僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

浄厳院 現代美術展2024~現代美術編~

2024-11-16 06:10:10 | アート・ライブ・読書
 「浄厳院 現代美術展2024」では国内外のアーティスト36名が作品を出展しており、個性豊かで多様性に富んだ作品が寺内全域に展示されています。
開催期間中には座談会・舞踏・ライブ音楽・太鼓演武・ジャズ・舞・演劇・落語・お茶会など数々のイベントも開催されているようです。

前回は「観音堂」「釈迦堂」の現代アートの仏像と「本堂」の仏像群を見て回りましたが、今回は本堂・庫裡・書院・春陽院・方丈池の展示作品を見て回ります。
インパクトのある作品、思わず顔が緩むようなユーモラスな作品が展示され、作品は様々なれど作家の作品作りにかけるエネルギーが伝わる美術展だったと思います。



《わたしのなかの、わたし。》というシリーズの作品を展示されていたのは佐藤紘子さん。
動物の皮に描かれた絵は可愛らしいタッチではあるものの、顔は笑ってはいません。

“自分の中に、自分とは違う自分がいるような感覚。”、“何かをかぶったような、他人を演じているような自分。”
ここに“自分”は本当にいるのか、いないのか・・・そんな言葉が添えられていた。



深尾尚子さんは「食」や「ペット」などをテーマにインスタレーションを制作されている作家さん。
今は使われていない「おくどさん」や「井戸」のある台所にスペースインベーダーが侵入してきています。
アンマッチな違和感が独特の空間を作り上げていますね。



二部屋をぶち抜きでインパクト大の作品を展示されているのは中根隆弥さんの「ムスベルヘイムと7年7日」と「へや|ROOM」。
中根さんはジャン・デュビュッフェの言葉から「生(なま)」の芸術を体現させたいと作品を制作されているとある。



中根さんは“人間に内包されている本能”をテーマに「ドローイングマシン」という筆が付いたドローイングを行うための道具を使用するという。
それはアールブリュットの生の芸術をマシンによって生み出そうとするような道具でもあるようです。



部屋の一番奥には、不規則な線や墨の飛沫が描かれた紙の裏に「地蔵菩薩」が隠されていた。
この地蔵が何を意味するか分かりませんが、意外とも思える組み合わせもインスタレーションのひとつの部分を構成しているのかもしれません。



佐々木知良さんの「ねじれた寓話」は着物を着た狸と猿が神妙な顔をしてカルタに興じている作品で、通りがかる皆さんが微笑んでおられました。
佐々木さんは子供の頃に親しんだ昔話の世界が、記憶の中で攪拌され融合してできた「ある街」という作品を制作されていて今回の作品もその一部だとか。
カルタの言葉を見忘れましたが、なにか愉快なことが書かれていたのでしょうか。



「浄厳院 現代美術展」の主宰者という西村のんきさんの作品は書院二間ぶち抜きで「時代 era」というインスタレーション作品を展示されている。
作品は大きな屏風が5つ展示されており、全て5枚の作品を集めて「時代 era」という作品になっているとのことです。



作品は表と裏で違った世界観があり、上は「+」という作品を裏側から見たもので、天井には「∞」という作品が吊られている。
下の「-」という作品は裏に回ると何と庭が作られています。
裏側に回って見ないと分からない作品で、この作られた庭とその向こうの外にある庭との対比も面白い。



表側から見ると、縁側に置かれた鏡に反射した太陽光がそれぞれの作品の上を通り過ぎていくようになっている。
そんな時間を感じながら見て欲しいと書かれてありましたが、時間をおいて見に来ると光の位置が変わって作品の印象が異なって見えます。



浄厳院では庫裡(本坊)・書院・本堂と渡り廊下でつながり作品が展示されており、書院に面した方丈池や竹林にも作品が展示されています。
竹林にひっそりと展示されていたのは春成こみちさんの「祈」という作品です。
ひっそりとした祈りの作品のある竹林の竹が風に揺れてコンコン鳴るのが少し怖くもあり雰囲気もある。



寺院境内の一番裏側、方丈池の更に裏にはワダ コウゾウさんの「~風にふかれて~(デベソ)」という作品が展示されていた。
“ゆらゆらゆれる デベソを 楽しんで 頂ければ 幸いです。”とのコメントがあったけど、夜は怖くて一人では絶対行けないような場所に展示されています。



美術展ではウクライナ・ドイツ・スペインのアーティストたちが寺で共同生活をしながら取り組んだ「アーティスト・イン・レジデンス」の作品が展示されています。
境内にある春陽院は浄厳院の塔頭のひとつで、そこに「アーティスト・イン・レジデンス」のニコ・バイシャス(スペイン)さんの作品がありました。
床の間や額や障子に無数の手の写真が貼り付けられており、その手の形はそれぞれ違った形をしている。



部屋に吊り下がる不気味な物体は「舌」のようである。
野尻恵梨華さんの「引き延ばされた記憶」という作品は、何か辛い記憶がどこまでも延びて存在しない姿をあらわにしたかのような不気味さを感じます。



春陽院の一番奥の間まで行くと、天井裏から収納ハシゴが降りてきている。
何か展示がしてあるので見に登れという合図ですので登ってみると、狭い屋根裏に砂漠に太陽と三日月が描かれている絵があった。
北村瑞枝さんの「サハラ」という作品のようでしたが、“月の~砂漠を~はーるばると~♪”という童謡を思い出す。



気になった作品を取り上げましたが、書いていることはあくまで当方の主観を書いており、作者の意図するところと関係はありません。
これだけ多種多様な作品を見ると想像力の世界/表現の世界は無限だなぁと実感出来ます。


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「浄厳院 現代美術展2024」~仏像の過去と現代~

2024-11-13 17:17:17 | アート・ライブ・読書
 安土町にある浄土宗寺院の浄厳院で毎年恒例となっている「浄厳院 現代美術展2024」が開催されました。
美術展には国内外のアーティストが持ち寄ってきた作品が、寺の御堂や境内・庭など至る所で作品を見ることが出来ます。

