日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

何ぜ、問題の本質を見誤ってしまうのか?

2018-07-30 19:55:43 | ビジネス

日本での代金決済を「キャッシュレス化したい」と、銀行が考えているらしい。

Yahoo!トピックス(毎日新聞):<銀行業界>「キャッシュレス化を主導」の大いなる勘違い
(本来であれば、リンク先を元の記事を掲載している毎日新聞にしたいのだが、毎日新聞では「会員記事」となっており、全文を読むことができず、Yahoo!のトピックスでは、全文が紹介されているため、Yahoo!のトピックスをリンク先としている。)
この記事の見出し、随分銀行業界に対する「ダメ出し」記事という印象がある。

代金決済というと、企業間で行われる商取引のように思われるかもしれないが、生活者が近所のスーパーやコンビニで、お金を支払うことも「代金決済」の一つだ。
そしてこの記事でいう「キャッシュレス化」というのは、このような生活者がほぼ毎日のように利用しているスーパーやコンビニなどの小売店などの決済を「キャッシュレス化」にしたい、ということのようだ。

この記事を読んで、一つ思ったことは「案外、キャッシュレス化は進んでいるのでは?」ということだった。
例えばイオンの発行している「WAON」、セブンイレブンの「nanaco」などは、クレジットカードではないが前払いチャージ式のプリペイカードだ。
代金の決済はカードで行われている。
他にもスマートフォンなどに搭載されている、電子マネーなども「キャッシュレス」での決済方法だし、もっと身近なところでは鉄道系のプリペイカードなどもそうだ。
学生さんなら「図書カード」を思い浮かべるかもしれないし、最近は百貨店の商品券もこのようなプリペイ式のカードになってきている。
クレジットカードのような、審査を必要としない前払いチャージ式のプリペイカードそのものは、案外身近で頻繁に利用しているはずだ。

イオンの「WAON」やセブンイレブンの「nanaco」、鉄道系の前払いチャージ式のプリペイカードは、利用するときには現金は必要ではないが、チャージをするときには現金が必要になる。
相互利用ができないプリペイカードも少なくない。
何より、地方に行くとプリペイカードが使えない所もある。
実際、昨年の春までは、実家がある米子駅では鉄道各社のプリペイカードが使えなかった。
「利用できる・できない」という点で、生活者の利便性を上げないと、このような前払いチャージ式のプリペイカードの全国的な利用は、拡がらないだろう。

ただ、銀行業界が考えている「キャッシュレス化」の意味は、少し違うのでは?という気がしている。
というのも記事中にあるようなQRコードや仮想通貨なのか?と思ってしまうようなお金の在り方は、プリペイ式のカードでの支払いとは全く関係が無く、単純な「キャッシュレス化が進まない理由」とは、違うように思えるからだ。
それはこの「キャッシュレス化」を推進したいと考えているのが、銀行業界という点だ。

なんとなくだが、銀行業界の考えている「キャッシュレス化」とは、クレジットカードのことを指しているのでは?という、気がしている。
何故なら、銀行は「口座」を持っているからだ。
クレジットカードの引き落としは、銀行の口座になっており、「生活者のお金の流れ」そのものを、銀行側がつかむことができる。
どのような買い物をしているのか?という細かな情報ではなく、「生活者の財布を、銀行が管理することができる」というメリットに、銀行側は期待しているのでは?という、うがった見方をしてしまうのだ。

それは銀行側にとってのメリットであり、生活者の利便性とは違うモノだ。
おそらくクレジットカードそのものは、一人当たりの保有枚数は少なくないと思っている。
使うクレジットカード・使わないクレジットカードがあるのでは?
そう考えれば「(生活者が)使いやすいクレジットカードと使いにくいクレジットカード」の違いは何か?という理由を真っ先に調べる必要があるはずだし、単純に「キャッシュレス化」というのであれば、プリペイ式カードを含め利用者である生活者の利便性を、優先して考えるべきなのだ。
「キャッシュレス化」が進まない問題の本質は、そこにあるのだから。


