
事業縮小の為に集められたチェーン店オーナーたちは、担当責任者が女性であると分かると、口々に言い放った言葉が、まさに私自身が30年以上前に、取引先から言い放たれた言葉だった。
それは「女に、仕事ができるか!」と言う言葉だった。

まさか30年以上経って、テレビドラマで同じような台詞を聞くとは思いもよらなかったのだが、もしや今でもこのような思考が日本の企業に残っているのでは?という、気もしたのだ。
確かに、今でも似たようなことを言われる方も少なくないのだが、「男なら仕事ができるのか?」というと、そうでもない。
ただ、男性中心のビジネス社会においては、男性の方が圧倒的に優位なことは間違いない、と思っている。
それは「仲間意識」というものが、働いているからだ。
まだまだ日本のビジネス社会において、女性は異質な存在であり、どう頑張っても「ビジネスの仲間」には入れさせてもらえない部分は、少なからずある、と実感している。

そのような意識と思考だからこそ、「ジェンダーギャップ」の問題が表面化しているのだと思う。
Huffpost:ジェンダーギャップ指数2018、日本は110位でG7最下位「日本は男女平等が進んでいない」
ジェンダーギャップ指数に関しては、様々な意見があるとは思うのだが、多くの日本女性は社会に出た途端に「ジェンダーギャップ」を体験することになる、という点においてはこのデータ通りだと思う。
テレビドラマであったような「女に、仕事が任せられるか!?」という思考が、少なからず各所で残っているからだ。

しかし、本当に女性はビジネスに向いていないのか?と言えば、決してそうではないようだ。
Huffpost:女性CFOたちは195兆円の超過利潤をもたらした「女性が導く時、企業は勝利する」の背景は?
データの分析がされていないので、この195兆円の超過利潤と言われても俄かに信じがたい部分もあるのだが、このような「多様性を持つ企業は、高利潤をあげている」ということは、再三言われてきた。
その背景にあるのは、社会そのものの多様化という点だ。

あくまでも日本の企業を対象としていないので、「米国限定」のように思いがちだが、既に日本の社会も多様化をしている。
LGBTのような人たちというよりも、すぐそばで働く日本以外の国籍の人達が数多くいるのだ。
例えばコンビニの店員さんの名札を見ると、中国籍、ベトナム籍の人などが多くなっている。
多様な価値観を持つ人達が、日本社会に溶け込み始めているのだ。
言い換えれば「女に、仕事を任せられるか!?」的思考では、社会の変化に対応できない時代になっている、ということでもある。

昨夜行われた「饗宴の儀」では、イスラム教の国の来賓の方のために「ハラール食」を用意されていた。
宮内庁が用意をする、このような祝宴の席でも「多様性に配慮」するようになっているのだ。
ビジネスにおける思考も、多様なものへと変えていく必要があるだろう。


「即位礼正殿の儀」は、政教分離に反するのか?

2019-10-22 21:13:04 | 徒然

今日行われた「即位礼正殿の儀」。
報道各社が伝えているように、まさに「平安絵巻」のような雰囲気だった。
その一方で、「政教分離に反する」という声もある。
特に、キリスト教の団体などは強く抗議をしているようだ。
東京新聞:即位礼「政教分離に違反」と主張 キリスト教団体が記者会見

キリスト教団体が「政教分離に違反」と言っている趣旨が、分からない訳ではない。
ただ、今日の「即位礼正殿の儀」を見た時、「どれだけ宗教色があったのか?」と聞かれると、答えに窮する。
少なくとも、私は答えに窮するのだ。

理由は、神道にありがちな「お祓い」などもなく、天皇陛下が分かりやすい言葉を使い「天皇になった」という宣言しただけだったからだ。
国王のいる国でも、同様のことが行われているはずだし、会場となったのは「皇居」という天皇の住まいだ(現在の今上天皇は、通勤状態だが)。
いうなれば、宮殿に各国の要人を招いて「国王の継承式」が行われた、ということと変わりはないように思うのだ。

確かに、天皇の重要な仕事(と言うと適切ではないと思うのだが、違う言葉が思い浮かばない)は「祭祀」という、「国と国民の安寧を祈る」というものがある。
しかし、今回の「即位礼正殿の儀」に関しては、そのような「祭祀」とは全く違う内容だ。
ましてこの「即位礼正殿の儀」参列された世界の要人たちの人数を見ると、「即位の礼」という名の「外交」が行われている、とも思えるのだ。

キリスト教の中心となるバチカンからはモンテリーズィ枢機卿が来られているし、イスラム諸国の国王や要人も来られている。
宗教やイデオロギーなどが違う人達が、これほど会する機会は、今回の「即位礼正殿の儀」から続く祝宴以外、無いと思うのだ。
確かに「天皇陛下」は、政治的な発言をすることは無い。
ただこれほどの「和平の為の機会をつくることができる」力を持っている、ということもまた事実なのだ。

そう考えれば、「即位正殿の儀」そのものの本来の目的以上に、意味のある儀式なのではないだろうか?
まして、宗教色がどれほどあったのか?疑問なほどの内容だ。
むしろ「古式ゆかしき日本の文化」の情報発信、という点でのメリットもある。

「大嘗祭」にしても、時代の変化と共にその意味が変り、今は「古式ゆかしき日本の伝統文化」の一つを、天皇陛下が担っている、と考えたほうが、良いのではないだろうか?

