都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「藤田嗣治展」 東京国立近代美術館 4/22
東京国立近代美術館(千代田区北の丸公園3-1)
「生誕120年 藤田嗣治展 -パリを魅了した異邦人- 」
3/28-5/21
しばらく前のことになりますが、東京国立近代美術館で藤田嗣治の大回顧展を観てきました。早くも今年一番、話題となりそうな展覧会です。
展示は時系列に沿って丁寧に構成されています。独特の乳白色を確立した「エコール・ド・パリ」時代から、中南米、または日本における色の時代、さらには戦後再びパリへと帰って多彩な作品を制作した時代まで、ともかくありとあらゆる藤田が揃っています。まさに待ちに待ったとでも言えるような、藤田の全貌が明らかになる内容でした。
さて、藤田はともかく何かと曰くの語られる画家です。戦争画や、戦後の日本との関係。その奔放な生き様は、時に否定されてきたのも事実でしょう。しかし私は今回、彼を取り巻いた社会背景や生き様を無視して、ただひたすらに作品に見入ることにしました。もちろんこのような見方はある種の危険を孕むのかもしれません。そしていつも以上の盲目的な感想。それをお許しいいただくことを願って先に進めたいと思います。前置きが長くなりました。
作品を通り一遍概観してまず感じたのは、彼が美術界での地位を確立した、あの乳白色の時代(エコール・ド・パリ)よりも、中南米旅行を経た色の時代の方がより魅力的であるということです。藤田の最大の個性とは、もちろんまずあの乳白色が挙げられますが、私はそれよりもむしろ、面相筆で描いたような細線による象りの方をとりたいと思います。エコール・ド・パリ時代の裸婦の美しさは否定しませんが、どれも表情がのっぺりしていて、全て人形のように見えてくるのが気になりました。(もちろんそれも独自性の表れでありますが。)この時期の作品では、例えば「タピスリーの裸婦」(1923)の背景や、「アンナ・ド・ノアイユの肖像」(1926)における衣装の精巧な描写が非常に良く映えています。また「裸婦」における淡い色合いの草花模様の美しさや、「五人の裸婦」(1923)で見られる裸婦の立った木床の質感も見事です。乳白色よりも、これらの部分に私は強く惹かれました。
中南米、もしくは日本で制作された作品には、総じてその場の空気を伝えるような生気が感じられます。「町芸人」(1932)で踊るピエロたちや、「黒人の女」(1932)における大きくクローズアップされた女性の隆々とした体。それらが大胆な、また動きのある構図にて描かれている。また「北平の力士」(1935)での堂々とした三名の力士と、その周囲で群がる男女の姿。細い線による描写ながらも、巧みな色の塗り合わせによって、乳白色の時期には殆ど見られなかった人物の立体感が上手く表現されています。また彼ら、彼女らの目にも注目です。人形どころか、まさに今を必至に生きているというリアルな生活感がにじみ出ています。ここも見逃せない部分です。
生活感の発露という点においては、自らの画室の描いた「我が画室」(1938)や「自画像」(1936)も外せない作品でしょう。「我が画室」は油彩画とは思えないような細かいタッチにて、家の柱から囲炉裏、さらには箪笥の木の温もりまでが器用に表現されています。また「自画像」では、ラフな服装をした藤田が、くわえ煙草をしながらダラッとくつろいでいます。彼の足先に、こまごまと置かれた食べ散らかしのお膳。急須や茶わんの質感が素晴らしいのはもちろんのこと、どこか日本画的な素朴な味わいも好印象です。胸元から顔を出す猫の表情も鋭い。また箪笥や土瓶が、かなり写実的に見えるのも美しいと思いました。
藤田が沖縄で描いた二つの作品も印象に残ります。「客人(糸満)」(1938)における赤瓦屋根の町並みと雲の渦巻く大空。そして口を尖らしながら、扇子で堂々と風を送る女性の凛とした表情。さらにはその衣装のゴワゴワとした質感。「孫」(1938)からは、南国特有の蒸せるような暑い空気が、葉から滲み出す草の匂いと交じり合って伝わってきます。もちろん老女や子どもたちも、まさにその土地に根付いているかのような、全く浮き足立っていない存在感を見せていました。これは良い作品です。