常識を疑え、思考を止めるな

2018-07-29 20:12:47 | ビジネス

今朝のYahoo!のトピックスをチェックしていたら、興味深い記事があった。
この夏シーズン始まりのテレビ朝日系で放送されているドラマ「ハゲタカ」の作者・真山仁さんの講演会の記事だ。
基となっているのは、伊勢新聞というローカル紙の記事だ。
伊勢新聞:常識疑う視点を「ハゲタカ」の作者真山氏、津で講演

講演の内容については、記事を読んでいただければ、と思っているが、この見出しにあった「常識を疑え」ということは、マーケティングではよく言われていることだ。
インターネットなどの情報ネットワークの拡大により、様々な情報が飛び交い、受信することが当たり前になった時代だからこそ、「常識を疑う」ということは、とても重要だと思う。

何故なら、「常識」そのものが、陳腐化してしまっている場合が、あるからだ。
分かり易い例を挙げるなら、私が高校生だった頃、炎天下でスポーツの練習をしていても「水は飲むな!」が常識であった。
当時はそれが「常識」で、何の根拠も示されず、信じられていた。
今となっては「殺人行為」とか「虐待(あるいはハラスメント)」と、訴えられてもおかしくはないような「常識」が、まかり通っていたのだった。

もう一つは「時代の変化に伴う、価値観の変化」だ。
経済などは、この「時代の変化に伴う、価値観の変化」が、それまでの「常識」を覆すことになる場合が多い。
「労働に関する意識調査(あるいは生活意識調査)」などは、分かり易い例だと思う。
かつては「会社に尽くすように働く」ことが良しとされていたし、そのような意識で働いている人も多かった。
今は「仕事も大事だがプライベートも大事」という、意識変化が表れている。
以前は「仕事重視の人生価値観」だったモノが、「仕事もプライベートもバランスの取れた人生観」へと変化している、ということになるだろう。
もっとも今の若い世代の方たちは、生まれてから一度も「好景気」を体験していないので、バブルを経験した世代とは、様々な価値観が当然違っていてもおかしくはないはずだ。

残念なことに、人は自分を中心にものごとを見る傾向がある。
このような文章を書いている私自身も、「自分を基準に様々なモノ・コトを見て・判断をしている」といっても、過言ではないと思っている。だからこそ、自分の価値観を含めて「疑い・問題の本質を探し、最善の策を考える」ということが、必要なのだと思う。
そしてそれらの解答は、HOW to本や自己啓発本などには、書かれていない。
自分で疑問に感じ、考えるしか解答は無いのだ。

今テレビ朝日系で放映されている「ハゲタカ」を、Tverで見ていると「ハゲタカ」と呼ばれる外資ファンド側の視点や思考が、この「疑い」、「鷹のような俯瞰の視点と虫のような現場の視点」という両方の視点で、邦銀の担当者を追い詰めているということが良く分かる。
残念ながら、NHK版の「ハゲタカ」を見ていないので、テレビ朝日版の「ハゲタカ」の話になってしまうのだが、邦銀の帳簿上の数字だけ、役員の意向ばかりに目を配っている、という点などは、ビジネスパーソンにとって一つの教訓かもしれない。
そして主人公が「あなたにとって、会社とは何か?」という問いかけは、ビジネスキャリアの有無に関係なく、常に心に留めておく問答のような気がする。


「最低賃金」について、考えてみる

2018-07-27 20:52:29 | ビジネス

厚労省の最低賃金審議会の小委員会が、全国平均で26円引き上げることを決めた。
朝日新聞:最低賃金 首都圏は1千円目前? 中小企業は悲鳴

リンク先の記事には、分かり易いように各県の最低賃金が図として紹介されている。
東京をはじめとする都市部と過疎が進んでいると言われる地域では、時給で200円以上の差がある。
この賃金差が、地方への就職の壁となっている部分もあるのでは?と、考えている。

このような地域における賃金の差の話題になると、地方は同居しているので、高額な家賃を払わなくても良いから当然、という意見が出てくる。
確かに、生活費の中で大きな割合を占める家賃を支払う・支払わないというのは、生活そのものにも大きく影響をする。
いわゆる「自由に使えるお金」という意味では、都市部よりも地方で暮らすほうが、多いのでは?という意見にもつながりやすい。
ただ、賃金を受け取る側だけの視点で、考えるとこれからの日本の産業や経済というものが、見えにくくなってしまうような気がする。
それを表しているのが、見出しの一部にある「中小企業は悲鳴」という言葉だ。