「浄厳院」は、かつて佐々木六角氏頼が建立し、当地の地名にもなっている天台宗・「慈恩寺」があった地に織田信長が建立した寺院とされます。
寺院には重要文化財に指定されている「本堂」「楼門」があり、御本尊の「阿弥陀如来坐像(平安期)」など何点かの重文指定の仏像や寺宝があります。
以前は事前連絡しないと内部拝観出来ない寺院でしたが、「浄厳院現代美術展」が開催されるようになったことにより仏像群が拝観できるようになりました。



「浄厳院楼門(重文)」は室町時代後期の建造物とされ、佐々木六角氏の慈恩寺の楼門として建立されたものが浄厳院創建にあたり楼門が遺されたという。
楼門はもとは屋根が入母屋造だったそうですが、1889年の台風により2階部分が壊れたため、切妻造の屋根になったといいます。



楼門には阿形・吽形の仁王像(金剛力士像)が睨みを効かせており、表情からも体からも力強さを感じる仁王像です。
よく仁王門に仁王像が安置されているのを見ますが、参拝者としては嬉しい反面、屋外に保管されていて仏像が傷まないのか気になる時があります。





「本堂(重文)」は室町時代後期の建築物とされ、もとは近江八幡市多賀町にあった天台宗・興降寺の本堂だった弥勒堂を移築したものだという。
信長は、かつて天台宗だった寺院の遺構を再利用しながら寺院を建立したようで、合理主義者の一面を感じると共に、それまでの信仰を上書きしていった印象を受けます。

浄厳院は仏教論争の「安土宗論」が行われた寺院として知られており、信長の命により浄土宗と日蓮宗の宗論が行われたという。
宗論は日蓮宗の敗北となったというが、裁定には信長の強い政治的意思があったといいますので、信長によるある種の宗教弾圧があったともいえます。



浄厳院の境内には楼門・本堂・釈迦堂・観音堂・鐘楼・庫裡・書院・春陽院など多くの堂宇がありますが、現在の観音堂には仏像がありません。
過去に盗難に遭って仏像が失われたそうですが、現代美術展によって「観音堂」に仏像が蘇りました。



立体曼荼羅を蘇らさせたのは松山淳さん。金箔・色箔のカラフルな作品群です。
松山さんは乾漆技法と箔押し技法を用いて作品を制作されているそうで、中央の観音菩薩像はキンキラ金に輝いています。



観音像の横の脇侍には「ダイエット菩薩」が安置され、四隅に「モデル四天王」が観音さまを守護しています。
ダイエット菩薩は左がbeforで右がafterでしょうか。冗談半分のちょっと気持ち悪い感じの菩薩さんです。



逆にモデル四天王はというと、モデル体型でルックスも良さが際立ち、全く作風が違うかのような作品です。
金色の小さな仏が床面に並んでおり、須弥壇にはまた違った作風の仏?が安置されて曼荼羅を構成しています。



「観音堂」と同様に「釈迦堂」にも釈迦はおられないのですが、釈迦堂には毎年、釈迦が幻のように姿を現します。
今村源さんという作家の方がカラーワイヤーを使って製作された釈迦像ですが、やや荒んだ釈迦堂の中にぼんやりと浮かび上がる姿はある意味神々しい。



ここまでは「仏像の現代」でしたが、本来の姿である「仏像の過去」を本堂で拝観します。
浄厳院の御本尊である丈六の「阿弥陀如来坐像」は平安後~末期につくられた定朝様の仏像で、像高273cmの堂々たる座像です。



この「阿弥陀如来坐像」は愛知郡二階堂から移されたとも伝わり、大半の部分が当初のものであるとされているという。
ただし、光背の頂点部分は建立当時に御堂に入らなかったため先端が切り取られているとのことです。



「浄厳院 現代美術展2024」に感謝したくなるのは、数々の現代美術作品が見られるのもさる事ながら、仏像拝観が可能になったことです。
以前は事前連絡という敷居の高い条件がありましたが、美術展のおかげで後陣の仏像まで拝観出来るようになりました。



後陣に祀られている「薬師如来立像」は鎌倉期の造像とされ、珍しくも碁盤の上に御立ちになっています。
碁盤の上に乗る仏像は他にも例があるようで、京都の因幡堂(下京区)にも碁盤の上に安置された薬師如来立像があるようです。



同じく後陣には清凉寺式の「釈迦如来立像(南北朝期)が安置されており、縄目状の頭髪と衣文が波打ち首の下まで包み込むように彫られています。
「清凉寺式釈迦」は釈迦在世中にその姿を写した像として信仰を集め、鎌倉期には模像が多数制作されたといいますのでその1躰なのかもしれません。





さて、浄厳院では仏像の現代と過去を見てきましたが、次回は堂宇内に展示されている現代アートを見て回ります。
お庭を歩いているとジョウビタキの♂が姿を見せてくれました。
浄厳院は周囲を田圃に囲まれた自然の多い場所に立地しています...続く。




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駆け抜けろ、秋の水郷「水郷の里マラソン」を走る!~近江八幡市~

2024-11-10 17:22:22 | 風景・イベント・グルメ
 真似事程度でマラソンを初めて1年足らず。
ゴールデンウィークに初めて出場した「奥びわ湖健康マラソン」から半年、近江八幡市で開催された「水郷の里マラソン」を走ってきました。

秋のマラソン・シーズンを目指して夏の間に走ったりしてきて、秋の彦根市と近江八幡市の大会を目標にしてきたにも関わらず、なんと2つのレースが同日開催。
泣く泣く彦根市の「彦根シティマラソン」を諦めて、近江八幡市の「水郷の里マラソン」にエントリーしました。



マラソンとはいってもフルマラソンでもハーフマラソンでもない短いコースですが、何十年も運動らしい運動をしていない体には苦しくて苦しくて息も絶え絶えです。
とにかく止まらず足を動かし続けたら、いつかゴールの半円のエアーアーチをくぐり抜けられると極端にペースダウンしないよう粘りながら走ります。



コースは近江八幡市立運動公園からスタートして畑や田圃の広がる平野をグルッと周回するコースでした。
周辺にいた早いランナーは先に行ってしまい、近いペースを刻んでくれる人に付いて走ります。
最後の頑張りどころとラストスパートをかけて少し先を走る人を追い抜こうと思いましたが、残念ながらもうその余力は残ってはいませんでした。



で、タイムはどうだったかというと...練習も含めてこれまでの最高タイムだったGWの「奥びわ湖健康マラソン」から約3分縮めることが出来ました。
ゴールしてタイムを見た時に“早く走れた~!”と嬉しく思うのと同時に“このペースで走ったこと無いし、シンドイはずや。”と納得。


ゴール後にBODY MAINTEというコンディショニング ドリンクをもらってやっと一息。
ランの途中にあるエイドでドリンクを取りましたが、今回もうまく飲めず。走りながらの給水は練習が必要ですね。
「水郷の里マラソン」の参加賞はオリジナルタオルです。



さぁでは駐車場に戻ります。目の前には長命寺山。
これでしばらくはランニングは休もうかと思いきや、帰りにスポーツ用品量販店に寄ってナイキのランニングシューズ「ペガサス41」を衝動買い。
今使っているONの「クラウドモンスター」と比べて走り心地はどう違うでしょうね。では試しがてらに走りに行こう!