さてこの展覧会で最も感銘させられたのは、いわゆる戦争画と括られた5点の作品でした。「アッツ島玉砕」(1943)だけは、以前この美術館での常設展示でも見たことがありますが、他の4点は今回が初めてです。ともかくどの作品も異常なまでに良く描けている。銃剣や装備品の質感、特に「神兵の救出到る」(1944)での精緻なタッチによる室内の光景は目を見張るものがあります。外の光がにじみ出しているブラインド、飾られた巨大な西洋画、置き時計や酒瓶の数々。テーブルの下で隠れた猫もまたしおらしい。兵士が入り込んで来た扉からは大きく光が差し込んでいますが、それに反射するかのようにして描かれた床のメタリックな質感は非常に優れています。褐色にてまとめられた画面が、驚くほどの奥行き感を見せながら美しく描かれている。その構図感とデッサン力にはただ唸るしかありません。
「血戦ガダルカナル」(1944)は、おそらく殆どリアリティーのない戦場の姿を描きながらも、あまりも惨たらしい、または人間が猛獣と化した時の恐ろしさをひしひしと伝える作品です。足で顎を蹴り飛ばしたり、剣で首筋を突き刺す様子。体を大きくよじらせて倒れゆく兵士のパックリ開いた口と、見開いた、いや剥き出しとなったなった目。これは人間の顔なのでしょうか。その一方で既に死を迎えた兵士に見られる平安な表情。両手を伸ばして静かに目を閉じています。海の彼方にて光る稲光。それは彼を静かに迎える救済の光のようにも見えました。殺戮の地獄絵図と、それを超越するかのようなこの一筋の光。後の宗教画よりも祈りの気持ちを思わせます。言葉を失いました。
さて戦争画のあとは、また一転した、新たな藤田の世界が待ち構えていました。ここでは宗教画が多く並びますが、それらは藤田の敬虔な祈りの表れによるものというより、磨き抜かれた彼の凄まじい画力が誇示されている作品のようにも見えます。どんな画題でもこなしてしまうその才能。それを一番感じることが出来るのが、再びパリへ舞い戻ったこの時期の作品かもしれません。ともかく器用に、全てを描きこなしていくのです。
ここでは、今年2月に東京美術倶楽部で行われた展覧会にも出ていた、「私の夢」(1947)がまず目立ちます。鳩や鼠、それに犬や猫などが踊る輪の中に眠った乳白色の裸女。ただ同じように乳白色と言っても、エコール・ド・パリ期の作品と比べて深みのある色に仕上がっています。少しピンクの交じった白。「夢」(1954)の裸女においてもそれは同様です。ベットに被せられたカーテンの模様がまた実に細かく描かれているのですが、どこかほんのり赤らんだ女性の体には魅せられます。色の時代を経た乳白色の深み。好き嫌いの問題かもしれませんが、私はこの時期の作品をとりたいです。
展覧会のハイライト的な作品がこのセクションにありました。それはパンフレットにも掲載されている「カフェにて」(1949-63)です。ツンとした表情を見せながら、物思いにふけた女性。大きなソファに深く腰掛けて、肘をテーブルに立てています。前に置かれているのは手紙でしょうか。テーブルに並べられたインク瓶とペン。これから書き物をしようとしているのかもしれません。やはりそれは恋文…。彼女の表情はやや不満げにも見えます。上手くいかない男との関係。「私が悪いのかしら…。」と言わんばかりの口。妄想を膨らませ過ぎました。ともかく非常に良く描けた作品です。特に画面全体を覆う、黄色とも金色ともとれる絵具の質感が見事でした。「ジャン・ロスタンの肖像」(1955)と合わせて、「乳白色の藤田」と「色の時代を超えた藤田」の二つの美感が統合して昇華したような作品です。これは素晴らしい。一推しです。