日本の企業の多くは、中小零細企業だと言われているのは、ご存じの通りだ。
元々資本面で脆弱な中小零細企業の場合、経費の中でも大きな負担となっているのは、おそらく「人件費」だろう。
そのうえ、大手企業の下請け・孫請け・曾孫請けのような中小企業が多い為、納入する製品価格は、とても低く抑えられている。
納入する製品価格を上げれば、仕事そのものを失ってしまうからだ。
そのような経営環境の中で、人件費の上昇というのは中小零細企業にとって死活問題にもなってしまう。

下請け・孫請け・曾孫請けからの製品価格を抑えたうえで、大手企業の多くが過去最高の収益を上げている、という報道などを見ると、中小零細企業で働く人たちからすると、多いに不満があるはずだ。
とすれば、日本の最低賃金を上げるためには、大手企業も自社利益を下請け・孫請け・曾孫請けにも分配(製品価格の値上げ)を積極的にする必要がある。
その結果として、日本の社会全体に「使えるお金」が増えるようにする必要がある、と思うのだ。

日本の経済指標とされるのは、多くの場合大手企業とされる。
確かに大手企業の業績の良さを見ると、日本経済が回復傾向にあるように見える。
しかし、下請け・孫請け・曾孫請けと呼ばれる中小零細企業そのものの業績回復がなされないと、「国民の景気実感」は良くならない。
最低賃金の引上げは、大手企業にとって下請け・孫請け・曾孫請けとなっている中小零細企業への利益の分配を促している、と大手企業は考える必要があるのではないだろうか?
そして、大手企業はその期待に、是非応えてほしいと思っている。


「ブランド」とは何か?改めて考えてみたい

2018-07-26 19:43:28 | マーケティング

Huffpostに、トランプさんのお嬢さんイバンカさんが、自身の名前を使ったファッションブランドを廃業する、という記事が掲載されている。
Huffpost:イバンカ・トランプ氏のブランド廃業へ「成長する力そがれた」

イバンカさんが展開していたファッションブランドについては、父親であるトランプさんが大統領に就任した時から様々な指摘がされていた。
特に、大統領顧問である女性が「皆、買いに行って!」といったり、父親であるトランプさん自身が「娘のブランドが、不当な扱いを受けている」などという発言があり、公私混同も甚だしい、と言われてきた。
それだけではなく、大統領の親族という関係からビジネス展開をすることに対しての、問題も指摘されてきたことは、ご存じの方も多いと思う。
それだけに、今回の廃業は当然という気がしない訳でもないのだが、この「廃業理由」が、チョッと引っかかるのだ。

確かに、父親であるトランプさんが大統領という職についた後、娘の事業の宣伝をするというのは、公私混同だし、親として応援したい気持ちはあっても、口にすべきことではない。
まして、大統領顧問という立場の人物まで使って「買って欲しい!」というのは、行き過ぎというか、いかがなもの?!ということになるのは、当然のことだろう。
だからといって、「ブランドの成長する力がそがれた」のは、指摘されているような問題だけなのだろうか?

日本よりも、ファッションビジネスが厳しいアメリカにおいて、これまで注目を浴びていたのは「トランプ氏の娘のブランド」だったからではないだろうか?
言い換えれば、話題性という点では他の新人デザイナーよりも注目を浴びやすい立場にあった、というだけなのでは?
しかしながら、トランプさんの人気に翳りが出始めれば、「トランプ氏の娘のブランド」もまた、世間の興味は薄れる。
薄れるどころか、批判的な見方をされても仕方ないだろう。
何故なら、娘の名前がついているブランド名であっても、父親である「トランプ氏」の存在を、感じさせるからだ。
そのようなことを考えると、「ブランドの成長する力がそがれた」のではなく、世間から興味が持たれなくなった、ということのほうが正しいのでは?という気がする。

