80分の1丁目16番地

ペーパースクラッチによる車両作りを中心に1/80、16.5ミリゲージの鉄道模型を楽しんでいます。

紙の記憶4_おもちゃ屋で床下機器を買った話

2025-01-16 09:30:05 | 昔話・・・80分の1丁目の夕日
「かしわや」の昔話に多くのコメントをいただいて驚いています。小さな個人店なのでご存じの方はほぼいらっしゃらないだろうと思っていたら、まさかのご近所さんもおられて「世の中は狭い」。

さて、今回は少しハードルが上がって当時の写真がありません。脳内の記憶だけが頼りの話なので何か大きな記憶違いがあったらゴメンナサイなのですが、逆に「そんな店あったー!」という情報が得られれば今までのモヤモヤが晴れるので敢えてアップしました。


西武新宿線に「新井薬師前」という駅があります。ここからほど近い場所にある梅照院というお寺の正式名称を新井山梅照院薬王寺と言い、古くから「新井薬師」として親しまれたことから駅名にもなっているのですが、その門前から続く「新井薬師門前通り」にあったと思われる玩具店にまつわるお話です。下の地図の赤丸で囲った通りです。



恐らく中高生の頃だと思うのですが、なんとその店は玩具店なのに鉄道模型も置いてあったのです。実際に記憶に残っているのはカワイ製と思われるバラの床下機器を買ったことだけなのですが恐らく完成品も販売していたのではないかと思われます。店は割と大きく、あふれるおもちゃの一画に模型の販売カウンターがあったように記憶しています。前回の投稿で「練馬の玩具店に水野の4110が置いてあった」とのコメントをいただきましたが、まさにそのような状況だったわけです。

そんなおぼろげな記憶しかないため、その店が実際にあったのか、夢ではなかったのかと不安だったのでヒマになったらご近所へ聞き込みにでも行こうかと思っていたのですが、ふと古い住宅地図に載っていないか?と気づき、地元の図書館で1976年のものを閲覧しました。(このとき「かしわや」も確認すればよかったのにすっかり失念していた。。)

すると、それらしき玩具店があったのです。赤丸で囲ったところに「富士屋玩具」の文字が見えます。敷地もかなり大きく記憶に合致します。イメージ的にはもっと左下の新井薬師(梅照院)寄りでしたが、その他に玩具店は見当たらないので恐らくココでしょう。店名は「おもちゃのフジヤ」とかだったのでしょうか?私の記憶では「おもちゃのバンビ」だったのですが大いに却下された格好です(笑)。懐かしさが込み上げました。

(ゼンリン住宅地図1976年版「中野区」より ※一般住宅部分はカットし店舗部分のみ掲載)


Googleストリートビューで事前にチェックし、店舗はすでに無くなっていることは確認していましたが現地へ行ってみました。年始とあって新井薬師は新年の参拝客で賑わっています。



地図の場所は4階建のマンションになっていました。マンション名に元の屋号の一部が入っているのでオーナーは一緒なのでしょう。1階が店舗になっていますが玩具店ではありません。建て替えを機に廃業したのか廃業を機に建て替えたのか。。確定はできませんがこれである程度記憶が裏付けられました。



場所は分かったのですがいつ頃行ったのでしょうか。最初の方で中高生の頃と書きましたが、そう考えられる「バスの記憶」があります。この通りは関東バスのほかに池11系統(池袋駅~中野駅)を共同運行する国際興業のバスも通ります。ものすごい爆音を立てて丸型の後部を見せながら走り去る国際興業バスの姿が目と耳の記憶に残っているのです。

このバスはいすゞBU10型といい、川崎航空機製の通称“丸型”と呼ばれるボディをもっていました。残念ながら手持ちの写真がないのですが、こちらのサイトに岩手県交通へ移籍後の写真が載っています。その後もボディが一新されてBU10は継続生産されるのですが、なぜかこのタイプだけはものすごい音を立てる「爆音バス」として多くのバスファンの記憶に残っているのです。

サイトの記事によれば1971~72年にまず第一陣が譲渡され、その後1976年にも譲渡されたとありますので、このバスが国際興業で見られたのは1976年ごろが最後になります。小学生ではさすがに自転車でここまで行くことはないので中学生か高生に上がったばかりの頃と推測したわけです。現在はバスもスマートになり爆音は聞かれなくなりました。



インターネットも無かった時代、その店をどうやって知ったのでしょうか。近所に住んでいた友達と自転車で行ったわけですが、その彼から聞いたにしても何で知ってたの?という話で・・・。どこかの模型店で小耳に挟んだのかも知れませんがそこだけが未解明な疑問です。