宗教画でまず目を引いたのは、劇画的なタッチで、その主題からして相応しくないような明るい色で描かれた「黙示録」(1960)の3枚でした。一見、何やらパロディーとして描かれているのかと思うほど軽やかな雰囲気ですが、各場面の主題に沿ってしっかりと描かれているとのこと。特に目立った「新しいエルサレム」(1960)も、独特のアニメ調による魔物や人物にて、まさにイエスが再臨したその構図を巧みに表現しています。近づいて見ると、随分と可愛らしい魔物がひそんだりしたりするのはご愛嬌ですが、神殿に押しつぶされて崩壊する地上の様子は激しく描かれています。全体としてパステルタッチな味わいが、この作品に軽妙な気配を生み出している。やや異質な作品でした。
藤田自身が作中に登場する「礼拝」(1962-63)も興味深い作品ですが、最後に挙げたいのは、宗教画にて最も美しい女性が描かれていた「マドンナ」(1962、63)の2点です。聖母マリアがイエスを抱いていると思われる構図と、もう1点、手を胸に当てて祈るような仕草を見せる女性の2作品。前者の方が作品としての完成度が高いようにも見えますが、私としては素朴な後者の味わいにより惹かれました。大きな目をぱっちりと見開いて見つめている。彼女の顔立ちは、先に取り上げた「客人」における気丈な女性の姿と重なります。内なる強い意思を感じさせる作品でした。
この展覧会で、私がこれまで抱いていた藤田のイメージ(乳白色と一部の戦争画。)は吹き飛びました。中南米を経由して生み出された色の妙味と、時代やジャンル(エコール・ド・パリや戦争画)を超えて見られる細線による類い稀な画力。それらが特に印象深いのです。(ただ、好きかどうかと問われれば、そうでないと答えるかもしれません。)会場のあちこちで見られた自画像は、彼の強烈な自意識の表れなのでしょうか。恐るべき才能を持った、ただひたすらに絵を描き続けた芸術家。戦争画の展示コーナーの照明などにはやや不可解な点もありましたが、彼にまとわりつく言説を取り払うような、まさに等身大の藤田を詳らかにする展覧会だったと思います。混雑必至ではありますが是非おすすめしたいです。
「生誕120年 藤田嗣治展 -パリを魅了した異邦人- 」
3/28-5/21
しばらく前のことになりますが、東京国立近代美術館で藤田嗣治の大回顧展を観てきました。早くも今年一番、話題となりそうな展覧会です。
展示は時系列に沿って丁寧に構成されています。独特の乳白色を確立した「エコール・ド・パリ」時代から、中南米、または日本における色の時代、さらには戦後再びパリへと帰って多彩な作品を制作した時代まで、ともかくありとあらゆる藤田が揃っています。まさに待ちに待ったとでも言えるような、藤田の全貌が明らかになる内容でした。
さて、藤田はともかく何かと曰くの語られる画家です。戦争画や、戦後の日本との関係。その奔放な生き様は、時に否定されてきたのも事実でしょう。しかし私は今回、彼を取り巻いた社会背景や生き様を無視して、ただひたすらに作品に見入ることにしました。もちろんこのような見方はある種の危険を孕むのかもしれません。そしていつも以上の盲目的な感想。それをお許しいいただくことを願って先に進めたいと思います。前置きが長くなりました。
作品を通り一遍概観してまず感じたのは、彼が美術界での地位を確立した、あの乳白色の時代(エコール・ド・パリ)よりも、中南米旅行を経た色の時代の方がより魅力的であるということです。藤田の最大の個性とは、もちろんまずあの乳白色が挙げられますが、私はそれよりもむしろ、面相筆で描いたような細線による象りの方をとりたいと思います。エコール・ド・パリ時代の裸婦の美しさは否定しませんが、どれも表情がのっぺりしていて、全て人形のように見えてくるのが気になりました。(もちろんそれも独自性の表れでありますが。)この時期の作品では、例えば「タピスリーの裸婦」(1923)の背景や、「アンナ・ド・ノアイユの肖像」(1926)における衣装の精巧な描写が非常に良く映えています。また「裸婦」における淡い色合いの草花模様の美しさや、「五人の裸婦」(1923)で見られる裸婦の立った木床の質感も見事です。乳白色よりも、これらの部分に私は強く惹かれました。