そもそも「ブランド」とは、ある意味「社会からの信頼」というところもある。
誰もが知っている高級ブランドの「ルイ・ヴィトン」は、堅牢な旅行鞄として船旅が盛んだったころから、上流階級の人たちから信頼され、人気を勝ち得てきた。
それが「ルイ・ヴィトン」という企業の、社会的信頼となり、バッグメーカーとして「ブランド」を確立してきたはずだ。
今誰もが知っている、国内外を問わず「有名ブランド」と呼ばれる企業は、そのような「社会との信頼関係」があり、それが企業を大きく成長させ、一部の人たちだけが知っているブランドから多くの人達が知るブランドへと発展してきたはずなのだ。

だからこそ、「イバンカ・トランプ」というファッションブランドの「成長する力がそがれた」ということに、違和感を感じるのだ。
名前が付けば「ブランド」である、というのは「他者との区別をするための名前(あるいは印)」という点で、間違ってはいないが、それが「話題性(だけ)」によるものなのか?「社会との信頼関係」なのか?という違いは、とても大きいように思えるのだ。




杉田議員の言う「生産性」について、考える

2018-07-24 19:01:43 | 徒然

ここ数日、自民党の杉田水脈議員の「LGBTは生産性が無い」という雑誌の寄稿文について、様々な意見が出ている。
この方、Twitterなどで軽はずみ?なつぶやきで、炎上することが多いようだ。

さて、「LGBTは生産性が無い」という根拠となっているのは、「LGBTのカップルは、出産も子育てもしない」ということのようだ。
この「出産も子育てもしない=生産性が無い」ということになってしまうと、私のように出産子育てはおろか、事実婚を含む結婚すらしなかったとすると、ますます「生産性の無い人間」ということになってしまう。
私の知人の中には、結婚はしたが子どもに恵まれないまま、子どもを持つコトができなかった、という人も少なからずいる。
このようなカップルも、「生産性が無い」ということに、なってしまうのだろうか?

寄稿文の中には「不妊治療などは公的サポート」という趣旨のことが、書かれているようなので、不妊治療を継続的にしている場合は、違うということなのか?
とはいうものの、不妊治療も続けていれば妊娠できる、というわけではない。
ある年齢になれば、「妊娠を諦める」という選択を迫られることになる。
そのような辛い思いをしてきた人たちも「生産性が無い」と、言ってしまうのだろうか?
ちなみに、ご存じの方も多いと思うのだが、安倍総理のご夫婦にもお子さんはいらっしゃらない。
杉田さんの論法で言えば、安倍総理ご夫婦は「生産性が無い」ということに、なるのだろうか?

どうも杉田議員の言葉には、どこか言葉足らずのようなところがあるように感じてしまうのだ。
例えば、今現在は認められていない(と思われる)LGBTのカップルが、養子を迎え子育てをする、ということができるようになったら、それは「生産性のあること」となるのではないだろうか?
男女の両親の下で育てられることが、子どもの幸せなのか?と考えると、昨今の心痛む子供の虐待死などのニュースを見れば、一概には「子どもの幸せ」とは、言えないのでは?という気がする。

もう一つ考えたいのは、杉田議員の言う「LGBTに対する支援」という点だ。
「LGBTのカップルは、何らかの公的支援を受けている」ように、読み取れる。
しかも「生産性」と言う言葉と結びつけている為に、経済的支援を受けているかのような印象がある。
そのような社会制度は、いつ成立したのだろうか?
今社会で問題となっているのは「LGBT」という、性的マイノリティーの人たちに対する、人権を含む理解を進める、ということのように理解しているのだが、違うのだろうか?

LGBTの方たちであっても、社会人として仕事をし、納税をしていれば、生産性という点では社会的責任を果たしているのでは?
杉田議員の言う「生産性」ということは、LGBTの人たちに対する人権を含む社会的理解を求める広報的(あるいは啓発的)活動に対する、支出が、無駄である、ということを指しているのだろうか?
とすれば、やはりどこか言葉足らずという気がする。
何故なら、広報的(あるいは啓発的)活動そのものは、どのような対象の活動であっても「生産性」と結びつかないからだ。

上述したように、LGBTに対する社会的認識が深まり、LGBTのカップルが養子を迎え子育てをする、という社会になれば、それは杉田議員の言う「生産性のあること」になるだろうし、そのような社会の仕組みを国民の理解を得て、法的に整備する仕事が国会議員なのでは?と思うのだが、違うのだろうか?



