見もの・読みもの日記

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覆水盆に返らず/一度きりの大泉の話(萩尾望都)

2021-05-08 22:03:12 | 読んだもの(書籍)

〇萩尾望都『一度きりの大泉の話』 河出書房新社 2021.4

 萩尾望都さん(1949-)が大泉時代のことを語った書き下ろしエッセイが出版されたという情報が流れてきた。私がSNSで最初に見かけたのは、どこか奥歯にものの挟まったような、煮え切らない感想だったので、よけい気になって書店に行き、一気に読んでしまった。そして、なるほどこれは感想を他人に語るのが難しい本だと思った。

 著者は1969年に漫画家としてデビューし、上京した後、練馬区大泉の二階家で竹宮恵子氏と同居していた。1970年から72年の2年間ほどである。それから下井草に半年ほど住み、1973年5月には埼玉に引っ越した。田舎に引っ越した「本当の理由」についてはずっと沈黙を守ってきたが、2016年に竹宮氏が自伝本『少年の名はジルベール』を出版して以来「静かだった私の周辺が騒がしく」なり、困惑しているという。そこで、封印していた記憶を一度だけ解き、「私の出会った方々との交友が失われた、人間関係失敗談」という前置きのもとに著者は語り始める(この導入、著者は無意識かもしれないが、ストーリーテラーとして実に巧みだと思う)。

 序盤は淡々とした回顧録である。両親に反対されながら漫画家を目指す。中学時代の友人の紹介で増山法恵さんと知り合う。『なかよし』でデビュー。竹宮恵子先生と知り合う(萩尾さんは文中で「竹宮先生」と呼んでいる)。上京、大泉生活の始まり。増山さんと竹宮先生の「少年愛」への熱中を、少し醒めて眺めている著者。ヨーロッパ旅行。おおむね竹宮氏の自伝の記述と齟齬するところはない。そして、佐藤史生、山岸涼子、ささやななえ(こ)、坂田靖子、城章子、山田ミネコ、伊東愛子など、懐かしい(それぞれの絵柄が浮かぶ)名前もちらほら登場する。

 ヨーロッパ旅行から帰ると、竹宮先生と増山さんは別のマンションで暮らすことになり、著者も別のアパートを見つけて、大泉生活は終了した。そして、1973年3月、『ポーの一族』シリーズの『小鳥の巣』を執筆中だった著者は、竹宮先生と増山さんに呼ばれて「なぜ『小鳥の巣』を描いたのか(なぜ男子寄宿舎ものを描いたのか)」という質問を受ける。さらに「あなたは私の作品を盗作したのではないのか?」と言われたとも文中にある。著者はうまく答えられないまま、呆然として下宿に帰った。

 3日ほど後、竹宮先生がひとりで著者のアパートにやってきて「この間した話はすべて忘れてほしい」と言って、手紙を置いていく。この場面、著者は記憶に従って書き起こしているのだろうけど、異様な緊張感がある(別の箇所で、萩尾さんが、見たものをぱっと覚えて正確に描いてしまう才能の持ち主と言われていることを思い出す)。自分と同じジャンルに入り込んできた、才能ある後輩を呼びつけて「盗作」の疑いで詰問するまでは、凡百の人間がやりそうなことだ。しかし、ひとりで後輩を訪ねた(ひとりで来たのは初めて、とある)竹宮先生の心中の葛藤も察するに余りある。著者は、竹宮先生の手紙を読んでも、彼女の意図が分かりかねたという。そして本文中には、その手紙の一部らしい語句が切れ切れに並べられているのだが、その中に「『11月のギムナジウム』くらい完璧に描かれたら何も言えませんが」というフレーズがある。やっぱり、竹宮先生は萩尾さんの才能が本能的に怖かったのではないかと思う。

 著者は「何かわからないけど、自分の何か悪いことで嫌われたのだ」と思って自罰的になり、頭痛や不眠、目の痛みに悩まされるようになる。妹の語学留学につきあい、しばらく英国で暮らしている間も、脳の中にある「大泉の死体」を意識していたという。帰国後、木原敏江先生の誘いもあって埼玉に引っ越し、ぼちぼちと仕事を始める。木原さんが萩尾さんに「個性のある創作家が二人で同じ家に住むなんて、考えられない、そんなことは絶対だめよ」と語ったというエピソード、理知的な切れ味が木原先生らしい。それから、城章子さんの後書きで岸裕子さんが「あの頃、漫画を見ていてわかった」「(萩尾さんの)絵柄が変わった」「登場人物の目が怒っていた」と語っていることにも驚いた。プロの感性は鋭い。当時の作品を、もう一回読み返してみたい。

 その後も著者の人生は続く。連載中に評判が悪かった『ポーの一族』第1巻初刷3万冊が、3日で売り切れたというのは初めて聞くエピソード。漫画家に反対していた両親との和解。そして、大泉生活解散の理由についても、著者は著者なりに、歳月をかけて整理した言葉であらためて語っている。しかし過去は過去。このことにはもう触れないでいただきたい、と。同世代を生きる私たちは、著者の訴えを聞くしかないだろう。でも、いつの日か本書が、あらためて著者の作品とともに解読されることをひそかに期待してしまう。

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