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武平峠から鎌ヶ岳・岳峠をピストンで登る~後編 西多古知谷大滝が見えた!~

2024-11-08 07:17:17 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 鎌ヶ岳の山頂まで登ってきた後、一度見たいと願っていた岳峠から眺める鎌ヶ岳の岩壁を目指し、雲母峰方向へと進みます。
山頂から岳峠方向への下りは、足の置き場に気を付けないといけないような急登が続き、その後は岳峠へ向かって岩場の急登を下ることになります。

武平峠から鎌ヶ岳の登山コースより厳しいやんかと思いつつも、分岐の看板が見えている峠を目指して岩の道を下ります。
岳峠までの距離感を把握はしていませんでしたが、それほどの距離ではなかったものの、急な岩場下りはちょっとしたアドベンチャー気分でした。



岳峠まで下りて後ろを振り返ると、想像を絶する岩壁が望めます。
これ位の標高の山で、さほど過酷な道のりでもない場所にこんな迫力のある場所に来れる鎌ヶ岳の良さが満喫出来ます。



世の中にはこの岩壁をよじ登っていく強者がおられるのかもしれませんが、登山道は2つの岩壁の間にあるゴロゴロした岩の急登です。
怖々しながら下りたけど、ピストンなのでもう一度登り返すことになります。



岳峠は標高1070mの場所にあって鈴鹿山脈では一番高い峠とされています。
岳峠では反対側から登って来た人にも会いましたが、岳峠は鈴鹿山脈の縦走路と交差し、湯の山温泉にも下りられるようで登山コースは複数あるようです。

左側の岩壁ですが、凄まじい岩壁です。
いったい今自分はどこに居るのだろう?どこか別の惑星に降り立ったのか?と不思議な感覚になってしまいます。





右の岩壁もかなり高さがありますが、何mくらいあるのでしょうか。
鎌ヶ岳は武平峠側のガレ場に見応えがありますが、岳峠側からの岩肌も圧倒されてしまう魅力があります。



峠から見下ろす先は、雲母峰や濃尾平野。その奥には伊勢湾が広がります。
半島も微かに見えていますが、朝は晴れていたのに段々と雲がかかってきて肌寒くなってきた。



雨になっても困りますので再び鎌ヶ岳の山頂を目指して登り返します。
岩ゴロゴロの道は、降りる時は怖かったけど、登るのはそれほどでもない。
登る時は四つ足動物になって手が使えるのは大きいな。



岩の道を登って振り返ってみると鎌尾根でしょうか?色づいた紅葉と鈴鹿の連なる山々の景色が楽しめます。
この日、紅葉が楽しめた唯一の場所でしたので、岳峠まで行ったのは別の意味でも正解でした。



鎌ヶ岳の山頂まで戻って、武平峠までの帰路に着きます。
次に伊勢湾が眺められるのがいつになるか分かりませんので、名残りを惜しみます。



鎌ヶ岳登山道で花は全く見かけなかったのですが、唯一咲いていた花です。
ノギクの仲間でしょうか?白くてやや小ぶりな花です。



下山して車で鈴鹿スカイラインを走行していると、山の上に大きな滝があるのに気付いた。
後で調べたら「西多古知谷大滝」という落差50mの直瀑の滝で、山の中腹辺りにありました。



あんな奥まった所にある滝なのでひとを寄せ付けないのかと思いきや、踏み跡を辿れば滝の下まで行けるみたいです。
もっと驚いたのは、この滝を登攀する人たちがいるようなのです。
まさに命知らずのチャレンジャーと思えてしまうのですが、そこは技術や経験・体力の裏付けがあってのことなのでしょう。



大滝の最下流のひとつになるのか、分岐流になるのか、道路沿いに小さな滝がありました。
鈴鹿山系には見応えのある滝が多いようなので見てみたい処だが、バリ・ルートだと行くのを躊躇してしまいますね。



さらに道路沿いにもう一つ滝があるのを見つけました。
名前があるのか?無名の滝なのか分かりませんが、滝は滝。
水は透きとおっていて、いずれ三滝川につながっているのでしょう。



久しぶりの登山でしたが、光が燦燦と降りかかる樹林帯の山登りから始まり、ガレ場・ザレ場を歩き、巨大な岩壁に圧倒される山行でした。
途中ではヤマドリに遭遇したり、やや季節外れの蝶、花と滝、プチ紅葉など好きなモノに沢山出会えたのも大きな収穫でしたね。


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武平峠から鎌ヶ岳・岳峠をピストンで登る~前編 ヤマドリに出会えました!~

2024-11-05 17:35:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 秋も真っ盛りの季節を迎えて毎週のように山登りをしているはずだったのですが、秋の季節性の不調に陥り、すっかり出不精になっていました。
夏中、太陽光をガンガン浴びて屋外活動していたのが、日照時間が短くなって太陽光を浴びる時間が減ったことに心身が慣れていないのでしょう。

雨の合間の晴れ日に鈴鹿の方へと出向いてみると、朝の8時過ぎにも関わらず駐車場には満杯近い車が停まっています。
みなさん晴れ予報の日を狙って来られたのだと思いますが、秋の晴れ日に山登りしたいのは皆同じですね。
何とか1台分のスペースを確保出来ましたので駐車して、武平峠まで鈴鹿スカイラインを歩きます。



駐車場に到着する前に“今日はきっとツイでるよ!”と思えたのは、途中でヤマドリの♀を見つけた時でした。
尾はちぎれたのか短かい尾をした個体で、なんとか証拠動画に撮ることが出来ました!