「こども哲学」は、様々な人に役立つ(と思う)

2018-07-23 22:57:23 | 徒然

Huffpost に「こども哲学」についての記事があった。
Huffpost:「子ども哲学」は子どもの意見を聞き入れられない大人にすぐに役立つ

「こども哲学」という分野(というのだろうか?)がある、ということを初めて知った。
子ども向けというわけではないが、池田晶子さんの「14歳からの哲学」という名著がある。
「14歳」となっているが、中学生向きというよりも大人向きでは?といわれるほど、年齢に関係なく読み継がれている名著だ。
「こども哲学」というには、その延長線にある哲学なのか?と思っていたら、決してそうではないらしい。
「自分の意見を言い、他の人の意見を聞く」そして「対話する」という、文として書くと、何だか当たり前のような「対話を重視する」ということのようだ。
この「こども哲学」の「対話を重視する」という考えは、子どもよりも大人のほうが、重要視しなくてはならないのでは?という、気がしたのだ。

Huffpostの記事では、大人が「(こどもの)意見を聞く」ということが重要だ、と書かれているが、「人の意見を聞く」ということそのものは、相手が子どもに限らずどのような人であっても、重要なことなのではないだろうか?
例えば、企業の中で上司と部下という関係。
この場合、上司が大人で部下が子どもという立場になる。
会議などで、上司が部下に対して「横柄な態度」で、否定的な言葉を言ってはいないだろうか?
人は様々な経験を積んでくると、想像よりも予測のほうが先に考える傾向があるような気がする。
それが悪いわけではない。
経験値があるからこそ、未然に防げる失敗も数多くある。
と同時に、経験値が挑戦的な行動のブレーキとなっていることも、分かっている。
そして多くの場合、失敗を恐れて挑戦的な行動に移せないという場合のほうが、多いのではないだろうか?

今のように変化が速いと、挑戦的なコトをするチャンスは一度逃すと、次回はほぼ無い(に等しい)。
そのようなことも、大人である上司はわかっている(はずだ)が、リスクを取ることに不安を持ってしまい、つい「ダメ出し」のような発言をしてしまう、という場合が多いのでは?と、実体験も含めて感じている。

そう考えると親子のような関係だけではなく、「こども哲学」という手法は様々な場面で役に立つのではないだろうか?
それは「自分を意見や考えが違う人と対話する」ということが、基本だからだ。
そして今この「自分の意見や考えが違う人と対話する」ということ自体、おざなりになっているような気がする。
違う言い方をするなら「寛容性のある社会」ということにもなるだろうし、「考えることを重視する」ということにもなるかもしれない。

冒頭で紹介した、池田晶子さんの「14歳からの哲学」のサブタイトルは「考えるための教科書」だ。
AIが生活の中に入り込んでくる社会だからこそ、人が人らしくあるために「考え、意見を言い・聞く、そして対話する」という力が、これから先求められるのではないだろうか?
そして、その「考え・対話する」力が必要なのは、私たちおとなのような気がする。





ファッションビジネスの未来を考えたい

2018-07-22 14:30:00 | ビジネス

先日、バーバリーが42億円相当の売れ残り商品を焼却処分していた、というニュースがあった。
BBC:英バーバリー、42億円相当の売れ残り商品を焼却処分

記事の中で、バーバリー側は「自然環境に優しい方法で、処分をしている」と、コメントをしている。
このニュースを読んだ生活者の多くは、「焼却処分方法」について興味を持つ、と思ってバーバリー側はこのようなコメントをしたのだろうか?
とすれば、残念ながらバーバリー側は、今の生活者を理解していないのでは?ということだと思う。
おそらく多くの生活者は「環境に優しい焼却」などよりも、「42億円相当の売れ残り商品(を処分)」に興味を持ったのではないだろうか?

