hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

プリンス・エドワード島 (5) 郵便局とお墓

2007年10月14日 | カナダ東部

赤毛のアン一日観光に参加した。前回、前々回とアンの家(グリーンゲイブルズ・ハウス、恋人の小径、お化けの森)について書いた。

ツアーに含まれているキャベンディシュ・ビーチなどは次回とし、今回は、その他のアン関連をまとめてご報告。

グリーンゲイブルズ郵便局、教会
教会は一般の方が今も通われているとのことで、外観のみ。右の建物が郵便局。
この教会Cavendish United Church は、Evan MacDonald が1903-06年に牧師(minister)をしていたときに、モンゴメリーと出会い結婚することになる教会だ。



郵便局の案内板には、
「赤毛のアンはこのような郵便局で書かれたことをご存知ですか? 
モンゴメリーが育った祖父母の家はキャベンディシュの郵便局を営んでいました。もとの建物は失われましたが、この建物は彼女が小説を書いて、原稿を出版社に送った建物を復元したものです。
内部は近代的な郵便局で、説明展示もあります。モンゴメリーがしたように、どうぞ後ろのドアから入ってください。それがプリンス・エドワード島の伝統です」
とあった。後ろのドアから入れたのだろうか?
モンゴメリーは祖父の郵便局を引き継ぎ3年間郵便業務をしながら、原稿を書いていたという。

中にはいくつかの写真や展示物があり、当時の郵便業務が分かる。




今も夏季には現実に郵便業務が行われている。私たちツアーとは別の日本人女性も幾人かいて、人気の場所のようだ。たった一人の男性たる私はツアー中、常に隅のほうにいた。
「ここのポストから葉書を投函するのが私、夢だったんです」と言いながらニコニコしている夢見る頃を過ぎたご婦人がいた。



夢見るアンの切手(の展示拡大写真)と、自宅についた葉書のスタンプは以下。どうせなら切手もアンのものにすればよかったが、スタンプも今ひとつだ。





余談で、かつ現在の話しだが、プリンス・エドワード島では、家が道路からえらく離れて奥にある場合が多く、個人宅の郵便受けは道路際に設けられている。そして、投函したい郵便物がある場合は、郵便受けに入れておき、赤い旗を立てておくと、郵便屋さんが回収してくれる仕組みだ。




JAMESさん! 勝手に旗を立てて、ごめんなさい。元に戻しておきました。

モンゴメリーのお墓
この墓地は共同墓地なので、もちろんモンゴメリー以外の人の墓が大部分なのだが、入口のアーチには、「RESTING PLACE OF L.M. MONTGOMERY」とデカデカと表示されていた。お墓の入口の石版には、「CAVENDISH CEMETERY 1835年創設」とあり、その下に、「このアーチは1985年にJ.A.Bamberと友人によって寄贈された」とあった。(どうでも良い話でした)



左が1876年に23歳の若さで亡くなったモンゴメリーのお母さんのお墓。右が、1898年に78歳で亡くなった祖父と1911年に87歳で亡くなった祖母 Lucy Ann Woolner のお墓。祖母はとても厳しくモンゴメリーさんを育てたので、赤毛のアンもAnnという表示はいやで、Anneにこだわったとの話しもあるようだ。祖母が大好きだったとの話も聞いた。



モンゴメリーの墓までの道だけは石畳になっていてすぐ分かる。墓地の中で、ここだけが国立公園なので、木の看板も立っている。



花いっぱいの墓の写真と、墓碑の拡大写真を載せる。




墓石の一番上には、ご主人の姓の「MACDONALD」とあり、その下に、ご主人の名前、「REV EWEN MACDONALD 1870-1943」とあり、その下に奥さんの名前、「LUCY MAUD MONTGOMERY MACODONALD」とある。さらにその下に、「WIFE OF EWAN MACDONALD」とあり、生年、没年が、「1874-1942」と刻まれている。
ご主人の名前は正式には一番上の EWENなのだが、モンゴメリーはそれが嫌いで、自分のところにはEWANの妻と記している。ANNとANNEといい、表記にこだわる人だったらしい。




