米原市には「ヤマトタケル(日本武尊)」にまつわる伝承が幾つか残されており、「伊吹山」「居醒の清水(醒ヶ井」「磯」にその伝承が残ります。
「伊吹山」には“伊吹山の荒ぶる神を退治に向かい、伊吹山の神である白猪をののしったことにより、神の怒りを買い、雹に打たれて傷ついた。”という伝承がある。
「居醒の清水」には“伊吹山の雹によって傷ついたヤマトタケルが居醒の清水湧き水を飲んで正気を取り戻し、大和の国へ出立した。”という伝承があります。
また、琵琶湖に面した「磯」集落には居醒の清水の伝承に反して“伊吹山で傷ついたヤマトタケルは琵琶湖の畔まで辿り着いたものの、息絶えてしまい、磯の地に葬られた墓から大きな白鳥が飛び立って行った。”という伝承が残る。
醒ヶ井駅からすぐの距離にある「居醒の清水」から、丹生川をさかのぼっていった所には「下丹生古墳」が残されているといいます。
ヤマトタケルとは関係はありませんが、古代の米原に興味を感じて古墳へと向かいました。
河川に“丹生川”と名が付き、上丹生・下丹生という集落があることから、かつて丹生(水銀)採掘が行われていた地と思われ、古墳があるということは古代に丹を採掘していた豪族がいたことになります。
米原市教育委員会の解説文では「息長丹生真人」の一族の墳墓と考えられており、息長氏は古代に現在の米原市のほぼ全域を本拠とした豪族だといいます。
車1台通るのがやっとの林道に少々怯むが、難なく古墳のある場所に到着する。
「下丹生古墳」は古墳時代後期の6世紀後半に築造された円墳で、標高150mの見晴らしの良い場所に築かれているのは眺望を意識した立地だといいます。
古墳の規模は直径14.5m、高さ3.5mあるといい、石室の全長は7.5m。玄室の大きさは長さ5.3m、幅1.6m・高さ1.2m・通路部分は2.2mと奥の深い石室となっている。
入口は麓の集落を見下ろすような方向にあるのは、「息長丹生真人」の一族の権威の象徴となっているようにも受け取れる。
奥に長い石室は高さが低く、内部が真っ暗で奥にまで這って行く勇気はなかったが、入口から少し入って中の様子を伺う。
幸いにして暗闇に光る眼などはありませんでしたが、山の中の深い穴ですから少々不気味です。
ところで、ヤマトタケルは伊吹山の神の怒りにふれ、伊勢の能褒野で死んだいうのが一般的ですが、米原市の磯では伊吹山で傷ついたヤマトタケルが琵琶湖畔で亡くなり、磯山に葬られたという伝承が残ります。
葬られた磯山には現在は道路工事によって消滅した「ヒジリ山古墳」「神塚古墳」「円山西古墳」など古墳の密集地となっており、琵琶湖に面した場所には「磯崎神社」が祀られています。
「磯崎神社」は、湖岸道路を通ると彦根市と米原市の境目にある神社で、大きな「不動明王石仏」と琵琶湖に突き出したような「烏帽子岩」が気になっている場所でした。
縁起によると創建は、ヤマトタケルが磯の地で亡くなった時に御陵を築いたのが最初とされ、その後聖武天皇の勅命で社殿が建立され、江戸時代に彦根井伊藩によって再建されたといいます。
琵琶湖と道路を挟んだ場所にあるのは鳥居のみで、本殿は磯山の上まで行かなければ参拝出来ない。
石段を登って行って気が付くのは石灯籠の多さ。
磯崎神社では毎年5月にヤマトタケルの蝦夷討伐を模した「磯武者行列」の例祭が行われるといい、石灯籠を奉納される方が多いのかと思います。
参道や境内には末社の祠が幾つか並び、山の高台には清楚な本殿が建ち、右横には大きな磐座が祀られている。
本殿の後方には「後宮(宝篋印塔)」の祠があり、そこが磯山の西の行き止まりとなる。
巨石群は、注連縄の巻かれた磐座を幾つかの岩で支えているようであり、横には磐座に向かって踏みしめられた道がある。
この磐座がいつからあったか等は不明ですが、低山ながら古墳の密集地ですから石の文化が根付いていたのでしょう。
現在は干拓されていますが、かつて磯の地の周辺は内湖が広がっていたといい、昔は琵琶湖に突き出した半島のようだったとされます。
