Yahooのトピックスに、「メキシコでも炭酸飲料の規制の動き」というウォールストリートジャーナルの記事を取り上げていた。
ウォールストリートジャーナル:「炭酸飲料めぐる健康論争、メキシコでも」
以前、同様の話題が米国でもあったが、メキシコの場合米国とは違う事情がある様だ。
米国の場合、あの食事そのものが健康によくないのでは?と感じるところが多い。
しかも低所得層になればなる程、その食事内容は体に悪そうなメニューが中心になっていく。
その中で炭酸飲料(具体的には「コーラ」)は、中心的な存在だろう。
何故なら、あのハンバーガーのような食べ物には、コーラそのものがとてもよく合うからだ。
マクドナルドで、多くの人がコーラとセットでオーダーする、と言うのはある意味自然なコトなのだと思う。
ところが、コーラ消費量が米国に次いで多いと言われるメキシコの場合、もちろん食事の米国化という理由もあるとは思うのだが、それ以上に「飲料水」そのものの質に問題がある様だ。
日本のように、水資源が豊かで良質な国というのは、世界的に見れば稀だ。
それでも最近は、ミネラルウォーターを購入するコトも当然になってきたし、家庭用浄水器を付けているご家庭も多いだろう。
それとは別に、「名水百選」に選ばれた湧き水を求めて、クルマで遠出をされる方もいらっしゃる。
それほど、日本人にとって「水」というのは、大切なものと言う気がしている。
そんな日本人だからこそ、世界でもトップレベルの浄水システムを作り上げ、海外でプラントを作り、水を供給するコトができるのかも知れない。
とすれば(既に稼働をしているのかも知れないが)、メキシコでも日本の浄水プラントを輸出できるチャンスなのではないだろうか?
「良質な水を供給する」と言うのは、衛生面の問題だけではなく、メキシコのような国では「健康」と言う側面でも、重要な意味を持っている。
「大規模な浄水プラント」に限定せず、雨水などを利用した「小規模浄水プラント」等、地域にあった「浄化プラント」を輸出するコトをできれば、より良いのでは?
「水の水質がよくない」を理由に、炭酸飲料が飲まれているとすれば・・・コカコーラ社からは良い顔をされないかも知れないが、やはり問題だと思う。
NTTdocomoの一人負け状態を打開する策として、この春発表されたのが「docomoの2トップ」だった。
対象の機種となったのは、サムソンの「Galaxy」とソニーの「Xperia」の2機種。
しかし残念なコトに、この「2トップ」戦略も、思う様な結果が出ていない。
そこで考えた!と言う程えはないかも知れないが、新しい?戦略として「初音ミク」を起用したようだ。
今朝の新聞に中央2面に渡る広告を掲載している。
公式サイト:dx39.net
「初音ミク」というバーチャルアイドルは、確かに日本生まれの全世界育ち、と言って良いだろう。今の日本のポップカルチャー又は「CoolJapan」を代表していると、思っている。
そもそも存在しないアイドルの3D映像コンサートに、観客が熱狂する・・・と言うコトなど、初音ミク以前には考えられなかった現象だと思う。
その「初音ミク」を、ソニーの「Xperia」限定モデルとして、今日から予約を開始する、と言うのが今日の広告だった。
この広告を見たとき、確かに日本生まれの「初音ミク」を起用するのだから、ソニーという日本企業のスマートフォンの限定機種とするのはわかる。
韓国企業のサムソンの「Galaxy」を対象としなかったのは、広告本文にある「どこかの誰かが開発したSNS、アプリ、コンテンツ・・・」と言う一文に集約されているような気がしたのだ。
「どこかの誰か」では無く、「この国の誰かと一緒になって、これからのアプリやコンテンツを発信していくツール」という気概なのかも知れない。
でも、チョッと力みすぎではありませんか?
「初音ミク」の魅力は、多くの人が自由に自分の考える初音ミクを創り、それを共有していきながら「初音ミク」というキャラクターが、生き生きと動きだし世界中のバーチャルアイドルとなったのでは?
「世界中の誰かとつなぐ・つながる・わかちあう」時、日本企業であるとか、ないとかと言うコトは関係がないような気がしたのだ。
そして、世界中の「初音ミク・ファン」に応えるだけのアプリやコンテンツが、この「Xperia」に搭載されているのであれば、世界を見据えた展開が必要だと思う。
スマホの魅力は「世界とつながる」と言うコト。
docomoが対象とする市場は、日本国内・・・。
でも、本当だろうか?