今回の焼却処分を行った理由として、「ブランド価値を下げないための処置」としている。
バーバリーだけではなく、人気ファッションブランドとなると「偽物ブランド」が、市場に登場する。
生活者の一部が「偽物ブランドでも良いから、そのブランドだと分かるモノが欲しい」という、欲求があるからだ。
あくまでも個人的な感覚
だが、「偽物であってもブランド品が欲しい」という気持ちそのものが分からない。
そもそも、自分の生活にそのようなブランド品を持ったところで、自分が変わるわけではない。
偽物であっても、ブランド品名が分かる商品を持つことで、そのようなブランド品を持っている人たちの仲間入りができる、という思い込みなだけだと考えている。
その「偽物ブランド」とは違う、ということを「価格維持」という方法で、ブランド価値を維持しようとしている、ということのようだ。
そしてこのような方法で、ブランド価値を維持している有名ファッションブランドは、何もバーバリーだけではない(と思っている)。

そのような「価格維持=ブランド価値の維持」という方法は、これからの生活者に受け入れられるのだろうか?という、疑問がある。
今回の「焼却処分」という方法で、これまで「バーバリー」のファンの中には、焼却処分を良しとしたバーバリーに違和感を感じた人たちもいたのでは?

バーバリー側の言うように「価格維持=ブランド価値の維持」と考えた時、ベストな方法は「受注生産」だろう。
パリの「オートクチュール(=オーダーメイド)」は、1着2千万円以上といわれているが、きらびやかな手仕事の刺繍やレース、縫い取りのビーズなどが必要ではないバーバリーであれば、今の販売価格+数万~10数万円仕立てることができるだろう。
何より「売れ残り商品」が発生しないので、服に関しては「焼却処分」をする必要がなくなる。
「焼却処分費」も軽減されるので、その分の「仕立て代」もわずかながら値下がるかもしれない。
とすれば、「プレタポルテ(=既製服)」であっても、受注生産限定という方法を検討する必要があるのでは?
バーバリーほどのブランド価値を持っている企業であれば、それは可能だと思うし、逆にそのような企業姿勢が「ブランド価値」をより高める切っ掛けとなるかもしれない。

以前、拙ブログでも「ファッション業界で起きている、大量の処分」について、エントリをした。
そう考えると、バーバリーだけの問題ではなくファストファッション・ブランドを含めた、「ファッション業界」全体の問題なのかもしれない。
それは、私たち生活者の「ファッション」に対する意識の問題とも繋がっている、と思っている。
ファストファッションが安いことには、それなりの理由がある。
途上国の女性(や子どもたち)が、安い人件費で、ブラック企業並みの労働環境で作っているからだ。
「ファッション」という華やかな世界であっても、それを支えている人たちの多くの生活環境にまで目を向けなくては、私たち生活者もファッションを楽しめない未来がやってくるかもしれない。





「土用の丑の日」と鰻

2018-07-20 18:45:03 | トレンド

今日は「土用の丑の日」。
スーパーだけではなく、コンビニでも「土用の丑の日・鰻」と銘打った売り場が、目立つ。
しかし、今年は例年以上に国産ウナギが不漁ということもあり、様々な「土用の丑の日」向けの商品が登場しているようだ。

その中で比較的一般的なのは、精進料理などでおなじみの「豆腐ととろろで作った、鰻の蒲焼もどき」だろう。
他にも、鰯やサンマなどの「蒲焼」なども、スーパーで見かける。
ここ数年は、鶏肉や豚肉などの「蒲焼」なども登場し、「それって、蒲焼っていうの?」という、疑問を持ちながらも、スーパーなどの売り場で見かけることが多くなった。
他にも「鯖の蒲焼」や「牛肉の蒲焼」なども登場している、と今朝のFM番組で話題になっていた。
Huffpost: 「土用の丑の日」に変化?不漁のウナギを避け、牛肉を販売する店も

そして今年の変わり種?は「蒲焼そっくりの練り製品」かもしれない。
どうやら、この「蒲焼そっくりの練り製品」、案外(といっては失礼だが)人気らしく、昨日のYahoo!のトピックスでは売り切れという話もあった。
Yahoo!神戸新聞NEXT:ウナギの”そっくりさん”練り製品「ほぼうなぎ好評 カネテツデリカフーズ

確かに、本物の国産鰻の蒲焼は、安くても一尾2000円前後している。
流石に、家族4人で一尾を食べ分ける、というわけにはいかないので、家計を預かる主婦(主夫)としては、代用できるものがあれば、代用したい、という気持ちになるのは十分わかる。
それでなくても、日本ウナギは絶滅危惧種に指定されている。
「種の保存」という意味でも、代用品で「蒲焼を食べた」という気分になる、という発想も十分アリだと思う。