新井薬師前駅周辺の西武新宿線は地下化へ向けて工事が進んでいます。この「開かずの踏切」が過去のものになる日も遠くないでしょう。


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紙の記憶3_「かしわや」探し

2025-01-12 00:38:27 | 昔話・・・80分の1丁目の夕日
1枚の古い写真が出てきました。1975(昭和50)年、ちょうど半世紀前の撮影です。

本来は都バスを撮ろうとしてタイミングが早すぎ、その結果、「紙の記憶1_何でも揃った街の模型店」で言及した地元の小さな模型店「かしわや」の姿が偶然記録されたものです。場所は地下鉄丸ノ内線新中野駅から東へ5~6分歩いたところで青梅街道に面しています。間口が狭く奥が深い京町屋のような造りになっていました。



拡大すると確かに「かしわや」の文字がうっすら読み取れます。入口の右側のショーウインドーには篠原?のダブルクロスがガラス面に貼り付けるように飾られていて、高級感漂うその光景に、「いつかはクラウン」ならぬ「いつかはダブルクロス」・・・と羨望のまなざしを送ったものです。店内には所狭しとプラモデルや科学教材などが積まれ、頭上にはOゲージの周回線路がありました。新幹線1000形試験電車とおぼしきHOのペーパー車体がいつも置いてあったのも印象に残っています。



このたび、改めてこの店がどこにあったのかを調べてみました。近所だから写真を見れば一発で分かるとタカをくくっていたのですが、就職してからしばらくは東京を離れていたこと、東京へ戻ってからも多摩の方に住んでいたことなどから、すっかり建物が建て替わってしまったこの光景に、さてこの写真はいったいどこを写したものやら??となってしまったのです。

バスの後ろ側には狭い路地があるように見え、そういえば「かしわや」へ行くときは路地をルンルン気分で歩いて青梅街道へ出ていたのだなぁ・・・という記憶と繋ぐところまではできました。しかしこの辺は似たような路地が多いのです。

写真をいろいろなめ回しているとバスの後方に丸い看板があるのに気が付きました。消火栓の所在を示すお馴染みの赤い看板です。文字数からすると「防火水そう」と書かれているようにも見えますが、いずれにせよ消防水利に関する看板に間違いありません。そして消防水利なら年月が経ってもそうそう動いたり消滅したりはしないだろうと考え、範囲を絞って現地を探してみると・・・。



ありました!中野消防署の脇の路地を少し入ったところに「消火栓 区画量水器」と書かれた四角い鉄蓋が!!



うすうす予想はしていたのですが、「かしわや」を含む一帯は奥の方まで含めて更地となり、老朽化した旧中野消防署の代替移転地となっていたのでした。移転は平成5(1993)年とのことですが、その4~5年前、すなわち平成元年前後にはすでに一帯の建物は取り壊されて更地になっていたようです。駅前の再開発でもないのになぜ?という疑問はありますが、老朽化した木造住宅の密集地だったので防災上の理由などがあったのかも知れません。


これがほぼ同じ場所から写した現在の様子です。消防署の建物の2本見える柱のうち左側の柱の前にこんもりとした植込みがありますが、「かしわや」はその辺りにあったものと推定されます。左に見える店舗などもすっかり様相が変わってしまいました。余談ですが、電線も地中化されているため、電柱での現場特定もできませんでした。



位置関係を地図に落とすとこうなります。



試しに都バスを入れて同じようなカットを撮ろうとしたら見事に被られましたwwww 何度も撮り直すような事案でもないのでまあいっか。。ちなみに冒頭の写真に写っている都バスの行先は「東京駅南口」と読め、清水操車所・荻窪駅と東京駅とを結ぶ「東75」系統であることが分かりました。その後の系統再編により、青梅街道から新宿駅を越えて都心部へ直通する系統はありません。



かくしてモヤモヤしていた「かしわやはどこだ」問題に区切りがつきました。夫婦二人で切り盛りした子供心をくすぐる思い出深いワンダーランドは消防署に姿を変え、私たちの暮らしの安全安心を守り続けてくれることでしょう。

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走れ!ボロ電(2)

2025-01-08 02:30:53 | 私鉄電車
今回はあまり進んでいないので短めです。

前面はユニット化しておき側板にイモ付けします。スノーマット紙は急な曲げで層分離しやすいので、コーナーのRは削り出しで表現します。



車体が箱になりました。屋根はもう少し深くてよかったかも。



モーターをFK-130SHからIMONの1527Dに変更することにしました。FKはシャフトがφ2なので、φ1.5のIMONギヤと内径φ1.2のシリコンチューブでつなぐのはさすがにムリがあるのでは?と思い始めたので。ちなみにモーターホルダーの取付ネジは、IMONのサイトの図ではM1.7になっているのでM1.7を買ってきたのですがしれっとM2に変更になっていました。オーマイガッ!


