高月町西野地区は余呉川と山に挟まれた集落で、かつて大雨のたびに氾濫を起こし水害の被害に悩まされたといいます。
余呉川や赤川に近い高月の別の集落でも水害の被害の話を聞きましたが、1845年充満寺(西野薬師堂)の第11世・恵荘上人の土木事業によって西野水道が掘られて、水害から守られるようになりました。
西野水道は高さ2m、幅1.5m、長さ220mのトンネルで、ノミだけを使い6年の歳月をかけて掘り抜かれたとされます。
とてつもない労力で掘られたトンネルになりますが、その後に放水路が2本作られて現在は1980年に作られた放水路が使用されていいます。
2代目の放水路は1950年に作られたもので、以前は舗装されていなかった記憶(勘違いかも?)のあるこの水路を歩いて抜けたことがありますが、何かとても怖かった記憶があります。
初代の岩穴も保全されているので現在も通ることは出来ますが、狭くて薄暗い不気味な岩穴に見えてしまい、とてもじゃないけど入る勇気はありません。
寺院の歴史はかつて当地に泉明寺という寺院があり、782~785年に伝教大師・最澄が「薬師如来」「十一面観音」「十二神将」の像を刻み納めたとされます。
その後の戦乱で寺院は荒廃していき、1518年では浅井家の兵火によって堂宇は焼失してしまったとされます。
堂宇が焼失した時、里人によって救い出された仏像が現在も残され「薬師如来」「十一面観音」ともに国の重要文化財に指定されています。
西野薬師堂は、浄土真宗・充満寺の管理下に入り仏像は安置されているのですが、これは湖北で盛んな浄土真宗信仰と観音信仰が並立する湖北独特のスタイルともいえます。
西野薬師堂では観音堂の外から見えるだけでも仏像の良さが伺われます。
この小さなお堂の中の簡素な須弥壇に安置された仏像の素晴らしさに心が奪われてしまいます。
須弥壇での並びとパンフレットの写真の並びは左右が逆ですが、パンフレット写真の左におられるのが「木造伝薬師如来立像」で像高約160cm・欅の一本造り、重要文化財の仏像です。
「伝薬師如来」と「伝」が付いているのは薬師如来に欠かせない「薬壺」を持っていないことによるもので、別の説では「説法相の阿弥陀如来」という考え方があるようです。
仏像は平安時代の10世紀中頃から11世紀始めに製作されたものと推定されているようです。
写真右は「木造十一面観音立像」。平安初期に製作されたもので、像高約167cm・ヒノキ材で造られています。
堂々とした迫力のある仏像であり、2躰ともに平安仏の良さが感じられる仏像でした。
また、須弥壇の左右には「十二神将の巳と辰」が安置されており、かつては十二神将全てが並ぶ大きな寺院だったことが伺われます。
ところで、西野薬師堂の北の賤ヶ岳方面にある正妙寺には日本にこの1躰だけしか現存しないといわれる金色の「千手千足観音立像」が安置されているといいます。
しかし、何と仏像が西野薬師堂の旧堂に移転されているではないですか!
正妙寺は山の中腹にあるお堂ですので管理面から移動されたのかもしれませんが、隣り合わせの堂宇に「薬師如来」「十一面観音」と今年(2017年)2月から安置されるようになった「千手千足観音立像」の3躰を拝観出来るのは何とも言えない贅沢さを感じます。
異形の観音様を祀る観音堂は、中心に阿弥陀如来坐像(多分)を安置し、須弥壇の右の厨子に「千手千足観音立像」が安置されていました。
千手千足観音の両脇には邪鬼が2躰並び、後方には7躰の念持仏かと思われる像が後方を取り囲んでいます。
「千手千足観音立像」は像高約42cmとやや小ぶりな仏像で江戸時代の作ですが、憤怒の明王のような顔に千手の脇手、頭上に十一面観音の菩薩面・仏面があり、扇状に広がる脇脚はまるで甲殻類を思わせます。
千足観音に関する資料は残っているようですが、図像はないため、本来の千足観音の形相は明らかでないとされます。
しかし、日本に1躰しかない異形の観音様ということは確かなようです。
境内には「力石」という石があり、これは西野丹波の守谷澄が1518年に大溝城(高島郡)へ出陣の折、この力石を7回胸まで持ち上げ武運を氏仏さまに祈願したと伝わる石です。
重さ24貫50匁(92Kg)と書かれてありましたから、かなりの豪傑だったようですね。
西野周辺の集落は三方を山に囲まれ、琵琶湖とは山を挟んだ場所にある農村ですが、この周辺には観音堂が幾つかあり観音信仰の高いところのように感じます。
