都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「マリオ・ジャコメッリ展」 東京都写真美術館
東京都写真美術館(目黒区三田1-13-3 恵比寿ガーデンプレイス内)
「知られざる鬼才 マリオ・ジャコメッリ展」
3/15-5/6
イタリア北東部のセニガリアに生まれ、生涯に渡ってその近辺を撮り続けたという写真家、マリオ・ジャコメッリ(1950-2000)の業績を回顧します。写美で開催中の表題の展覧会へ行ってきました。
ジャコメッリという名を知ったのは今回が初めてでしたが、まず印象深いのはモノクロームの写真における、目も覚めるような白と、空間を大胆に引き裂く黒との烈しいコントラストです。彼の作品にはモノクロにありがちな温かみは少なく、むしろ鏡の表面を見るかのようなシャープな美感が前面に押し出されています。また、とりわけ風景写真に見るシュールな感触も独特です。丘の畝に大地の「皺」を見い出す「自然について知っていること」(1954-2000)も、年輪にその命の痕跡を辿る「樹木の断面」(1967-68)も、対象がまるで抽象画のような線と面の世界に還元されていました。また神学生を取材したシリーズも、モチーフの司祭の動きがやはり白と黒の色面のみに置き換えられ、その生き様や個々の営みよりも、全体の構図が例えばマティスのダンスのような図像的なものへと転化しています。率直に申し上げると、コラージュを見るかのようなこれらに惹かれるものは多くありませんでしたが、このハイコントラストなどは強い個性として目に焼き付きました。極めて特異です。
画面を鳥瞰的にとる作品が多い中で、もっと被写体に迫ってその特質を露とした「詩が訪れて君の眼にとって代わるだろう」(1954-83)は心に残るものがありました。これはジャコメッリがホスピスに取材し、集う老人たちの生活を写した作品ですが、作為を思わせる前者とは異なり、老人一人一人の息遣いや意思、さらにはその過去の記憶などが素直に表現されていて好感が持てます。年輪でも大地の畝でもよく見えてこなかった時間の軌跡が、ようやく人間に対象を移すことで明確に示されたのではないでしょうか。くたびれた皮膚、傷のように連なる皺などに、各々の人生の尊厳が示されています。ここに安易な美しさなどいう言葉は必要でありません。虐げられたような、ある意味で醜い皺の痕跡こそが、まさに生と格闘してきた証しなのです。
詩のイメージと作品とがあまり密接とは思えなかったのも、私の理解が足りない部分だったかもしれません。今ひとつ両者が繋がりませんでした。
評判は高い展覧会のようです。連休中のつい先日に行ってきましたが、会場はかなり混雑していました。
明日、6日まで開催されています。
「知られざる鬼才 マリオ・ジャコメッリ展」
3/15-5/6
イタリア北東部のセニガリアに生まれ、生涯に渡ってその近辺を撮り続けたという写真家、マリオ・ジャコメッリ(1950-2000)の業績を回顧します。写美で開催中の表題の展覧会へ行ってきました。
ジャコメッリという名を知ったのは今回が初めてでしたが、まず印象深いのはモノクロームの写真における、目も覚めるような白と、空間を大胆に引き裂く黒との烈しいコントラストです。彼の作品にはモノクロにありがちな温かみは少なく、むしろ鏡の表面を見るかのようなシャープな美感が前面に押し出されています。また、とりわけ風景写真に見るシュールな感触も独特です。丘の畝に大地の「皺」を見い出す「自然について知っていること」(1954-2000)も、年輪にその命の痕跡を辿る「樹木の断面」(1967-68)も、対象がまるで抽象画のような線と面の世界に還元されていました。また神学生を取材したシリーズも、モチーフの司祭の動きがやはり白と黒の色面のみに置き換えられ、その生き様や個々の営みよりも、全体の構図が例えばマティスのダンスのような図像的なものへと転化しています。率直に申し上げると、コラージュを見るかのようなこれらに惹かれるものは多くありませんでしたが、このハイコントラストなどは強い個性として目に焼き付きました。極めて特異です。
