○中島誠之助『ニセモノ師たち』(講談社文庫) 講談社 2005.7
中島氏は、テレビ番組『開運!なんでも鑑定団』でおなじみの骨董商・古美術鑑定家。1996年には、決めセリフ「いい仕事してますね」で「ゆうもあ大賞」を受賞するなど、話題の人になったこともある。けれども、私は、古美術に値段をつけて何が面白いのだろう、と思っていたので、当時、ほとんど番組を見たことがなかった。
そんな私が本書を手に取ったのは、最近、私の関心が、仏像や書画から陶磁器、さらに茶道具の世界に広がり始めて、「骨董」のコアな部分に触れ始めたせいではないかと思う。本書は、骨董商だった伯父(養父)のもとで修業を積み、30歳で独立、南青山に「からくさ」を開店し、古伊万里磁器を世に広めたといわれる著者の半生を織り交ぜつつ、その間に出会った「ニセモノ」と「ニセモノ師」のエピソードを語ったものである。
いや、すごいわ、骨董の世界って。「ニセモノ」と言っても、海外で大量生産されているようなコピー商品の話ではない。近代の名工が精魂傾けた複製に「時代付け」(汚したりくすませたりすること)を施し、さらに本物の年代物の箱や表具を添えれば、プロでも騙されるニセモノを作り出すことができる。時には、新作陶芸の彫名を削り落として古染付に変身させたり、新作の徳利の高台を切り取って古唐津の高台をはめ込んだり、貫入(ひびわれ)にパラフィンを擦り込んで消してしまったり…。
さらに「すごい」のは、そういったニセモノに出くわしたときの、著者を含めた骨董商たちの振る舞いである。1960年代、骨董業界には「ニセモノを売ったほうは悪くない。ひっかかったほうが悪い」という暗黙の了解があったという。独立したての著者は、同業の先輩から1万7千円のフランスの香水瓶を”薩摩切子”と騙されて百万円で買ってしまう。やられた!と思っても、決してキャンセルは言い出さない。「おかげさまで儲けさせていただきました」とシラを切り通す。一方、著者の父親に騙されて「人をそこまでして騙していいかどうかよく考えるように、お前のオヤジにいっておけ」と怒鳴り込んできたお客もあるという。著者はこの同業者を「非常に気骨のある人だった」と評している。
そんな、先輩後輩でも信用できない、生き馬の目を抜くような業界でありながら、「私たち骨董商は血を分けた親子よりも結束が固いんです」と著者は言う。外部から何かの攻撃や圧力があったときは、一丸となって守りあい、支えあう。前近代的かもしれないけど、商人たちの、生き延びる知恵だったんだろうなあ、と思う。
ニセモノ作りのあの手この手は、中国文学者の井上進さんが『書林の眺望』(平凡社、2006)で語っていた漢籍の「罠」を思い出させた。生命にかかわる食品偽装はさておき、どんな買いものでも「ひっかかったほうが悪い」という腹のくくりかたは、ある程度、必要な覚悟かもしれない。
また、自分の懐から金を出すわけでない博物館の学芸員の”勉強”が、どれだけ真摯たり得るか?という疑問を呈している段があって、なるほど、と思うところがあった。人生はお金が全てではないけれど、身銭を切って初めて分かることがある、という考え方に、私は最近賛同しているのである。
中島氏は、テレビ番組『開運!なんでも鑑定団』でおなじみの骨董商・古美術鑑定家。1996年には、決めセリフ「いい仕事してますね」で「ゆうもあ大賞」を受賞するなど、話題の人になったこともある。けれども、私は、古美術に値段をつけて何が面白いのだろう、と思っていたので、当時、ほとんど番組を見たことがなかった。
そんな私が本書を手に取ったのは、最近、私の関心が、仏像や書画から陶磁器、さらに茶道具の世界に広がり始めて、「骨董」のコアな部分に触れ始めたせいではないかと思う。本書は、骨董商だった伯父(養父)のもとで修業を積み、30歳で独立、南青山に「からくさ」を開店し、古伊万里磁器を世に広めたといわれる著者の半生を織り交ぜつつ、その間に出会った「ニセモノ」と「ニセモノ師」のエピソードを語ったものである。
いや、すごいわ、骨董の世界って。「ニセモノ」と言っても、海外で大量生産されているようなコピー商品の話ではない。近代の名工が精魂傾けた複製に「時代付け」(汚したりくすませたりすること)を施し、さらに本物の年代物の箱や表具を添えれば、プロでも騙されるニセモノを作り出すことができる。時には、新作陶芸の彫名を削り落として古染付に変身させたり、新作の徳利の高台を切り取って古唐津の高台をはめ込んだり、貫入(ひびわれ)にパラフィンを擦り込んで消してしまったり…。
さらに「すごい」のは、そういったニセモノに出くわしたときの、著者を含めた骨董商たちの振る舞いである。1960年代、骨董業界には「ニセモノを売ったほうは悪くない。ひっかかったほうが悪い」という暗黙の了解があったという。独立したての著者は、同業の先輩から1万7千円のフランスの香水瓶を”薩摩切子”と騙されて百万円で買ってしまう。やられた!と思っても、決してキャンセルは言い出さない。「おかげさまで儲けさせていただきました」とシラを切り通す。一方、著者の父親に騙されて「人をそこまでして騙していいかどうかよく考えるように、お前のオヤジにいっておけ」と怒鳴り込んできたお客もあるという。著者はこの同業者を「非常に気骨のある人だった」と評している。
そんな、先輩後輩でも信用できない、生き馬の目を抜くような業界でありながら、「私たち骨董商は血を分けた親子よりも結束が固いんです」と著者は言う。外部から何かの攻撃や圧力があったときは、一丸となって守りあい、支えあう。前近代的かもしれないけど、商人たちの、生き延びる知恵だったんだろうなあ、と思う。
ニセモノ作りのあの手この手は、中国文学者の井上進さんが『書林の眺望』(平凡社、2006)で語っていた漢籍の「罠」を思い出させた。生命にかかわる食品偽装はさておき、どんな買いものでも「ひっかかったほうが悪い」という腹のくくりかたは、ある程度、必要な覚悟かもしれない。
また、自分の懐から金を出すわけでない博物館の学芸員の”勉強”が、どれだけ真摯たり得るか?という疑問を呈している段があって、なるほど、と思うところがあった。人生はお金が全てではないけれど、身銭を切って初めて分かることがある、という考え方に、私は最近賛同しているのである。