日本のユーザーが海外で自分のスマホを当たり前のように利用している、と言うコトを考えると、変に日本という国にこだわる必要があるのだろうか?
「この国でなければ生まれなかったカルチャーがあるのならば、この国でなければ生まれない、スマホの未来もきっとある」という、キャッチコピーを読むと、docomoがかかえているジレンマのようなものを感じる。
今日、経済紙だけではなく一般紙なども、ネスレが「インスタントコーヒー」の名称を止める、と言う記事を掲載している。
ネスレ公式サイト:新ネスカフェ
この記事の前にネスレは、主要な新聞などに「コーヒーが変わる」という趣旨の広告を掲載していた。
「何がどう変わるのか?」と言う点については、伏せた状態で「一体何が変わるのか?」という、期待を持たせた上での今回の発表となった。
ご存じの方も多いと思うのだが、ネスレは「インスタントコーヒー」と言う製品を、初めて市場に出した企業だ。
その後、「手軽に飲める飲み物」として人気となり、日本では急須で入れたお茶よりも一般的な飲み物になったかも知れない。
「インスタント」という言葉が意味する様に、「手軽で便利」というコトが受けたのだ。
その後コーヒーだけではなく、様々な製品に「インスタント」という言葉が使われる様になった。
代表的なところでは、「インスタントラーメン」や「インスタントカメラ」だろうか?
粉末タイプのお味噌汁が登場した時には、「これでインスタント?」というキャッチフレーズが使われた。
それから50年余り、今やブルックスに代表されるような安価でありながら、簡単にドリップコーヒーが楽しめるようになり、街を歩けばスターバックスをはじめとする「カフェ」がある。
今やインスタントコーヒーでは、満足できない生活者が増えてきているのだ。
もちろん、そんな社会変化にネスレが対応していなかったわけではない。
本格的なエスプレッソが楽しめるマシーンとコーヒーをセットにした商品や、インスタントコーヒーを使ったカフェマシーンなどの販売をしている。
おそらく、インスタントコーヒーそのものの売り上げが、以前程の売り上げではないにしても、大きく減っている訳では無いと思う。
ただ、生活者の志向が多様化し上述したような商品を販売するには「インスタント」という言葉が似合わないと判断したのではないだろうか。
何より「インスタントコーヒー」という言葉そのものを、生活者が使わなくなってきている様に感じるのだ。
ただ気になるのは、いくら生活者が使わなくなってきたにしても、既に定着してしまった「インスタントコーヒー」という言葉から、新しい「レギュラーソリュブルコーヒー」と言う言葉が定着するのだろうか?と言う点だ。
長すぎるのと、日本人には発音し難そうな音が並んだ言葉は、なかなか使い難いのではないだろうか?
名前が変わっただけではないので、商品そのものは売れるとは思いますけどね。
お盆で実家に帰省している間、読んでいた本がある。
片山恭一さんの「死を見つめ、生をひらく」と言う本だ。
片山さんと言えば、「世界の中心で愛を叫ぶ」という大ベストセラーがある。
そんなロマンチックな雰囲気など、一片もないのが本書だった。
ただ読み進めているうちに、一つ感じたコトがある。
それは、「技術の発展は、人の幸福に結びつく訳ではない」と言うコト。
確かに、様々な技術の発展により、クルマは進化し、巨大な場所を必要としたコンピューターは手のひらに収まるようなサイズになった。
10年あまり前、盛んに言われていた「ユビキタス社会の実現」も、当時は20年先か?25年先の話か?と思われてたが、iPhoneに代表される「スマートフォン」の登場により、一気に当たり前のこととなってしまった。
確か様々な技術の進歩は、私達の生活を便利な道具を与えてくれた。
でも、フッと立ち止まって考えると、「生活に便利な技術を使っているのか?」と言うと「技術に使われているのでは?」と、感じるコトがある。
それだけではない。
「情報」と言う、目に見えないモノに振り回されている時があることに、気づくコトがある。
「最新の情報を得なくては、時代に乗り遅れてしまうのでは?」と言う、ある種の危機感を常に持ちながら、不要な情報まで得ようとしているのかも知れない。
そう考えると、「技術の発展」というのは、私達の生活を便利で快適にしてくれたけれど、だからと言って幸福になったのか?と言うと、決してそうではないように思えるのだ。
他にも「(様々な技術を)コントロールしているようでいて、本当は(様々な技術に)コントロールされているのでは?」という、疑問を呈している。
それが顕著なのが「原発なのでは?」と・・・。
「フクシマ事故」以前、私達は「技術の進歩により、原発は(どのような)自然災害があっても、被害を出さない様にできている」と、思い込んでいた。
しかし、巨大で甚大な被害を出した自然の猛威の前では、もろく崩れ去ってしまった。
「技術によって制御されているモノは、それを超える技術でしか制御できない」という一文もまた、真実だと思う。
東北大震災以降、多くの日本人が「技術の進歩では得られない、幸福」というモノを探し求めはじめている。
それは、皮膚感覚的に「様々な技術の進歩で、私達の生活は便利で快適にはなったが、だからと言って、その生活に幸福感があるのか?」という疑問を感じているからなのではないだろうか?
