奥山へと向かう林道を進んだ先にある神社へ参拝してみると、人影は見えず誰も来ていないにも関わらず、神事の準備がされていました。
山の中という場所の特異さもあって、祭りの最中のような光景には狐に化かされたような不思議な感覚と、すでに祭りが始まっているかのようなハレの空間に驚くばかりでした。
長浜市谷口町は、金糞岳や伊吹山などが連なる伊吹山系の麓にあり、西側には浅井三代で知られた小谷山を望む小さな盆地にあります。
徳川時代には谷口集落は天領であり、木材の伐採が厳しく制限されていて必要な分だけしか伐採が許されなかったことにより、良質の大径木の山だったといいます。
山に挟まれた縦に長い集落の外れまでくると、おそらくは林業関係の人しか通らないようなスギ林の道を進むことになる。
この辺りはツキノワグマが出没しても不思議ではない場所で、「クマ剥ぎ」の被害もあるということですから、車を降りてから大丈夫かなぁとやや不安な気持ちを持ちつつも林道を進む。
ただ、林道の両脇には川柳なども書かれた手作りの行燈が吊るされており、ひとけはないものの人間の出入りが感じられてほっとした気分になる。
林道を進んでいくと「三輪神社」の石標が見えてきて、奥に鳥居のある場所に到着したが、山の中にあって手作りの行燈や提灯が吊るされている光景は不思議な世界に紛れ込んだ感覚さえ憶える。
神社の周辺の山には手入れの行き届いたスギが林立しています。
江戸時代から続く「谷口杉」は、私有林147ヘクタールに約30万本のスギが植えられているといい、樹齢300年を超える巨木が10本程度あるとされます。
スギが伐採されることはほとんどなくなっているとされますが、枝打ちなどはしっかり行われているようです。
スギ林の山から流れ出る清らかな川に架かる橋を渡って鳥居へと進みますが、この位置から見るだけでも雰囲気のある美しい神社であることが実感できる。
石段にも行燈が吊るされ、石段の上の境内地には光が差し込んで聖地に来た感が強まります。
鳥居の下には苔が覆いつくしていますが、参拝道は綺麗に下草が刈られており、地元の方の手がよく入っていることが分かります。
湖北の山麓の神社には独特のオーラを感じる神社が多々ありますが、「三輪神社」も神聖で不浄なものを寄せ付けないような神社だと感じます。
境内へ入って驚くのは、社の立派さと何個も置かれた御神燈のある種の異様な光景でした。
陽が沈んだ後に、行燈に火が灯されてぼんやりとした光が輝く様子を想像すると、まるで祖霊が帰ってきたような雰囲気になるのではないでしょうか。
行燈が吊るされているのは何かの神事が行われるのだと分かったのは、入口に御神酒の一升瓶がおいてあり、神コップが準備されていたからでした。
さすがに御神酒は頂きませんでしたが、横にはかがり火も準備されていましたので、日暮れには何かのお祭りが始まるのでしょう。
近くには太鼓型の鐘も準備されていて、祭りが始まったら何度もこの鐘を鳴らすのかもしれません。
いずれにしても山の中で行われるこの祭りが始まる前の時間を一人で過ごすのは表現しようのない昂揚感を感じます。
境内には御神木があり、長浜市の保存樹指定樹木標識によると、このスギは幹周5m・樹高40mで樹齢が500年とされているスギです。
4本の内のどのスギを指しているのか不明ですが、中央の2本は同じくらいのサイズのスギかと思われ、この4本の御神木は集落の方向を向いているように思います。
「三輪神社」は大和の大神神社を勧請して奉斎したのが始まりとされており、当初は村の北一里の寺山の頂上に鎮座していたとされます。
小谷城築城の後、この寺山が艮の方にあたるため鬼門鎮護の神として浅井家の尊敬が篤かったともされており、現在地に移遷されたのは明治24年のことだといいます。
三輪山を神として祀る大神神社に習い、山への原始信仰の強かった地ともいえるこの神社は、参拝してみると神仏習合そのものの神社でもありました。
御祭神に三輪大神を祀りつつも、神社の本殿より「薬師如来堂(仮名)」や「阿弥陀堂」の方が大きな建物となっています。
