見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

騙し騙され/ニセモノ師たち(中島誠之助)

2008-10-19 22:28:51 | 読んだもの(書籍)
○中島誠之助『ニセモノ師たち』(講談社文庫) 講談社 2005.7

 中島氏は、テレビ番組『開運!なんでも鑑定団』でおなじみの骨董商・古美術鑑定家。1996年には、決めセリフ「いい仕事してますね」で「ゆうもあ大賞」を受賞するなど、話題の人になったこともある。けれども、私は、古美術に値段をつけて何が面白いのだろう、と思っていたので、当時、ほとんど番組を見たことがなかった。

 そんな私が本書を手に取ったのは、最近、私の関心が、仏像や書画から陶磁器、さらに茶道具の世界に広がり始めて、「骨董」のコアな部分に触れ始めたせいではないかと思う。本書は、骨董商だった伯父(養父)のもとで修業を積み、30歳で独立、南青山に「からくさ」を開店し、古伊万里磁器を世に広めたといわれる著者の半生を織り交ぜつつ、その間に出会った「ニセモノ」と「ニセモノ師」のエピソードを語ったものである。

 いや、すごいわ、骨董の世界って。「ニセモノ」と言っても、海外で大量生産されているようなコピー商品の話ではない。近代の名工が精魂傾けた複製に「時代付け」(汚したりくすませたりすること)を施し、さらに本物の年代物の箱や表具を添えれば、プロでも騙されるニセモノを作り出すことができる。時には、新作陶芸の彫名を削り落として古染付に変身させたり、新作の徳利の高台を切り取って古唐津の高台をはめ込んだり、貫入(ひびわれ)にパラフィンを擦り込んで消してしまったり…。

 さらに「すごい」のは、そういったニセモノに出くわしたときの、著者を含めた骨董商たちの振る舞いである。1960年代、骨董業界には「ニセモノを売ったほうは悪くない。ひっかかったほうが悪い」という暗黙の了解があったという。独立したての著者は、同業の先輩から1万7千円のフランスの香水瓶を”薩摩切子”と騙されて百万円で買ってしまう。やられた!と思っても、決してキャンセルは言い出さない。「おかげさまで儲けさせていただきました」とシラを切り通す。一方、著者の父親に騙されて「人をそこまでして騙していいかどうかよく考えるように、お前のオヤジにいっておけ」と怒鳴り込んできたお客もあるという。著者はこの同業者を「非常に気骨のある人だった」と評している。

 そんな、先輩後輩でも信用できない、生き馬の目を抜くような業界でありながら、「私たち骨董商は血を分けた親子よりも結束が固いんです」と著者は言う。外部から何かの攻撃や圧力があったときは、一丸となって守りあい、支えあう。前近代的かもしれないけど、商人たちの、生き延びる知恵だったんだろうなあ、と思う。

 ニセモノ作りのあの手この手は、中国文学者の井上進さんが『書林の眺望』(平凡社、2006)で語っていた漢籍の「罠」を思い出させた。生命にかかわる食品偽装はさておき、どんな買いものでも「ひっかかったほうが悪い」という腹のくくりかたは、ある程度、必要な覚悟かもしれない。

 また、自分の懐から金を出すわけでない博物館の学芸員の”勉強”が、どれだけ真摯たり得るか?という疑問を呈している段があって、なるほど、と思うところがあった。人生はお金が全てではないけれど、身銭を切って初めて分かることがある、という考え方に、私は最近賛同しているのである。

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古書店の棚から/昭和とは何であったのか(子安宣邦)

2008-10-18 22:56:56 | 読んだもの(書籍)
○子安宣邦『昭和とは何であったのか:反哲学的読書論』 藤原書店 2008.7

 2003~2007年に雑誌『環』に連載された読書論(書評エッセイ)。ただし、対象は新刊書ではなく、古書ばかりである。しかも、大学勤めを離れて年金生活者になった著者は、「二千円以上の本は買わない」という原則のもと、古書展めぐりを楽しんでいる。したがって、本書に取り上げられている本は、古書店主がゴミと呼んでいるような雑多な本、時代遅れのかつての流布本などである。

 たとえば、火野葦平『小説 陸軍』、橘樸『国体論序説』、田辺元『種の論理の弁証法』など。雑誌『文藝春秋』昭和13年新年号は、前年7月の盧溝橋事件に始まった「支那事変」が全面戦争化した時期であるが、この雑誌には、政治・経済・軍事のみならず、風俗・文化・女性・料理に至るまで「支那が溢れている」ことに著者は驚く。「支那事変」とは不思議な戦争である。日本人は、戦争をしながら、熱烈な好奇心をもって「支那」を語り、体験しているのだ。

 また、文部省『小学国語読本』巻11(小学六年生が使用)では、賀茂馬真淵と本居宣長の対面「松阪の一夜」が、国民的な物語として形成されていく過程を考える。それにしても、同じ国語読本(小学六年生用)でも、大正12年(1923)版と昭和13年(1938)版の目次を並べてみると、ずいぶん違うことが分かる。前者が「暦の話」「ゴム」「南米より」「リンカーンの苦学」など、科学的知識や国際的な視野をバランスよく採用しているのに対して、後者は「吉野山」「源氏物語」「法隆寺」「皇国の姿」など日本文化・伝統の比重がぐっと高くなる。

 だいたい書評のアンソロジーというのは、1篇(1冊)ごとにトーンが異なるので、どんなに質の高い書評でも、まとめて読むと散漫な印象しか残らない。しかし、本書は、著者の問題意識が一貫しているので、その点、読みやすかった。

