滋賀県には聖徳太子にまつわる伝承や伝説が多く残り、聖徳太子によって開基されたという寺院が99寺にも及ぶという。(朝日新聞記事による)
聖徳太子が実際に当時の淡海の国で活躍したかどうかは怪しいところですが、一つには飛鳥から淡海を通って越前から挑戦半島を行き来した聖徳太子ゆかりの渡来人の影響があったのかもしれません。
滋賀県では聖徳太子の伝説が多く残る反面、比叡山延暦寺を中心とした天台宗文化が多くの残るなかで、比叡山延暦寺の西塔にも聖徳太子の伝説に由来する「椿堂」があります。
現在「椿堂」では堂内と御本尊・千手観世音菩薩像が初めての特別公開されていますので、西塔エリアではまず椿堂へと向かいました。
「椿堂」は、聖徳太子が比叡山に登られた時に使った椿の杖が地に挿されたまま残され、やがて芽を出し大きく育ったという伝説に由来する御堂とされます。
最澄に遡ること約200年も前に聖徳太子が比叡山に入山したのは伝説の域は出ないと思いますが、それだけ太子信仰には根強いものがあるのでしょう。
西塔の参詣道から入り、「にない堂」や「釈迦堂」とは別方向へ進むとすぐに椿堂が見えてきます。
御堂の横には巨樹が2本。御堂の正面にはスローブが付けられていて、まだ新しいスローブの木の色が奥に輝く黄金色の「千手観世音菩薩像」を浮き上がらせるように見えます。
椿堂の説明板には“お堂の傍に伝説因んだ椿の大木があります。”と書かれていたが、御堂の周辺には杉の巨木はあっても椿の大木は見当たらない。
椿堂に居られた僧侶の方に聞いてみると“鐘楼の横にある椿がその木です。”とのことで、下がその椿の木です。
「千手観世音菩薩像」は像高は約85cmで黄金色に輝き、結縁の五色線が拝所までつながっています。
本尊の胎内には約9センチの胎内仏の「菩薩半跏像」が納められていたといい、7世紀の作とされる「菩薩半跏像」は比叡山に伝わる仏像で最古のものだといいます。
延暦寺の解説板には“太子は如意輪観音像3体を泰安し、一つは大和の橘寺・もう一つは京都六角堂に、残る一つを比叡山の椿堂に安んじた。”
“如意輪観音は三寸(約9センチ)であったことから、千手観音の木造を造って胎内仏として埋め込んだ。”
“比叡山焼き討ちの際は大泉坊乗慶が三井寺に隠し、焼き討ち後の再興に及んでこの地に戻した。”とある。
過去には通貨するだけだった「椿堂」の特別御開扉が拝観出来ましたので、次は西塔の「にない堂」方向へ歩き出します。
常行堂では現在90日間の「四種三昧」の最中でありお静かに!と注意書きがあり、堂内では常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧の行が行われていたようです。
「四種三昧」は三年籠山行の後に行われる修行で、中国の天台大師による『摩訶止観(まかしかん)』に基づく修行だという。
静まり返った「にない堂」も霧に包まれており、自然のゆらぎや鳥や蝉の声だけが響いています。
「にない堂」から石段を下って「釈迦堂(転法輪堂)」へ着くが、参拝は後にして釈迦堂の横から再び山の中へ入ります。
「釈迦堂(転法輪堂)」の左から入る山道が千日回峰行のルートだと思いますが、ほどなく「延暦寺相輪橖」が見えてきます。
「延暦寺相輪橖」は高さ11.65mの橖で、三重塔や五重塔の屋根にある相輪を柱に付けた仏塔の一種とされ、元は最澄が820年に創建。
中には妙法蓮華経や毘盧遮那経を納めたと伝えられているという。
現在の相輪橖は明治28年頃に改鋳された青銅製の橖で国の重要文化財に指定されている。
橖の下部の蓮華座の上には天女の彫刻が施されているが、ここも霧で霞んでしまい細部までは見えない。
相輪橖の近くには「弥勒石仏」があったはずなのだが、見つからずしばらく周辺の道を歩いて探してみる。
前に訪れた時はすぐに見つかったのになぜか場所が分からない。よくよく見るとシダの間に道らしきものがある。
雨で濡れたシダの間をすり抜けるのは何とも気持ち悪いので駆け足で通り抜けると香炉ケ丘にある「弥勒石仏」が見えてきた。