中南米、もしくは日本で制作された作品には、総じてその場の空気を伝えるような生気が感じられます。「町芸人」(1932)で踊るピエロたちや、「黒人の女」(1932)における大きくクローズアップされた女性の隆々とした体。それらが大胆な、また動きのある構図にて描かれている。また「北平の力士」(1935)での堂々とした三名の力士と、その周囲で群がる男女の姿。細い線による描写ながらも、巧みな色の塗り合わせによって、乳白色の時期には殆ど見られなかった人物の立体感が上手く表現されています。また彼ら、彼女らの目にも注目です。人形どころか、まさに今を必至に生きているというリアルな生活感がにじみ出ています。ここも見逃せない部分です。
生活感の発露という点においては、自らの画室の描いた「我が画室」(1938)や「自画像」(1936)も外せない作品でしょう。「我が画室」は油彩画とは思えないような細かいタッチにて、家の柱から囲炉裏、さらには箪笥の木の温もりまでが器用に表現されています。また「自画像」では、ラフな服装をした藤田が、くわえ煙草をしながらダラッとくつろいでいます。彼の足先に、こまごまと置かれた食べ散らかしのお膳。急須や茶わんの質感が素晴らしいのはもちろんのこと、どこか日本画的な素朴な味わいも好印象です。胸元から顔を出す猫の表情も鋭い。また箪笥や土瓶が、かなり写実的に見えるのも美しいと思いました。
藤田が沖縄で描いた二つの作品も印象に残ります。「客人(糸満)」(1938)における赤瓦屋根の町並みと雲の渦巻く大空。そして口を尖らしながら、扇子で堂々と風を送る女性の凛とした表情。さらにはその衣装のゴワゴワとした質感。「孫」(1938)からは、南国特有の蒸せるような暑い空気が、葉から滲み出す草の匂いと交じり合って伝わってきます。もちろん老女や子どもたちも、まさにその土地に根付いているかのような、全く浮き足立っていない存在感を見せていました。これは良い作品です。
さてこの展覧会で最も感銘させられたのは、いわゆる戦争画と括られた5点の作品でした。「アッツ島玉砕」(1943)だけは、以前この美術館での常設展示でも見たことがありますが、他の4点は今回が初めてです。ともかくどの作品も異常なまでに良く描けている。銃剣や装備品の質感、特に「神兵の救出到る」(1944)での精緻なタッチによる室内の光景は目を見張るものがあります。外の光がにじみ出しているブラインド、飾られた巨大な西洋画、置き時計や酒瓶の数々。テーブルの下で隠れた猫もまたしおらしい。兵士が入り込んで来た扉からは大きく光が差し込んでいますが、それに反射するかのようにして描かれた床のメタリックな質感は非常に優れています。褐色にてまとめられた画面が、驚くほどの奥行き感を見せながら美しく描かれている。その構図感とデッサン力にはただ唸るしかありません。
「血戦ガダルカナル」(1944)は、おそらく殆どリアリティーのない戦場の姿を描きながらも、あまりも惨たらしい、または人間が猛獣と化した時の恐ろしさをひしひしと伝える作品です。足で顎を蹴り飛ばしたり、剣で首筋を突き刺す様子。体を大きくよじらせて倒れゆく兵士のパックリ開いた口と、見開いた、いや剥き出しとなったなった目。これは人間の顔なのでしょうか。その一方で既に死を迎えた兵士に見られる平安な表情。両手を伸ばして静かに目を閉じています。海の彼方にて光る稲光。それは彼を静かに迎える救済の光のようにも見えました。殺戮の地獄絵図と、それを超越するかのようなこの一筋の光。後の宗教画よりも祈りの気持ちを思わせます。言葉を失いました。
さて戦争画のあとは、また一転した、新たな藤田の世界が待ち構えていました。ここでは宗教画が多く並びますが、それらは藤田の敬虔な祈りの表れによるものというより、磨き抜かれた彼の凄まじい画力が誇示されている作品のようにも見えます。どんな画題でもこなしてしまうその才能。それを一番感じることが出来るのが、再びパリへ舞い戻ったこの時期の作品かもしれません。ともかく器用に、全てを描きこなしていくのです。