この日は鎌ヶ岳へ登るか、御在所岳に登るか直前まで迷っていて、距離的にも大して変わらないので、武平峠まで行って決めようと思っておりました。
しかしながら、高校の登山部の競技会なのか駐車場に大型バスが2台停まっていて、駐車場は引率された高校生でいっぱいです。
ただのハイキングでないのは全員登山仕様の装備をしていたのと、○○校登山部のユニフォームを着ていたので登山部だと分かりました。



多分、彼らは御在所岳だろうと推測して鎌ヶ岳へ行った方が混雑しないなと考えて、武平峠を左に進んで鎌ヶ岳方面に進みます。
武平峠は鎌ヶ岳・御在所岳・雨乞岳の分岐になっていて、雨乞岳には距離があるものの、鎌ヶ岳と御在所岳は1時間少々あれば登頂出来る最短ルートになっています。



鎌ヶ岳は武平峠までと峠を越えてからしばらくは急登だが、そこから先は緩やかな道が続きます。
しかし、しばしの楽な道を過ぎると、最初の岩場があり鈴鹿の洗礼を受けることになります。



岩場を越えると景観の良い場所が多くなり、連なる鈴鹿山脈の山々が良く見えるようになる。
ザレ場の先に見えるのは雨乞岳(1237m)。鈴鹿セブンマウンテンだけど未だに登ったことがない。



目前にデンと聳えるのは御在所岳(1212m)。
赤いロープウエイが上り下りするのが見えますが、ロープウエイから見る紅葉はどうでしょうね。



ザレた道の砂を踏みしめるザッザッという音と、落ち葉を踏みしめるカサカサした音を楽しみながら歩を進める。
前には岩場、奥には鎌ヶ岳。太陽光に照らされて無風状態なのがとても心地良い。



鎌ヶ岳の山頂の全景見えるようになりました。
あれはマッターホルンか、槍ヶ岳か、いえいえ鎌ヶ岳(1161m)です。
低山とはいえ、この山容を見ると心がワクワクとしてきます。



山肌はガレ場になっていて、落ちたらあの世行きなので近寄らないようにします。
右上に人がいますが、あの砂浜のようなザレ場を登って行くことになります。



山の向こう側は三重県で、その奥に霞んでいますが伊勢湾が見えます。
普段の山登りでは琵琶湖をよく見ますが、太平洋や日本海が見えるとより一層気分が高揚します。



崖の所にケルンがあり沢山の石が積まれています。
奥の岩にも小さなケルンが積まれていますが、誰かが奥まで行って積まれたのでしょうけど、行くのはちょっと怖い。



ガレガレの道。ここを登ることも出来ますが迂回路があるのでそちらから登ります。
少しこのガレガレの道を歩いて見ましたが、足元の悪さで躓く怖れよりも落石させて人に迷惑をかける危険の方が大きいですね。



山頂近くまでくると伊勢湾が見渡せる場所に出ます。
四日市コンビナートの煙突から昇る煙が微かに見え、奥には半島が伸びているのが見えます。



そして鎌ヶ岳の山頂部に到着です。
登ってすぐの場所には「天照大神皇大神宮社」の祠と鳥居があります。

祠は天照大神をお祀りされていますので、伊勢神宮の内宮と関連があるのでしょうか。
かつて国見岳と御在所山と鎌ヶ岳の3つの山を三岳とし、三山を巡る山岳信仰があったとされます。



鎌ヶ岳は岩場が山頂となっていて、重い看板を持って記念撮影することが出来ます。
以前登った時も今回もこの岩の裏側で休憩する人がいましたが、うまく岩の陰になって写真には写らなかったので助かりました。



山頂からは雲母峰と濃尾平野、伊勢湾が見渡せます。
少し色づいた紅葉が見えるものの、まだ時期が早いのかもしれませんし、この位置からの景色は紅葉のポイントではないのかもしれません。



山頂ではツマグロヒョウモンの♀を発見!
この時期にこんな場所になぜ居るの?と不思議に感じましたが、羽に全く痛みのない綺麗な個体でした。



武平峠から鎌ヶ岳まではほぼコースタイム通りに登りましたのでまだ余力がありますので、もう少し先にある岳峠まで進んでみます。
なぜかと言うと岳峠から見返す鎌ヶ岳の岩壁を一度みてみたかったからです。

別の登山ルートから登れば通る場所のようですが、今回は山頂からのショ-トカットのピストンで行きました。
時間的には大してかからなかったものの、低山とはとても思えないような迫力の岩壁でした...続く。


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第40回『観音の里ふるさとまつり』5/5~落川・高月~

2024-11-01 06:50:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 2024年の『観音の里ふるさとまつり』もあと2つの観音堂に参拝して終わりとします。
巡回バスに乗ってもう一カ所くらいは行ける時間はあったのですが、離れた場所の観音堂まで行くと戻るにはギリギリの時間しか残されていません。

それならばと、高月駅付近で歩いて行ける観音堂ということで落川の「浄光寺」と高月の「高月観音堂(大円寺)」に参拝します。
他の観音堂は田園地帯に囲まれた集落や山麓に面した集落にありましたが、この2つの観音堂は高月の中心部にあってふらっと歩いて立ち寄れる利便性があります。



最初は落川集落にある「浄光寺」に参拝して十一面観音・阿弥陀如来・薬師如来の3尊を拝観します。
浄光寺も他の観音堂によくある神社の境内地にあり、日吉神社の鳥居から中に入ります。



浄光寺は己高山鶏足寺の末寺として当地に厳長寺として建立され、天台宗の守護神である日吉大社の神様も勧請したとされます。
厳長寺も御多分に漏れず、浅井氏と織田氏の兵火にあって焼失し、その跡地に建てられたのが「浄光寺」だといいます。



十一面観音立像(像高96cm)、薬師如来立像(像高64cm)、阿弥陀如来立像(像高46cm)はすべて室町期のものとされます。
おっとりした感じの表情をされた御本尊の十一面観音は、薬師如来・阿弥陀如来と共に厨子の中に安置されています。

