見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

暴力的な息子たち/パッチギ!

2005-02-05 22:11:58 | 見たもの(Webサイト・TV)
○井筒和幸監督 映画『パッチギ!』

http://www.pacchigi.com/

 先々週の封切り以来、気になっていた『パッチギ!』をようやく見てきた。客席は人影がまばらで拍子抜けした。まあ、午前中の回だったので、あんなものかもしれないけど。ひとりで来ている50代か60代くらいのおじさんが多かった。

 「日本と在日朝鮮人の高校生が社会の荒波に巻き込まれながら、大人への一歩を踏み出す姿をとらえた青春群像劇。娯楽性と社会性が融合された、笑いあり感動ありの作品」(goo映画:1月25日付)という批評に嘘はない。おもしろかった。

 テーマは重い。例によって涙腺の弱い私はずいぶん泣かされた。しかし、この映画の製作者には、観客をどうしても泣かせようという意図は薄いと思う。むしろ、どうにもならない現実の重さを突き放していて、カラッと乾いた感じがする。だから、泣いてしまったことに対する後味の悪さがあまりない(涙のあとで「騙された」っていう作品、時々あるでしょ)。

 「暴力的な描写が多くていやだ」という声がある。そう言われてもやむを得ないかな。私は刃物や銃を使った暴力描写は生理的に受け付けないんだけど、原始的な殴り合いには、わりと耐えられる。いや、実は、こういう暴力的な身体を持った男の子たちというのが嫌いじゃない。

 むかしは駄目だった。高校生の頃、「暴力、反抗、逸脱イコール青春」みたいな語りは大嫌いだった。当時の私は、大学受験だけを目指してスノッブで平穏無事な学生生活をおくっていたので。しかし、不思議なことに、親と呼ばれてもいい(実際には親になってないけど)トシになってみると、若者、特に男の子たちの原始的な暴力性が、妙にいとおしく思えることがある。これって、息子を見る母親の目線だな、たぶん。

 この映画でも、恋する主人公・松山康介(塩谷瞬)よりも、朝鮮高校の不良三人組のほうが、私は抱きしめたいほど好きだ。特にリ・アンソンを演じた高岡蒼佑くんはカッコよかったなあ。私はあまり映画を見ないので、この映画の主要キャストを占めている若い俳優さんたちは、ほとんど知らなかったが、みんな存在感があってよかった。

 実は先週末、京都の鴨川畔を歩きながら、この映画の舞台となったのはどのへんなんだろう?と考えていた。映画の中で(たぶん)一度だけ「東九条」という地名が出てくる。有名な東寺のそばだが、在日韓国・朝鮮人居住区は「鴨川と高瀬川の間」らしいので、近づいたことはないと思う。「東九条」で検索をかけると、なるほど、と思い当たるようなサイトが見つかって興味深い。

 朝鮮高校(正確には「京都朝鮮中高級学校」)の位置も、いろいろ調べて、やっと見つけた。北白川の銀閣寺から、さらに山を上ったあたりである。そうかあ、銀閣寺までは何度も行っているのに、知らなかったなあ...

 見尽くしたように思っている京都の町にも、実は見えていないものがたくさんあるのだあ、と思った。いや、それは京都の町だけでなくて、日本全体について言えることかも知れない。
 
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中世に遊ぶ/日本史の快楽

2005-02-04 00:07:52 | 読んだもの(書籍)
○上横手雅敬『日本史の快楽:中世に遊び、現代を眺める』(角川ソフィア文庫)角川書店 2002.5

 元来、雑誌「週刊現代」に連載されていたものだという。へえ、あの雑誌にこんな高尚なコラムが連載されていたとは、ちょっと意外な感じがした。

 私は「源平」「太平記」の時代が好きなので、上横手さんの本はときどき読む。人物主体でおもしろい。とは言え、決して皮相な理解ではないと思う。とりあえず、安心して読める。

 近代的な感性による思い込みや、政治的歪曲に対しては、ときどき、ちくりと嫌味が入る。本書でいうと、道真の左遷に関して、明治初期の教科書は醍醐天皇の責任を糾弾していたのに、次第に時平だけが悪者になったことか、藤戸の浅瀬を渡るに際し、案内させた漁夫を斬り殺した佐々木盛綱の銅像が、かの地に建ったことへの違和感とかは、その例であろう。
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仏像と写真/京都国立博物館