また、磯村の隣の朝妻筑摩の一部は1819年の大地震によって湖底に沈み(尚江千軒遺跡)といいますから、磐座はここに座して数々の歴史を見てきたのでしょう。
磐座を支える巨石の隙間からは岩を抱きかかえるようにして根を張った樹木があります。
よくこんな生え方したものだと感心してしまう生命力の強さを感じます。
「磯崎神社」の磐座は本堂の裏側から眺めた方がその巨大さがよく分かります。
山の斜面にただ乗っているだけのように不安定な姿に見えますが、うまく支えられているようです。
神社とは反対側の方向に鳥居があり、稜線づたいに緩やかな道を歩くことが出来る。
道の先には縄文時代の遺跡「磯山城遺跡」や戦国時代に城のあった「磯山城跡」があるようだったが、特に何もなさそうなので折り返して戻る。
さて、磯山からの眺望です。
こういう光景を眺めると、琵琶湖が海のように大きく広く見えます。
琵琶湖の水は山の中腹から見ても透き通るように透明で、岸辺には「烏帽子岩」が見えます。
車で通る時に車中から少し見ただけの烏帽子岩は、実はこのような巨石群でした。
水鳥も少ないながらに見えたが、もうヒドリガモ・キンクロハジロ・オオバン程度になっており、膨大な数のカモが浮いていた冬のシーズンは過ぎ去っています。
次は場所を変えて琵琶湖の岸辺から烏帽子岩を眺める。
“磯で亡くなったヤマトタケルの墓標として烏帽子岩を置いた。”とも伝わるこの巨石は、北側から眺めると「烏帽子岩」となり、東側から眺めると「結びの岩」となる。
「磯崎神社」のすぐ近くの湖岸道路のコーナー部に祀られているのは「不動明王石仏」です。
この不動明王は磯崎神社のものか、別の関係のものかなどは全く分かりませんが、湖岸道路を走行すれば必ず目に入ってくる石仏です。
これは近江の国に限ったことではありませんが、県内各所に縄文時代・弥生時代・古墳時代の痕跡が残っているのは興味深い話です。
縄文時代には既に各地との交易ネットワークがあったことが遺跡からの出土品から確認されているといいます。
「伊吹山」には“伊吹山の荒ぶる神を退治に向かい、伊吹山の神である白猪をののしったことにより、神の怒りを買い、雹に打たれて傷ついた。”という伝承がある。
「居醒の清水」には“伊吹山の雹によって傷ついたヤマトタケルが居醒の清水湧き水を飲んで正気を取り戻し、大和の国へ出立した。”という伝承があります。
また、琵琶湖に面した「磯」集落には居醒の清水の伝承に反して“伊吹山で傷ついたヤマトタケルは琵琶湖の畔まで辿り着いたものの、息絶えてしまい、磯の地に葬られた墓から大きな白鳥が飛び立って行った。”という伝承が残る。
醒ヶ井駅からすぐの距離にある「居醒の清水」から、丹生川をさかのぼっていった所には「下丹生古墳」が残されているといいます。
ヤマトタケルとは関係はありませんが、古代の米原に興味を感じて古墳へと向かいました。
河川に“丹生川”と名が付き、上丹生・下丹生という集落があることから、かつて丹生(水銀)採掘が行われていた地と思われ、古墳があるということは古代に丹を採掘していた豪族がいたことになります。
米原市教育委員会の解説文では「息長丹生真人」の一族の墳墓と考えられており、息長氏は古代に現在の米原市のほぼ全域を本拠とした豪族だといいます。
車1台通るのがやっとの林道に少々怯むが、難なく古墳のある場所に到着する。
「下丹生古墳」は古墳時代後期の6世紀後半に築造された円墳で、標高150mの見晴らしの良い場所に築かれているのは眺望を意識した立地だといいます。
古墳の規模は直径14.5m、高さ3.5mあるといい、石室の全長は7.5m。玄室の大きさは長さ5.3m、幅1.6m・高さ1.2m・通路部分は2.2mと奥の深い石室となっている。
入口は麓の集落を見下ろすような方向にあるのは、「息長丹生真人」の一族の権威の象徴となっているようにも受け取れる。