「人を真ん中において考えてみる」と、今とは違う発想や視点が生まれてくるのでは?
その発想や視点の中心にあるのは、技術の進歩や情報でない「人を見つめ・幸福とはなにか?」というこれまでとは違う価値の創造になると思う。
タイトルとカテゴリーが、違うのでは?と思われる方も多いと思う。
間違っている訳ではない。
と言うのも、この問題をよくよく考えてみると、問題の発端となったコトと閲覧規制になった理由が、大きく違っているからだ。
この出来事の発端は、松江市に住むある男性が「歴史認識を誤らせる内容なので、閲覧を止めて欲しい」というモノだった。
それが、いつのまにか「残酷な表現がされていて、児童が読むには問題がある」という理由で、閲覧禁止になってしまった。
違う言い方をするなら「論点がズレ」がどこかで生じ、「閲覧禁止」と言う要請事項だけが合致した、と言う閲覧を止めて欲しい、といった男性の意図も汲み取られていなければ、それを論議する機会も逸した出来事だと言える。
ただ、この様な出来事というのは、実はビジネスの場面では多々ある。
「結果オーライ」という言葉で、片付けられるコトが多いのだが「結果オーライ」で済めば良いが、後々問題になるコトも多く、責任のなすりつけあいが生じるケースも少なく無い。
「言った・言わない」で済むレベルならまだよいのだが、お客様を巻き込むような事態となることも多い。
では何故、この様なコトが起きるのだろう?
あくまでも想像だが、事務局担当者は「はだしのゲン」を読み進めている間に、問題の発端が「歴史認識とは違う」という点をすっかり忘れ去り、表現ばかりに目がいってしまった。
ましてこれまで見たコトが無いような衝撃的な表現がされていれば、尚のことだっただろう。
最初に、閲覧禁止を求めた男性が「歴史認識を誤らせる」と思ったのか、ヒヤリングをしていれば、もっと違う判断ができたのではないだろうか?
何故なら、「歴史認識を誤る」と言うのであれば、「どのような場面が歴史的認識を誤らせるのか?」といった、具体的な話の中から閲覧差し止めを求めた男性の意図が、分かってくるからだ。
その上で、「はだしのゲン」というマンガの意図とをすりあわせ、判断をすれば今回のような出来事は避けられたかも知れない。
「意図を知る・情報を共有する」ビジネスと言う場面だけでは無く、社会生活の中でも大切なコトだと思うのだが、見落としがちな点でもある。
特に、「ダイバーシティ化」した組織の中では、英語ができるコトよりも、重要なコトかも知れない。
一方「はだしのゲン」は、閲覧開始というコトで収まったように思えるが、閲覧の差し止めを求めた男性は、どう思っているのだろう?
そこまで、考えた論議がこれから必要になっていくと思う。
FMを聞いて過ごすことが多いのだが、今日ある番組で「なるほど」と感じたことがあった。
それは、兵庫県豊岡市が取り組んでいる「コウノトリに関係する農業政策」。
ご存じの方も多いと思うのだが、豊岡市はコウノトリの繁殖地として知られている。
皇族の方々も訪問をされ、その度にニュースになっている。
「第二のトキ」とならないように、人口的な繁殖が進められている(現在の取り組みは「野生化したコウノトリ」の個体数を増やすことを目的としている)。
その「コウノトリ」の繁殖環境を整えるため、重要なのが実は農業だという。
元々農地開発などで、コウノトリの餌が激減していたところに、農薬散布が一般的になったことが野生のコウノトリが激減した原因と、考えられているからだ。
そこでコウノトリの繁殖を促すために豊岡市がとった農業政策は、無農薬・有機農法などによる農作物の栽培なのだ。
その結果「豊岡の農作物は無農薬・有機栽培で美味しい」と評判になっているという。
特にお米は「コウノトリ育むお米」というブランド名で販売をされ、美味しいと評判になり、既に今年販売予定分は完売済みとなっているらしい。
元々の生産量も少ないために、早々に完売してしまったようなのだが、生産量が少ないだけで予約完売というのは、考え難い。
そう考えると、この「コウノトリ育むお米」の人気が、成熟した社会や経済の中で売れる商品の一つのモデルなのではないだろうか?
