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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 120 秀吉の決断 新たな戦争

2023年01月10日 17時39分31秒 | 貧乏太閤記
 天正19年の12月に秀吉は関白職を甥の豊臣秀次に譲った、関白秀次の誕生である。
そして秀吉は関白職を辞した者に与えられる太閤下となり「太閤秀吉、太閤殿下」と呼ばれるようになった。 

*秀吉は明国への進軍を「唐入り(からいり)」と言い、「朝鮮国」を「高麗」と言っていたらしいですが、この話の中では「唐入り」と「朝鮮」で話を進めます。

「三成どうなっておるのだ、未だ朝鮮から返事が来ぬとはどういうことだ」
「まことに、すでに半年にもなりまするなあ」
「何を他人事のように言って居る、すぐに小西と宗をここに呼んでまいれ」
二人は慌てて大坂屋敷から、大坂城にやって来た
「いったい朝鮮の返事はどうなっておるのだ、儂に従属して貢物まで持ってきながら無しのつぶてとは、どういうわけじゃ、その方らに何か言ってきてはおらぬのか」
「ははー、申し訳ございません、毎月催促の使者を送っておりますがなんの返事もありませぬ、直接漢城に出向いても『もっと身分ある者でなければ返答はできぬ』と追い返されたとのことでございます、もはや某が行って朝鮮の大臣にかけあうしかありません、どうぞ命じてくださいませ」
宗が平身低頭で秀吉に申し出た。
「もうよい、儂は決めた、唐入りの前に無礼な朝鮮王を懲らしめてやる
三成、明後日の午までに大坂、京にある大名または城代をすべて集めよ」
2日後、昼前より大坂城に、大名やその代理の重臣が続々と集まって来た
その数、凡そ100名にも及んだ
五大老、三中老、五奉行を先頭に大広間は何事かと熱気をはらんだ
正座には太閤秀吉、一段下がって関白秀次が彼らを見下ろしている
「皆のもの、儂は決意したぞ、朝鮮王は臣下の礼をとりながら儂を無視しておる、このような無礼は許せぬ、よってこの春より準備をして朝鮮に攻め入り朝鮮王を皆の前にひざまずかせようぞ
そして朝鮮八道は、手柄抜群の者に分け与えよう、みな励め」
「ははー」一同は平伏したが心の中では(いったいどういうことなのか?)
秀吉が言っていることの意味を理解できない者が多かった
天下が秀吉によって統一され、ようやく平和が訪れ、それぞれが新しい国造りの試案に取り組んだばかりなのだ、それなのに「また戦か」
諸大名の頭は混乱した、徳川家康も伊達政宗も、前田利家さえも困惑した
ただ石田三成、小西行長などは当事者でもあり、日ごろから秀吉の夢物語を聞かされているから(いよいよか)と緊張した面持ちでいる。
なにより秀吉は、朝鮮通信使がやってきたことが朝鮮が自分に隷属したと信じているが、それは朝鮮と秀吉の間に挟まって悩んだ宗氏が、小西と共に考えた作り話で、実際は朝鮮は秀吉との交流の再開を認めたにすぎず、隷属などしていなかったのだから。
小西は冷や汗をかいているが(いずれにしても朝鮮侵攻は避けられなかったのだ)という割り切りで恐怖心を静めている。
そんな中では秀吉子飼いの加藤清正、福島正則、黒田長政などは逆に血をたぎらせた、そして翌朝には宇喜多秀家を加えて北政所を訪ねた。
加藤と福島は秀吉と同郷で遠い親戚でもあったから、少年時代から秀吉の家臣となって働いてきた、黒田は人質として秀吉に預けられていたが当時「ねね」であった秀吉の妻北政所が同じく人質であった宇喜多秀家も含めて実子のように四人を可愛がり育てたのだ、だから彼らは今でもねねを「かかさま」と呼んで親しんでいる。
「かかさま、我らは此度、殿様の命で朝鮮征伐に参ります、必ず手柄を上げてまいりまする」清正が気負ってねねに言うので、ねねは笑って
「虎(本名、加藤虎之助)や、まるで子供のままではありませぬか、肥後20万石のお殿様が、おかしゅうてなりませぬ」
この時、ねねは46歳になっていた、清正30歳、正則31歳、長政24歳、秀家はまだ19歳であるが岡山60万石を与えられて官位も中納言、秀吉から五大老の一人に任じられた、この中では最も位階が高い
「虎、市、長政に秀家、私は朝鮮がどんな所か知りませぬが、人の話では冬になると我が国よりはるかに寒く、夏前には洪水のように雨が続くとか・・・気候風土が変われば病にもなりがち、充分気を付けていくように、無理をしてはなりませぬぞ
それにしても戦がのうなって平和になったと思えば、わざわざ異国にまで行って戦とは、そなたたちも気が休まらぬのお」
「なんの! われらは手柄を立てることが一番の楽しみでございます、戦がのうなっては陸に上がったカッパでございます」福島正則が晴れ晴れとした声で言った。
「兄様たちでさえ、このように張り切っておられる、われら若侍はなおのことでございます、のう中納言殿」と長政も負けじと秀家に声をかける

