hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

「自然派バイキング わらべ」でランチ

2018年11月06日 | 食べ物

 

吉祥寺のコピス地下A館にある「自然派バイキング わらべ」でランチした。

 

 

何回か入ったので、このブログの検索欄に「わらべ」と入れてみると、「コピス吉祥寺へ」という記事が出てきた。

コピスは2010年10月15日にオープンし、18日に行ったらしい。記事に、「地下A館の「わらべ」。以前からある自然派バイキング。」とあり、こんな小さな文字列も見つける検索能力に感心する。

記事には「コピス coppice とは、英語で小さな森という意味だという。」とあるが、完璧に忘れていた。

 

「わらべ」のガラスケースをパチリ。おいしそう。

 

 

実際に取ったのはこちら。少しずつなるべく種類を多くしたいと9種と味噌汁。

 

さらに、もう一回。サラダも追加。

 

バイキングって、もっと食べられそうな気がするが、残すと恥ずかしいし、何回も取りに行くのも気が引けるし。

今回は2回で満腹。

 

身体にはよさそうな品々が並んでいるが、特別に美味しいというわけではない。

デザート、ドリンクを含むが、平日ランチ1,590円は少食の我々には高め。

 

開店したばかりで空いていたのに、突然、中国の小学生の団体がどかどか入ってきた。

思ったほどうるさくなかったのだが、ウロチョロはするので退散した。

 

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1万円札に「MM1」の文字を発見

2018年11月05日 | その他

 

福沢諭吉の右の欄外に「MM1」の文字を発見。手持ちの1万円札にはこんな文字はないのだが。

 


珍しい特別な1枚なのかどうか調べるために、もっともっと一万円札が欲しい。

貴重な札ならなんとかして取っとくし、偽札なら、早く使っちゃわないと??


この後、ネットを検索したら、この種のスタンプの押された1万円札は多いとのこと。なんでも、海外の金融機関で日本円を扱う際に押した担当者の名前のスタンプだそうだ(私は直接確認してません)。


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貴志謙介『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』を読む

2018年11月04日 | 読書2

 

貴志謙介著『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』(2018年6月30日NHK出版発行)を読んだ。

 

表紙裏にはこうある。

ヤミ市、隠匿物資、占領軍、地下政府、新興宗教、そして日本人立ち入り禁止の「東京租界」。

焼野原となった占領都市TOKYOにいったい何が起きていたのか――。
CIA文書、GHQ検閲記録などの発掘資料を基に、1945年8月から翌年8月にいたる“空白の1年”を再構築する。

 

2017年に放送されたNHKスペシャルの出版化(NHKの番組紹介)。

 

情報源は、2007年機密解除された10万ページを超えるCIA文書、150万点のGHQ検閲記録(フランゲ文庫)、マッカーサー記念館やオーストラリア戦争博物館からの映像資料などだ。

 
1946年、占領当局は戦犯、軍人、極端な右翼主義者や国会議員など20万人を公職追放したが、米軍統治に便利な官僚は温存して仕事をさせた。やがて、共産主義に対抗するために、児玉誉士夫、小佐野賢治、岸信介ら右翼を解放し、旧体制は生き残り、アメリカを後ろ盾にすることになった。
さらに、諜報機関G2の反共主義者ウィロビー准将は、日本軍参謀だった河辺虎四郎、有末精三、服部卓四郎、辻政信らの訴追を停止し、彼らはアメリカに機密情報をもたらした。
占領末期にはCIAは緒方竹虎、岸信介、賀屋興宣、正力松太郎らに多額の援助をした。
 

 

私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

 

戦争直後の日本、東京を知るために、この本を読むべきだ。いかに悲惨な状態だったか、また進駐軍(昔はこう言った)の実情が良くわかる。共産党までもが「進駐軍万歳」を叫んだ理想を追う米軍から、共産主義からの防衛に主眼を置く、CIA主体の米軍に変わっていく過程が良くわかる。そして、それに協力した岸信介らの動きも。