実際、豊岡市の「コウノトリ育むお米」のサイトを見てみるとわかるのだが、単なるお米という商品を売っているのでは無い、と言うコトに気がつく。
豊岡市:「コウノトリ育むお米」
一つの大きなビジョンがあり、それが時代と共鳴しあい、お米の美味しさを求める生活者の気持ちを捉えた結果として、予約完売となっているのでは?と、感じるのだ。
豊岡市の場合、「コウノトリ」の存在が行政をあげての取り組みとなっているが、決して行政の力を借りなくては成功できない訳ではないと思う。
地方の特産品にしても伝統工芸にしても、大きなビジョンの中に時代と共鳴できる要素があり、それをどのような方法で生活者に届けるのか?と言う、具体性のある行動だと思うのだ。
経済を中心に、未だに「成長することが良いこと」と思いがちだが、もし高度成長期に「コウノトリ育むお米」のような商品が市場に出たからと言って、生活者が振り向いただろうか?
「成長」することばかりが、モノが売れる要素という訳では無いと思う。
「成熟した社会」には、その社会にあった商品やサービスがあり、成長期に身に付けた様々な基本をより発展させ、洗練させたモノ・コトが当たり前にあるコトで初めて、高い商品価値となるモノ・コトがあるのではないだろうか?
昨日から今日に掛け、断続的に雨が降ったおかげで、随分涼しさを感じた名古屋です。
ただ、島根県西部などでは、1ヶ月以上分の雨が1日たらずで降ったようで、被害が各所で出ているようです。
お見舞い申し上げます。
今年の夏ほど「暴力的な気候」は、なかったのでは?
四国では40℃を超す暑さが続く一方、北海道~東北に掛けては大雨。
都市部では「ゲリラ豪雨」が、多発した。
この様な自然災害が発生すると、被災した自治体だけでは、災害復旧させることが難しいため、予算が急遽組まれる。
このことは、全く問題が無いと思う。
いくら財政が厳しい状況であっても、被災地をそのままにして置けば様々な問題が起きてくる。
経済に与える影響も大きいからだ。
しかし、それも「予算が計上されている」と、わかっているからこそ使えるお金。
讀賣新聞のWebサイトを見ていたら、「そんな予算があったのですか?」という、予算が計上されていながら1円も使われていない、と言う記事が掲載されていた。
讀賣新聞:ホットスポット対策費「あったんですか?」
見出しを読まれて直ぐに「フクシマ事故」に対する対策費、だと言うコトはわかる。
「フクシマ事故被災地」に対する、放射線測定のための対策を目的に計上されたようなのだが、周知がされないまま手つかずで放置されていたようだ。
以前、「震災復興対策」の名目で、「全国各地の自治体が、復興とは関係の無く使っていた」と言うニュースがあったが、それに比べると周知されなかったため手つかずだったと言うのは、ある意味良かったのかも知れない。
何故なら、これから使えるのだから。
使える様にするためには、当初の目的では無い違う使い方にする必要があると思うが、事故被災地域の人達にとっては「ホットスポット」と呼ばれる限定的な地域だけでは無く、例えば汚染水が流れ出ている流域を確認し、監視するために使う、と言う方法もあるだろう。
この「使われなかった予算項目」というのは、私達国民が知らないだけで本当は、いくつもあるのかも知れない。
1円も使われないままならば、上述したような同じ目的で違う使い方もできる可能性がある。
このニュースで感じることは、「私達が知らない予算が、知っている一部の人達が都合良く使う」と言う場合があるかも知れないのでは?と、いう点だ。
過去にも、使われてしまった後に報道され、事実を知ったと言うケースが多かった。
予算を使うことが大切なのでは無い。
目的にあった予算を組み、それが社会益となるように考えて使うことが重要なのだ。
生活者は「お金の使い方」の見直しに励んでいるからこそ、国も「お金の使い方」を詳らかにして、有効な使い方を考える時代だと、認識して欲しいと思う。
立秋が過ぎてから、本格的な暑さ到来!と言う気がするほどの酷暑が続いている。
残暑見舞いを書くにしても、思わず「盛夏」と書きそうになるほどの暑さだ。
その暑さの一因ではないか?と、個人的に考えているのが「コインパーキング」だ。
だからと言って、「コインパーキング」が悪いと言う気は無い。
言う気は無いが、連日の酷暑に熱帯夜となると、アスファルトむき出しのコインパーキングの近くを夜歩くとその辺りはまだ、昼間の熱がこもっているような気がすることが多い。
「モワ~」とした、暑さを感じるのだ。
我が家の近辺では古い住宅や小規模マンション、古い事務所などの跡地の多くが、実は「コインパーキング」になっていて、今年に入り急激に増えてきている。
昼間の熱が放出されきれずに、蓄熱状態になっているのかも知れない。
そう考えると、アスファルトにためられた熱は夜になっても熱を出し続け、周囲の気温も下がりにくいのでは?と考えたのだ。
特に今年の様に、小雨で猛暑が続くと周囲に与えている暑さは尋常ではないのでは?