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プリンス・エドワード島 (4) 赤毛のアンの家

2007年10月13日 | カナダ東部
アンの家(Green Gables緑色の切妻屋根と呼ばれた)の中の細かいところをご紹介する。この家は著者モンゴメリーのいとこ David and Margaret MacNeil の家だが、実際彼女もたびたび訪れたという。中の家具、道具などは当時の物を集めてきて展示してある。

庭側から見た家。正面が入り口で、2階の右側の部屋がアンの部屋。親友のダイアナとの通信に使ったランプがあるが写真では良く見えない。



裏側が出口になっている。白い三角錐状のものは井戸。



入口を入り左手が客間。馬の皮張りのソファーがある。当時農耕用に馬がいて、馬の皮は良く使われた。



隣がダイニングルームで、テーブルにはお客様用でめったに使うことができなかったバラ模様のダイニングセットが並べられている。



クルミ材のサイドボードの後ろの壁紙が目立つが、当時はハエが多く、叩き潰しても目立たない模様にしていたとの説明があった(本当?)。



隣はマシューの部屋で、ベッドのステッキがかけてある。椅子にはチョッキがかけてあり、AGRICURTURIST 農夫との新聞が置いてある。




次の間はキッチンで、中央に大きなストーブがある。これは、湯を沸かし、料理し、アイロンを温め、そしてもちろん部屋を暖めるためのもので、夏でも使用した。奥にウインザーチェアがある。



窓際には花が並び、カップボードの下から3段目の奥にはアンがダイアナに飲ませてしまった赤いイチゴ汁(ラズベリー汁)のビンが置いてある。





ホールへ戻り、階段を登ってすぐのアンの部屋には、右奥の壁に、ついにマシューに買ってもらったパフスリーブの服がかけてある。手前の椅子には孤児院から来て駅のベンチに座っていたときに持っていたカバンが置いてある。ベッドにはマイラに作ってもらった普通の袖の服が置いてある。




左手前には学校でアンの髪の毛をつかんで「ニンジン」と言ったギルバートの頭を殴って粉々になった石版が置いてある。



客用寝室の向かいがマイラの部屋で、メガネや、アンのせいにされた失くしたはずの紫水晶のブローチもわざとらしく置いてある。




隣の裁縫室には私の子供のころのものと変わらないミシンがある。



隣の狭い部屋に立てかけてあるテニスラケットのようなものは、雪の日に靴の下につけるカンジキ。



呼ばれたらすぐ降りていけるように階段のすぐ傍に粗末なベッドの使用人の部屋があった。



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プリンス・エドワード島 (3) Green Gables

2007年10月12日 | カナダ東部
赤毛のアン一日観光に参加した。9:30にシャーロットタウンを出発し、16:30頃戻る。ただし、私たちはシャーロットタウンには戻らずキャベンディッシュCavendishのB&Bに1泊した。
途中でジャム&レストランのプリザーブ・カンパニーでロブスターの昼食をとり、その後訪れた場所は、モンゴメリーのお墓、グリーンゲイブルズ郵便局、アンの家(グリーンゲイブルズ・ハウス、恋人の小径、お化けの森)、キャベンディシュ・ビーチ、モンゴメリー生家、グリーンゲイブルズ博物館(銀の森屋敷)、輝く湖水、ケンジントン駅舎である。

このうち、今回はアンの家全体で、次回、アンの家の中を紹介する。次々回と次次々にその他のキャベンディッシュを紹介したい。

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アンの家(屋号のようにGreen Gables緑色の切妻屋根と呼ばれた)は、モンゴメリーの祖父のいとこのディビット・マクニール二世とマーガレット・マクニール、兄妹の住む家、農場でした。モンゴメリー自身はこの家に住んだことはないのですが、周りの林を散策しながら、この農場に親しみ、周囲の林を恋人の小径や、おばけの森と名づけました。
モンゴメリー自身は以下のように書いています。
「アボンリーの大部分はキャベンディシュです。グリーン・ゲレイブルスはディビット・マクニールの家をもとに描きました。しかし、家自体よりも、まわりの環境や景色の描写が中心なのです。私の書いた現実描写の部分は人々の目にもそれとはっきりわかるでしょう」(アンの家で配られた日本語解説文より)
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Visitor Centre で金を払い入場する。料金は季節のよってかなり異なる。