「弥勒石仏」は像高2.5mの大きな石仏座像で、鎌倉初期の石仏だとされます。
光背が欠けているのは信長の比叡山焼き討ちが原因ともいわれることもあり、かつてはこの辺りにあった弥勒堂が荒廃して石仏だけが残ったという話もあるという。
この石仏が発見されたのは1959年のことだといい、ある女性が釈迦堂の後ろの丘に大きな石仏があるのを発見されたのだとか。
おそらくは数百年の間、草の中に埋もれ、あるいは草に覆い隠されて風雪から守られてきたともいえる石仏ですが、霞んだ山の中でポツンと佇んでおられる姿はあまりにも孤独で且つ美しい。
石仏の背後に回り込んで光背を見ると、3つの丸い輪の中に梵字が刻まれています。
梵字は「釈迦」「文殊」「普賢」の釈迦三尊を表しているといい、下部の四角い彫り込みは経典を納めるための場所だとされています。
回峰道は先に進めば「玉体杉」から横川エリア-八王子山を経て日吉大社まで続きますが、ここまでで折り返す。
釈迦堂に参拝して境内を歩いていると、「円戒国師寿塔」のある場所に出る。
円戒国師は西塔南上坊で20年間修学されていたが、10年に及ぶ応仁文明の大乱(応仁の乱)でおきた世の惨状を見るに忍びず、社会浄化に身を挺するため、「黒谷青龍寺」に隠棲されたという。
いわゆる生前葬となる訳ですが、先ほど訪ねた「黒谷青龍寺」との縁を感じざるを得ません。
ここで気づいたのは石仏や石塔にはさまれて「板碑」が祀られていたこと。
「板碑」は鎌倉時代から安土桃山時代にかけてつくられた供養塔ですが、関東に多いとされ滋賀県では見かける機会の少ない石塔です。
西塔の最期に境内にある2本の合体杉の間に祀られた石仏を拝んで帰ります。
勝手に「木の又地蔵」と呼びますが、杉の又の部分に祀られた石仏と苔むした地面との対比が美しい場所です。
これでこの日、比叡山で予定していた場所はこれで全て巡ることができました。(「玉体杉」「黒谷青龍寺」「椿堂特別御開扉」+α)
最後に横川エリアに立ち寄ることにしますが、ここまできてやっと霧がはれてきた。なんか日常に戻っていってしまうような残念さを感じます。
聖徳太子が実際に当時の淡海の国で活躍したかどうかは怪しいところですが、一つには飛鳥から淡海を通って越前から挑戦半島を行き来した聖徳太子ゆかりの渡来人の影響があったのかもしれません。
滋賀県では聖徳太子の伝説が多く残る反面、比叡山延暦寺を中心とした天台宗文化が多くの残るなかで、比叡山延暦寺の西塔にも聖徳太子の伝説に由来する「椿堂」があります。
現在「椿堂」では堂内と御本尊・千手観世音菩薩像が初めての特別公開されていますので、西塔エリアではまず椿堂へと向かいました。
「椿堂」は、聖徳太子が比叡山に登られた時に使った椿の杖が地に挿されたまま残され、やがて芽を出し大きく育ったという伝説に由来する御堂とされます。
最澄に遡ること約200年も前に聖徳太子が比叡山に入山したのは伝説の域は出ないと思いますが、それだけ太子信仰には根強いものがあるのでしょう。
西塔の参詣道から入り、「にない堂」や「釈迦堂」とは別方向へ進むとすぐに椿堂が見えてきます。
御堂の横には巨樹が2本。御堂の正面にはスローブが付けられていて、まだ新しいスローブの木の色が奥に輝く黄金色の「千手観世音菩薩像」を浮き上がらせるように見えます。
椿堂の説明板には“お堂の傍に伝説因んだ椿の大木があります。”と書かれていたが、御堂の周辺には杉の巨木はあっても椿の大木は見当たらない。
椿堂に居られた僧侶の方に聞いてみると“鐘楼の横にある椿がその木です。”とのことで、下がその椿の木です。
「千手観世音菩薩像」は像高は約85cmで黄金色に輝き、結縁の五色線が拝所までつながっています。
本尊の胎内には約9センチの胎内仏の「菩薩半跏像」が納められていたといい、7世紀の作とされる「菩薩半跏像」は比叡山に伝わる仏像で最古のものだといいます。
延暦寺の解説板には“太子は如意輪観音像3体を泰安し、一つは大和の橘寺・もう一つは京都六角堂に、残る一つを比叡山の椿堂に安んじた。”