画面を鳥瞰的にとる作品が多い中で、もっと被写体に迫ってその特質を露とした「詩が訪れて君の眼にとって代わるだろう」(1954-83)は心に残るものがありました。これはジャコメッリがホスピスに取材し、集う老人たちの生活を写した作品ですが、作為を思わせる前者とは異なり、老人一人一人の息遣いや意思、さらにはその過去の記憶などが素直に表現されていて好感が持てます。年輪でも大地の畝でもよく見えてこなかった時間の軌跡が、ようやく人間に対象を移すことで明確に示されたのではないでしょうか。くたびれた皮膚、傷のように連なる皺などに、各々の人生の尊厳が示されています。ここに安易な美しさなどいう言葉は必要でありません。虐げられたような、ある意味で醜い皺の痕跡こそが、まさに生と格闘してきた証しなのです。
詩のイメージと作品とがあまり密接とは思えなかったのも、私の理解が足りない部分だったかもしれません。今ひとつ両者が繋がりませんでした。
評判は高い展覧会のようです。連休中のつい先日に行ってきましたが、会場はかなり混雑していました。
明日、6日まで開催されています。
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ぺヌティエ「シューベルト:ピアノソナタ第21番」 LFJ2008
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 熱狂の日音楽祭2008
公演番号135
シューベルト ピアノ・ソナタ第21番 D960
ピアノ ジャン=クロード・ぺヌティエ
2008/5/2 20:15 東京国際フォーラムB5(テレーゼ・グロープ)
同じ日に同じ曲を聴くことが出来るのも、またLFJならではの楽しみ方の一つです。コロベイニコフに続き、今度は名匠ぺヌティエでソナタ21番を聴いてきました。
適切でないかもしれませんが、コロベイニコフの21番が例えばカンディンスキーのコンポジションだとすれば、ぺヌティエのそれは例えば等伯の松林図屏風のような山水水墨画の世界です。死の僅か2ヶ月前に描かれたというこの曲が、幽玄な詩情をたたえた、まさに白鳥の歌として切々と奏でられていきます。前へ進むことなく、それこそ無限に続く波のように寄せては繰り返す第1楽章からして彼岸の境地にありましたが、例えば第4楽章などのフォルテの響きなどは、どこか痛々しくあるほどズシリと心に突き刺さってきました。また『間』がコロベイニコフではその次の瞬間の音を意識させるものであるのに対し、ぺヌティエのそれは前の時間を引き摺る永遠の余韻と表せるかもしれません。水墨画を見るには、絵ではなくその場に立ち入ることが必要になることもありますが、彼の演奏も、音符を超越したシューベルトの一種の心象風景の中を彷徨っていたのではないでしょうか。私の演奏の好みとしては技巧的にも確かなコロベイニコフにありますが、演奏後、体が打ちのめされたような感覚を受けたのは明らかにぺヌティエの方でした。
演奏中、時間がとまる感覚を感じたのは久しぶりでした。シューベルトの音楽の影、そして底部にある哀しみに触れたコンサートだったと思います。
公演番号135
シューベルト ピアノ・ソナタ第21番 D960
ピアノ ジャン=クロード・ぺヌティエ
2008/5/2 20:15 東京国際フォーラムB5(テレーゼ・グロープ)
同じ日に同じ曲を聴くことが出来るのも、またLFJならではの楽しみ方の一つです。コロベイニコフに続き、今度は名匠ぺヌティエでソナタ21番を聴いてきました。