看板の数字 1:Visitor Reception Centre、2:Gift Shop、3:Barn納屋、4:Granary穀物倉、5:Woodshed材木置場、6:Green Gables Houseアンの家、7:Haunted Wood Trailお化けの森、8:Balsam Hollow Trailバルサム樹の窪地トレイル( Lover’s Lane 恋人の小径)

Visitor Reception Centre の中には写真、高価な初版本などの展示と、プリンス・エドワード島紹介の7分ほどのビデオ上映場がある。

17歳(?)と、60歳のモンゴメリー




結婚したときのご主人Macdonald神父の写真



モンゴメリーが使用した極めてシンプルなタイプライタ



左に見える納屋を抜けて、右側のアンの家(写真は裏側)に入る。



途中に置いてある当時の馬車。車輪は鉄でクッションはなく、道も悪かったので、アンが最初にマシューの馬車で駅から家に来たときも相当ゆれたと思われる。



なお、このときに白い花が咲いているリンゴ畑の間を来たと書いてあるが、当時はこのあたりは一面のリンゴ畑だった。その後、病気が発生し全部伐採されてしまった。しかし、今でも野生化したリンゴの木がところどころ見られる。



庭から見たアンの家はいかにも女性好みのかわいい風情だ。2階右側の部屋がアンの部屋で、親友のダイアナとの通信に使ったランプが見える。庭は手入れの行き届いた花が美しい。



アンが恋人の小径 Lover’s Lane と名づけた道は、看板の昔の写真とはだいぶ異なるが、赤い道が木々の緑の映える。この奥に橋などがありBalsam Hollow Trailバルサム樹の窪地トレイルになっていて、20分もかからずに一周できる。




恋人の小径を右にそれたら、そこは牧草地だった。



アンの家の庭から小川を越えて外へ出ると、Haunted Wood Trailお化けの森になる。ここも看板の当時の写真とはだいぶ異なる。そのまま進むと共同墓地などに出る1.6kmの散策道になっている。




モンゴメリー紹介のプレートがあったので、いい加減な訳を以下のご披露する。



LUCY MAUD MONTGOMERY ( 1874-1942 )
世界に名高い作家、Lucy Maud Montgomery はプリンス・エドワード島のNew London に生まれた。母が1876年に死んだ後、母方の祖父母とキャベンディッシュで1911年まで暮らした。結婚後、オンタリオに引越した。キャベンディッシュに住んでいたときに彼女の最初の小説、赤毛のアン Ann of Green Gables (1908 ) を書いた。人気の続編シリーズや、他の評判の小説を続けて出版したが、英語の小説の中でもっとも愛すべき子供の一人であるアンを創造したことにより、Lucy Maud Montgomery の高名が継続、確立したのである。彼女はトロントで亡くなり、キャベンディシュに埋葬されている。

2008年が赤毛のアン出版100周年にあたるので、いろいろな企画が予定されているようだ。

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プリンス・エドワード島 (2)シャーロットタウンの町

2007年10月11日 | カナダ東部
カナダ東部のプリンス・エドワード島の州都シャーロットタウンの港の近くのデルタ Delta hotel に宿泊した。

朝、ホテルから見える塔がそびえるSt. Dunstan’s Basilica セントダンスタンス・バシリカ教会へ行ってみた。地元の人が信仰する教会へ入るのをいつもは控えているが、ちょうどツアーの団体が入って行くので、便乗して中へ入った。入ると派手さはないが、荘厳だ。天井のくもの巣のような梁の模様が面白い。ケベックは昔はカソリックで離婚、中絶などへの戒律が厳しかったと聞いた。プリンス・エドワード島はどうなのだろうか。




司祭(?)の顔写真がいっぱいのステンドグラスがあった。趣味が良いとは言えない。下のほうはまだ追加するつもりなのだろう。



州議事堂 Province House は1847年に建設され、1864年にカナダ連邦を結成するための初の植民地代表者会議が開催されたカナダ連邦発祥の建物(the meeting place of the Fathers of Confederation)だ。設計者のIsaac Smith は正式な教育を受けず大工、建築家になり、コンペに合格してこの建物を設計した。そういえば外観は単純で面白みがない。



2階には連邦誕生の間と呼ばれる会議室や、議事室、図書室などが保存されている。




Queens St. とKent St. の角にはレンガ建ての市庁舎や、Confederation Court Mall がある。後者は連邦会議100周年を記念してカナダ国民が一人15セントずつ出して1964年に設立した総合文化センターと案内書にあった。外観は四角いコンクリートのかたまりで、新しい感じはするが私の趣味ではない。