御本尊以外は暗くて見えないので、写真を見せてもらった処、素人目にも十一面観音と薬師如来は同じような表情をされていました。
同じ仏師または仏師集団による作の可能性が高いというお話でありましたし、修復の際に合わせたこともあったかもしれません。



仏像巡りをしているとその土地界隈に仏師が存在していたという話を聞くことがあります。
本格的な仏師集団も存在したでしょうし、器用な職人が兼任してその地方の仏像を彫っていたこともあったのではないでしょうか。
それぞれの地方の仏師(および集団)によって仏像に傾向があるのは、都から離れて当初の姿から地域独特の仏像になっていったのでしょう。



浄光寺の参拝を終えると、更に高月駅に近い高月観音堂(大円寺)へと足を進めます。
高月観音堂(大円寺)の境内には大きく傾いて自立困難になっている「おしどり杉」という巨樹が参道に寄り掛かります。



「おしどり杉」は幹周5.15m、樹高20mで推定樹齢が800年だといいます。
800年だと鎌倉初期ですから流石に樹齢が長すぎるように思いますが、伝承の世界なのでそれはそれでよいのでしょう。
それでも老樹には違いはなく、老いてなお樹冠に勢いがある健康な巨樹です。



寺伝では787年、伝教大師最澄がこの地に滞在して十一面観音像を彫刻し、人々は七堂伽藍を建立して寺勢は大いに隆盛したという。
戦国時代になり賤ケ岳の合戦の際には堂宇・伽藍はすべて焼失したが、観音像は自ら火難を逃れ半町余歩離れた石の上に立って、その姿は光り輝いていたという。



観音堂には御本尊の十一面千手観音立像の他、薬師如来像・弁財天座像・毘沙門天像・不動明王像・地蔵菩薩像が安置されている。
ここでも天台宗3尊である観音・不動明王・毘沙門天が安置され、竹生島信仰の弁財天もお祀りされている。



御本尊の十一面千手観音立像は室町期の作とされ、合掌手と宝珠手を含めて四十二臂の像で像高154cmと等身大に近い仏像です。
脇手の開き方や頭上の化仏といい、実にバランスの良い仏像で、湖北に多数ある訳ではないサイズ感の千手観音です。
高月町内としては唯一の等身大の十一面千手観音かもしれませんね。





高月観音堂(大円寺)の厨子はよく出来ていて、両横が開いていて横から仏像を観ることが出来ます。
大円寺は観光寺院ではないのですが、違う角度から仏像を鑑賞しやすくなっているのはありがたい。



須弥壇の横面には不動明王立像と地蔵菩薩立像が並んで安置されています。
この2躰は江戸時代にこの村の人が本尊の脇立として奉納したと伝わりますが、奉納するためには何年もかけ生活を切り詰めながらお金を溜められたのでしょう。



高月観音堂(大円寺)には高月観音の里歴史民俗資料館に預けられている「釈迦苦行像」を保有されています。
断食で皮と骨だけになったガリガリに痩せてぎらついた目をしている釈迦の姿は、苦行を極めても悟りを開けなかった釈迦の姿があります。

仏像には美しいものや人に安堵感を与えるもの、怒りを表して人を戒めるものなどいろいろな姿があります。
そこから受け取るものは、時世により、その時の精神状態により、その時の自分を取り巻く環境などにより、大きく違うかもしれません。
しかし、どの仏像も何か大事なことを伝えようとされているのだと想い手を合わせることがある。


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第40回『観音の里ふるさとまつり』4/5~井口~

2024-10-30 06:15:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 今年の『観音の里ふるさとまつり』は朝から9つの観音堂を巡り、井口集落まで戻ってきた頃、そろそろ空腹を感じ始めた。
観音堂の境内に小綺麗なベンチがあるのを見つけ、お昼時の観音堂の参拝者は少ないので、ベンチに腰かけて駅で買った白蒸しを食べる。

眩しいばかりの日光を受けながら、甘く炊かれた黒豆と餅米のもっちり感を楽しみながらゆったりとした時間を過ごします。
白蒸しは空腹を満たすに余りあるボリュームでしたが、お腹を満たし休憩もしましたので午後の観音堂巡りを再開です。



毎年、観音の里ふるさとまつりでどこの観音堂に行くか悩ましいのですが、今年は高月町・木之本町の西側エリアを巡回して井口集落に戻って来ました。
井口集落にある「己高山 円満寺」は、元々は井口日吉大社の神宮寺だったため、日吉神社の鳥居から境内に入ることになります。
円満寺は、奈良仏教や白山信仰などの影響化にあり、平安時代以降は天台宗の影響を受けてきた己高山仏教圏の寺院として創建。



円満寺は境内の一番奥に隠れるように建てられているのですが、これは神仏分離令や廃仏毀釈の影響があってのことか。
かつての円満寺は惣山之七箇寺と称されるほどの寺院であったと伝わりますが、他の寺院と同様に織田信長と浅井長政の合戦で灰塵に帰したといいます。



須弥壇には「阿弥陀如来立像」「十一面観音立像」「地蔵菩薩坐像」が並び、出張中で写真だけながら日吉山王二十一本地仏が伝えられている。
湖北の観音堂はどこへ参拝してもよく整備されて綺麗に整った御堂が多いが、それだけ村人の観音さまに対する想いが強いのだと感じます。



「十一面観音立像」は室町期以降の作とされますが、とても美しく整った印象を受ける十一面観音です。
澄み切って落ち着き払った表情は観る人に安堵感を与えてくれます。





阿弥陀如来立像もすらっとした感じの立像でふくよかな表情をしておられます。
両仏とも大きな仏像ではありませんが、整った仏像という言い方が一番当てはまるような気がします。



円満寺を出てしばらく歩くと赤い観音の里ふるさとまつりのノボリが見えてきて、「己高山 理覚院」の門が見えてきます。
平安・鎌倉時代には隆盛を極めた長安寺という寺院があったというが、時代と共に荒廃していき、わずかに残った一坊が理覚院だといいます。



須弥壇には西国・坂東・秩父の霊場の観音像が百躰安置されており、最初の西国札所観音は江戸中期から始まったといいます。
湖北で百躰観音はこの理覚院だけだといいますので、特別な信仰が根付いていた地域と言えるかもしれません。