余りにも「ウナギ不漁」とか「鰻の蒲焼高騰」というニュースがあったせいか?、ここにきて国産ウナギの販売が例年より落ちている、という話もある。
朝日新聞:不漁でも・・・国産ウナギ余っている「買い手つかぬ異常事態」
ならば、価格が下がるのか?といえば、そう簡単に値下がっているわけではない。
価格の維持と需要と供給のバランスの難しさ、というビジネスの問題を直接的に感じられる状況のようだ。

そもそも「土用の丑の日に鰻」という話は、江戸時代、夏に売り上げが落ちる鰻屋さんが平賀源内に相談をし、このような風習が定着した、とも言われている。
確かに、年々暑く、連日の猛暑・酷暑が続くと、少しでも元気になるようなものを食べたくなる。
鰻などは、その代表格のような食べ物として、社会的認知がされている。
ただ、「種の保存」という観点から考えれば、「土用の丑の日」だから「鰻の蒲焼を食べる」ということは、ナンセンス!ということになるかもしれない。
Huffpost:「土用の丑の日」は、もうやめよう。絶滅危機のウナギを考える
それでも「鰻の蒲焼を食べた」という満足感を味わうアイディアとして、「鰻のたれご飯」という方法もあるかもしれないし、「土用の丑の日=鰻の蒲焼」が定着する以前の「土用の丑の日は『う』が付く食べ物を食べて、暑気払い」という食習慣が復活するかもしれない。





浅利慶太さんが残したもの

2018-07-19 19:26:22 | アラカルト

昨日、劇団四季の創立者の一人で、日本のミュージカル人気をつくった、演出家の浅利慶太さんの訃報があった。
私自身は、劇団四季のファンではなく、実際劇団四季のミュージカルを見たこともない。
ただ、劇団四季という劇団そのものが、これまでの劇団とはずいぶん違うということだけは、以前から知っていた。
その「違うもの」とは何か?といえば、劇団員が舞台に立つことで生活ができるような劇団をつくってきた、という点だ。

「劇団員が舞台に立つことで生活ができる」と聞くと、「他の劇団は違うのか?」と思われる方も多いと思う。
今のような大所帯の劇団となる前の劇団四季は、舞台に立つだけで生活ができるような状況ではなかった、という。
日本の小劇団と呼ばれる劇団だけではなく、それなりの劇団の多くは劇団員が舞台に立つだけで、生活をしていること自体難しいといわれている。
そのため、テレビドラマや映画などからオファーがあれば積極的に出演をする、という方も多いという話を聞いたコトがある。
若手劇団員となれば、アルバイトをしながら劇団の舞台に立つ、ということが当たり前だという話も聞いたコトがある。
もちろん、宝塚のように自前の舞台を持ち、数多くのファンがいて、音楽学校で俳優を養成する、というようなところもあるが、多くの劇団はそのような環境ではない、といわれている。

だからこそ、浅利慶太さんが劇団四季を旗揚げした時「舞台に立つことで生活ができる劇団」というのは、途方もない夢物語だったのだ。
それを実現できたのは、ファンクラブの存在だと言われている。
ファンクラブがあるから、そのような経営ができたのか?ということではない。
ファンクラブをつくることによって、安定的な収入を得るということが劇団として可能になった、ということなのだ。
もちろん、演目によってファンクラブの人数が増えたり・減ったりしては経営として安定しないので、オリジナルミュージカルだけではなく、積極的に海外で話題となったミュージカル作品も上演してきた。
一例をあげるまでもなく、「CATS」や「ミス・サイゴン」、「エビータ」などは、その成功例だろう。

と同時に、話題づくりも上手かったと思う。
「ミス・サイゴン」では、オーディションでアイドルであった故本田美奈子さんを抜擢。
話題にもなったし、本田さんにとっては大きな転換となる舞台となった。
本田さんのように、劇団員ではなくオーディションで抜擢される人もいれば、劇団員から映画やドラマへと進出し、人気になられた方もいる。
島田歌穂さんや久野綾希子さん、鹿賀丈史さんなどは、劇団四季の舞台から映画などに進出された代表的な方だろう。

ファンクラブに入会することで、このような人気ミュージカルのチケットが確実に良い席で見られる、というメリットが、劇団四季のファンクラブ会員の増加にもつながり、それがチケットの売り上げにも大きく関与する、そして舞台前の話題づくりという一つのシステムを劇団という文化事業に持ち込んだことが、浅利慶太さんの功労ということになるのだと思う。

これから先、浅利慶太さんのような舞台人が登場するかどうかはわからない。
好きか・嫌いかではなく劇団四季のようなミュージカル劇団は、これから先出てこないような気がする。


「赤坂自民亭」と豪雨被害。意識のズレはどこにあるのか?