ここでは、今年2月に東京美術倶楽部で行われた展覧会にも出ていた、「私の夢」(1947)がまず目立ちます。鳩や鼠、それに犬や猫などが踊る輪の中に眠った乳白色の裸女。ただ同じように乳白色と言っても、エコール・ド・パリ期の作品と比べて深みのある色に仕上がっています。少しピンクの交じった白。「夢」(1954)の裸女においてもそれは同様です。ベットに被せられたカーテンの模様がまた実に細かく描かれているのですが、どこかほんのり赤らんだ女性の体には魅せられます。色の時代を経た乳白色の深み。好き嫌いの問題かもしれませんが、私はこの時期の作品をとりたいです。
展覧会のハイライト的な作品がこのセクションにありました。それはパンフレットにも掲載されている「カフェにて」(1949-63)です。ツンとした表情を見せながら、物思いにふけた女性。大きなソファに深く腰掛けて、肘をテーブルに立てています。前に置かれているのは手紙でしょうか。テーブルに並べられたインク瓶とペン。これから書き物をしようとしているのかもしれません。やはりそれは恋文…。彼女の表情はやや不満げにも見えます。上手くいかない男との関係。「私が悪いのかしら…。」と言わんばかりの口。妄想を膨らませ過ぎました。ともかく非常に良く描けた作品です。特に画面全体を覆う、黄色とも金色ともとれる絵具の質感が見事でした。「ジャン・ロスタンの肖像」(1955)と合わせて、「乳白色の藤田」と「色の時代を超えた藤田」の二つの美感が統合して昇華したような作品です。これは素晴らしい。一推しです。
宗教画でまず目を引いたのは、劇画的なタッチで、その主題からして相応しくないような明るい色で描かれた「黙示録」(1960)の3枚でした。一見、何やらパロディーとして描かれているのかと思うほど軽やかな雰囲気ですが、各場面の主題に沿ってしっかりと描かれているとのこと。特に目立った「新しいエルサレム」(1960)も、独特のアニメ調による魔物や人物にて、まさにイエスが再臨したその構図を巧みに表現しています。近づいて見ると、随分と可愛らしい魔物がひそんだりしたりするのはご愛嬌ですが、神殿に押しつぶされて崩壊する地上の様子は激しく描かれています。全体としてパステルタッチな味わいが、この作品に軽妙な気配を生み出している。やや異質な作品でした。
藤田自身が作中に登場する「礼拝」(1962-63)も興味深い作品ですが、最後に挙げたいのは、宗教画にて最も美しい女性が描かれていた「マドンナ」(1962、63)の2点です。聖母マリアがイエスを抱いていると思われる構図と、もう1点、手を胸に当てて祈るような仕草を見せる女性の2作品。前者の方が作品としての完成度が高いようにも見えますが、私としては素朴な後者の味わいにより惹かれました。大きな目をぱっちりと見開いて見つめている。彼女の顔立ちは、先に取り上げた「客人」における気丈な女性の姿と重なります。内なる強い意思を感じさせる作品でした。
この展覧会で、私がこれまで抱いていた藤田のイメージ(乳白色と一部の戦争画。)は吹き飛びました。中南米を経由して生み出された色の妙味と、時代やジャンル(エコール・ド・パリや戦争画)を超えて見られる細線による類い稀な画力。それらが特に印象深いのです。(ただ、好きかどうかと問われれば、そうでないと答えるかもしれません。)会場のあちこちで見られた自画像は、彼の強烈な自意識の表れなのでしょうか。恐るべき才能を持った、ただひたすらに絵を描き続けた芸術家。戦争画の展示コーナーの照明などにはやや不可解な点もありましたが、彼にまとわりつく言説を取り払うような、まさに等身大の藤田を詳らかにする展覧会だったと思います。混雑必至ではありますが是非おすすめしたいです。
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「熱狂の日音楽祭」のあとは「ぶらあぼ」で!