Queens St. を左折しKent St. を西に400m位進むと、ビーコンフィールド Beaconsfield Historic House がある。1877年に造船業と貿易で財をなしたJames Peakeが建てたビクトリア様式の邸宅で、有料公開されている。ここからビクトリア公園 Victoria Park がはじまり、セントローレンス湾沿いに板張りされた遊歩道Waterfront Boardwalk が続く。



すぐ先にファニングバンクFanningbankが見える。Lieutenant Governorと言ってエリザベズⅡ世の代理としてプリンス・エドワード島を形式的の治めている人(総督?)の邸だ。通常非公開だが、7月と8月に、月曜から金曜日の10am-4pmにガイドツアーがあるらしい。
州政府のホームページ www.gov.pe.ca/ は英語だが、情報豊富で、工夫されていて面白い。灯台の写真のスライドショーは84枚もあるので途中あきらめたが、十分楽しめた。



板張り遊歩道Waterfront Boardwalk はBeaconsfield Historic HouseからVictoria Park poolまで1.3kmあり、Delta hotelからだと、ヨットクラブの周りなどを含め3.2kmある。



当日はマラソン大会が開かれていて、つらそうな顔をした人が2,3人走って来て、引き続き車椅子の人が伴走付で走ってきた。その後、若者が数人走って来たが、大多数の人ははるか後方の住宅街を歩いていた。さすが、プリンスエドワード島。




プリンス・エドワード島は灯台が70?だかあり、美しい写真に魅せられていた。灯台を巡るツアーもあるくらいだ。ホテル近くの港の灯台はいまいちだった。なにしろ建物にくっついているのだから。




そこで、ホテルから遊歩道を歩いて3.2km行き、終点のVictoria Park pool の傍の灯台を見た。白の中の赤が映える。なぜこうも美しいのか、さわやかな空気、あざやかな色彩感覚のためだろうか。日本のしっとりした風景とは異なるさわやかさ、明確さがここにはある。



こんな話をしていては、赤毛のアンのところまで、なかなかたどりつかないので、シャーロットタウンのレストランなどのお話はとばして、次回は赤毛のアンの家の予定。


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プリンス・エドワード島 (1) シャーロットタウンへ

2007年10月10日 | カナダ東部

ケベックからモントリオールで乗継、プリンス・エドワード島( Prince Edward Island、略称 PEI )のシャーロットタウンCharlottetownへ行った。いずれもエアカナダの飛行機はCRJ 100/200 Series の地方用ジェット機だったが、40-50人乗りと小さく、なによりもボンバルディアBombardier と書いてあるのが気になる。
私たち以外にアジア系はいなかった。



荷物は移動台みたいなもので運んでいるし、止まっているときは運転席が丸見えだ。




少し雲があるが、プリンス・エドワード島が見えて来た。




畑の中にポツンポツンとかわいい家が見える。島の土は鉄分を多く含むので赤い。この鉄分がジャガイモの生育に良く、ジャガイモは名産品だ。確か、赤毛のアンのマシューはジャガイモを栽培していたのでは。
ジャガイモは連作を嫌うので2年間はジャガイモを作らず、麦などを植えるので、畑がパッチワークのように違う色でつぎはぎになっていて、赤い土とともに美しさを増している。



プリンス・エドワード島はモントリオール、ケベックなどと時差が1時間あり、飛行機の中で時計を合わせる。私の時計は世界の主な地域に自動的に対応する最新の電波時計なのだが、電波を自動受信する時刻、場所が限られているので、結局いつも飛行機の中で自分で時差表を確かめ、複雑な手動操作をして現地の時差に合わせることになる。この電波時計は失敗だった。竜頭を回す方が圧倒的に簡単で便利だ。

シャーロットタウン空港は搭乗口も到着ゲートの一つの小さな地方空港だ。旅行社の車で南に約8km走りシャーロットタウンのダウンタウンに着く。



ショップやレストランがある主な道路は、Queen St. だが、道路の広さにくらべ店はポツポツとあるだけだ。赤毛のアンがごくたまに町に出てきて、興奮したのがこのシャーロットタウンのQueen St. なのだろうか。Grafton St. との角にはコンフェデレーション・センター・モールがあり、80くらいのテナントが入っているという。



