今年の『観音の里ふるさとまつり』は、まず高月町の西側の山麓にある観音堂を巡り、次に高月の西側の平野部にある観音堂を巡ります。
高月町には観音堂がほぼ集落ごとにありますので、隣接している集落だと歩いてすぐに次の観音堂へ到着することの出来る一帯もあります。
このエリアでは保延寺集落と雨森集落に集中する観音堂を巡り、「保延寺阿弥陀堂」「己高山観音寺(雨森観音堂)」「保延寺観音堂」に参拝します。
そこから一路東へ向かって歩きながら井口集落の観音堂を巡って、JR高月駅近くの観音堂に参拝することにします。
「保延寺阿弥陀堂」は白山神社の境内地にあり、入口にある太鼓橋を渡って鳥居をくぐって境内人入ります。
感覚的に白山神社は山麓近くにあることが多いように思いますが、これは白山信仰の影響なのでしょうか。
境内に入ると、建物としては白山神社より阿弥陀堂の方が大きな建物となっていて、阿弥陀堂が中心となっている。
しかし、鳥居から続く石の参道は神社の拝殿まで続いているので、あくまでも信仰の中心は白山神社のようである。
「保延寺阿弥陀堂」には三躰の阿弥陀像が安置されており、阿弥陀如来は中尊と右が「定印」を結び、左は「来迎印」を結びます。
製作時代は中尊と右が室町時代、左が江戸期、特に中尊と左の仏像の顔が酷似していていることから同じ系の仏師の作と思われます。
保延寺の一帯は、白鳳時代の寺の屋根瓦や古銭が大量に発見されており、この近くには花寺という大寺院が栄えていたと伝わります。
また、ここにも最澄の伝説が残り、最澄が彫刻した仏像に「保延寺阿弥陀」があったというが、あったとしても現在のものとは別物ですね。
方丈池から見た阿弥陀堂。
広い境内に立派な社務所、阿弥陀堂の右に白山神社の拝殿と本殿があります。
次の「己高山観音寺(雨森観音堂)」は、「保延寺阿弥陀堂」から少し歩いただけのところにあり、変わった形をした野神さんのケヤキが出迎えてくれる。
この野神さんは雨森集落と保延寺集落の2つの集落でお祀りしており、枝ぶりが歪な感じになっているのは2018年の台風で枝が折れたのだという。
雨森観音堂の横にも背の高いスギの木が複数あり、田園地帯の真ん中にある境内地にも関わらず、樹勢の良い木に囲まれた御堂です。
限られた境内の敷地内にこれだけの林が出来ているのを見ると、この観音堂の歴史の長さを思わざるを得ません。
御堂の正面の厨子には「十一面観音立像」、左に毘沙門天・右に不動明王ですから、この観音堂も天台宗系の三尊形式で祀られています。
他にも「薬師如来像」「弁財天」などの仏像が祀られており、立地的なこともあるのかこの辺りから竹生島信仰の弁財天を祀る観音堂が出てきます。
御本尊の十一面観音立像は湖北では特殊な仏像で、脇手の一対を頭上高く掲げ、組み合わされた両手の上に小座仏を戴く。
いわゆる清水寺式と呼ばれる仏像で別名「袋懸観音」といわれるそうです。
雨森観音堂は天台宗寺院だったことから織田信長と浅井・朝倉軍との兵火により御本尊以外は焼失したという。
その後、再建されたものの明治12年に御本尊・本堂が悉く焼失。
村人は比叡山に参り、十一面観音・毘沙門天・不動明王の三尊像を勧請し、本堂を再建して今もお護りされているといいます。
保延寺には阿弥陀堂ともうひとつ別の観音堂があって、そちらの観音堂の方はよく考えれば行った記憶がありません。
御本尊の「千手観音立像」は見ていますが、見たのは2018年に保延寺阿弥陀堂で、その時は台風21号の影響で仏像が避難してきていたのでした。
「保延寺観音堂」は田圃と民家の間のスペースにある小じんまりとした御堂で、厨子がひとつあり、その中に「千手観音立像」が安置されています。
大和の長谷寺から移されたと伝わるという千手観音像は、像高17cmのミニチュアサイズの仏像で浅井氏ゆかりの仏像だといいます。
造りは素朴ながらお顔の表情が柔和で手も緻密に出来ていて、室町時代の仏師の作だという。
仏像の長谷寺からの勧請には浅井大和という人が関係したといい、出家して仏像を勧請して観音堂を建てたという。
実際に浅井氏には浅井亮政の弟に政信(大和守)という人がいたようだが、その人が仏像を授かったのかは分からない。
保延寺集落や雨森集落から井口集落まではさほどの距離ではないので再び歩き出します。
お昼を過ぎるとやや強めの風も冷たくは感じなくなり、日光の暖かさが心地良い。