 

終戦時2歳だった私は、当然戦後0年は知らないが、その後の混乱の時代の記憶はある。
しかし、この本で知る生々しい、おぞましい事実には驚いた。
酷い食糧難、殺人、米兵の強姦、食料、金を求めて米兵に群がる女性たち、
心が壊れた元軍人の狂った犯罪、元軍人、権力者による物資などの横流し。

 

代々木公園の一角にワシントンハイツの建物が一戸だけ残されているという。私は子供の頃、ちょっちゅう明治神宮の金網にしがみついて、よだれを垂らしてワシントンハイツを覗いていた。芝生が広大に広がる中にポツンポツンと瀟洒な家が建ち、異次元のアメリカがそこにあった。また、明治神宮の宝物殿前の芝生に、人前を気にせずに、日本人女性の上に重なりずっと動かない米兵を奇妙な光景として眺めていた(この時はよだれは垂らしていません。念のため)。

 

 

貴志謙介(きし・けんすけ)
1957年、兵庫県尼崎市生まれ。

1981年、京都大学文学部卒業後、NHK入局。ディレクターとしてドキュメンタリーを中心に多くの番組を手がけ、2017年8月に退職。

主な番組に、NHK特集「山口組」、ハイビジョン特集「笑う沖縄・百年の物語」、NHKスペシャル「アインシュタインロマン」「新・映像の世紀」など。

共著に『NHKスペシャル 海 知られざる世界 第1巻』『NHKスペシャル 宇宙 未知への大紀行 第1巻』『NHKスペシャル 新・映像の世紀 大全』(すべてNHK出版)など。

 

以下、メモ

 

敗戦直後、在外邦人は、軍人・軍属、民間人を含め、およど660万人いた。日本には、236万人の朝鮮人、5万人の中国人がいた。1946年1月時点で内地に帰還した日本人は約100万人。

 

占領軍をもてなすための終戦処理費が国家予算の三分の一にも達した。

 

敗戦直後の日本には、「経済を優に二年間支えるだけの物質があり、食料も大量に備蓄されていた」が、二週間で70%が消えて、軍人・特権階級を経て、ヤミ市に流れた。

 

日本の警察は1950年までは拳銃の所持を禁じられていた。

 

六本木には今も在日米陸軍基地とヘリポート、ハーディー・バラックスが3万平米も残存し返還されていない。米国の要人やCIA工作員は厚木基地を経由してここからパスポートなしで入国可能だ。

 

占領軍兵士の防波堤にするため「国策売春組織」、特殊慰安施設協会(RAA)が設立された。1945年8月27日大森海岸に慰安所第一号の「小野園」が開店し、応募に応じた50人のほとんど素人の女性が送り込まれた。東京だけで33か所、従業員450人、ダンサー2000人、350人の慰安婦。最盛期には全国で7万人の慰安婦がいた。

 

食料メーデーに先立つ1946年5月12日、都内で起こった「米よこせデモ」のうち、皇居前広場集まった世田谷区民大会の二千人中113名が皇居の門をくぐり宮城へなだれ込んだが起こった。天皇はどんなものを食べているのかと、宮内省の食堂に押しかけた。白米の残飯がたらいに三つ、まだ食べられる魚のアラが5、6貫捨てられていた。皇族の贅沢な夕食メニューを見て、「配給ですかね、これ」「天皇陛下がヤミをなさるはずありませんでしょう」

 

 

【目次】
第一章 東京はパラダイス 
第二章 ヤミ市のからくり
第三章 隠匿に狂奔するエリート
第四章 だれも焼け跡暮らしを覚えていない
第五章 国家が女を“いけにえ”にした
第六章 占領軍を食う成金紳士
第七章 狂乱の「東京租界」 
第八章 踊る聖女と「ミスター天皇」
第九章 アメリカに寄生した「地下政府」
第一〇章 CIAから見た、右翼の親玉
第一一章 ヴェガスの幻、上海の夢 
第一二章 犯罪都市・地獄篇
第一三章 一九四六年五月、皇居乱入
終章 それから