御本尊の聖観音立像は仏像に対して適切な表現ではないけど、チャーミングで躰に対して小さく華奢な手をした女性的な印象を受ける仏像です。
像高40cmほどの仏像ですが、百躰もの観音像の中心に安置された厨子に納まっています。





理覚院は真言宗豊山派の寺院で境内にも空海の修行像があり、湖北では数少ない真言宗系の寺院になります。
御本尊の聖観音や百躰観音がお祀りされている観音堂とは別に理覚院の本堂があり、そこには大日如来と不動明王が安置されています。



理覚院の「大日如来坐像」も智拳印を結ぶ金剛界の大日如来となっていて、他所では胎蔵界の大日が多いような印象のある中、湖北では金剛界の大日が多い。
躰の足の部分は線香の煙で色が黒ずんでおり、上へ行くほど金色に輝いています。



これで当初予定していた観音堂は巡りましたが、まだ時間もあるので高月駅付近まで歩いて行って、町の中心部にある観音堂に参拝します。
観音の里ふるさとまつりは一日だけですので訪れる観音堂は限られており、今年行けなかった観音堂は来年の楽しみということになりますね。


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第40回『観音の里ふるさとまつり』3/5~保延寺・雨森~

2024-10-28 06:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 今年の『観音の里ふるさとまつり』は、まず高月町の西側の山麓にある観音堂を巡り、次に高月の西側の平野部にある観音堂を巡ります。
高月町には観音堂がほぼ集落ごとにありますので、隣接している集落だと歩いてすぐに次の観音堂へ到着することの出来る一帯もあります。

このエリアでは保延寺集落と雨森集落に集中する観音堂を巡り、「保延寺阿弥陀堂」「己高山観音寺(雨森観音堂)」「保延寺観音堂」に参拝します。
そこから一路東へ向かって歩きながら井口集落の観音堂を巡って、JR高月駅近くの観音堂に参拝することにします。



「保延寺阿弥陀堂」は白山神社の境内地にあり、入口にある太鼓橋を渡って鳥居をくぐって境内人入ります。
感覚的に白山神社は山麓近くにあることが多いように思いますが、これは白山信仰の影響なのでしょうか。



境内に入ると、建物としては白山神社より阿弥陀堂の方が大きな建物となっていて、阿弥陀堂が中心となっている。
しかし、鳥居から続く石の参道は神社の拝殿まで続いているので、あくまでも信仰の中心は白山神社のようである。



「保延寺阿弥陀堂」には三躰の阿弥陀像が安置されており、阿弥陀如来は中尊と右が「定印」を結び、左は「来迎印」を結びます。
製作時代は中尊と右が室町時代、左が江戸期、特に中尊と左の仏像の顔が酷似していていることから同じ系の仏師の作と思われます。



保延寺の一帯は、白鳳時代の寺の屋根瓦や古銭が大量に発見されており、この近くには花寺という大寺院が栄えていたと伝わります。
また、ここにも最澄の伝説が残り、最澄が彫刻した仏像に「保延寺阿弥陀」があったというが、あったとしても現在のものとは別物ですね。



方丈池から見た阿弥陀堂。
広い境内に立派な社務所、阿弥陀堂の右に白山神社の拝殿と本殿があります。



次の「己高山観音寺(雨森観音堂)」は、「保延寺阿弥陀堂」から少し歩いただけのところにあり、変わった形をした野神さんのケヤキが出迎えてくれる。
この野神さんは雨森集落と保延寺集落の2つの集落でお祀りしており、枝ぶりが歪な感じになっているのは2018年の台風で枝が折れたのだという。



雨森観音堂の横にも背の高いスギの木が複数あり、田園地帯の真ん中にある境内地にも関わらず、樹勢の良い木に囲まれた御堂です。
限られた境内の敷地内にこれだけの林が出来ているのを見ると、この観音堂の歴史の長さを思わざるを得ません。





御堂の正面の厨子には「十一面観音立像」、左に毘沙門天・右に不動明王ですから、この観音堂も天台宗系の三尊形式で祀られています。
他にも「薬師如来像」「弁財天」などの仏像が祀られており、立地的なこともあるのかこの辺りから竹生島信仰の弁財天を祀る観音堂が出てきます。



御本尊の十一面観音立像は湖北では特殊な仏像で、脇手の一対を頭上高く掲げ、組み合わされた両手の上に小座仏を戴く。
いわゆる清水寺式と呼ばれる仏像で別名「袋懸観音」といわれるそうです。



雨森観音堂は天台宗寺院だったことから織田信長と浅井・朝倉軍との兵火により御本尊以外は焼失したという。
その後、再建されたものの明治12年に御本尊・本堂が悉く焼失。
村人は比叡山に参り、十一面観音・毘沙門天・不動明王の三尊像を勧請し、本堂を再建して今もお護りされているといいます。



保延寺には阿弥陀堂ともうひとつ別の観音堂があって、そちらの観音堂の方はよく考えれば行った記憶がありません。
御本尊の「千手観音立像」は見ていますが、見たのは2018年に保延寺阿弥陀堂で、その時は台風21号の影響で仏像が避難してきていたのでした。





「保延寺観音堂」は田圃と民家の間のスペースにある小じんまりとした御堂で、厨子がひとつあり、その中に「千手観音立像」が安置されています。
大和の長谷寺から移されたと伝わるという千手観音像は、像高17cmのミニチュアサイズの仏像で浅井氏ゆかりの仏像だといいます。



造りは素朴ながらお顔の表情が柔和で手も緻密に出来ていて、室町時代の仏師の作だという。
仏像の長谷寺からの勧請には浅井大和という人が関係したといい、出家して仏像を勧請して観音堂を建てたという。
実際に浅井氏には浅井亮政の弟に政信(大和守)という人がいたようだが、その人が仏像を授かったのかは分からない。



保延寺集落や雨森集落から井口集落まではさほどの距離ではないので再び歩き出します。
お昼を過ぎるとやや強めの風も冷たくは感じなくなり、日光の暖かさが心地良い。


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第40回『観音の里ふるさとまつり』2/5~尾山・田部・渡岸寺~

2024-10-25 06:46:46 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 今年の『観音の里ふるさとまつり』は、巡回バスのIコースを利用しながら歩ける区間は歩いて移動することにしました。
当日はやや強い風に吹かれながらも空は晴天で、長閑な湖北の田園地帯をのんびりと歩きました。