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走れ!ボロ電(1)

2025-01-04 21:40:02 | 私鉄電車
山梨交通7形電車の「モハ7」を作っていきます。無人駅が多いことや施設が古いことなどから地元では「ボロ電」の愛称で親しまれたそうです。敬意を表してタイトルは「ボロ電」にしました。

本題に入る前に訂正があります。前回の投稿で「江ノ電時代に801号車のコンプレッサーは固定編成化に際し降ろされたのではないか」と書きましたが間違いで、801、802ともにDH-16と思しきコンプレッサーを積んでいることが複数のYouTube動画から確認できました。お詫びして訂正します。払い下げの段階で何らかの理由により降ろされたものと思われます。


ケガキ初めで作成した図面を#300スノーマット紙にプリントし窓抜きしたところです。適当なサイズの屋根板が無いのでペーパールーフにしましたが、紙の目の方向を前後方向にとらないとうまく曲がらないので柱が細い旧型電車との相性は良くありません。しかもこの電車は窓枠がシルバーグレーに塗られていたとのことでアルミサッシと同様に塗装後の貼り付けを考えており、その面でも強度的に不利な状況です。



乗務員ドアと客室ドアは窓抜きしていないまっさらな内貼りを接着後に窓と腰部の凹みを抜きます。保存車の客室ドアは江ノ電時代にプレスドアに交換されているので論外としても、腰部の凹みのデザインは上田時代の写真とも違っているので、現役時代の写真を見ながら慎重に抜いていきます。



ドア、内貼り、補強材を貼ったところ。客室ドアの下には可動(折り畳み)ステップ収納用の切り欠きを入れてあります。



その内側のようす。レール面から車体下端までの高さは実測で890mmだったので模型寸法は11mmとし、腰部の補強材は通常より1mm高い、車体下端から4mmの位置に接着しました。



せめてもの補強にと、窓4個ごとに1か所、幅約1.5mmの紙帯を柱に貼り付けました。1mm幅の柱に厚さ0.5mmの紙を貼るので左右0.25mmずつ空く計算になりますが、あくまで計算上であってそんなにうまくいくはずもなく、窓枠・窓セル入れの段階で苦労すること必至の状況です。



パーツもある程度揃えました。台車は似た形のYAMA模型の「ボールドウィンR」をチョイス。軸距20mmもほぼ実車と同じです。多少削るとさらに似ると思いますが、まあこのままでもいいかな、と。



動力はWB20mm・φ10.5mm車輪付の「アルパワー」も発売されていますが、手持ち品消化とローコスト化のため、WB26mmのIMONギヤのドライブシャフトを切り詰めて使うことにします。モーターは130シリーズの12V版、FK-130SHを登用。



自連カプラー胴受とハーフガーランドベンチレーターはエコーのパーツを新規調達。



排障器は、実車より天地寸法が小さいですがイメージが近いアルモデルの「排障器【3】」、テールライトはIMONの旧型(いわゆるガイコツ型)で、これらも新規調達品です。



ということでケガキも早々に製作に入ってはみたものの、どうやら床下機器も保存車とは違う部分が多いようだ・・・ということがだんだん分かってきたので、現役時代の鮮明な写真探しをさらに強化したいと思います。

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令和7年ケガキ初め

2025-01-02 23:51:12 | 私鉄電車
今年のケガキ初めのお題は和暦「7」でいくことにしました。中央東線にゆかりのあるところでは甲府ローカルのキハ07が挙げられますが、これは去年作ってしまったので他に何かないか色々探した結果、甲府駅前~甲斐青柳間を1962(昭和37)年まで走っていた山梨交通電車線に「7形」という電車があったそうなのでこれをターゲットに選びました。

7形は1948(昭和23)年製で、7号車と8号車の2両が増備されたとのことです。こちらに雪景色の中を日の丸を掲げて颯爽と走る7形7号車の写真が掲載されています。山梨交通電車線は市街地の一部が併用軌道でそれ以外は専用軌道となっていたので、前後ドアの路面電車風ながら車格的には郊外電車に近いスタイルをしています。

電車線廃止後は上田丸子電鉄、江ノ電と渡り歩き、現在は7号車が静岡県裾野市の別荘地内(個人宅)、8号車が山梨県富士川町内の利根川公園の一画に静態保存されているとのこと。Wikipediaの「山梨交通7形電車」には窓寸法などかなり細かいところまで記載されていますが、天地方向の寸法や一部の吹寄せ部の寸法などは書かれておらず、形式図も入手できないため、ドライブがてら8号車の撮影と採寸をしに山梨まで行ってきました。


自宅を午前5時に出て中央道を快走し現地には7時半前に到着。上のような経緯のため、色などある程度は復元されているものの現在見られる姿は最晩年の江ノ電のスタイルです。実車は雪を頂く中央アルプスを遠くに見て川沿いの公園の一画に屋根付きで鎮座していました。前面道路がかつての鉄道線の軌道敷跡のようです。



