僕はびわ湖のカイツブリ

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“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~京都 太秦 蜂岡山 広隆寺~

2017-10-20 06:31:31 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 仏像を拝観することに魅力を感じ始めると、どうしても実物をこの目で見たいと思うようになる仏像がいくつか出てきます。
京都・太秦の広隆寺に安置されている「弥勒菩薩半跏像」もそんな仏像の1躰だったのですが、やっと念願の拝観をすることが叶いました。

弥勒菩薩は、釈迦(しゃか)入滅から56億7000万年後の未来の世に仏となって下界に降って、衆生を救済するといわれる菩薩とされています。
数ある弥勒菩薩像の中でも有名なのが京都・広隆寺の「弥勒菩薩半跏像」で、写真などで慈悲に満ちた表情と半跏の姿勢で思索にふける美しい姿を見て、是非一度はこの目で拝んでみたいと思い続けていました。



広隆寺は、飛鳥時代に渡来人の秦河勝が聖徳太子から仏像(弥勒菩薩半跏像)を賜り、その仏像を祀るために建立したのが蜂岡寺(現在の広隆寺)だったとされています。
秦河勝は、大陸(中国)・半島(朝鮮)の進んだ文化や産業を日本に伝え、また聖徳太子の側近だったとされる人物で、いろいろな伝説や逸話が残されている方です。
いずれにしても“仏像があって、仏像を祀るために寺院を建立した”という話には根拠があるようですね。



広隆寺は「聖徳太子建立の日本七大寺の」一つといわれていて、他の6寺は下記になります。
法隆寺(奈良・斑鳩)・法起寺(奈良・斑鳩)・中宮寺(奈良・斑鳩)・橘寺(奈良・明日香)・葛木寺(廃寺、奈良方面?)・四天王寺(天王寺)。
こうしてみると都のあった奈良に寺院は集中し、大阪南部の四天王寺を除けば広隆寺だけが離れた地域にあります。

 



ただし、広隆寺(蜂岡寺)が建立当初からこの地にあったかどうかは不明でよく分らないとされていて、平安京遷都の頃に現在の太秦に移転してきたのではという説があります。
広隆寺(蜂岡寺)は飛鳥時代の603年に建立されたとされますので、平安京は元より平城京以前から存在した寺院といえます。
そういった歴史があって広隆寺は古都・京都でも最古の寺院と呼ばれています。



広隆寺は、平安時代初期のの818年と平安後期の1150年に炎上してしまい、1165年に再興を果たしたとされます。
仁王門は1702年の建立で、境内には講堂(1165年再建の重要文化財)・薬師堂・地蔵道が並び、奥には広隆寺の本堂にあたる「上宮王院大師殿」(1730年再建)が重厚な佇まいで建てられていました。
しかしながらどの堂も閉じられていて、内部の様子は外からではよく見えません。





広隆寺の境内を歩いていて感じてしまったのは、この寺院は信仰の方が訪れるお寺というよりも弥勒菩薩半跏像などの仏像拝観の寺院というイメージでした。
内部拝観できなかったこともあって寺院建築物にはさほど感銘を受けないまま、仏像が収蔵される新霊宝殿へと進みました。



新霊宝殿でいよいよ念願の「弥勒菩薩半跏像」とご対面ということだったのですが、新宝物館に入って驚いたの何の...。
室内4面に仏像がズラリと並んでいます。予備知識がなかったのでこれには恐れ入りましたよ。

入って時計回りの最初の面には、まず重文の「増長天立像(藤原期)」・続いて国宝の「十二神将立像(藤原期)」が6躰、秘仏でこれまた重文の「薬師如来立像(平安初期)」を挟んで「月光・日光菩薩立像(藤原期・重文)。
さらに残りの十二神将立像の6躰(藤原期・国宝)と広目天立像(重文)と平安時代の素晴らしい仏像群が並びます。

2面目には、「阿弥陀如来立像(藤原期・重文)、「如意輪観音半跏像(藤原期・重文)、弘法大師作ともいわれる「不動明王坐像(平安初期・重文)」、「聖徳太子孝養像(鎌倉期・重文)」、「大日如来坐像(藤原期・重文)」
と並びます。この大日如来坐像は法界定印を結んでいましたので胎蔵界の大日如来でした。

この面の中央には「弥勒菩薩坐像(天平・重文)」の隣に見たかった「弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒・国宝)」が「弥勒菩薩半跏像(泣き弥勒・国宝)と共に安置されており、その神々しいまでの美しさに圧倒されてしまいます。


ポストカード

仏像はやはり自分の目で見ないとその素晴らしさが分かりませんね。
この弥勒菩薩半跏像は国宝第1号となっていて、渡来仏ともいわれていますが、想像していたよりも遥かに大きかったのは意外でした。
像高:約123cmのこの仏像の慈愛と上品なお顔を見ながらしばらく座り込んで見惚れてしまうことになりました。


ポストカード

弥勒菩薩半跏像は、まさしくため息が出るほど美しい仏像でしたが、ふと振り返った4面目に祀られた仏像にさらに驚くことになります。
3躰の仏像の一番右の「不空羂索観音立像(天平期・国宝)」は像高約314cmと巨大な八臂の立像でした。

真ん中には「千手観音坐像(藤原期・重文)」。こちらも像高260cmの大きな坐像ですが、手や膝・鼻などに痛みが見られて痛々しい感じのする千手観音です。
一番左の「千手観音立像(平安初期・国宝)」は像高約266cmも見応え充分の仏像で、この大きな3躰の仏像が並ぶ様には圧倒されるしかありませんでした。
最後の3面目にも仏像が並んでいましたが、もうそこに並ぶ仏像まではとても記憶しきれずで、吉祥天立像が数躰並んでいたことだけを覚えています。

何とも素晴らしい仏像群に興奮してしまいましたが、建築物で見たかった「桂宮院本堂(鎌倉前期・国宝)」は拝観不可ということでしたので残念ながら断念することになりました。
桂宮院本堂は八角堂、いわゆる夢殿でしたのでミステリアルな聖徳太子のファンとしては是非見てみたかったのですけど、これはまたの機会ということになります。



五本筋塀の桂宮院の門の後方には、凄まじいまでの勢いのある木が見えます。千手観音の手のように見えると言うと少し言い過ぎかもしれませんけどね。
京都では東寺・三十三間堂など素晴らしい仏像の数々が祀られた寺院がいくつかありますが、この広隆寺も「弥勒菩薩半跏像」を始めとして素晴らしい仏像群が収蔵されている寺院だと思います。


コメント
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