2018-07-17 20:36:39 | 徒然

西日本を襲った「平成30年7月豪雨災害」。
酷暑の中、必死に復旧活動をされている方々が、数多くいらっしゃる。
昨日までの3連休で、片づけのボランティアに行かれた方もいらっしゃるはずだ。

豪雨による避難勧告などが出された後、東京では自民党の国会議員さんたちが集まりにぎやかな酒席があったようだ。
その様子をご丁寧に、ご自身のSNSにアップしたことで、世間から非難が続出したことは、ご存じの方も多いと思う。
このような甚大な災害が発生している、という状況でなければ、どのような集まりであろうと、国会議員さんが酒席に参加して、大いに盛り上がることは、問題ないと思う。

ただ、今回の場合は、被災地では既に避難勧告が出ているような状況だったのだ。
にもかかわらず、能天気にお酒で盛り上がっている写真をSNSにアップする、という感覚のズレは「半端ない」と思う。
国会議員さんたちにとって、自分の選挙区ではないから関係ない!と思っていらっしゃった、ということだろうか?

そして今日、安倍さんがこのような自民党の酒席について、国会議員の態度としていかがなものか?と、反省を求めたのか?と思えば、まったく違っていたようだ。
毎日新聞:安倍首相「自民亭」出席問題なし 投稿の西村氏には注意

この記事を読むと(同様の記事が他紙にもあり)、安倍さんにとって、豪雨による避難勧告などが出ているても「自民亭」で、盛り上がっていることにはお咎めなし、ということのようだ。
代わりに、SNSへ写真付きで投稿したことが、問題だったようだ。
被災地を含む多くの国民の感覚と、どこかズレているような気がするのは私だけではないと思う。

「自民亭」で盛り上がる前、気象庁は「大雨に関する警戒」を発表している。
国会議員たるもの、このような情報は逐次収集し「万が一」に備え、秘書さんたちに何等かの指示を出し続け、いざとなったら現地への災害支援の具体的な方法などを検討するのが、当たり前なのでは?という気がしていたのだが、この「自民亭」に集まった国会議員さんたちは違うようだ。
そして、そのような行動を起こさなかった国会議員さんたちに対して「万全の体制を整えていた」と、安倍さんは思っているらしい。

安倍さん自身も、この会に参加されていたのだから、そう言わざる得ないのかもしれないのだが、今回被災した地域の中には安倍さんの地元山口県も含まれている。
安倍さんが伊勢志摩サミットで、わざわざ安倍さんの地元の酒蔵旭酒造の「獺祭」をオバマさんへのお土産として出したのは、有名な話だ。
その「獺祭」の蔵が、被災し酒造りが難しいというほどの被害が出ているのだ。
大盛り上がりの酒席で、このような情報を知らなかったとしても、このような言葉を安倍さん自身が言ってしまうことにも、違和感がある。
例え、「赤坂自民亭」で盛り上がっていて、後で被災状況を知ったとしても、「酒席は問題なかった」という発言は、いかがなものだろう?

今回の安倍さんの発言を意地悪く解釈するなら、「大雨警戒が出されていても酒席はOK。SNSへの投稿は世間から非難を買うからダメ」といっているように思えるのだ。

昭和の国会議員の代表格ともいえる田中角栄さんだったら、このような時どのような行動をしただろう?
そして、自民党議員にどのように話すだろう?
田中角栄さんが、素晴らしい国会議員であったか・なかったかではない。
少なくとも、昭和の頃の国会議員さんには、大雨警戒が出されている最中に、お酒を飲んで盛り上がるような人たちはいなかったのでは?という、気がするだけだ。