田圃には渡り鳥のノビタキの姿が見え、林の中ではエゾビタキの姿があり、渡りの野鳥が季節を感じさせてくれます。
琵琶湖にはすでにコハクチョウやヒシクイが飛来していますので、季節は一気に冬の季節を迎えようとする気配があります。



観音の里ふるさとまつりの最西の石道寺の拝観が終わったので、次は「安楽寺釈迦堂」へと向かいます。
己高山仏教圏は、奈良仏教に己高山の山岳信仰・白山信仰・天台宗などが混在して広がっていったとされています。
湖北には少ない「白山神社」は、己高山の山麓近くで見かけることが多いのは、白山信仰の影響かもしれません。



「安楽寺釈迦堂」は白山神社の境内にあり、この一帯には寺院があったとみられる寺跡や、坊や堂や殿の付く寺院由来の小字名が点在しているという。
しかし、寺勢盛んだった一山寺坊もやがて衰微して諸堂が老朽化していったといいます。
昭和56年には国県町の援助や、町内有縁の方々のご芳志により現在の収蔵庫が完成し、仏像を安置出来るようになったそうです。



安楽寺釈迦堂(尾山釈迦堂)には半丈六の座像が2躰あるので迫る迫力に圧倒されます。
「木造釈迦如来坐像」は像高156cmで平安期の作、「木造大日如来坐像」は像高139cmで平安期の作だという。
しかし、後世(室町~江戸初期)に大きな修復があったようで文化財指定は去れていないそうです。



「大日如来坐像」は金剛界の大日如来を示す智拳印を結んでいます。
胎蔵界の大日如来は法界定印を結び、密教では「理」を示すのが胎蔵界、「智」を示すのが金剛界とされるが、理解するのは難しい。



顔も手も大作りになっていて重量感を感じるのが釈迦如来坐像で、平安時代の中頃(10世紀頃)の作とされています。
収蔵庫に2躰の仏像が並ぶと圧倒されるように迫るものがあり、大きな修復を経てもその姿をとどめているのはありがたいことです。



話が違うやんかと思ったのは、巡回バスの時刻表で安楽寺釈迦堂(尾山釈迦堂)から次の西光寺までの所要時間が2分とあったのにかなり遠かったことです。
バスの所要時間が5分なら20分くらい歩けばいいという感じだったのですが、20分以上歩いたように思います。
しかも集落の入口にはこの看板!集落の奥でなく入口にこの看板(多分外から来る人向け)だからちょっと怖いですね。



田部集落には長亀山 西光寺があり、御本尊は伝教大師(最澄)の作とされる十一面観音菩薩をお祀りしています。
延暦年間(782~805年)にこの地を訪れた最澄が観音菩薩・不動明王・毘沙門天(天台宗系三尊)を刻んで開基したとされます。

仏像の三尊は「阿弥陀三尊(阿弥陀如来と脇侍の観音菩薩と勢至菩薩)「釈迦三尊(釈迦如来と脇侍の文殊菩薩と普賢菩薩)がある。
これに対して天台宗の三尊形式は「天台宗三尊(観音菩薩と脇侍の不動明王と毘沙門天)」になるそうです。



西光寺は現在地より北西2百mの山麓に観音堂・阿弥陀堂・薬師堂の3つの堂宇があったが、1491年に現在地に移転したとされます。
現在ある西光寺薬師堂は1987年に浄財によって再建されたものだといい、同じ境内に本堂となる西光寺と薬師堂が並びます。



須弥壇には立派な厨子を挟んで不動明王と毘沙門天が、厨子の中に祀られた十一面観音立像を守護しています。
十一面観音立像は先述の通り最澄のお手彫りですが、寺院などを巡ると最澄・空海・聖徳太子のお手彫りや伝承がとても多い。

天台宗では最澄は聖徳太子の弟子であるとか、生まれ変わりであるとか言われており、天台宗王国だった近江に聖徳太子や最澄の伝承が多い理由になっているようです。
そこには新仏教との信者の競合や政治的な理由もあったでしょうから、聖徳太子≒最澄はある意味で宗派の生き残り戦略だったのでしょう。



隣に並ぶ薬師堂にも伝承があって、954年にこの地で苦患に喘ぐ里人のために薬師如来像を撮り出し御本尊として祀るように申されたという。
この旅の僧こそが恵心僧都(源信)といわれ、薬師如来像は源信の手になるものだと伝えられているとされます。





さて、田部集落から巡回バスに乗って一旦、JR高月駅まで戻って渡岸寺の観音堂の門前市会場をのぞいてみます。
この渡岸寺の前にも野神さんが祀られていて、川沿いに生えたケヤキは幹周3.2m樹高10mで推定樹齢300年だとあります。
毎年8月16日にはシャギリ囃子でにぎやかで盛大な野神祭りが執り行われるそうです。



渡岸寺の山門から参道は出店が並んで、多くの方が祭りを楽しんでおられます。
湖北の寺院にはあまりない山門には阿吽の仁王像が睨みを効かせており、かなり修復されているようだが平安時代前・中期の像とされます。



渡岸寺には国宝の「十一面観音立像」や重要文化財の「胎蔵界大日如来座像」が安置されていますが、ここは観音まつりの時に行かなくても会える仏像です。
露店を見て回りましたが、雰囲気だけ味わって本堂前まで行って折り返し、次の観音堂へと向かいます。





歩いている途中の湖北の長閑な風景です。
稲刈りの終わった田圃が多いのですが、この田圃はまだ刈り取られておらず、ノビタキの遊び場になっていました。
後方の山は馬上山と後方に小谷山でしょうか?湖北の西側は山ばかり。




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第40回 『観音の里ふるさとまつり』1/5~柏原・高野・石道~

2024-10-23 17:25:52 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 『観音の里ふるさとまつり』は今年で40回目を迎えており、当方は2017年より巡礼を始めて昨年全ての観音堂への参拝を終えました。
途中コロナ渦で中止の年や拝観見送りの観音堂があったものの、西浅井町や余呉町の観音の御開帳があった年もあり、まだ見ぬ仏像との縁が結ばれました。
通常予約拝観の観音堂に行くのはなかなか敷居が高いのですが、このイベントでは気の向くままの参拝が叶います。