まるで「ぶらあぼ」関係者か、はたまた完全なる提灯持ちの記事になってしまいそうですが、「熱狂の日音楽祭」の公式アフターガイドブックとして刊行された「ぶらあぼ」の最新号が非常に良く出来ています。これはおすすめです。(もちろんこのガイドブックも、当然ながらいつも通り無料です!)
今回の「ぶらあぼ」で特に重要な点は、これが単なる「熱狂の日」ガイドブックではなく、あくまでも「熱狂の日」後の情報についてまとめた冊子だと言うことです。(だからこそ「アフターガイドブック」なのです。)中をペラペラとめくってみると、まずは青島宏志さんのモーツァルトに関する軽妙洒脱なエッセイや、モーツァルトと脳の関係を研究なさっておられる茂木氏のインタビュー記事、(こちらはあまり興味がないのですが…。)などが掲載されていますが、それに続くのが、今月以降、年内までに予定されているモーツァルト関連のコンサート情報です。それが各月毎に丁寧にまとめられています。つまり8月はどんなモーツァルトのコンサートがあるのか、または、そう言えば10月はハーディングがモーツァルトを振るのかということなどが一目瞭然にて分かる仕掛け。これは「クラオタ」的にも貴重な情報です。このような情報の括り方は大変に有難い。ここだけでもこの冊子を貰う価値が十分にあります。
さらにその記事に続くのが、「熱狂の日音楽祭」に登場するアーティスト情報です。これもまさにぴあの公式ガイド(1000円。高い!)が顔負けなほどに充実しています。また、首都圏のオーケストラやホールの基本情報など、まさに「保存版」に相応しいような内容も必見です。そして親子向けのコンサート情報や、他の音楽祭の情報も、決して完全とは言えないものの網羅しています。元々「ぶらあぼ」は、その情報量や見やすさなどの点で他のこの手の雑誌を凌駕していますが、(本命対抗馬はチケットクラシックでしょうか。)今回の特別号もフリーペーパーとは思えない充実度でした。それにしてもまさか「熱狂の日」の「ぶらあぼ」特別号が、「アフターガイド」としてまとめられるとは思いもよりません。(ぴあの公式ガイドとの住みわけをはかったのでしょうか。)
クラシックコンサートにおいて何かと付きまとうマナーの問題についても、さり気なく、しかし手厳しくまとめられています。服装や拍手のことや、「ブラーヴォ!」のタイミングなど、良く語られる有りがちなマナーについても触れられていますが、アメのセロハンの音やいびきにまで言及されているのはさすが(?!)です。もちろん「熱狂の日」は気軽にクラシック音楽へ親しむイベントかと思いますので、あまり目くじらたてるのもどうかとは思いますが、アメのクシュクシュ音までしっかり書いてあるのには、影ながら拍手を送りたい気持ちかもしれません…。
さらに気の早い話ではありますが、「ぶらあぼ」によれば、来年の「熱狂の日」のテーマは「国民学派」ということで固まりつつあるとのことです。シベリウスやスメタナ、ムソルグスキーやバルトークなどでまとまるのでしょうか。まだモーツァルトの「熱狂の日」も聞いていないのに、もう来年が待ち遠しくなってきました。何にはともあれ、会場へお出向きの際は、是非「ぶらあぼ」を手に取ってみることをおすすめします。(やはり提灯持ちのエントリになってしまいました…。)
*ちなみに5/3の「熱狂の日」はこのような雰囲気でした。(17時頃)
私が会場を通ったのが、夕方以降だったからかもしれませんが、昨年よりもスペースに若干余裕があるようにも見えました。また昨年、大変な混乱を見せていたボックスオフィスもスムーズです。(但し、これは当日券が殆どAホールしか残っていないからなのかもしれません。)「ぶらあぼ」もこのボックスオフィスに積んでありました。6日までどのように盛り上がっていくでしょうか。目が離せません。