確かにマンションなどに比べると、遙かに設備投資は少なくて済む。
管理面でも、随分楽だろう。
ただ、最近のマンションには当然のごとく駐車場が完備されている(名古屋だからか?)。
古い小規模集合住宅でも、契約駐車場がある。
とすれば、コインパーキングを利用している人は、思う程多くないのでは?と言う気もするのだ。
と言うのも、我が家近辺にできたいくつものコインパーキングが、満車になったコトは無く、3ヶ月ほど前にオープンしたコインパーキングは、昼間でも駐車しているクルマをほとんど見かけたことが無い。
この暑さの中、屋根の無いコインパーキングに駐車するには、出庫する時の車内の状況を考えると、ある種の勇気(?)のようなものが必要なのでは?と、勝手に想像してしまう程だ。
一方、日々の生活で節電が当たり前になってきたこともあり、今や夏の蔓系植物を庭やベランダで育てることは、多くの人が実践をしている。
それをきっかけに、家庭菜園を始める人も多いようだ。
今年のような猛暑で、野菜が高騰すると比較的栽培し易い夏野菜くらいは育てたい、と言う人がいてもおかしくは無いだろう。
もし、今あるコインパーキングのいくつかが、レンタル家庭菜園場として活用されたら、むき出しのアスファルトが放出しているであろう人工的な放射熱は随分減るのではないだろうか?
何より、「地球温暖化対策兼家計が助かる+植物を育てる楽しみ」と言う、プラス面が多いと思うのだ。
コインパーキングをつくるのであれば、やはり「屋根付き」のほうが良いと思うし、せっかく屋根をつけるのであれば、ソーラーパネルを載せ蓄電システムを組み、夜の常夜灯に利用するくらいのことを考えた方が良いのではないだろうか?
日本がバブルに踊っていた頃、都市部を中心に「地上げ」が各所でおきた。
その後バブル経済が崩壊し、地上げされた多くの土地は長い間放置された状態が続き、その後コインパーキングになったところも多いだろう。
そのコインパーキングが、ご近所の人達が集まる「レンタル家庭菜園場」になったら・・・。
再びご近所づきあいが始まったりする可能性もあるし、何より街の小さなオアシスができるのでは?