下の写真はホテル前のQueen St.と直交し港近くを走る Water St. だ。


高い建物は港近くの宿泊した Delta Prine Edward ホテルと、教会くらいだ。ホテルから北西を見た写真が以下で、ダウンタウンといっても規制があり落ち着いて静かな町だ。地元の人が買い物をするモール、スーパーや、店は少し離れたところに別にまとまって設けられている。




以下、プリンス・エドワード島( Prince Edward Island、略称 PEI )の一般情報を簡単に書き出してみる。

・ カナダの東海岸にあるセントローレンス河に浮かぶ島で、カナダの州のうちでもっとも小さい州。プリンス・エドワード・アイランド州の州都はシャーロットタウン。
・ カナダ本土とは全長13kmのコンフェデレーション橋で結ばれている。
・ 北米の地図で見ると、ごく小さな島に見えるが、面積は愛媛県ぐらいの広さなので、自転車で回るのはきつい。シャーロットタウンからアンの家のあるキャベンディシュまででも50km近くある。
・ 飛行機は、トロント、ハリファックス、モントリオールからシャーロットタウン空港に飛ぶ。日本からはバンクーバー、トロント経由が一般的。季節のよって便数が異なる。
・ 1864年9月に「シャーロットタウン会議」が開催され、1867年のカナダ連邦制発足と独立への会議が行われた。しかしPEIはこのときは連邦に加盟せず、1873年になってから連邦政府に加盟した。したがって、PEIはカナダ連邦発祥の地。
・ 主な産業は、ジャガイモ、ロブスター漁、牧畜(牛)、観光(赤毛のアン)
・ 人口と同じ13万頭の牛がいるので、アイスクリーム屋の「Cow’s」も有名
・ 消費税 州税(PST):10%、国税(GST):6%、合計16%。洋服、靴、食品(国税はなしの食品もある)には州税がかからない
・ タクシー:メーターはなく、あらかじめ料金が決まっているので運転手に確認する
・ お店は、17時、18時までで閉まることが普通。木・金は21時まで営業している場合が多い。5月から12月までの日曜は午後だけ営業も店もある。
・ 一度、郊外に出ると、店が少ないので、電池、水などの持参が必要



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世界遺産の都市ケベック (4)

2007年10月09日 | カナダ東部

カナダ東部にあり世界文化遺産に登録されているケベックの今回が4報目で、ようやくケベック・シリーズの最終回となった。

ケベックの誕生の地、旧市街のロウワー・タウンは最初のフランス人がセントローレンス河から上陸して川べりの狭い土地の築いたもっとも古い街。この後、崖上のアッパー・タウンに拡大していくことになる。

ロウワー・タウンの中心にあるロワイヤル広場 place Royale は1608年にシャンプランがはじめて植民地住居を建てたケベック発祥の場所だ。中央の銅像はフランスの太陽王ルイ14世だ。



この一角に勝利のノートルダム教会 Eglise Notre-Dame-des-Victoria がある。北米最古の石造りの教会だそうだ。連戦連敗のフランス軍がなぜ「勝利」か分からなかったが、イギリス軍からかろうじて逃げ切った戦いを「勝利」としたらしい。



天井からはフランス軍が乗ってきた木造船のレプリカがつるされ、祭壇は城を模し、左右に武器を持った兵士がいるというユニークな教会だ。



モンターニュ通りを登りかけたところに大きな壁画がある。建物も窓の人物も絵で、ケベックの四季と、歴史上の人物が描かれていて、傍に立って撮る写真撮影の定番の場所。



アッパー・タウンと結ぶ道の一つに首折り階段がある。ここを降りた狭い小道がプチ・シャンプラン地区 Quartier du Petit Champlain で、北米で最も古い繁華街だそうだ。カフェやみやげ物やが多く並んでいる。




通りの途中からアッパー・タウンに登るケーブル・カーであるフニキュレール Funiculaire の乗り場が見える。45度の傾斜を登り、窓からの眺めが良いらしい。



ケベック市から北へ10kmのモンモランシー Montmorency の滝に行った。落差83mはナイアガラの滝より高い。滝の上へはケーブルカーで行くことができ、滝をまたぐ橋がある。この写真はパンフレットからいただいた。