オリジナルとの大きな違いは中ドアが追設されて3ドアとなっていること、ヘッドライトが窓下2灯になっていること、集電装置がビューゲルからパンタに替わっていること、ドア下の可動ステップが撤去されていることなどです。前二者は江ノ電時代、後二者は上田丸子時代の改変のようです。塗装は晩年の濃いオレンジ(だいぶ退色している)で、窓枠はアルミサッシに見えますが木枠窓にシルバーグレーを塗ったお洒落なものです。



解説板には電車線のあゆみと7型の保存理由が熱く語られていました。



山交の社紋は復元されていますが車番は残念ながら江ノ電時代の801でした。



花巻の元祖“馬面電車”には及びませんがかなり細長い顔付きです。車体幅は2,300mmしかありません。



江ノ電時代に片運転台に改造されており、道路に面した方が運転台側となっています。かなり狭く窮屈ですね。



こちらは反対側でのっぺらぼうです。ただ、山梨交通の電車のヘッドライト(いわゆるおヘソライト)は着脱式で日中は外していた(!)らしいので、ある意味こちら側の方がオリジナルの雰囲気に近いとも言えます。床下にジャンパ栓受が見えますが、これは連結運転を行っていた上田丸子時代の改造でしょうか。



江ノ電時代に片運転台化されたため運転台の仕切りがありません。乗務員ドアは残っていますが溶接されていて開かないようです。



台車も汽車会社製で軸距1,650㎜。リベット組みの路面電車チックなスタイルながら車輪径は860㎜あり、ゆれ枕付の板バネも備えるなど高速運転を意識した造りです。床下機器も含めてギンギン(銀銀)に塗られているのは窓枠に合わせたのかも知れませんが、ちょっと・・・という感じです。



上田丸子へ移った際に可動ステップを撤去していますが、下から見ても横から見ても痕跡は全くありませんでした。溶接で焼き切った跡やパテのコテコテ盛りなどを眺めてニヤニヤしたかったのですが残念。なかなか改造気合入ってます(笑)。この張り出したステップも上田時代の改造の由。



床下機器も見ておきます。電気側(運転台基準で1-3位側)の左半分に主制御器。これもTDKの堂々たる郊外電車規格のものが吊られています。



その右に何かの箱と、恐らく網の中は主抵抗器。こっちはあまり堂々としてません。笑



空気側(2-4位側)は左から機器箱、ブレーキシリンダ、元空気ダメの順。おや?何か足りませんね・・・。アレが無いと圧縮空気つくれませんけど。。



この妙に開いた空間が怪しい。。ここ(黄色丸)にDH-16あたりのコンプが吊り下がっていたと考えるのが自然でしょう。上田時代も江ノ電時代も2両セットで動いていたようですが、しっかり固定編成化された江ノ電時代に撤去された(相方の802号車のみ残された)のではないかと推測されます。



あと、奥まったところに細長い箱状のよく分からない機器が吊られています。薄くチョーク書かれた文字が「FLR」と読めます。検索でヒットした「日立評論」のとある論文によれば「無界磁継電器」というものが出てきますがそれでしょうか?どのような作用をするのか、最初から付いていたのかさっぱり分かりませんが、残された動画によると山交の電車は意外と韋駄天走りをしていたようなので、その役に立っていたのかも知れません。(想像)




ということで、採寸メインのつもりが、気がつけば床下に潜り込んでの撮影と実車観察にほとんど時間を割いてしまいました。陽だまりで目を細めるねこちゃんズにバイバイし、もう1か所見ておきたい場所があったのでそちらに向かいます。



それが旧貢川(くがわ)駅跡に作られた記念碑です。昭和5年の山梨交通電車線開業から90周年、昭和20年の山梨交通株式会社創業から75周年の節目にあたり記念式典を構えていたところコロナ禍で中止となり、せめて気持ちだけでも前向きに・・・ということでバス整備士が奮闘して道路脇の自社用地に作り上げたとか。



当時の石畳や「SHEFFIELD TOUGHENEDSTEEL 1887.SEC131.1.R 」の文字が浮かぶ古レールが使われていて、ちょっとした史跡といえるかも知れません。




富士山の反対側で精鋭たちが襷リレーを繰り広げる一方でこちらは応援ゼロの「朝練」でしたが、7形電車のプロフィールはしっかり押さえることができたので、帰宅後にさっそくWordでケガキ初めと相成りました。台車などのパーツも入手済みなので、これなら令和7年中の完成は余裕でしょう。一千万がイチだめでも仲間の8形電車がいるので令和8、、(以下自粛)笑







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