2005-02-02 08:47:37 | 行ったもの(美術館・見仏)
○京都国立博物館 新春特集陳列『仏像と写真』

http://www.kyohaku.go.jp/

 京都国立博物館の新春特集のひとつ。仏像とその写真を併せて展示し、鑑賞してみようという試み。見る角度やライティングにこだわることによって、ふだん信仰の対象である仏像を、「美」という観点から捉えなおしてみようというのが、企画者の意図であるらしい(京博のホームページ)。しかし、我々はすでに仏像を美的に鑑賞することに慣れ過ぎており、この展示は、立体造型としての「美」とモノクロ写真としての「美」の比較しか呼び覚まさないのではないかと思う。

 その点に留保をつければ、いろいろと興味深かった。仏像と写真は、並んでいるものもあれば、少し距離を置いて展示しているものもある。そうすると、写真と仏像とで、ほとんど印象が変わらない場合もあれば、全く異なる場合もある。特に写真から受ける「大きさ」の印象は、全くあてにならない。本物を見て、あれっ、こんなに小さいのかと驚くことがたびたびあった。また、不思議なことに、モノクロ写真の場合は、たとえば頭頂の宝冠と腰の天衣と台座の蓮華とか、いくつかの特徴を瞬間的に把握することができる。これに対して、本物の仏像に向かい合うと、どうしても視線が顔のまわりに集中してしまうので、細部がなかなか印象に残りにくい。

 個別の作品では、西往寺の「宝誌和尚立像」を初めて実見することができた。僧形の顔が左右に割れて、中から菩薩の顔が覗いているという、悪夢のような仏像である。これってロラン・バルトの『表象の帝国』(ちくま学芸文庫)の表紙に使われていなかったかしら? 私の記憶違いだろうか。ネットで検索した限りでは、佐藤弘夫『偽書の精神史』(講談社選書メチエ)の表紙に使われていたという情報しかヒットしなかったのだけど。

 この仏像、写真だけは何度も見ていたはずだが、これほど鉈彫(なたぼり)の顕著な、東国ふうの仏像だとは一度も気づかなかった。鉈跡の目立つ胴体を捨てて、特徴的な頭部をアップにし、しかもフラットなライティングで撮影した写真が多いんだろうな。たぶん。
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平安仏画勢ぞろい/京都国立博物館

2005-02-01 08:45:09 | 行ったもの(美術館・見仏)
○京都国立博物館 新春特集陳列『十二天画像と山水屏風-平安の雅-』

http://www.kyohaku.go.jp/

 新春特集とは言いながら、あまりの贅沢さに、涙が出るほどびっくりした。私はこの「十二天」掛幅画が大好きなので、このうち数点でも見られるなら、東京から新幹線代を払って出かけても惜しくないと思う。今回は十二幅まとめて見られるらしいので、一層うきうきして出かけた。

 「十二天」特集陳列のセクションに入ると、まず小さな別室があった。あ、曼殊院の「黄不動」だ。これって展覧会では模本に当たる率のほうが高いのに、本物(国宝)に出会えるなんて運がいいなあ、と思って隣を見たら、松永記念館旧蔵の「釈迦金棺出現図」(国宝)。それから、松尾寺の「普賢延命像」(国宝)、もしかしたら本物は初見の「赤釈迦」(国宝)と、これでもかというように名品が続く。

 奥の大部屋には「十二天像」(国宝)と「山水屏風」(国宝)がゆったり展示されていた。この十二天は本当になまめかしい。十二天と、それぞれの左右に配された従者たちは、菩薩形のもの、僧形のもの、髭をたくわえた武人、献花する女人など、さまざざまだが、いずれも赤い唇が生々しい。色黒の痩せさらばえた行者さえ、唇だけは赤いのだ。やっぱり、いちばん心ひかれるのは、涼やかな青年貴族のような「帝釈天」かなあ。逆に永遠の女性を感じるのは「水天」。

 「釈迦金棺出現図」も堪能した。孔雀のような光背とともに「ゆらり」と身を起こした巨大な釈迦如来。集まった人々と動物の顔に浮かぶ、さまざまな驚きの表情(象も獅子も驚いている!)。この一瞬の表情を切り取る鮮やかさは、絵巻ものから現代マンガまで続く、日本美術のお家芸であると思う。唐美人ふうにふくよかな摩耶夫人も慕わしい。

 この国宝勢ぞろいが、なんと常設展料金である(私は東博パスポート会員なので無料)。たぶん特別展にすると、それなりに混むのだろうが、この特集陳列なら、こころゆくまで、十二天ひとり占めも可能だ。どうか古美術ファンはいますぐ京都へ!(2月13日まで)
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