今回の「ぶらあぼ」で特に重要な点は、これが単なる「熱狂の日」ガイドブックではなく、あくまでも「熱狂の日」後の情報についてまとめた冊子だと言うことです。(だからこそ「アフターガイドブック」なのです。)中をペラペラとめくってみると、まずは青島宏志さんのモーツァルトに関する軽妙洒脱なエッセイや、モーツァルトと脳の関係を研究なさっておられる茂木氏のインタビュー記事、(こちらはあまり興味がないのですが…。)などが掲載されていますが、それに続くのが、今月以降、年内までに予定されているモーツァルト関連のコンサート情報です。それが各月毎に丁寧にまとめられています。つまり8月はどんなモーツァルトのコンサートがあるのか、または、そう言えば10月はハーディングがモーツァルトを振るのかということなどが一目瞭然にて分かる仕掛け。これは「クラオタ」的にも貴重な情報です。このような情報の括り方は大変に有難い。ここだけでもこの冊子を貰う価値が十分にあります。
さらにその記事に続くのが、「熱狂の日音楽祭」に登場するアーティスト情報です。これもまさにぴあの公式ガイド(1000円。高い!)が顔負けなほどに充実しています。また、首都圏のオーケストラやホールの基本情報など、まさに「保存版」に相応しいような内容も必見です。そして親子向けのコンサート情報や、他の音楽祭の情報も、決して完全とは言えないものの網羅しています。元々「ぶらあぼ」は、その情報量や見やすさなどの点で他のこの手の雑誌を凌駕していますが、(本命対抗馬はチケットクラシックでしょうか。)今回の特別号もフリーペーパーとは思えない充実度でした。それにしてもまさか「熱狂の日」の「ぶらあぼ」特別号が、「アフターガイド」としてまとめられるとは思いもよりません。(ぴあの公式ガイドとの住みわけをはかったのでしょうか。)
クラシックコンサートにおいて何かと付きまとうマナーの問題についても、さり気なく、しかし手厳しくまとめられています。服装や拍手のことや、「ブラーヴォ!」のタイミングなど、良く語られる有りがちなマナーについても触れられていますが、アメのセロハンの音やいびきにまで言及されているのはさすが(?!)です。もちろん「熱狂の日」は気軽にクラシック音楽へ親しむイベントかと思いますので、あまり目くじらたてるのもどうかとは思いますが、アメのクシュクシュ音までしっかり書いてあるのには、影ながら拍手を送りたい気持ちかもしれません…。
さらに気の早い話ではありますが、「ぶらあぼ」によれば、来年の「熱狂の日」のテーマは「国民学派」ということで固まりつつあるとのことです。シベリウスやスメタナ、ムソルグスキーやバルトークなどでまとまるのでしょうか。まだモーツァルトの「熱狂の日」も聞いていないのに、もう来年が待ち遠しくなってきました。何にはともあれ、会場へお出向きの際は、是非「ぶらあぼ」を手に取ってみることをおすすめします。(やはり提灯持ちのエントリになってしまいました…。)
*ちなみに5/3の「熱狂の日」はこのような雰囲気でした。(17時頃)
私が会場を通ったのが、夕方以降だったからかもしれませんが、昨年よりもスペースに若干余裕があるようにも見えました。また昨年、大変な混乱を見せていたボックスオフィスもスムーズです。(但し、これは当日券が殆どAホールしか残っていないからなのかもしれません。)「ぶらあぼ」もこのボックスオフィスに積んでありました。6日までどのように盛り上がっていくでしょうか。目が離せません。
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