現地に神社が移遷されたのが明治の中期ですから、神仏分離のほとぼりの冷めた頃に合祀したのかと思われます。
この日は祭事の特別な日らしかったこともあって、二カ所ある玉垣が開かれ本殿の扉までもが開かれていました。
急に思いついて参拝したにも関わらず、特別なハレの日に参拝出来たのは何か導かれるものがあったのかと思いたくなります。
「三輪神社阿弥陀堂」とも呼ばれるこの神社では、「薬師如来坐像」を祀る千鳥軒唐破風付の御堂が最も凝った造りになっています。
山の中にこのような立派な神社があるのは驚きと共に畏怖感を感じざるを得ません。
御堂の中には「薬師如来坐像」が祀られています。
新型コロナウイルス感染症の発生により仏像拝観の機会が激減していた中、山の神社で仏像を拝観出来たのはまさか!と驚く奇跡のような縁でした。
右側に祀られている「阿弥陀堂」も流造の見事な社殿です。
「三輪神社」が移遷された時に建てられたとしたら、築130年の建造物になります。
木材は古色感がありますが、屋根などは定期的に葺き替えてこられたのでしょう。
阿弥陀如来坐像は煤で黒ずんではいますが、お顔は柔和そのものの表情に見えます。
蓮の華の上に座られていて、湯呑も蓮の華の柄の器がお供えされています。
ところで、この林道の途中には「石田神社」という小さな祠が祀られています。
「石田神社」は、関ケ原の合戦で敗れた石田三成が伊吹山の尾根を北上して、吉槻などの東草野谷に逃れ、七曲峠を越えてこの地(谷口)に辿り着いたと伝わります。
当時、ここには谷口六十戸余りの集落があり、庄屋の石田家の床下に手厚く匿われ、その後山中を北へ向かったが、古橋村で捕縛され、最後は六条河原で斬首されたとされます。
光成は匿ってくれたお礼として、刀や石田の姓、鳩八の家紋を与えたといいますが、石田神社では今も新しい石灯籠や石標が奉納されています。
尚、当時の谷口集落は1896年の大洪水によって流出してしまい、現在の谷口町に居を移しているということです。
山の中という場所の特異さもあって、祭りの最中のような光景には狐に化かされたような不思議な感覚と、すでに祭りが始まっているかのようなハレの空間に驚くばかりでした。
長浜市谷口町は、金糞岳や伊吹山などが連なる伊吹山系の麓にあり、西側には浅井三代で知られた小谷山を望む小さな盆地にあります。
徳川時代には谷口集落は天領であり、木材の伐採が厳しく制限されていて必要な分だけしか伐採が許されなかったことにより、良質の大径木の山だったといいます。
山に挟まれた縦に長い集落の外れまでくると、おそらくは林業関係の人しか通らないようなスギ林の道を進むことになる。
この辺りはツキノワグマが出没しても不思議ではない場所で、「クマ剥ぎ」の被害もあるということですから、車を降りてから大丈夫かなぁとやや不安な気持ちを持ちつつも林道を進む。
ただ、林道の両脇には川柳なども書かれた手作りの行燈が吊るされており、ひとけはないものの人間の出入りが感じられてほっとした気分になる。
林道を進んでいくと「三輪神社」の石標が見えてきて、奥に鳥居のある場所に到着したが、山の中にあって手作りの行燈や提灯が吊るされている光景は不思議な世界に紛れ込んだ感覚さえ憶える。
神社の周辺の山には手入れの行き届いたスギが林立しています。
江戸時代から続く「谷口杉」は、私有林147ヘクタールに約30万本のスギが植えられているといい、樹齢300年を超える巨木が10本程度あるとされます。
スギが伐採されることはほとんどなくなっているとされますが、枝打ちなどはしっかり行われているようです。
スギ林の山から流れ出る清らかな川に架かる橋を渡って鳥居へと進みますが、この位置から見るだけでも雰囲気のある美しい神社であることが実感できる。
石段にも行燈が吊るされ、石段の上の境内地には光が差し込んで聖地に来た感が強まります。
鳥居の下には苔が覆いつくしていますが、参拝道は綺麗に下草が刈られており、地元の方の手がよく入っていることが分かります。
