以前紹介した石清水神社拝殿に掲額されている絵馬で退色、剥落した絵馬のうち武将を描いたものが3面みられるが、いづれも何を題材として描いているのかは定かでない。
上絵馬は万延元年(1860)9月、中絵馬は慶応2年(1866)に奉納されたようである。下絵馬の紀年銘が読み取れないが上絵馬と下絵馬画面に同じような字がかすかに見られるので同一人が描いたものかも知れない。
宮島SAから極楽寺参道に向う山沿いに野生のグミの木が2種類ありもう実をつけていた。
上画像の木に左画像の葉が茶緑色で緑ぽい長さが13mm位の実が付いており、少し離れたところには右画像の実が付いた木があった。葉の色は緑で実は褐色ぽく長さが18mm位の細長いものであった。
何れもグミの木の名前があるのであろうが何という名前であろうか。
先日紹介した昭和6年(1931)頃の送電線(栗栖線)であったコンクリート電柱の撤去作業が行われていた。
コンクリート電柱の10号はすでに細切れに切断され搬出できるようにされており、11号は根元を切断して倒されていた。この鉄筋コンクリート電柱は市域では最古級のものとみられていたが撤去は残念である。
栗栖川発電所からの送電線(栗栖線)コンクリート電柱について
厳島港から商店街を通って商店街の終わったところにある標柱までの延長480mが県道170号線厳島港・厳島神社線である。
商店街の道路上には可動式の日覆いテントが設置されており、県道上にこのような日覆いテントが設置されているところはあまりないのではなかろうか。
下西蓮の町並みを散策しているとかつての町屋跡に井戸が残されて手押しポンプがあり井戸覆い屋根には滑車が吊り下げられていた。
滑車がないころは縄の先に結わえつけたツルベで水を汲んでいたものとみられ、滑車の登場で縄の両端にツルベを結わえつけ互い違いに水を汲み上げていたが手押しポンプの登場で滑車が名残りとして残されたようである。
昨年夏に厳島神社反橋の解体修理途中を紹介したが年末に工事は完了したようである。
先日、完成した反橋手摺の親柱先端部に取り付けられている擬宝珠を見ていると解体修理以前のものと違った位置に取り付けられていた。「冶工、廿日市住、山田氏藤原、貞利」と刻されている擬宝珠は南側手摺の廻廊側端の親柱に取り付けられていたが、解体修理後は南側手摺の陸地側端の親柱に取り付けられていた。
反橋は国の重要文化財とされているものであるが・・・
宮島松大汽船の前身は昭和14年(1939)に松本大次郎氏が(合)松大航運社を設立し、昭和32年(1957)に(有)宮島松大観光船、昭和33年(1958)に広電が資本参加して㈱宮島松大汽船となったようである。松大は姓名の一字をとって名付けたようである。
昭和49年(1974)の住宅地図には松大観光専用桟橋と待合所がみられ、2~3年前には待合所名残りの喫茶店があったが現在無くなっている。当ブログ主が子供のころは桟橋はなく雁木(石階段)に松大船を横付けして歩み板を架け渡して乗り降りしていたのを思い出した。
時折紹介している厳島港の整備事業で1工区の工事はすでに終わってJR連絡船の桟橋(向う側)として暫定使用されており、宮島松大汽船の桟橋も東側に仮設移転されている。
現在2工区の埋立工事の準備作業が行われているようで、2隻の小舟で何かを計測されており海中には区画を示すものであろうか青と赤の小旗表示がしてあった。看板表示によると2工区の工期は来年3月22日までとなっていた。
千畳閣に吊り下げられている梵鐘で昭和59年(1984)に福岡県宗像市の八所宮に貸出されて、未だ同宮に吊り下げられていると平成24年(2012)10月9日の当ブログで紹介した。
むなかた電子博物館HPによると平成25年(2013)11月6日に八所宮で返還式典が行われ厳島神社に29年ぶりに返還されて千畳閣に吊り下げられたようである。
平良地区と原地区境にある標高156mのゴゴロ山でなぜこのような珍しい呼称となったのであろうか。江戸期、享保10年(1725)の原村野山腰林山帳に「こころ山」、明治5年(1872)の上平良村地券申受帖に「伍頃山」とあり、大正15年(1926)の平良村是に山林字で「ゴゴロ」がみられる。
ゴゴロ山の西麓では弥生式土器が出土し弥生人の痕跡が残されていたようである。周辺では須恵器も出土し山中には近世から近代の墓地もあることから古くから葬地とされていたようである。
原地区などにみられる田んぼの下にある地下通水路で、廿日市町史通史編(下)の民俗稿にはタンポ(原地区)とあるが原地区の呼称ではないものと思われる。
原地区は傾斜地を開墾して田んぼを造っているので石積みが高く湧水が出るところに地下通水路が設けられたものとみられる。明治10年(1877)の原村景況書には「田底ニ水通水門有、故ニ穴アク事多シ」とある。
二重原八幡神社の随身像で幣殿の両側に安置されているが吹きさらしのために彩色は剥落し腐朽が進んでいる。
この随身像の制作年代は不明であるが寄木造りで一部和釘が使用されているところもみられる。腐朽のためか近代に補修されたと思われる洋釘が使用されているところもみられる。
時折り紹介している廿日市10代目の桜島大根で5株のうち1株の種は青首大根と交配したものとみられ縦長に生育していた。
昨日、その大根を抜いて計測したら9kgあり2歳の孫に持たせたが膝上に置くのが精いっぱいであった。その後少しの衝撃で中央部分に一周のひび割れができた。
桜尾城から長府に移封された毛利秀元は藩邸を関門海峡の海沿いの櫛崎城に置いていたが幕末の情勢が緊迫化して勝山山麓に勝山御殿を築いた。明治に入って豊浦藩庁・豊浦県庁とされ山口県となってから解体されたようで、近年発掘調査が行われて勝山地区公園(上画像)として整備されている。
下画像は秀元の二男元知が長府支藩として清末の地に置かれた清末藩邸跡の碑であるが、藩邸の遺構はほとんど残されていない。洞雲寺にある毛利元清夫妻墓前にある石燈籠は清末藩4代藩主匡訓が献燈したものである。