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“男のためのガーデニング”改め

「依智秦氏の里古墳公園」と「豊満神社」~滋賀県愛知郡愛荘町~

2021-01-07 12:58:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県内の神社や寺院を巡っていると渡来人が残した、あるいは渡来人の影響の痕跡が数多く残されていることに驚きます。
渡来人は古代の日本に稲作技術に始まり、灌漑などの土木技術や養蚕による繊維加工、製鉄技術や土器の製作。漢字の流入や仏教公伝、医学の知識などを持ち込んだとされています。

愛知郡愛荘町には渡来人「依智秦氏」の6世紀~7世紀頃に造られたとされる10基の古墳が公園として整備されて残されています。
古墳の正式な名称は「上蚊野古墳群」といい。もとは102基の古墳があったようですが、戦後の開墾などで大部分が壊され公園内には10基の古墳を残すのみとなってしまったそうです。



また、「上蚊野古墳群」は西に196基の古墳がある「蚊野外古墳群」と合わせて「金剛寺野古墳群」と総称され、計298基からなる県下最大規模の古墳群とされている。
1個1個の古墳はそれほど大きなものではありませんが、小山のような古墳が寄り添うように10基並んでいる光景はこれまであまり見たことのない古墳群でした。



解説板によるとここには2種類の異なった構造の石室の古墳があるといい、片や横穴式石室の古墳ともう一方は竪穴系横口式石室の古墳だといいます。
ただし、横穴式石室の古墳は羨道の入口に網が掛かっていて内部を伺い知ることはできませんが、よくある古墳の構造なのかと思います。

 

上の「こうもり塚 3号墳」と下の「百塚 1号墳」は、共に横穴式石室の古墳で羨道内部は全く見えません。
横穴式は羨道床と玄室床が水平となっていることから、家族墓として追葬を可能としていると書かれていました。





これに対して「たぬき塚 7号墳」は玄室床面が羨道より約35センチ低くなっている階段式の石室構造となっているようです。
「竪穴系横口式石室」は滋賀県で安土町・竜王町・水口町に見られるそうですが、全国的には北九州地方に集中しているといい、そのことが渡来系氏族の墳墓と考えられる根拠となっているともされる。



古墳の呼び名に「こうもり」とか「たぬき」とかが付いていますが、これは昔コウモリや狸が住み着いていたことによるそうです。
上蚊野古墳群で羨道や石室に入れるのは「たぬき塚」だけとはいえ、草も生えていますので入口から覗くのみとする。



羨道と玄室は床のたかさが違い、階段状になっていましたので、これが「竪穴系横口式石室」の構造となるのでしょう。
石室の内部の調査では、人骨や棺材は残っていなかったものの、耳環・鉄製刀子・土器(須恵器)などが発見されているようです。



「たぬき塚」は発掘調査の時には既に天井石が抜き取られていて、現在の天井石は公園整備の時につけられたもの。
自然光を取り込むガラスがはめ込まれていて中は明るいので見やすいのですが、少し違和感も感じます。



この古墳群を含む「金剛寺野古墳群」は、この地を治めていた依智秦氏の一族の古墳だとされています。
自治体名としても「愛知(依智えち)」が付き、旧町名は「秦荘」であることから、古代より依智秦氏が勢力を持っていた地と考えてよいのかと思います。

秦氏の起源には諸説ありますが、渡来して勢力を持つと各地に拠点を作って活躍していた一族とされ、その系統の中に依智秦氏は位置するようです。
秦氏の代表的な人物としては聖徳太子に仕えた秦河勝の名が上げられますが、聖徳太子と湖東地方との関係の深さの陰には秦氏の協力があったと考えると、興味が湧いてきますね。

この後、歩いて行ける距離にある「八幡神社」にある4基の古墳を見に行きましたが、草や木の茂り方が凄く、とても入ることが出来なかったため、諦めて引き返す。
さて、せっかく愛荘町にいますので「豊満神社」に参拝してから帰ることにします。



豊満神社は創祀年代は定かではないとされているが、滋賀県神社庁のHPには“この地開拓の依智秦氏が祭祀したと伝えられ...”と書かれている。
御祭神は大國主命・足仲彦命(仲哀天皇)・ 息長足姫命・譽田別尊(応神天皇)とし、勝運・縁結び・美人祈願・厄除などの御利益があるという。



鳥居の横には「津島神社」が祀られ、背後には竹林がある。
この竹林は、神功皇后「勝運伝説の竹藪」と呼ばれ、神功皇后が朝鮮征伐の折りにこの辺りの竹で旗竿場に持参したところ見事に勝利を収めたという伝承があるといいます。

そのため、源頼朝や豊臣秀次など多くの武将がこの神社の竹で旗竿を作って戦勝祈願したことから、「旗の宮」と称したといわれます。
また、「旗」と「秦」が同音であることから、「秦の宮」と解し、渡来系氏族 依智秦氏に由来するという説もあるようです。



鳥居から入り直して参道を進むと、檜皮こけら鎧葺の朱塗りの四脚門へと到着する。
四脚門は鎌倉時代末期の建立とされる鮮やかで均整のとれた美しい門です。



社殿は織田信長の兵火以降、幾たびかの火災などにみまわれながらも都度復旧したが安政元年(1854年)火災に遭ってしまったといい、現在の社殿は万延元年1860年に復興したものとされます。
勝運の「旗神さま」の御由緒から武家の信仰を集めただけあって、本殿は力強く猛々しい印象のある本殿です。



「豊満神社」は多くの武将たちが戦勝祈願をしたことから勝運の神として信仰されている反面、「豊満(とよみつ)」名前から、容姿向上や美人祈願の神としても親しまれているようです。
本殿の裏の森には「美人の木」という樹齢300年とされるムクの木があり、長く伸びた根が女性の美脚を想像させることから、美人祈願に訪れる方も多いという。



また、森の中には首長竜を思わせるような「恐竜の木」もあり、訪れる人を楽しませているという。



御朱印には「旗神」の判が押されており、やはりこの神社は勝運の「旗神さま」の神社なのだろう。
確かめようもありませんが、気になるのは「旗」が「秦」のことなのか、依智秦氏とどのような関わりがあったのか、ということですね。




コメント
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