ケーブルカーを登ると、中がちょっとした博物館になっている屋敷がある。遊歩道を行くと、滝の真上を越える橋がある。



まじかでみる滝は迫力圧倒的だ。




橋の上や、途中の展望台から見るセントローレンス河やオルレアン島への橋の眺めは気分爽快。めったに通らないという列車がたまたま見えたので撮影した。




長々引っ張ってきたが、次回からプリンスエドワード島の話になる。

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世界遺産の都市ケベック (3)

2007年10月08日 | カナダ東部

カナダ東部にあり、世界文化遺産に登録されているケベックの3報目で、新市街にあるケベック州議事堂と、旧市街の城壁で囲まれたアッパー・タウンめぐりのご報告。

1886年に建造されたケベック州議事堂 Hotel du Parlement はフランス・ルネッサンス様式の建物で、旧市街の小高い丘に建っていて、パーラメント・ヒル Parliament Hill とも呼ばれる。



正面の塔の下2段には先住民の像があり、その上には1759年のケベック最後の決戦でともに戦死したイギリス軍のウルフWolfe将軍が左側に、フランス軍のモンカームMontcalm将軍が左側にならんでいる。

        

ヨーロッパ出身者として始めてカナダ本土に到達し、セントローレンス河口やプリンス・エドワード島を発見した冒険家のジャック・カルティエ Jacques Cartier の像があり、その上にはフランスの植民地としてケベックの基礎を築いたサミュエル・ド・シャンプランSamuel de Chanplain の像がある。

        

グランダレ Grande-Allee 通りを東に歩いていくと、旧市街のアッパー・タウンを囲む城壁が見えてくる。通りはサン・ルイ Porte St-Louis 門をくぐりアッパー・タウンに入り、通りの名前も Rue St-Louisに変わる。

        

アッパー・タウンで目立つのは、何と言ってもセントローレンス河を見下ろすフェアモント・ル・シャトー・フロントナック Fairmont Le Chateau Frontenac だ。カナダ大陸横断開通に伴いカナダ太平洋鉄道(CP鉄道)が1893年に建設したものだ。CP鉄道はカナダ主要地に一流ホテルを建設運営していたが、関連会社により米国のフェアモント・ホテルを買収し、フェアモントのブランドで各地に気品ある古城のような外観の一流ホテルを運営している。



敷地内の工事現場の写真が以下で、各年代の地層から建物の遺跡が出土していた。



ケベックの基礎を築いたシャンプラン Chanplain の像が工事中で台座から下ろされ、囚われの身のように縛られて金網に入れられていた。



アッパー・タウンの真ん中とも言える場所に、英国教会の建物があった。敬虔なカソリックが多いケベックのフランス系住民の真ん中に英国教会を建ててしまうのは、イギリスの傲慢さか。



画家通りと呼ばれるトレゾール通り Rue du Tresor は、長さ数十mの路地だが、自作の絵を並べている。



シャンプランにより建設されたノートルダム大聖堂 Basilique-Cathedrale Notre-Dame-de-Quebec には豪華なステンドグラスや黄金の祭壇がある。主祭壇の上の金襴の天蓋は場所が狭くて柱では支えられず、 caryatid 女人像柱で支える独自の設計がなされている(とパンフレットにあった)。

        

次回はケベックの誕生の地、旧市街のロウワー・タウンのご紹介。長々引っ張ってきたが、次回でケベックは終了して、次々回からプリンスエドワード島に移動する。


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世界遺産の都市ケベック (2)

2007年10月07日 | カナダ東部

カナダ東部にあり、世界文化遺産に登録されているケベックについて2報目で、新市街のMarie-Gurart というビルの31階にあるObservatoire de la Capitale キャピタル展望台からの眺めのつづき。

展望台を一周してグランダレ Grande-Allee 通りを見ると、展望レストランのあるホテル ロウズ・ル・コンコルドLoews Le Concorde が見え、その向こう側の川沿いに、といっても崖上の高台だが、広がる戦場公園 Pare des Champas-de-Bataille が見える。公園から見下ろすセントローレンス河と対岸の眺めは雄大だ。

                