 


ストリーミングとサブスプリクションがつくりだす、残酷なデータ

2019-10-20 20:23:28 | マーケティング

しばらく前に、大阪ガスのエネルギー・文化研究所の池永さんの「見限り見切れない日本」というコラムを紹介した。
確かに今の音楽を大きく動かしているのは、ストリーミングという視聴の仕方だと思う。
そしてそれを可能にさせているのは、紹介をした拙ブログにもある様々な要素だ。
スマホの普及、Wi-Fiの充実、データの定額制などがあり、初めてストリーミングという音楽の視聴法が出来上がっている。
そしてここ数日で、フッともう一つの要素があるのでは?ということに気づいたのだ。
それが「サブスプリクション」と呼ばれる、定額制の視聴プランだ。

サブスプリクションそのものは、ストリーミングに限らずPCなどのソフトウェア利用などで使われている「定額利用システム」だ。
例えばMicrosoftの「Office 365」などは、その代表的なものだろう。
月、または年額いくらという料金を支払うことで、常に最新のOfficeを使うことができる。
一見便利なシステムのようだが、利用頻度が少ない人にとっては、割高感のあるサービスだ。
ただこのような「定額利用システム」は、今後ますます増えていくだろう、と言われている。
何故なら、新しいソフトを購入することなく自動で最新のものにアップデートされていくからだ。
新しいOfficeが発売されたからと言って、買い替え・インストールする必要もない。
Officeのように圧倒的なシェアがあるソフトであれば、利用頻度云々ではなく使わざる得ないので、利用者は当然増えるし、利用頻度に関係ない為、Microsoft側としては確実な利益を得る手段ともいえる。
そのような側面があるのが「サブスプリクション」という、サービスでもあるのだ。

しかし「音楽や映像配信」に限って言えば、利用者側のメリットの方が高いだろう。
それは上述したように「ストリーミング」というシステムがあるからだ。
スマホのように、メモリが限られ・メモリが増設できなくても、聴きたい時にAppleMusicなどにアクセスして、聴けば良いのだ。
だからこそ、ストリーミングで聞かれている音楽は「その曲がどれだけ聞かれたのか?」というデータとして、ハッキリわかってしまうのだ。

CDセールスの中には、オマケにつられて大量購入をしたという、購入者の目的によってセールスの数字が左右されてしまう。
ここ数年はその傾向が、顕著になっている。
それに比べ、何を切っ掛けに聴くようになったのか?という動機は不明でも、ストリーミング+サブスプリクションによる音楽の視聴は、聴きた人の数字をダイレクトにはじき出してしまう。
だからこそ、音楽チャート専門誌・billboard誌(日本版)にも「ストリーミングチャート」が、登場するようになったのだろう。
billboardJapan:ストリーミングチャート(10月21日付) (注意:今後アクセス時間によって日付が変わる可能性があり)

言い方を変えれば「ストリーミングチャート」の上位が、聞かれている楽曲であり、人気のあるミュージシャンである、ということになる。CDセールスでは上位にいるのに、ストリーミングチャートでは下位に沈んでいる・・・またはその逆の現象が起きてもおかしくはないのだ。
それは、これまでとは「違う視点で考えなくてはいけない」ということを如実に表し、「これまでのハウツーでは売れなくなる」ことを示す「残酷なデータ」かもしれない。

 


いじめの加害者の心理をよく表した神戸・教員間いじめ

2019-10-19 20:14:20 | 徒然

今週、問題が表面化(?)した神戸の公立小学校で行われていた「教員間のいじめ」。
いじめの内容にも驚くのだが、これらのいじめが「教師」が行っていた、ということが社会的な衝撃を与えている。
「いじめはいけない」と教える立場の教員が、子どものいじめよりも数倍酷いいじめを、複数の若い教員に行っていたのだ。

一昨日、加害者教員が被害者教員に対して「謝罪」を文書で発表しているが、当然のことながら世間の目は厳しい。
その中でも、「謝罪をするなら公の場に出て、すべき」という内容が目だって多い。
公の場に出られないのは、加害者教員が「公の場で出られないくらいの体調である」という説明だったと思うのだが、報道されているようないじめを繰り返していて「公の場に出られない体調になるほどの、繊細な神経の持ち主ではない」、というのが世間の見方だろう。