適切でないかもしれませんが、コロベイニコフの21番が例えばカンディンスキーのコンポジションだとすれば、ぺヌティエのそれは例えば等伯の松林図屏風のような山水水墨画の世界です。死の僅か2ヶ月前に描かれたというこの曲が、幽玄な詩情をたたえた、まさに白鳥の歌として切々と奏でられていきます。前へ進むことなく、それこそ無限に続く波のように寄せては繰り返す第1楽章からして彼岸の境地にありましたが、例えば第4楽章などのフォルテの響きなどは、どこか痛々しくあるほどズシリと心に突き刺さってきました。また『間』がコロベイニコフではその次の瞬間の音を意識させるものであるのに対し、ぺヌティエのそれは前の時間を引き摺る永遠の余韻と表せるかもしれません。水墨画を見るには、絵ではなくその場に立ち入ることが必要になることもありますが、彼の演奏も、音符を超越したシューベルトの一種の心象風景の中を彷徨っていたのではないでしょうか。私の演奏の好みとしては技巧的にも確かなコロベイニコフにありますが、演奏後、体が打ちのめされたような感覚を受けたのは明らかにぺヌティエの方でした。
演奏中、時間がとまる感覚を感じたのは久しぶりでした。シューベルトの音楽の影、そして底部にある哀しみに触れたコンサートだったと思います。
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樫本大進 他「シューベルト:ピアノ三重奏曲第2番」 LFJ2008
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 熱狂の日音楽祭2008
公演番号124
シューベルト ピアノ三重奏曲第2番 変ホ長調 D929
ヴァイオリン 樫本大進
チェロ タチアナ・ヴァシリエヴァ
ピアノ ミシェル・ダルベルト
2008/5/2 19:00 東京国際フォーラムホールB7(ショーバー)
樫本大進のヴァイオリンを生で聴くのは今回が初めてです。ヴァシリエヴァ、そしてダルベルトを迎えてのピアノ三重奏曲第2番を聴いてきました。
序盤は三者ともややぎこちなさがあるというのか、どこか噛み合ない、手探り感があるのは否めませんでしたが、徐々にヒートアップして、結果的に丁々発止の熱演となるのは流石の一言につきます。チェロのヴァシリエヴァは全体的に影が薄く思えましたが、弦の動きを良く見据えたダルベルトのピアノはもちろん、特に体を大きく揺らして全身で音楽を表現する樫本のヴァイオリンは、聴衆の心の全てを集めてしまうような卓越した求心力が感じられました。また決して美音のみとは言えないものの、その表現する音域の幅は大変に広く、すすり泣くようなピアニッシモから怒涛の如く繰り出されるフォルテまで、極めて主観的に、半ば曲の構造すら揺さぶるかのような激しさには、それこそ手に汗を握るような緊張感を感じさせます。一線を越えるとまさに彼の独擅場です。曲の殻自体も打ち破ってしまいました。
次回は是非ソロで聴いてみたいです。
公演番号124
シューベルト ピアノ三重奏曲第2番 変ホ長調 D929
ヴァイオリン 樫本大進
チェロ タチアナ・ヴァシリエヴァ
ピアノ ミシェル・ダルベルト
2008/5/2 19:00 東京国際フォーラムホールB7(ショーバー)
樫本大進のヴァイオリンを生で聴くのは今回が初めてです。ヴァシリエヴァ、そしてダルベルトを迎えてのピアノ三重奏曲第2番を聴いてきました。
序盤は三者ともややぎこちなさがあるというのか、どこか噛み合ない、手探り感があるのは否めませんでしたが、徐々にヒートアップして、結果的に丁々発止の熱演となるのは流石の一言につきます。チェロのヴァシリエヴァは全体的に影が薄く思えましたが、弦の動きを良く見据えたダルベルトのピアノはもちろん、特に体を大きく揺らして全身で音楽を表現する樫本のヴァイオリンは、聴衆の心の全てを集めてしまうような卓越した求心力が感じられました。また決して美音のみとは言えないものの、その表現する音域の幅は大変に広く、すすり泣くようなピアニッシモから怒涛の如く繰り出されるフォルテまで、極めて主観的に、半ば曲の構造すら揺さぶるかのような激しさには、それこそ手に汗を握るような緊張感を感じさせます。一線を越えるとまさに彼の独擅場です。曲の殻自体も打ち破ってしまいました。
次回は是非ソロで聴いてみたいです。
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