アブラハム平原とも呼ばれるこの公園は1759年、フランス軍がイギリス軍に最後の決戦で大敗し、ケベックを失った場所だ。イギリス軍のウルフWolfe将軍は3ヶ月間包囲しセントローレンス河の対岸から徹底した砲撃を加えた。しかし、フランス軍のモンテカームMontcalm将軍とともにウルフWolfe将軍も戦死するという激しい戦いだったが、戦いそのものは10分で終わったという。フランス軍は川幅の狭くなっていて、切り立った崖のこの地を絶好の陣地と考えていた。以下の写真(昨日掲載と同じ)の急な崖をまさかイギリス軍が登ってくるとは思わず、十分な警戒を怠っていて不意を襲われた。急な崖を駆け下りて平家を打ち破った一の谷の戦いの逆方向だ。



この戦いでケベックはイギリスの支配下に入る。こののち1950年代まで200年間、住民の95%を占めるフランス系はイギリス系より地位も収入も低く、経営者は英語を話し、労働者はフランス語を話す時代が続いたというから恐ろしい。ケベック州の独立運動、過激派のテロを経て現在は一応の安定をみているようだ。

この公園にはジャンヌダルクの銅像があり、10月31日のハロウィーンを控えカボチャが方々に飾られ、街灯までカボチャになっていた。

        

恐ろしげなお祭りらしく、傍らには囚われの像や、拷問の人形が転がっていた。

        

また、オーストラリアでも見かけた犬の例のものを処理する袋入れもあった。



この戦場公園には地元の高校生が彼女をそこに連れ込めたらOKとなる(何が?)と言われる場所があり、男子はなんとか手練手管で彼女をそこに連れて行こうとすると聞いた。

ケベックはフランス系なので他のカナダの街よりおしゃれだそうで、なかでも、グランダレ Grande-Allee 通りの数本北側のサンジャンRue St-Jean通りには変わった面白い店が多いと聞いて歩いてみたが、びっくりするほどの店があるわけではない。途中、大砲の弾を抱き込んだ木があったが、ヤラセかな?

        

最後の写真は、古い教会の建物の外観を生かしてホテルを建てようとしているのだが、何か市のルールの関係で長年たなざらしになっている建物だ。いずれにしても、古い建物の外観だけでも生かそうという試みは多い。




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世界遺産の都市ケベック (1)

2007年10月06日 | カナダ東部
しばらくこのブログお休みしていた。 1, 2カ月の外国滞在時はのんびりするのでブログをまとめる時間もあるが、今回は9日間のツアーなので、ホテルに戻るのが夜遅くなることもあり、滞在中にほとんどブログをまとめられなかった。
また、インターネットが接続できないB&B、Aクラスなのに一日1300円ほどと接続有料のホテルが2箇所、無料が一箇所で、ついついほとんど発信できなかった。
日本に帰国した10月3日以降は、約14時間の飛行時間と13時間の時差でクタクタだった。

これから少しずつ旅行記をまとめていきたい。ナイアガラに続き、気に入ったケベックを何回かに分けてご報告する。

ケベック Quebec は、カナダ東部のセントローレンス河の高い岸壁のうえに築かれた城砦都市で、ケベック州の州都である。「ケベック・シティ歴史地区」としてユネスコの世界文化遺産に登録されていて、京都のように歴史を実感できる街だ。雨に濡れ色濃くなった石壁、石畳はとくに美しかった。

トロントからの直行便もあるが、夏過ぎには午前中だけなので、私たちはモントリオールからケベックに飛んだ。飛行機は40人乗りほどのDash 8 Series 100という小さなプロペラ機だった。あの問題のロンバルディア社製と知るとあまり良い気持ちにはなれない。



その昔、ケベックはトロント、モントリオールと並ぶ工業都市だったが、ある市長さんが、繁栄するが汚れた街を捨て、歴史と観光の街としての道を選択したという。
ただし、1608年フランス人探検家サミュエル・ド・シャンプランが木造の砦をこの地に続いて400年を記念する「ケベック400」が来年なので、工事、化粧直しが方々進行中でゴタゴタしたところもあった。

1759年にケベックのアブラハム平原(現在の戦場公園)でフランス軍がイギリス軍に敗れ、ケベックはイギリスの支配下に入るが、イギリスは住民の95%を占めるフランス系の文化、伝統を変えることはできなかった。今でも街で聞かれる言葉はフランス語で、地名、通り名もフランス語表示だ。

