今年の『観音の里ふるさとまつり』は、巡回バスのIコースを利用しながら歩ける区間は歩いて移動することにしました。
当日はやや強い風に吹かれながらも空は晴天で、長閑な湖北の田園地帯をのんびりと歩きました。
田圃には渡り鳥のノビタキの姿が見え、林の中ではエゾビタキの姿があり、渡りの野鳥が季節を感じさせてくれます。
琵琶湖にはすでにコハクチョウやヒシクイが飛来していますので、季節は一気に冬の季節を迎えようとする気配があります。
観音の里ふるさとまつりの最西の石道寺の拝観が終わったので、次は「安楽寺釈迦堂」へと向かいます。
己高山仏教圏は、奈良仏教に己高山の山岳信仰・白山信仰・天台宗などが混在して広がっていったとされています。
湖北には少ない「白山神社」は、己高山の山麓近くで見かけることが多いのは、白山信仰の影響かもしれません。
「安楽寺釈迦堂」は白山神社の境内にあり、この一帯には寺院があったとみられる寺跡や、坊や堂や殿の付く寺院由来の小字名が点在しているという。
しかし、寺勢盛んだった一山寺坊もやがて衰微して諸堂が老朽化していったといいます。
昭和56年には国県町の援助や、町内有縁の方々のご芳志により現在の収蔵庫が完成し、仏像を安置出来るようになったそうです。
安楽寺釈迦堂(尾山釈迦堂)には半丈六の座像が2躰あるので迫る迫力に圧倒されます。
「木造釈迦如来坐像」は像高156cmで平安期の作、「木造大日如来坐像」は像高139cmで平安期の作だという。
しかし、後世(室町~江戸初期)に大きな修復があったようで文化財指定は去れていないそうです。
「大日如来坐像」は金剛界の大日如来を示す智拳印を結んでいます。
胎蔵界の大日如来は法界定印を結び、密教では「理」を示すのが胎蔵界、「智」を示すのが金剛界とされるが、理解するのは難しい。
顔も手も大作りになっていて重量感を感じるのが釈迦如来坐像で、平安時代の中頃(10世紀頃)の作とされています。
収蔵庫に2躰の仏像が並ぶと圧倒されるように迫るものがあり、大きな修復を経てもその姿をとどめているのはありがたいことです。
話が違うやんかと思ったのは、巡回バスの時刻表で安楽寺釈迦堂(尾山釈迦堂)から次の西光寺までの所要時間が2分とあったのにかなり遠かったことです。
バスの所要時間が5分なら20分くらい歩けばいいという感じだったのですが、20分以上歩いたように思います。
しかも集落の入口にはこの看板!集落の奥でなく入口にこの看板(多分外から来る人向け)だからちょっと怖いですね。
田部集落には長亀山 西光寺があり、御本尊は伝教大師(最澄)の作とされる十一面観音菩薩をお祀りしています。
延暦年間(782~805年)にこの地を訪れた最澄が観音菩薩・不動明王・毘沙門天(天台宗系三尊)を刻んで開基したとされます。
仏像の三尊は「阿弥陀三尊(阿弥陀如来と脇侍の観音菩薩と勢至菩薩)「釈迦三尊(釈迦如来と脇侍の文殊菩薩と普賢菩薩)がある。
これに対して天台宗の三尊形式は「天台宗三尊(観音菩薩と脇侍の不動明王と毘沙門天)」になるそうです。
西光寺は現在地より北西2百mの山麓に観音堂・阿弥陀堂・薬師堂の3つの堂宇があったが、1491年に現在地に移転したとされます。
現在ある西光寺薬師堂は1987年に浄財によって再建されたものだといい、同じ境内に本堂となる西光寺と薬師堂が並びます。
須弥壇には立派な厨子を挟んで不動明王と毘沙門天が、厨子の中に祀られた十一面観音立像を守護しています。
十一面観音立像は先述の通り最澄のお手彫りですが、寺院などを巡ると最澄・空海・聖徳太子のお手彫りや伝承がとても多い。
