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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (171) 長尾家 84

2024年08月16日 10時12分22秒 | 甲越軍記
同年五月、神余隼人佐を京都に登らせ、足利家に官途受領の事を願い出た
足利義輝公は内裏に奏上願い出て長尾景虎を弾正少弼に任じ、従五位下に叙せられる綸旨を申し下し、足利家より御祝いとして御内書並びに備前国光の太刀を賜る
景虎は大いに喜び、内裏に御剣一振り、並びに黄金巻絹などを献上した
足利家へは備前長光の太刀一振り、川原毛の御馬一疋、蒼鷹一連、青銅三千疋を進上した、これにより景虎は越後国主と称す。

景虎は国中に遣いを出して、この度、任官の宴を開くので十五日を限って、諸将に府内の城に集まるよう伝えた
諸将は追々、府内に集まったが、景虎は例の十六将には別途遣いを送り、林泉寺を宿とするよう伝えた
そして彼らが林泉寺に収まるを見て、かねてより寺の四方に伏せさせた士卒が取り囲み、直江山城守、杉原常陸介、千坂対馬守が内々野心を秘め、人質を差し出さぬ罪を責めて切腹を命じた
十六将は大いに驚いたが、もはや逃れる術はなく枕を並べて自害した。
今、この地を生害谷と称す。

宴が始まり、その席上で十六将の自害を聞き、集まった諸将は景虎入道謙信を恐れ、これより一人として謙信に首を上げるものなし
しかし人質を出さぬ十七将のうち、只一人景虎の命に背いて府内に来なかった飯沼の城主、飯沼玄蕃頭頼清である
飯沼の累祖、飯沼遠江守頼泰、同日向守政清、同源太頼久まで代々長尾家の忠臣の家であった
特に源太頼久は天文元年の越中滑川の戦で、長尾為景に代わって討ち死にした
その頼久の後室は美色あって傾国の粧あり、その齢いまだ三十に至らず深閨に一人寝で涙を流す日々であれば、見るもの心を迷わさぬ者なし
家臣、波多野玄蕃は後室の艶色に迷い、折に触れて口説き続ければついに貞操を破る
主、源太頼久討死のあと子が無かったので、この玄蕃をもって飯沼の家を継ぐ
玄蕃の性質、大胆にして豪勇の士なり、屋形に従う心無く、長尾平六、黒田の逆徒の乱の時より自立の志あって府内への出仕せず、此度の人質についても出さないので、景虎は使者を送って問いただせば
飯沼玄蕃は「当家は村上天皇の勅命をもってこの地を賜った、代々守護不入の地である、飯沼家に主君などない」と、うそぶくので景虎入道謙信は大いに怒り「此度は少しの猶予もいらぬ、今すぐ飯沼を攻め落とすべし」と言い
直江入道酒椿の子、山城守兼続と黒川備前守に命じて飯沼一族を退治すべきと命じた、山城守兼続はかって飯沼源太頼久の家臣であったゆえに、忠臣の飯沼家を貶める玄蕃に怒りを持っていた。

二将は直ちに飯沼城に攻め寄せたが、飯沼玄蕃は剛勇の将であれば、攻め寄せる府内勢に矢石を放ち、鉄砲を撃ちかけて応戦する
山城守もこれを見て、たやすく攻め落とせる城ではないと一目で見抜いた
ところが城兵の気持ちもまた「この大軍に攻められては、とても持ちこたえるものではない」と恐れ、飯沼三左衛門、同新平、三宅隼人、並びに譜代の恩顧の郎党百余騎、城戸を押し開いて直江の勢の中に無二無三に切りかかる
必死となっての働きはすさまじく、さしもの直江勢も押し返され手負い死人は数知れぬ
直江勢に代わって黒川勢二千余騎の新手が討って懸かり一息にせめたてれども命を捨ててかかる城兵の攻撃に前に進むことできず、後方にて遠巻きに見る。

そもそも、飯沼城は急峻な崖の上に築かれ、少兵で大軍に立ち向かうこと可なる要害である
まして命がけで一致する城兵が守っているため、いつ果てるともない戦になろうかと山城守は思い、所詮力攻めでは味方の手負いばかりが増えるを悟り、搦め手よりの侵入に策を変えた。



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