かつて水害の被害による飢饉などが多かった地であり、救いを求める気持ちから信仰が深まっていったのかもしれません。
余呉川や赤川に近い高月の別の集落でも水害の被害の話を聞きましたが、1845年充満寺(西野薬師堂)の第11世・恵荘上人の土木事業によって西野水道が掘られて、水害から守られるようになりました。
西野水道は高さ2m、幅1.5m、長さ220mのトンネルで、ノミだけを使い6年の歳月をかけて掘り抜かれたとされます。
とてつもない労力で掘られたトンネルになりますが、その後に放水路が2本作られて現在は1980年に作られた放水路が使用されていいます。
2代目の放水路は1950年に作られたもので、以前は舗装されていなかった記憶(勘違いかも?)のあるこの水路を歩いて抜けたことがありますが、何かとても怖かった記憶があります。
初代の岩穴も保全されているので現在も通ることは出来ますが、狭くて薄暗い不気味な岩穴に見えてしまい、とてもじゃないけど入る勇気はありません。
寺院の歴史はかつて当地に泉明寺という寺院があり、782~785年に伝教大師・最澄が「薬師如来」「十一面観音」「十二神将」の像を刻み納めたとされます。
その後の戦乱で寺院は荒廃していき、1518年では浅井家の兵火によって堂宇は焼失してしまったとされます。
堂宇が焼失した時、里人によって救い出された仏像が現在も残され「薬師如来」「十一面観音」ともに国の重要文化財に指定されています。
西野薬師堂は、浄土真宗・充満寺の管理下に入り仏像は安置されているのですが、これは湖北で盛んな浄土真宗信仰と観音信仰が並立する湖北独特のスタイルともいえます。
西野薬師堂では観音堂の外から見えるだけでも仏像の良さが伺われます。
この小さなお堂の中の簡素な須弥壇に安置された仏像の素晴らしさに心が奪われてしまいます。
須弥壇での並びとパンフレットの写真の並びは左右が逆ですが、パンフレット写真の左におられるのが「木造伝薬師如来立像」で像高約160cm・欅の一本造り、重要文化財の仏像です。
「伝薬師如来」と「伝」が付いているのは薬師如来に欠かせない「薬壺」を持っていないことによるもので、別の説では「説法相の阿弥陀如来」という考え方があるようです。
仏像は平安時代の10世紀中頃から11世紀始めに製作されたものと推定されているようです。
写真右は「木造十一面観音立像」。平安初期に製作されたもので、像高約167cm・ヒノキ材で造られています。
堂々とした迫力のある仏像であり、2躰ともに平安仏の良さが感じられる仏像でした。
また、須弥壇の左右には「十二神将の巳と辰」が安置されており、かつては十二神将全てが並ぶ大きな寺院だったことが伺われます。
ところで、西野薬師堂の北の賤ヶ岳方面にある正妙寺には日本にこの1躰だけしか現存しないといわれる金色の「千手千足観音立像」が安置されているといいます。
しかし、何と仏像が西野薬師堂の旧堂に移転されているではないですか!
正妙寺は山の中腹にあるお堂ですので管理面から移動されたのかもしれませんが、隣り合わせの堂宇に「薬師如来」「十一面観音」と今年(2017年)2月から安置されるようになった「千手千足観音立像」の3躰を拝観出来るのは何とも言えない贅沢さを感じます。
異形の観音様を祀る観音堂は、中心に阿弥陀如来坐像(多分)を安置し、須弥壇の右の厨子に「千手千足観音立像」が安置されていました。
千手千足観音の両脇には邪鬼が2躰並び、後方には7躰の念持仏かと思われる像が後方を取り囲んでいます。
「千手千足観音立像」は像高約42cmとやや小ぶりな仏像で江戸時代の作ですが、憤怒の明王のような顔に千手の脇手、頭上に十一面観音の菩薩面・仏面があり、扇状に広がる脇脚はまるで甲殻類を思わせます。
千足観音に関する資料は残っているようですが、図像はないため、本来の千足観音の形相は明らかでないとされます。
しかし、日本に1躰しかない異形の観音様ということは確かなようです。
境内には「力石」という石があり、これは西野丹波の守谷澄が1518年に大溝城(高島郡)へ出陣の折、この力石を7回胸まで持ち上げ武運を氏仏さまに祈願したと伝わる石です。
重さ24貫50匁(92Kg)と書かれてありましたから、かなりの豪傑だったようですね。
西野周辺の集落は三方を山に囲まれ、琵琶湖とは山を挟んだ場所にある農村ですが、この周辺には観音堂が幾つかあり観音信仰の高いところのように感じます。
かつて水害の被害による飢饉などが多かった地であり、救いを求める気持ちから信仰が深まっていったのかもしれません。