天台宗では最澄は聖徳太子の弟子であるとか、生まれ変わりであるとか言われており、天台宗王国だった近江に聖徳太子や最澄の伝承が多い理由になっているようです。
そこには新仏教との信者の競合や政治的な理由もあったでしょうから、聖徳太子≒最澄はある意味で宗派の生き残り戦略だったのでしょう。
隣に並ぶ薬師堂にも伝承があって、954年にこの地で苦患に喘ぐ里人のために薬師如来像を撮り出し御本尊として祀るように申されたという。
この旅の僧こそが恵心僧都(源信)といわれ、薬師如来像は源信の手になるものだと伝えられているとされます。
さて、田部集落から巡回バスに乗って一旦、JR高月駅まで戻って渡岸寺の観音堂の門前市会場をのぞいてみます。
この渡岸寺の前にも野神さんが祀られていて、川沿いに生えたケヤキは幹周3.2m樹高10mで推定樹齢300年だとあります。
毎年8月16日にはシャギリ囃子でにぎやかで盛大な野神祭りが執り行われるそうです。
渡岸寺の山門から参道は出店が並んで、多くの方が祭りを楽しんでおられます。
湖北の寺院にはあまりない山門には阿吽の仁王像が睨みを効かせており、かなり修復されているようだが平安時代前・中期の像とされます。
渡岸寺には国宝の「十一面観音立像」や重要文化財の「胎蔵界大日如来座像」が安置されていますが、ここは観音まつりの時に行かなくても会える仏像です。
露店を見て回りましたが、雰囲気だけ味わって本堂前まで行って折り返し、次の観音堂へと向かいます。
歩いている途中の湖北の長閑な風景です。
稲刈りの終わった田圃が多いのですが、この田圃はまだ刈り取られておらず、ノビタキの遊び場になっていました。
後方の山は馬上山と後方に小谷山でしょうか?湖北の西側は山ばかり。
当日はやや強い風に吹かれながらも空は晴天で、長閑な湖北の田園地帯をのんびりと歩きました。
田圃には渡り鳥のノビタキの姿が見え、林の中ではエゾビタキの姿があり、渡りの野鳥が季節を感じさせてくれます。
琵琶湖にはすでにコハクチョウやヒシクイが飛来していますので、季節は一気に冬の季節を迎えようとする気配があります。
観音の里ふるさとまつりの最西の石道寺の拝観が終わったので、次は「安楽寺釈迦堂」へと向かいます。
己高山仏教圏は、奈良仏教に己高山の山岳信仰・白山信仰・天台宗などが混在して広がっていったとされています。
湖北には少ない「白山神社」は、己高山の山麓近くで見かけることが多いのは、白山信仰の影響かもしれません。
「安楽寺釈迦堂」は白山神社の境内にあり、この一帯には寺院があったとみられる寺跡や、坊や堂や殿の付く寺院由来の小字名が点在しているという。
しかし、寺勢盛んだった一山寺坊もやがて衰微して諸堂が老朽化していったといいます。
昭和56年には国県町の援助や、町内有縁の方々のご芳志により現在の収蔵庫が完成し、仏像を安置出来るようになったそうです。
安楽寺釈迦堂(尾山釈迦堂)には半丈六の座像が2躰あるので迫る迫力に圧倒されます。
「木造釈迦如来坐像」は像高156cmで平安期の作、「木造大日如来坐像」は像高139cmで平安期の作だという。
しかし、後世(室町~江戸初期)に大きな修復があったようで文化財指定は去れていないそうです。
「大日如来坐像」は金剛界の大日如来を示す智拳印を結んでいます。
胎蔵界の大日如来は法界定印を結び、密教では「理」を示すのが胎蔵界、「智」を示すのが金剛界とされるが、理解するのは難しい。
顔も手も大作りになっていて重量感を感じるのが釈迦如来坐像で、平安時代の中頃(10世紀頃)の作とされています。