 

 

 

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『更級日記』を読む

2018年11月02日 | 読書2

 

原田文子訳注『更級日記 現代語訳付き』(角川ソフィア文庫47、角川文庫13196、2003年12月25日発行)を読んだ。

 

裏表紙にはこうある。

夢見がちな感性をもって描かれた平安時代の日記文学。作者13歳の時、上総介の任期を終えた父に伴われての上京に記事は始まる。東国に育った作者が京へ上り、恋い焦がれていた物語を読みふけった少女時代、晩い結婚、夫との死別、その後の侘しい生活と、ついに少女期の憧れを結実させることのなかった一生の回想録である。平凡な人生の中に描かれる、作者の人生の断片の輝きが、今なお、われわれを惹きつけてやまない。有名な作品にもかかわらず、ごく一部しか一般に知られていなかった古典を、懇切な注と自然な現代語訳で手軽に読み解く。

 

あの名前だけは有名な「更級日記」の原文と現代語訳。

作者・菅原孝標女((たかすえの娘)の10歳ごろから50歳ごろまでの大きな出来事に記録。現代語訳も文庫本で約100頁の小品で、とびとびの回顧録。

 

原文には丁寧な脚注、補注がり、現代語訳に続き、解説(関連地図・系図付き)、年表、索引(和歌、語句)、充実の参考文献リストも付いている。

 

父の菅原孝標(菅原道真のやしゃご(孫の孫))は、著者が13歳の時、東国の任地から京都へ帰る。東国で生れ育った作者は、胸膨らませてあこがれの京都への旅を語る。京都では引きこもってが恋い焦がれていた物語を読みふける。33歳で39歳の橘俊通との結婚、51歳で夫と死別。寂しい生活の中で、過去を振り返りながらこの物語を書く。平凡な人生の中に、少女期の憧れが折に触れ現れ、抑えた筆致から作者の人生の中の静かな輝きが感じられる。

 

 

原岡文子(はらおか・ふみこ)

1947年東京生まれ。東京女子大学文理学部卒、東京大学大学院人文科学研究科博士課程(国文学)単位取得。

1993年聖心女子大学教授、

 

 

私の評価としては、★★★☆☆(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

 

名前や数行の概要は昔から知っているが実物はまったく読んだことがなかった。
読んでみて、なんでこの作品が有名なのかがわからなくなった。ほとんどドラマがない。田舎育ちの女の子が憧れの京都へ向かう旅の景色に期待をして読んだが、京では引きこもって物語を読みふけるだけとあるだけで、我々には何も伝わってこない。

有名だという遠国へ赴任する父との別れも、心配する父の様子で書かれていて、作者に気持ちはさらりと述べているだけなのだ。遅い結婚も「物語の貴公子などを夢見ていたにしても、現実の結婚はあまりに期待はずれの始末であったことだ。」としか書かれておらず、夫とのこともほとんど触れていない。、姉との死別、子供の誕生、両親の死、夫の死も、ほとんど触れていない。感情を強く表現しないこともあるのだろうが、大げさな表現に慣れっこな私の心に響いてこない。

 

日記とは言え、何年も、何十年も飛んで書かれていて、夢見がちな少女から、寂しい晩年への流れが感じ取れない。

 

 

富士山の「山の頂上の少し平たくなっている所から、煙が立ち上がっている。夕暮れ時は火が燃え立つのも見える」

千年前には富士山頂上も噴火していたのだ。

 

「物語にばかり夢中のなって、私は今のところまだ器量が良くないのだ、でも年頃になったら、顔かたちもこの上なく美しくなって、髪もすばらしく長くなるに違いない、そして光源氏の寵愛した……、とそんなふうに思っていた私の心は、今考えてみると何ともたわいなく、あきれかえったことである。」

 

 

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