奥に長い石室は高さが低く、内部が真っ暗で奥にまで這って行く勇気はなかったが、入口から少し入って中の様子を伺う。
幸いにして暗闇に光る眼などはありませんでしたが、山の中の深い穴ですから少々不気味です。
ところで、ヤマトタケルは伊吹山の神の怒りにふれ、伊勢の能褒野で死んだいうのが一般的ですが、米原市の磯では伊吹山で傷ついたヤマトタケルが琵琶湖畔で亡くなり、磯山に葬られたという伝承が残ります。
葬られた磯山には現在は道路工事によって消滅した「ヒジリ山古墳」「神塚古墳」「円山西古墳」など古墳の密集地となっており、琵琶湖に面した場所には「磯崎神社」が祀られています。
「磯崎神社」は、湖岸道路を通ると彦根市と米原市の境目にある神社で、大きな「不動明王石仏」と琵琶湖に突き出したような「烏帽子岩」が気になっている場所でした。
縁起によると創建は、ヤマトタケルが磯の地で亡くなった時に御陵を築いたのが最初とされ、その後聖武天皇の勅命で社殿が建立され、江戸時代に彦根井伊藩によって再建されたといいます。
琵琶湖と道路を挟んだ場所にあるのは鳥居のみで、本殿は磯山の上まで行かなければ参拝出来ない。
石段を登って行って気が付くのは石灯籠の多さ。
磯崎神社では毎年5月にヤマトタケルの蝦夷討伐を模した「磯武者行列」の例祭が行われるといい、石灯籠を奉納される方が多いのかと思います。
参道や境内には末社の祠が幾つか並び、山の高台には清楚な本殿が建ち、右横には大きな磐座が祀られている。
本殿の後方には「後宮(宝篋印塔)」の祠があり、そこが磯山の西の行き止まりとなる。
巨石群は、注連縄の巻かれた磐座を幾つかの岩で支えているようであり、横には磐座に向かって踏みしめられた道がある。
この磐座がいつからあったか等は不明ですが、低山ながら古墳の密集地ですから石の文化が根付いていたのでしょう。
現在は干拓されていますが、かつて磯の地の周辺は内湖が広がっていたといい、昔は琵琶湖に突き出した半島のようだったとされます。
また、磯村の隣の朝妻筑摩の一部は1819年の大地震によって湖底に沈み(尚江千軒遺跡)といいますから、磐座はここに座して数々の歴史を見てきたのでしょう。
磐座を支える巨石の隙間からは岩を抱きかかえるようにして根を張った樹木があります。
よくこんな生え方したものだと感心してしまう生命力の強さを感じます。
「磯崎神社」の磐座は本堂の裏側から眺めた方がその巨大さがよく分かります。
山の斜面にただ乗っているだけのように不安定な姿に見えますが、うまく支えられているようです。
神社とは反対側の方向に鳥居があり、稜線づたいに緩やかな道を歩くことが出来る。
道の先には縄文時代の遺跡「磯山城遺跡」や戦国時代に城のあった「磯山城跡」があるようだったが、特に何もなさそうなので折り返して戻る。
さて、磯山からの眺望です。
こういう光景を眺めると、琵琶湖が海のように大きく広く見えます。
琵琶湖の水は山の中腹から見ても透き通るように透明で、岸辺には「烏帽子岩」が見えます。
車で通る時に車中から少し見ただけの烏帽子岩は、実はこのような巨石群でした。
水鳥も少ないながらに見えたが、もうヒドリガモ・キンクロハジロ・オオバン程度になっており、膨大な数のカモが浮いていた冬のシーズンは過ぎ去っています。
次は場所を変えて琵琶湖の岸辺から烏帽子岩を眺める。
“磯で亡くなったヤマトタケルの墓標として烏帽子岩を置いた。”とも伝わるこの巨石は、北側から眺めると「烏帽子岩」となり、東側から眺めると「結びの岩」となる。
「磯崎神社」のすぐ近くの湖岸道路のコーナー部に祀られているのは「不動明王石仏」です。
この不動明王は磯崎神社のものか、別の関係のものかなどは全く分かりませんが、湖岸道路を走行すれば必ず目に入ってくる石仏です。
これは近江の国に限ったことではありませんが、県内各所に縄文時代・弥生時代・古墳時代の痕跡が残っているのは興味深い話です。
縄文時代には既に各地との交易ネットワークがあったことが遺跡からの出土品から確認されているといいます。