 秀吉は、九州佐賀に前進基地として、大坂城に次ぐと言われる広大な名護屋城を急いで作らせている、あくまでも最前線の指揮所であり急ごしらえであるが、玄界灘を目の前に緩やかな丘にそびえるその姿は見事である。
 秀吉は京伏見にも城を築き始めている、伏見城である。 昨年暮れに関白となった秀次の住居として聚楽第を与えたため、秀吉は京の拠点を失ってしまったのだ、それで隠居所としての城が必要となったのだ、秀吉の居住スペースができるのは2年後になる、それまでは大坂城に住むことになる。
幸い大坂城も着工以来9年がたち本丸、二の丸が完成して、今は三の丸と総構えと外堀を作っているいる最中である、規模が大きすぎて完全な完成にはあと何年要するかわからない。
本丸には本丸御殿が作られて、秀吉、大政所、北政所などの住居となっている
二の丸には二の丸御殿、西の丸などいくつも曲輪が立ちならんで側室らの居住区となっている。

 徳川家康が秀吉に目通りの願いをして許され、やってきた
「昨日、織田信雄殿が訪ねて参りました、お察しがつかれるかと思いますが『帰参したい』とのこと、自らの過ちを悔やんでおられました」
「ふん! 今更悔やんでもおそかろうに」
「某もとやかく言える立場ではありませぬが、某と共に信雄殿が刃を向けた過去があります、いわば某も同罪の弱みがあります
頼られて、門前払いと言えば、某の武士としての面目が立ちませぬ、さりとて殿下がどうしても許さぬと言われるならば、某も信雄殿への過去の情より、家臣としての殿下への忠誠が優先されるのは言うまでもありません
さて、某はどうしたらよいのでありましょうや?」
「・・・」秀吉は(三河大納言は儂に謎をかけているのか?、どうも話していることの意味が分からぬ)と思った
(「どうしたらよいやら?」そんなことはわかっているではないか、黙って従えばよいのだ)と思ったが家康の言葉には含みがあるようで気持ちが悪い
他の大名のように「儂の言う通りに従えばよいのだ!」と𠮟りつけるわけにはいかぬ
元気な秀吉だが、家康と会うと老いを感じることがある
できることなら徳川を攻め滅ぼしたい、だが・・・だがである
もし、「徳川を討つ!」と言った時、関東以北の大名たちには家康に味方する者が少なからず出てくる気がする、北条と問題にならぬ貫禄が家康にはある
弟の秀長が亡くなって、なおさらそれを感じるようになった、秀長さえ家康に傾倒していたではないか、自分が九州、小田原、朝鮮と戦を続けている間に、儂とは逆の平和主義者という印象が家康につきだしたようだ。
(うかつなことは言えまい)秀吉は一拍おいて
「大納言殿、儂も大人げないことを言ってしまった、信雄のことは少し考えさせてくれ」と言った
「いやいや勿体ない、某はそのような・・・」家康は狼狽して見せた
信雄が家康を頼って行ったことを淀に言うと
「どうか帰参を許してくださいませ、私にとって今は従兄の中では京極高次殿と信雄殿しか居りませぬ、お伽衆として傍においていただけませぬか」














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