湖北の山麓の神社には独特のオーラを感じる神社が多々ありますが、「三輪神社」も神聖で不浄なものを寄せ付けないような神社だと感じます。
境内へ入って驚くのは、社の立派さと何個も置かれた御神燈のある種の異様な光景でした。
陽が沈んだ後に、行燈に火が灯されてぼんやりとした光が輝く様子を想像すると、まるで祖霊が帰ってきたような雰囲気になるのではないでしょうか。
行燈が吊るされているのは何かの神事が行われるのだと分かったのは、入口に御神酒の一升瓶がおいてあり、神コップが準備されていたからでした。
さすがに御神酒は頂きませんでしたが、横にはかがり火も準備されていましたので、日暮れには何かのお祭りが始まるのでしょう。
近くには太鼓型の鐘も準備されていて、祭りが始まったら何度もこの鐘を鳴らすのかもしれません。
いずれにしても山の中で行われるこの祭りが始まる前の時間を一人で過ごすのは表現しようのない昂揚感を感じます。
境内には御神木があり、長浜市の保存樹指定樹木標識によると、このスギは幹周5m・樹高40mで樹齢が500年とされているスギです。
4本の内のどのスギを指しているのか不明ですが、中央の2本は同じくらいのサイズのスギかと思われ、この4本の御神木は集落の方向を向いているように思います。
「三輪神社」は大和の大神神社を勧請して奉斎したのが始まりとされており、当初は村の北一里の寺山の頂上に鎮座していたとされます。
小谷城築城の後、この寺山が艮の方にあたるため鬼門鎮護の神として浅井家の尊敬が篤かったともされており、現在地に移遷されたのは明治24年のことだといいます。
三輪山を神として祀る大神神社に習い、山への原始信仰の強かった地ともいえるこの神社は、参拝してみると神仏習合そのものの神社でもありました。
御祭神に三輪大神を祀りつつも、神社の本殿より「薬師如来堂(仮名)」や「阿弥陀堂」の方が大きな建物となっています。
現地に神社が移遷されたのが明治の中期ですから、神仏分離のほとぼりの冷めた頃に合祀したのかと思われます。
この日は祭事の特別な日らしかったこともあって、二カ所ある玉垣が開かれ本殿の扉までもが開かれていました。
急に思いついて参拝したにも関わらず、特別なハレの日に参拝出来たのは何か導かれるものがあったのかと思いたくなります。
「三輪神社阿弥陀堂」とも呼ばれるこの神社では、「薬師如来坐像」を祀る千鳥軒唐破風付の御堂が最も凝った造りになっています。
山の中にこのような立派な神社があるのは驚きと共に畏怖感を感じざるを得ません。
御堂の中には「薬師如来坐像」が祀られています。
新型コロナウイルス感染症の発生により仏像拝観の機会が激減していた中、山の神社で仏像を拝観出来たのはまさか!と驚く奇跡のような縁でした。
右側に祀られている「阿弥陀堂」も流造の見事な社殿です。
「三輪神社」が移遷された時に建てられたとしたら、築130年の建造物になります。
木材は古色感がありますが、屋根などは定期的に葺き替えてこられたのでしょう。
阿弥陀如来坐像は煤で黒ずんではいますが、お顔は柔和そのものの表情に見えます。
蓮の華の上に座られていて、湯呑も蓮の華の柄の器がお供えされています。
ところで、この林道の途中には「石田神社」という小さな祠が祀られています。
「石田神社」は、関ケ原の合戦で敗れた石田三成が伊吹山の尾根を北上して、吉槻などの東草野谷に逃れ、七曲峠を越えてこの地(谷口)に辿り着いたと伝わります。
当時、ここには谷口六十戸余りの集落があり、庄屋の石田家の床下に手厚く匿われ、その後山中を北へ向かったが、古橋村で捕縛され、最後は六条河原で斬首されたとされます。
光成は匿ってくれたお礼として、刀や石田の姓、鳩八の家紋を与えたといいますが、石田神社では今も新しい石灯籠や石標が奉納されています。
尚、当時の谷口集落は1896年の大洪水によって流出してしまい、現在の谷口町に居を移しているということです。
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