さて今年はどの観音堂へ行こうかというところですが、今年は31の観音堂で御開帳があり、一日で全てはとても回れないので選択に悩みます。
最後に拝観して何年も経っている観音堂がありますので、今年は巡回バスのIコースを利用することにして高月町・木之本町の西側の観音堂を巡ります。



JRの高月駅に着くと既に大勢の方がおられ、お昼ごはん用に白蒸し(しらむし)を買っている一瞬の間に始発の巡回バスが満席となる。
まだ発車まで時間があるにも関わらずの満員御礼となり、次のバスまで40分ちょっとの待ち時間がある。

とはいえ、今年はなるべく歩いて移動するつもりでしたので、時間を無駄にしないように歩き出します。
この日は一部区間で巡回バスも利用しましたが、歩いた距離は20㌔近かったのでいい運動になりましたね。



最初の観音堂は「柏原阿弥陀堂」で正式には「白寿山 来光寺」という寺院です。
圧巻なのは境内入口に聳える「八幡神社のケヤキ(野神ケヤキ)」で、親しみを込めて「柏原の野神さん」とも呼ばれるそうです。
このケヤキは幹周8.96m、樹高22m、推定樹齢300年以上という湖北最大の巨樹です。



地名の“高月”は槻(ケヤキ)の大木が多かったことから“高槻”と呼ばれるようになり、その後平安時代の歌人大江匡房が月見の名所と詠んだことから“高月”になったとされる。
高月町の観音堂や神社を巡るとケヤキの大木が多いことに驚きますが、野神ケヤキには及ばないものの、境内にあるケヤキも巨樹と呼べる大木です。



「柏原阿弥陀堂」には御本尊の阿弥陀如来立像と薬師如来立像・脇侍の日光菩薩と月光菩薩、眷属の十二神将が祀られています。
薬師如来立像(像高97.6cm)は平安期の作とされますが、現存保存されていないとのことで国の文化財指定はされていないようです。

湖北には数多くの観音さまや如来がおられますが、何らかの手が加えられていることで文化財になっていないものが多い。
とはいえ、観音さまはあくまでも信仰や村人の心の拠り所な訳ですから、文化財評価はあまり関係ないといえます。




(阿弥陀如来立像)

柏原から北西方向に歩いて行くと、小さな祠が祀られており、その後方には「佐味神社の三本杉」という巨樹があります。
御神木の樹高はそれぞれ12m/25m/25m、幹周は295cm/460cm/470cmあり、かつては何か祭礼の場所あるいは有力氏族の埋葬地だったのかもしれません。



井口集落の理覚院まで歩いて行くと、ちょうど巡回バスが来たので、先に山側の観音堂に参拝するべくバスに乗ります。
山麓に面した高野集落には村外れの村の出入口となる場所に「野大神」の石碑が立てられた野神さんが出迎えてくれます。



野神さんは村の出入口にあって農耕の神・五穀豊穣を祈願するものと考えられており、村の外れに結界のようにして祀られています。
野大神は幹周450cm、樹高30mほどあり、樹冠が大きく広がっている。
根元に祀られた石仏や石塔は土地を整備した際に掘り出されたものかと想像する。



「高野大師堂」の境内には高野神社・満願寺・大師堂が横並びにお祀りされており、他の幾つかの観音堂と同様に神仏習合の名残りが濃い寺院です。
湖北の神仏の信仰は、村に神社と寺院(主に浄土真宗寺院)がそれぞれあって更に観音堂があるという独特の信仰形態があります。

湖北地方には己高山を中心とした山岳信仰に、奈良仏教や白山信仰の影響が入り、天台宗が混じり合っていった己高山仏教圏があったとされます。
天台宗は戦国時代に勢いを失い、その後の明治維新の際の神仏分離令や廃仏希釈によって湖北の信仰は随分と様変わりしていったことが想像されます。



「満願寺(薬師堂)」には薬師如来坐像・脇侍の日光・月光菩薩立像と眷属の一二神将が祀られています。
また薬師如来を中心にして天台宗特有の三尊形態となる不動明王と毘沙門天が並びます。



御本尊の薬師如来坐像は恰幅の良い大病院のお医者さんのようなイメージがあり、願えば病気を治してくれそうな仏さんです。
この仏像はいつの時代の仏像か分からなかったのですが、織田信長と比叡山との対立や浅井長政との合戦がなければ...。
もっと数多くの仏像や堂宇などが残されていたと思うと残念でなりません。



「大師堂」には伝・伝教大師像とされる座像が安置されています。
高野神社・満願寺・大師堂共に己高山を背にして建てられており、どの建物も傷みがあまり見られず、地元の方の信仰の篤さを感じます。



大師像は鎌倉期(1283年の墨書あり)の仏像で国の重要文化財に指定されているという。
この像は伝教大師・最澄の肖像とされてきたようですが、現在は第十八代天台座主の慈恵大師こと元三大師の肖像と考えられているようです。
元三大師は同じ長浜の虎姫出身ということもありますが、そのお姿から元三大師ではないかとみられているようです。



さて、次は更に己高山に近づいて石道の「石道寺」へと向かいます。
石道寺も己高山を背にした寺院で726年に開基された後、伝教大師により天台宗として再興し、己高山五箇寺として繁栄したという。



石道寺は鶏足寺と並ぶ紅葉の名所ですが、その鶏足寺は石道寺の別院で東へ1㌔ほど山の中にかつては寺院があったそうです。
寺院は戦国時代に織田信長の兵火で全焼し、明治期には無住の寺院になったという。
大正3年に現在の場所に移築して、厨子・仏像を新しい石道寺に移してお守りされているといいます。



御本尊の「木造十一面観音立像 (平安時代中期・重要文化財)」は唇に紅をさしたかのような穏やかな表情で慈しみの観音さま。
欅の一木造りで像高173.2cmと等身大の観音さまは右足の親指が上を向いていて、今にも人を救いに歩き出しそうです。



『観音の里ふるさとまつり』はまずは西の最奥まで行って、東へ向かう巡回バスを待とうと思います。
高月町の観音堂から木之本町の観音堂まで来ましたが、もう1つ木之本の観音堂に参拝してから高月町に戻ります。


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