○紀田順一郎『カネが邪魔でしょうがない―明治大正・成金列伝』(新潮選書) 新潮社 2005.7
社会変動の激しかった明治大正期、運と度胸と才覚を元手に、一代で巨万の富を築いた人々がいた。本書は、鹿島清兵衛、鈴木久五郎、大倉喜八郎、岩谷松平、雨宮敬二郎、木村荘平らを取り上げる。
彼らは、必ずしも貧困のどん底から這い上がってきた人物ではない。天狗煙草の岩谷松平は、父母に死別したあと、小僧同然の待遇で養家で育てられ、幼年期に苦労をしているが、大倉喜八郎は越後国新発田の大庄屋の生まれだった。鹿島清兵衛は江戸有数の酒問屋の婿養子で、典型的な大家のドラ息子ある。
また、彼らの人生の軌跡もさまざまである。戊辰戦争に際して、文字通り白刃の下を掻い潜り、冒険小説もどきの前半生を送った大倉喜八郎。何度も大損を繰り返し、七転び八起きで還暦の大祝宴を開くに至った遅咲きの雨宮敬二郎。「成金」の語源とも言われながら、30歳で破産し、困窮の後半生を送った鈴木久五郎。
ただ、彼らに共通するのは、富を手に入れたあとの蕩尽ぶりである。豪邸を構え、愛人を囲い、有名どころの芸妓を総揚げする。それも、揃いの法被で練り歩くとか、お座敷列車を借り切って京都まで大宴会なんてのは大人しいほうで、丸裸にして札束を拾わせるだの、相撲を取らせるだのという馬鹿馬鹿しさ。ロウソク代わりに百円札を燃やしたという逸話は、嘘かほんとか分からないが、時には巨大な人工富士を造って宴客を楽しませ、時には朝鮮に虎狩りに行くなど、何か、強迫的な富の蕩尽を繰り返す。
なぜ、この国では、自分の名を冠した公共施設や美術館・図書館の建設を考えるような財界人が、極めて少ないのか(大倉美術館や商業学校を残した大倉喜八郎は、稀有な例外)。なぜ一流の学校を出た教養人が、小金を握れば女遊び、ドンチャン騒ぎの愚挙を演じるのか。この点には海外の日本研究家も疑問を抱くという。
うーん。うまく言えないのだが、確かに、我々の世間には、堅実な公共投資よりも、カーニバル的な蕩尽を求める、狡猾な欲望がある。子孫代々富み栄えることより、鹿島清兵衛や鈴木久五郎のように、富貴の絶頂から素寒貧に落ちる人生を愛惜する(一面では寿ぐ?)気持ちがある。それは、果たして本書のあとがきのように「ネガの心性」と言い切れるものなのか。あるいは「一期は夢よ、ただ狂え」と歌った古人の遺伝子なのだろうか。
それから、成金たちが、徹底して女性を蕩尽の対象として扱う態度を見ていると、近代日本では、政治よりも学術よりも、もしかしたら軍事よりも、実業の世界に女性が1個の人間として入り込むのって困難だったんじゃないか、と感じた。この点は、少し社会が変わったと信じたい。
なお、本書は雑誌『風俗画報』の図版を、しばしば挿絵に用いている。この雑誌、面白いなー。ゆまに書房からCD-ROM版が出ているが、全11枚で22万円か...
社会変動の激しかった明治大正期、運と度胸と才覚を元手に、一代で巨万の富を築いた人々がいた。本書は、鹿島清兵衛、鈴木久五郎、大倉喜八郎、岩谷松平、雨宮敬二郎、木村荘平らを取り上げる。
彼らは、必ずしも貧困のどん底から這い上がってきた人物ではない。天狗煙草の岩谷松平は、父母に死別したあと、小僧同然の待遇で養家で育てられ、幼年期に苦労をしているが、大倉喜八郎は越後国新発田の大庄屋の生まれだった。鹿島清兵衛は江戸有数の酒問屋の婿養子で、典型的な大家のドラ息子ある。
また、彼らの人生の軌跡もさまざまである。戊辰戦争に際して、文字通り白刃の下を掻い潜り、冒険小説もどきの前半生を送った大倉喜八郎。何度も大損を繰り返し、七転び八起きで還暦の大祝宴を開くに至った遅咲きの雨宮敬二郎。「成金」の語源とも言われながら、30歳で破産し、困窮の後半生を送った鈴木久五郎。
ただ、彼らに共通するのは、富を手に入れたあとの蕩尽ぶりである。豪邸を構え、愛人を囲い、有名どころの芸妓を総揚げする。それも、揃いの法被で練り歩くとか、お座敷列車を借り切って京都まで大宴会なんてのは大人しいほうで、丸裸にして札束を拾わせるだの、相撲を取らせるだのという馬鹿馬鹿しさ。ロウソク代わりに百円札を燃やしたという逸話は、嘘かほんとか分からないが、時には巨大な人工富士を造って宴客を楽しませ、時には朝鮮に虎狩りに行くなど、何か、強迫的な富の蕩尽を繰り返す。
なぜ、この国では、自分の名を冠した公共施設や美術館・図書館の建設を考えるような財界人が、極めて少ないのか(大倉美術館や商業学校を残した大倉喜八郎は、稀有な例外)。なぜ一流の学校を出た教養人が、小金を握れば女遊び、ドンチャン騒ぎの愚挙を演じるのか。この点には海外の日本研究家も疑問を抱くという。
うーん。うまく言えないのだが、確かに、我々の世間には、堅実な公共投資よりも、カーニバル的な蕩尽を求める、狡猾な欲望がある。子孫代々富み栄えることより、鹿島清兵衛や鈴木久五郎のように、富貴の絶頂から素寒貧に落ちる人生を愛惜する(一面では寿ぐ?)気持ちがある。それは、果たして本書のあとがきのように「ネガの心性」と言い切れるものなのか。あるいは「一期は夢よ、ただ狂え」と歌った古人の遺伝子なのだろうか。
それから、成金たちが、徹底して女性を蕩尽の対象として扱う態度を見ていると、近代日本では、政治よりも学術よりも、もしかしたら軍事よりも、実業の世界に女性が1個の人間として入り込むのって困難だったんじゃないか、と感じた。この点は、少し社会が変わったと信じたい。
なお、本書は雑誌『風俗画報』の図版を、しばしば挿絵に用いている。この雑誌、面白いなー。ゆまに書房からCD-ROM版が出ているが、全11枚で22万円か...