ケベック市は、四方を城壁に囲まれた旧市街のアッパー・タウン、崖の下の旧市街のローワー・タウンと、城壁の西に広がる新市街に分かれる。

新市街のケベック州議事堂の裏手にある Marie-Gurart というビルの31階にあるObservatoire de la Capitale キャピタル展望台に行った。

360度ガラス張りでケベック市街が一望できる。



新市街はセントローレンス河沿いに城壁の西側に広がる。それほど高い建物はなく、木々が多い落ち着いた街だ。

        

眼下にあるグランダレ Grande-Allee 通りはサン・ルイ門から州議事堂脇を通って新市街の中心になる大通りで、石造りの趣のある家、レストラン、ホテルなどが並ぶ。

        

城壁の内側には、星型の要塞シタデル Lu Citadelle が見える。現在もカナダ軍の施設があり、内部見学はガイドツアーでのみ可能とのこと。



さらに城壁内の北側を見ると、街の象徴になっているホテルであるフェアモント・ル・シャトー・フロントナック Fairmont Le Chateau Frontenac と、崖下になっているその向こう側に停泊している豪華客船が見える。



この展望台の壁には多くの写真が飾ってあり、以下、3枚ほど紹介する。
1枚目は崖下にある旧市街から見上げたホテルで、写真のようにそびえたっている。
2枚目は城壁内の空中写真で、城壁に囲まれた旧市街のアッパー・タウンがよく分かる。
3枚目は星型の要塞シタデル Lu Citadelle から、いかに急な崖になっているかがよく分かる。

                

ガイドブックに「この展望台の望遠鏡は無料」とあったが、実物は以下の写真で、確かに無料だが、普通これは双眼鏡と言うのでは?



長くなったので、展望台からの続きは次回



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ナイアガラの滝(2)

2007年10月01日 | カナダ東部

テーブル・ロックとレインボー橋の間にある乗場から遊覧船の霧の乙女号 Maid of the Mist に乗船した。また、エレベーターで崖下に下りて、こんどは青いポンチョを着る。確か1300名ほど乗れる船だ。
上のデッキに急いだが前のほうの船べりは既にいっぱいで、真ん中あたりに陣取った。最初はアメリカ滝の間近に行くので左側と思ったが、カナダ滝の前でくるりと回るので同じこととすいている右側にした。写真は、船に乗り込もうとする青の軍団。
ポンチョは欧米のデカイおじさんも着られるように縦も横も大きいので、階段で裾を踏みアレアレとなる。



カナダ側の崖下には茶色の固形物が固まっている。石灰成分らしい。



まず、アメリカ滝の滝壺の間近に接近する。左舷の青ポンチョ越しでも大雨に降られたようで、写真を撮るたびにカメラを袖口からポンチョの中に入れる。ガイドの人からはタオル持参と聞いた。
ブライダルベール滝の脇の滝壺のすぐ傍にはアメリカ側からの階段があり、黄色いポンチョの一段がビショビショになっているのが見える。



カナダ滝は幅が広く、馬蹄形の真ん中に船が入るので、ただただ目の前は水の壁。というより霧の中。



今度は右舷からアメリカ滝を見て、川の上に突き出た展望タワーの下で回転し、カナダと米国の国境になるレインボー橋を右舷に見て、船着場へ戻る。
レインボー橋は、アメリカへ入国せずに通行するだけでもパスポートが必要になるそうだ。



船を下りたところで、ポンチョを脱いで、そのまま持って帰る人もいたが、ペラペラのポンチョなど邪魔と捨てたが、これが敗因。エレベーターで崖上に出て、建物の外に出ると、かなりな雨が降っていた。あわててかけてバスに戻った。

バスで川沿いのナイアガラ・パークウエイを川下の北へ進み、渦巻きの見えるワール・プール Whirlpool に行く。ゴンドラが渦を下に見ながら峡谷の上を渡って来た。



ボタニカル・ガーデンズという園芸学校と生徒が手入れする世界最大規模の植物園を通りすぎる。カナダでは弁護士、医師などと並んで庭師が高収入だそうで、この学校も数十人の生徒募集に世界中から千人以上の応募があるそうだ。
秒針があるものでは世界最大という、わけの分からない説明の花時計を見て、ホテルに戻り、半日観光は終了した。



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