収蔵庫に2躰の仏像が並ぶと圧倒されるように迫るものがあり、大きな修復を経てもその姿をとどめているのはありがたいことです。
話が違うやんかと思ったのは、巡回バスの時刻表で安楽寺釈迦堂(尾山釈迦堂)から次の西光寺までの所要時間が2分とあったのにかなり遠かったことです。
バスの所要時間が5分なら20分くらい歩けばいいという感じだったのですが、20分以上歩いたように思います。
しかも集落の入口にはこの看板!集落の奥でなく入口にこの看板(多分外から来る人向け)だからちょっと怖いですね。
田部集落には長亀山 西光寺があり、御本尊は伝教大師(最澄)の作とされる十一面観音菩薩をお祀りしています。
延暦年間(782~805年)にこの地を訪れた最澄が観音菩薩・不動明王・毘沙門天(天台宗系三尊)を刻んで開基したとされます。
仏像の三尊は「阿弥陀三尊(阿弥陀如来と脇侍の観音菩薩と勢至菩薩)「釈迦三尊(釈迦如来と脇侍の文殊菩薩と普賢菩薩)がある。
これに対して天台宗の三尊形式は「天台宗三尊(観音菩薩と脇侍の不動明王と毘沙門天)」になるそうです。
西光寺は現在地より北西2百mの山麓に観音堂・阿弥陀堂・薬師堂の3つの堂宇があったが、1491年に現在地に移転したとされます。
現在ある西光寺薬師堂は1987年に浄財によって再建されたものだといい、同じ境内に本堂となる西光寺と薬師堂が並びます。
須弥壇には立派な厨子を挟んで不動明王と毘沙門天が、厨子の中に祀られた十一面観音立像を守護しています。
十一面観音立像は先述の通り最澄のお手彫りですが、寺院などを巡ると最澄・空海・聖徳太子のお手彫りや伝承がとても多い。
天台宗では最澄は聖徳太子の弟子であるとか、生まれ変わりであるとか言われており、天台宗王国だった近江に聖徳太子や最澄の伝承が多い理由になっているようです。
そこには新仏教との信者の競合や政治的な理由もあったでしょうから、聖徳太子≒最澄はある意味で宗派の生き残り戦略だったのでしょう。
隣に並ぶ薬師堂にも伝承があって、954年にこの地で苦患に喘ぐ里人のために薬師如来像を撮り出し御本尊として祀るように申されたという。
この旅の僧こそが恵心僧都(源信)といわれ、薬師如来像は源信の手になるものだと伝えられているとされます。
さて、田部集落から巡回バスに乗って一旦、JR高月駅まで戻って渡岸寺の観音堂の門前市会場をのぞいてみます。
この渡岸寺の前にも野神さんが祀られていて、川沿いに生えたケヤキは幹周3.2m樹高10mで推定樹齢300年だとあります。
毎年8月16日にはシャギリ囃子でにぎやかで盛大な野神祭りが執り行われるそうです。
渡岸寺の山門から参道は出店が並んで、多くの方が祭りを楽しんでおられます。
湖北の寺院にはあまりない山門には阿吽の仁王像が睨みを効かせており、かなり修復されているようだが平安時代前・中期の像とされます。
渡岸寺には国宝の「十一面観音立像」や重要文化財の「胎蔵界大日如来座像」が安置されていますが、ここは観音まつりの時に行かなくても会える仏像です。
露店を見て回りましたが、雰囲気だけ味わって本堂前まで行って折り返し、次の観音堂へと向かいます。
歩いている途中の湖北の長閑な風景です。
稲刈りの終わった田圃が多いのですが、この田圃はまだ刈り取られておらず、ノビタキの遊び場になっていました。
後方の山は馬上山と後方に小谷山でしょうか?湖北の西側は山ばかり。
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