高月町には観音堂がほぼ集落ごとにありますので、隣接している集落だと歩いてすぐに次の観音堂へ到着することの出来る一帯もあります。
このエリアでは保延寺集落と雨森集落に集中する観音堂を巡り、「保延寺阿弥陀堂」「己高山観音寺(雨森観音堂)」「保延寺観音堂」に参拝します。
そこから一路東へ向かって歩きながら井口集落の観音堂を巡って、JR高月駅近くの観音堂に参拝することにします。
「保延寺阿弥陀堂」は白山神社の境内地にあり、入口にある太鼓橋を渡って鳥居をくぐって境内人入ります。
感覚的に白山神社は山麓近くにあることが多いように思いますが、これは白山信仰の影響なのでしょうか。
境内に入ると、建物としては白山神社より阿弥陀堂の方が大きな建物となっていて、阿弥陀堂が中心となっている。
しかし、鳥居から続く石の参道は神社の拝殿まで続いているので、あくまでも信仰の中心は白山神社のようである。
「保延寺阿弥陀堂」には三躰の阿弥陀像が安置されており、阿弥陀如来は中尊と右が「定印」を結び、左は「来迎印」を結びます。
製作時代は中尊と右が室町時代、左が江戸期、特に中尊と左の仏像の顔が酷似していていることから同じ系の仏師の作と思われます。
保延寺の一帯は、白鳳時代の寺の屋根瓦や古銭が大量に発見されており、この近くには花寺という大寺院が栄えていたと伝わります。
また、ここにも最澄の伝説が残り、最澄が彫刻した仏像に「保延寺阿弥陀」があったというが、あったとしても現在のものとは別物ですね。
方丈池から見た阿弥陀堂。
広い境内に立派な社務所、阿弥陀堂の右に白山神社の拝殿と本殿があります。
次の「己高山観音寺(雨森観音堂)」は、「保延寺阿弥陀堂」から少し歩いただけのところにあり、変わった形をした野神さんのケヤキが出迎えてくれる。
この野神さんは雨森集落と保延寺集落の2つの集落でお祀りしており、枝ぶりが歪な感じになっているのは2018年の台風で枝が折れたのだという。
雨森観音堂の横にも背の高いスギの木が複数あり、田園地帯の真ん中にある境内地にも関わらず、樹勢の良い木に囲まれた御堂です。
限られた境内の敷地内にこれだけの林が出来ているのを見ると、この観音堂の歴史の長さを思わざるを得ません。
御堂の正面の厨子には「十一面観音立像」、左に毘沙門天・右に不動明王ですから、この観音堂も天台宗系の三尊形式で祀られています。
他にも「薬師如来像」「弁財天」などの仏像が祀られており、立地的なこともあるのかこの辺りから竹生島信仰の弁財天を祀る観音堂が出てきます。
御本尊の十一面観音立像は湖北では特殊な仏像で、脇手の一対を頭上高く掲げ、組み合わされた両手の上に小座仏を戴く。
いわゆる清水寺式と呼ばれる仏像で別名「袋懸観音」といわれるそうです。
雨森観音堂は天台宗寺院だったことから織田信長と浅井・朝倉軍との兵火により御本尊以外は焼失したという。
その後、再建されたものの明治12年に御本尊・本堂が悉く焼失。
村人は比叡山に参り、十一面観音・毘沙門天・不動明王の三尊像を勧請し、本堂を再建して今もお護りされているといいます。
保延寺には阿弥陀堂ともうひとつ別の観音堂があって、そちらの観音堂の方はよく考えれば行った記憶がありません。
御本尊の「千手観音立像」は見ていますが、見たのは2018年に保延寺阿弥陀堂で、その時は台風21号の影響で仏像が避難してきていたのでした。
「保延寺観音堂」は田圃と民家の間のスペースにある小じんまりとした御堂で、厨子がひとつあり、その中に「千手観音立像」が安置されています。
大和の長谷寺から移されたと伝わるという千手観音像は、像高17cmのミニチュアサイズの仏像で浅井氏ゆかりの仏像だといいます。
造りは素朴ながらお顔の表情が柔和で手も緻密に出来ていて、室町時代の仏師の作だという。
仏像の長谷寺からの勧請には浅井大和という人が関係したといい、出家して仏像を勧請して観音堂を建てたという。
実際に浅井氏には浅井亮政の弟に政信(大和守)という人がいたようだが、その人が仏像を授かったのかは分からない。
保延寺集落や雨森集落から井口集落まではさほどの距離ではないので再び歩き出します。
お昼を過ぎるとやや強めの風も冷たくは感じなくなり、日光の暖かさが心地良い。
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