“如意輪観音は三寸(約9センチ)であったことから、千手観音の木造を造って胎内仏として埋め込んだ。”
“比叡山焼き討ちの際は大泉坊乗慶が三井寺に隠し、焼き討ち後の再興に及んでこの地に戻した。”とある。
過去には通貨するだけだった「椿堂」の特別御開扉が拝観出来ましたので、次は西塔の「にない堂」方向へ歩き出します。
常行堂では現在90日間の「四種三昧」の最中でありお静かに!と注意書きがあり、堂内では常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧の行が行われていたようです。
「四種三昧」は三年籠山行の後に行われる修行で、中国の天台大師による『摩訶止観(まかしかん)』に基づく修行だという。
静まり返った「にない堂」も霧に包まれており、自然のゆらぎや鳥や蝉の声だけが響いています。
「にない堂」から石段を下って「釈迦堂(転法輪堂)」へ着くが、参拝は後にして釈迦堂の横から再び山の中へ入ります。
「釈迦堂(転法輪堂)」の左から入る山道が千日回峰行のルートだと思いますが、ほどなく「延暦寺相輪橖」が見えてきます。
「延暦寺相輪橖」は高さ11.65mの橖で、三重塔や五重塔の屋根にある相輪を柱に付けた仏塔の一種とされ、元は最澄が820年に創建。
中には妙法蓮華経や毘盧遮那経を納めたと伝えられているという。
現在の相輪橖は明治28年頃に改鋳された青銅製の橖で国の重要文化財に指定されている。
橖の下部の蓮華座の上には天女の彫刻が施されているが、ここも霧で霞んでしまい細部までは見えない。
相輪橖の近くには「弥勒石仏」があったはずなのだが、見つからずしばらく周辺の道を歩いて探してみる。
前に訪れた時はすぐに見つかったのになぜか場所が分からない。よくよく見るとシダの間に道らしきものがある。
雨で濡れたシダの間をすり抜けるのは何とも気持ち悪いので駆け足で通り抜けると香炉ケ丘にある「弥勒石仏」が見えてきた。
「弥勒石仏」は像高2.5mの大きな石仏座像で、鎌倉初期の石仏だとされます。
光背が欠けているのは信長の比叡山焼き討ちが原因ともいわれることもあり、かつてはこの辺りにあった弥勒堂が荒廃して石仏だけが残ったという話もあるという。
この石仏が発見されたのは1959年のことだといい、ある女性が釈迦堂の後ろの丘に大きな石仏があるのを発見されたのだとか。
おそらくは数百年の間、草の中に埋もれ、あるいは草に覆い隠されて風雪から守られてきたともいえる石仏ですが、霞んだ山の中でポツンと佇んでおられる姿はあまりにも孤独で且つ美しい。
石仏の背後に回り込んで光背を見ると、3つの丸い輪の中に梵字が刻まれています。
梵字は「釈迦」「文殊」「普賢」の釈迦三尊を表しているといい、下部の四角い彫り込みは経典を納めるための場所だとされています。
回峰道は先に進めば「玉体杉」から横川エリア-八王子山を経て日吉大社まで続きますが、ここまでで折り返す。
釈迦堂に参拝して境内を歩いていると、「円戒国師寿塔」のある場所に出る。
円戒国師は西塔南上坊で20年間修学されていたが、10年に及ぶ応仁文明の大乱(応仁の乱)でおきた世の惨状を見るに忍びず、社会浄化に身を挺するため、「黒谷青龍寺」に隠棲されたという。
いわゆる生前葬となる訳ですが、先ほど訪ねた「黒谷青龍寺」との縁を感じざるを得ません。
ここで気づいたのは石仏や石塔にはさまれて「板碑」が祀られていたこと。
「板碑」は鎌倉時代から安土桃山時代にかけてつくられた供養塔ですが、関東に多いとされ滋賀県では見かける機会の少ない石塔です。
西塔の最期に境内にある2本の合体杉の間に祀られた石仏を拝んで帰ります。
勝手に「木の又地蔵」と呼びますが、杉の又の部分に祀られた石仏と苔むした地面との対比が美しい場所です。
これでこの日、比叡山で予定していた場所はこれで全て巡ることができました。(「玉体杉」「黒谷青龍寺」「椿堂特別御開扉」+α)
最後に横川エリアに立ち寄ることにしますが、ここまできてやっと霧がはれてきた。なんか日常に戻っていってしまうような残念さを感じます。