今回の謝罪文を見て、多くの人たちが「謝罪という言葉と言いながら、謝罪になっていない」と感じているのは、その言葉が「上滑り」しているからだろう。
特にいじめの中心と言われている40代の教員の「かわいがっていた」という言葉に、違和感を覚えた方も多かったのではないだろうか?
私はこの言葉を見た時、しばらく前、相撲界で問題になった「かわいがり」と称した「いじめ」を思い出したのだ。
この時も、世間から理解を得られず発言をした親方は逆に、「何故、分かってもらえないのだろう?」という、表情だった。
相撲界の「かわいがり」という名のいじめは、半ば伝統文化のように言われたように思うし、今でも日本のスポーツ界には「暴力も辞さないほどのスパルタ指導」が、有効な指導法であると考えている指導者や父兄がいる、という事実もある。
その延長として、「かわいがっていた=虐めていた」ということであれば、教員という世界でも相撲界と同様な思考が、まかり通っていたということになるだろう。
と言っても、今回のような思考の教員は今ではほとんどいないのでは?(と思いたい)。

ただ、一連の「教員間いじめ」の経過などを見てみると、なんとなくだが「いじめの加害者の心理」というものが、見えてくるような気がするのだ。
これまでの「学校でのいじめ」の対象は、「成長過程の生徒」であったために「いじめの心理」という部分では、理解しにくい部分があったように思う。
しかし今回は、成人し社会人となっている「大人」が引き起こした「いじめ」だ。
しかも、加害者教員のコメント内容は、言葉こそ違え「いじめをする子供」とほぼ同じニュアンスを含んでいるように感じる。
大人だからこそ、見え隠れする「いじめの心理」というものを、表しているのでは?という、気がするのだ。

同じように感じられた方がBusinessJournalに寄稿されている。
BusinessJournal:神戸教員間いじめ、性行為強要疑惑…加害者の教員ら、「ゲミュートローゼ」の可能性

「ゲミュートローゼ」という言葉は、初めて聞くのだが、もしこの心理学者の方が指摘するような人であるとすれば、教員は当然のことながら一般の社会生活においても、様々な問題を引き起こす要素が高いのでは?という思われる。
だからと言って社会から排除するわけにはいかない。
「大人のいじめ」の難しさは、このようなコトから理解する必要があるのかもしれない。


新幹線を全国に張り巡らせる必要はあるのか?

2019-10-17 20:20:59 | アラカルト

朝日新聞に、久しぶりに石破さんの記事が掲載されていた。
朝日新聞:今こそ山陰新幹線が必要だ 石破茂氏、格差への危機感を語る

石破さんの地元である鳥取市と私の実家がある米子市とでは、鳥取県の東と西の外れにある自治体という違いがあるのだが、山陰に新幹線は必要なのか?と、言われると「どうなのだろう?」というのが本音だ。
確かに、鳥取市に行くための鉄道路線となると不便だということはわかる。
以前は京都⇔鳥取間の特急などもあり、関西方面に出ていくことも比較的スムーズだった。
それが民営化になり、京都⇔鳥取間の特急は無くなったように思う。
結果、一旦岡山まで新幹線で行き、岡山から在来線に乗り換えるという地図上では遠回りをするルートになった。
その点を見れば「山陰新幹線」の必要性は、あるのかもしれない。
しかしその発想は、国鉄時代のような「全国に鉄道路線を網目のようにつなげる」という発想のような気がするのだ。

本当に必要なのか?という疑問を持つ他の理由は、関西方面から山陰と結ぶ高速バスの充実がある。
JRの特急の本数は少なくても、高速バスはほぼ1時間に1本程度大阪から出ているのだ。
当然、高速バスのほうが値段的にも安く時間的にもほぼ変わらない。
とすれば、多くの人は高速バスを利用するのでは?
実際、年に2.3回くらい帰省する時に高速バスとJRを半々くらいで利用すると、高速道路が渋滞するシーズン以外では高速バスのほうが便利だと感じることが多い。
石破さんが鉄道ファンであっても、「時間がさほど変わらず、料金が安い」という点では、一般生活者にとっては高速バス利用の方がメリットが高い、ということになると思う。
新幹線を通すということになれば、それなりの採算を検討しなくてはならないことを考えると、ハードルの高い「新幹線誘致」ということになるのでは?

むしろ「高度成長に乗り遅れ、周回遅れ」となった山陰の魅力は、「周回遅れ」によって保護された自然の豊かさと古い地域文化が残っている、という点ではないだろうか?
このような地域だからこそ「時間をかけた旅」のほうが、似合うと思うのだ。
現在途絶えてしまっている京都⇔鳥取間を急行くらいの速さの電車で、「のんびりゆったり、地域の文化に触れながら旅する」とか「ジオパーク体験ツアー」ような提案をしながら、時間をかけ沿線各地に人の乗り降りを誘うようなアイディアのほうが、これからの「旅気分」には合うような気がするのだ。

もう一つあげるとすれば、鳥取に住んでいる方が石見大田方面に頻繁に移動するのか?という点も、疑問なのだ。
石破さんが名前を挙げていらっしゃる特急に、始発駅から終着駅まで乗っているという方は、ほとんどいないだろう。
随分前に、米子から益田まで「特急おき」に乗車したことがあるが、この区間でも人の乗り降りはあっても乗り続けるという人は、いなかったように思う。

確かに「新幹線のある地域」との格差はあると思う。
しかしその「格差」をプラスに転換する智慧が、今の地方に求められているのではないだろうか?