「土地活用」というと、マンションに始まりコインパーキングと言ったトコロが、当たり前のようだが、もっと発想と視点を変えれば、自然と仲良くなれる「土地活用」もあると思うのだ。
ロイター電によると、どうやら「景気の山は2012年4月」だった可能性が高いそうだ。
ロイター:景気の「山」は12年4月、拡大は37ヶ月継続
このニュースを聞いて、思い浮かんだ言葉が今日のタイトル。
2012年4月の頃と言えば、自民党がまだ野党だった頃。
当然、「アベノミクス」も発表されてはいない。
1年数ヶ月前なので記憶もおぼろげなのだが、この頃当時与党だった民主党の野田さんは、随分自民党だけではなく、メディアからも叩かれていたような気がする。
もちろん、この頃は東京電力福島第一原子力発電所の収束目途が、全くたたず(今現在も、状況はさほど変わってはいないが)政治よりも、「原発事故処理について」と言う問題ばかりがクローズアップされていた様に思う。
一方では、シャープやソニー、パナソニックなど、日本を代表する家電メーカーの3月決算のおおよその数字がわかりはじめ、それまでにないような「業績不振」が報道され始めた頃だったと記憶している。
当然、メディアが報道するのは、この様な業績不振のニュースばかり。
これらの「業績不振」のニュースで、「日本経済の不安感」が煽られ、「日本の物づくり神話の崩壊」という言葉も、踊っていたような気がする。
にも関わらず、1年4ヶ月ほど経過した今、「景気の山が2012年4月だった」と聞くと、「・・・・???」という気持ちになってしまうのは当然だろう。
特に「アベノミクス効果で、景気回復」などと、謳っていたメディアは一体何を見ていたのだろう?と、不信に思われてもしかたないと思う。
もちろん、「景気の山を過ぎた現在も、拡大傾向にある」と言うのだから、「アベノミクス効果」が全く無かったわけでは無いと思う。
思うのだが、だからと言って「アベノミクス様々」と言う訳でもなさそうだ。
当時の円高傾向と今の円安傾向が、日本経済に大きな影響を与えていないのか?と言う、疑問も湧いてくるし、そもそも「景気の物差し」とは何だろう?と言う、基本的なことまでもう一度考え直す必要があるのかもしれない。
そして、消費税のアップによる景気の冷え込みのほうが気になってきた。
このニュースが伝えていることは、単に「景気の山」の時期という問題だけではなく、「景気」と実体経済の乖離やメディアと言う情報ツールに対する疑問など、いろいろなことを考えさせてくれるニュースだと思う。
今年の夏は、とにかく「暴力的」だ。
一部地域では、1日で1ヶ月分の大雨を降らせたかと思えば、他の地域では連日の猛暑と雨部不足。
取水制限までされている地域もある様だ。
この様な気候のせいかのか?全国各地で、「ある行動」を自慢げにネット上で報告する、若者が続出した。
「ある行動」とは、コンビニやレストランなどの冷蔵庫などに入り込んだ写真をネット上に掲載する、と言うもの。
確かに子どもの頃、余りの暑さ(と言っても、今ほどではなかったが)に「冷蔵庫に頭を入れて涼みたい!」と思ったことは、何度もあった。
特に受験期の頃は、夏休み中楽しいこととは縁が無く、連日勉強に明け暮れていた時などは、フッとそんなことを思い浮かべることもあった。
でも、実際にその様な行動を起こしたか?というと、しなかった。
当時、コンビニなどが身近ではなかった、と言うコトもあるが「そんなコトをすれば、怒られる」と言うコトが想像できたからだ。
今回、問題を起こした若者達は「こんな大騒ぎになると思っていなかった」と一応に話しているようだが、彼らの本音としては「大騒ぎになる=プチ・有名人になる」という、願望があったのではないだろうか?
「こんなこと、しちゃいました~(笑)」ということを、ネット上で公開し、話題になる(=話題の主人公になる)という気持ちのほうが強く、その様な写真がネット上で公開されると、「自分は、もっと凄いことをやっている」と、エスカレートしてネット上に公開していったのでは?
その後自分の身に起きるであろう、様々なことがらを想像することもなく「刹那的」と言うよりも、その場のノリというか、雰囲気に流された・・・と言うコトだと想像している。
「思っていなかった」のは、その後自分の身に起きる様々な社会的バッシングや、被害を受けた企業から請求されるであろう「損害賠償金」ということだろう。
「若気の至り」という言葉がある様に、若年期というのは、ある種のノリと勢いでおバカなことをしてしまうことがある。
しかし限度というものがあり、多くの場合「チョット待てよ・・・こんなことをすると、周囲に迷惑が掛かるな」と、想像することができたのだ。
そしてその程度の想像力を持っている若者のほうが大多数だろう。
今年のはじめUSJのアトラクションの乗り物に乗車中、故意的に落ちたりした大学生達がいた。
彼らは、それ相当の処分を受けている。
その彼らの動機もまた、今回問題となった若者と同じようなことだった。
「想像する」ことと言っても、宇宙の神秘を想像したりする力は必要ない。
「周囲に迷惑を掛ける」という、常識的な想像力が必要だと言っているだけなのだ。
そして、この「周囲に迷惑を掛ける」という常識的な想像力が、社会人には必須な力でもある。
暑さにかまけて、常識的な想像力が低下していたとすれば、その代償は余りにも大きすぎる、そんな教訓を、この事件は教えているような気がする。