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第40回 『観音の里ふるさとまつり』1/5~柏原・高野・石道~

2024-10-23 17:25:52 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 『観音の里ふるさとまつり』は今年で40回目を迎えており、当方は2017年より巡礼を始めて昨年全ての観音堂への参拝を終えました。
途中コロナ渦で中止の年や拝観見送りの観音堂があったものの、西浅井町や余呉町の観音の御開帳があった年もあり、まだ見ぬ仏像との縁が結ばれました。
通常予約拝観の観音堂に行くのはなかなか敷居が高いのですが、このイベントでは気の向くままの参拝が叶います。

さて今年はどの観音堂へ行こうかというところですが、今年は31の観音堂で御開帳があり、一日で全てはとても回れないので選択に悩みます。
最後に拝観して何年も経っている観音堂がありますので、今年は巡回バスのIコースを利用することにして高月町・木之本町の西側の観音堂を巡ります。



JRの高月駅に着くと既に大勢の方がおられ、お昼ごはん用に白蒸し(しらむし)を買っている一瞬の間に始発の巡回バスが満席となる。
まだ発車まで時間があるにも関わらずの満員御礼となり、次のバスまで40分ちょっとの待ち時間がある。

とはいえ、今年はなるべく歩いて移動するつもりでしたので、時間を無駄にしないように歩き出します。
この日は一部区間で巡回バスも利用しましたが、歩いた距離は20㌔近かったのでいい運動になりましたね。



最初の観音堂は「柏原阿弥陀堂」で正式には「白寿山 来光寺」という寺院です。
圧巻なのは境内入口に聳える「八幡神社のケヤキ(野神ケヤキ)」で、親しみを込めて「柏原の野神さん」とも呼ばれるそうです。
このケヤキは幹周8.96m、樹高22m、推定樹齢300年以上という湖北最大の巨樹です。



地名の“高月”は槻(ケヤキ)の大木が多かったことから“高槻”と呼ばれるようになり、その後平安時代の歌人大江匡房が月見の名所と詠んだことから“高月”になったとされる。
高月町の観音堂や神社を巡るとケヤキの大木が多いことに驚きますが、野神ケヤキには及ばないものの、境内にあるケヤキも巨樹と呼べる大木です。



「柏原阿弥陀堂」には御本尊の阿弥陀如来立像と薬師如来立像・脇侍の日光菩薩と月光菩薩、眷属の十二神将が祀られています。
薬師如来立像(像高97.6cm)は平安期の作とされますが、現存保存されていないとのことで国の文化財指定はされていないようです。

湖北には数多くの観音さまや如来がおられますが、何らかの手が加えられていることで文化財になっていないものが多い。
とはいえ、観音さまはあくまでも信仰や村人の心の拠り所な訳ですから、文化財評価はあまり関係ないといえます。




(阿弥陀如来立像)

柏原から北西方向に歩いて行くと、小さな祠が祀られており、その後方には「佐味神社の三本杉」という巨樹があります。
御神木の樹高はそれぞれ12m/25m/25m、幹周は295cm/460cm/470cmあり、かつては何か祭礼の場所あるいは有力氏族の埋葬地だったのかもしれません。



井口集落の理覚院まで歩いて行くと、ちょうど巡回バスが来たので、先に山側の観音堂に参拝するべくバスに乗ります。
山麓に面した高野集落には村外れの村の出入口となる場所に「野大神」の石碑が立てられた野神さんが出迎えてくれます。



野神さんは村の出入口にあって農耕の神・五穀豊穣を祈願するものと考えられており、村の外れに結界のようにして祀られています。
野大神は幹周450cm、樹高30mほどあり、樹冠が大きく広がっている。
根元に祀られた石仏や石塔は土地を整備した際に掘り出されたものかと想像する。



「高野大師堂」の境内には高野神社・満願寺・大師堂が横並びにお祀りされており、他の幾つかの観音堂と同様に神仏習合の名残りが濃い寺院です。
湖北の神仏の信仰は、村に神社と寺院(主に浄土真宗寺院)がそれぞれあって更に観音堂があるという独特の信仰形態があります。

湖北地方には己高山を中心とした山岳信仰に、奈良仏教や白山信仰の影響が入り、天台宗が混じり合っていった己高山仏教圏があったとされます。
天台宗は戦国時代に勢いを失い、その後の明治維新の際の神仏分離令や廃仏希釈によって湖北の信仰は随分と様変わりしていったことが想像されます。



「満願寺(薬師堂)」には薬師如来坐像・脇侍の日光・月光菩薩立像と眷属の一二神将が祀られています。
また薬師如来を中心にして天台宗特有の三尊形態となる不動明王と毘沙門天が並びます。



御本尊の薬師如来坐像は恰幅の良い大病院のお医者さんのようなイメージがあり、願えば病気を治してくれそうな仏さんです。
この仏像はいつの時代の仏像か分からなかったのですが、織田信長と比叡山との対立や浅井長政との合戦がなければ...。
もっと数多くの仏像や堂宇などが残されていたと思うと残念でなりません。



「大師堂」には伝・伝教大師像とされる座像が安置されています。
高野神社・満願寺・大師堂共に己高山を背にして建てられており、どの建物も傷みがあまり見られず、地元の方の信仰の篤さを感じます。



大師像は鎌倉期(1283年の墨書あり)の仏像で国の重要文化財に指定されているという。
この像は伝教大師・最澄の肖像とされてきたようですが、現在は第十八代天台座主の慈恵大師こと元三大師の肖像と考えられているようです。
元三大師は同じ長浜の虎姫出身ということもありますが、そのお姿から元三大師ではないかとみられているようです。



さて、次は更に己高山に近づいて石道の「石道寺」へと向かいます。
石道寺も己高山を背にした寺院で726年に開基された後、伝教大師により天台宗として再興し、己高山五箇寺として繁栄したという。



石道寺は鶏足寺と並ぶ紅葉の名所ですが、その鶏足寺は石道寺の別院で東へ1㌔ほど山の中にかつては寺院があったそうです。
寺院は戦国時代に織田信長の兵火で全焼し、明治期には無住の寺院になったという。
大正3年に現在の場所に移築して、厨子・仏像を新しい石道寺に移してお守りされているといいます。



御本尊の「木造十一面観音立像 (平安時代中期・重要文化財)」は唇に紅をさしたかのような穏やかな表情で慈しみの観音さま。
欅の一木造りで像高173.2cmと等身大の観音さまは右足の親指が上を向いていて、今にも人を救いに歩き出しそうです。



『観音の里ふるさとまつり』はまずは西の最奥まで行って、東へ向かう巡回バスを待とうと思います。
高月町の観音堂から木之本町の観音堂まで来ましたが、もう1つ木之本の観音堂に参拝してから高月町に戻ります。



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