 私がいちばん関心をもったのは、清水安三の自伝的著作『朝陽門外』である。清水安三は桜美林大学の創設者で、北京の朝陽門外に学校を建て、妻美穂とともに、最下級の貧民のために献身した。清水は「わたくしの一生は支那人のために、呉れてしまった」と述べている。今もむかしも、世界中に、歴史の陰に、こういう人たちがいるんだなあと思った。国家の顕彰などとは無縁なままに。私は、まず入手しやすい、山崎朋子の『朝陽門外の虹』(岩波書店、2003)を読んでみようと思う。「ぜひ多くの方々がこの山崎の書によって清水安三たちの記憶を共にもたれることを私は切望する」という、著者のことばをここに引いておく。
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関西旅行10月編:あなたの知らない名画(京博)

2008-10-17 23:55:13 | 行ったもの(美術館・見仏)
 秘仏をめぐる関西旅行、その他の寄り道先。

■京都国立博物館・平常展示
http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html

 例によって、平常展示の絵画をお目当てに立ち寄る。中国絵画は、肖像、特に禅僧の頂相(ちんぞう)が並んでいて、ちょっと面白い特集。近世絵画は、初めて見る『舞妓図屏風』が逸品。サントリー美術館の『舞踊図』の類例だが、これは人物がほぼ等身大と大きい。六曲一双屏風に総勢12人の踊り手が描かれている。髪を結ったり垂らしたりと、ファッションは様々だが、全て女性なのかしら?

 長沢蘆雪『白梅図』は、白梅の立木が「全身を揺らして激しく踊る人」にも見える。「クラシックの応挙に対する、ロックの蘆雪」って、誰がこの解説書いているんだ? 絵巻では『華厳宗祖師絵伝・義湘絵』の、いつもの龍の図でない場面が開いているのがめずらしかった。旅寝の僧の夢枕に大きな赤鬼が現れるところが、リアルで怖い。

 この日、やけに混雑していたのが、中世水墨画の部屋。「あなたの知らない水墨画」と題したミニ特集展示が行われていた。いずれも「ごく最近、当館の寄託となった水墨画」であると解説に言う。通常、「あなたの知らない○○」といえば、昔のオークションカタログに収載されて以降、行方不明になっていた作品で、一般人は知らないけれど、専門家にはよく知られたものを指す。しかし、今回の展示品は「誰にとっても目新しい、きわめてウブな作品」ばかりなのだそうだ。

 元信印の水墨画の大作『四季花鳥図屏風』は、向かって左が冬の景で、雪の積もった竹林、肩を寄せ合うスズメやカモが寒々しい。右は梅の花開く早春の景で、楽しげに口を開くセキレイ(?)の姿から、寒さの緩みが伝わる。光信印『山水禽獣図屏風』ともども、滋賀県野洲市の旧家に伝来したものだそうだ。まだまだ地方の旧家からは、突如として、こうした名品が発掘される可能性があるらしい。嬉しいなあ。

 なお、平常展示館は、建替工事に伴い平成20年12月8日から休館を予定している。休館前最後の平常展示は11月6日から。このラインアップも、平常展示とは思えない気合いの入り方で、ひそかに楽しみにしている。必ず行くつもり。
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関西旅行10月編:京都で見るアジアの仏像

2008-10-16 23:04:08 | 行ったもの(美術館・見仏)
 秘仏をめぐる関西旅行。初日の11日(土)は、京都で途中下車し、以下の展覧会に寄った。

■泉屋博古館 平成20年秋季展『仏の形、心の姿-東アジアの仏教美術-』
http://www.sen-oku.or.jp/kyoto/

 中国・朝鮮・日本の金銅仏や木彫仏を集めた展覧会。しかし、展示室に入ると、並んだ仏像を後にして、国宝『線刻仏諸尊鏡像』に、ふらふらと吸い寄せられてしまう。八稜形の銅鏡である。中央の如来は、しもぶくれの赤ちゃんのように愛らしい相貌。左右に文殊と普賢、下段に不動、毘沙門天が控える(平和的なんだか、戦闘的なんだか)。見る位置によって、鏡面が金色に見えたり、銀色に見えたりする。泉屋博古館の古鏡コレクションは、むかし見たなあ、と思って、過去ログを検索したら、たぶんこの鏡のことだろう、あまり感心しないことを書いていた。鏡背の文様(鴛鴦、唐草)も、今回は、平安の美意識らしくていいなあ、と思ったのだが。

 それから、おもむろに日本の木彫仏のコーナーへ。なんと言っても『木彫毘沙門天像』(鎌倉時代)がすごい完成度である。博物館の外壁に貼られた、大きな写真ポスターを目にしたばかりなので、あれっ、こんなに小さいのかと驚く。写真をどんなに引き伸ばしても、プロポーションに破綻がないのだ。袖のふくらみ方、裾のなびき方、垂れた帯の先端まで、神経が行き届いている。尊像だけでなく、邪鬼にも、鎧の獅噛(しがみ=ベルトの飾り)にも玉眼が嵌まっていて、尊像の玉眼は、左右の瞳の位置を少しずらすことで、右下向に視線が向くように調整してある。解説によれば「昭和49年、奈良博で展観されて以来、長く公開されることがなかった幻の仏像」だそうだ。ふーん。どこで何をして、おいでだったのか、想像は広がる。

 対面のケースには、中国・朝鮮の金銅仏が並んでいた。身高10~20センチくらい。個人の念持仏だったものと思われ、大寺の本尊と違って、親しみやすく、ユニークな姿をしたものが多い。南方風の特徴を持つ、雲南大理国の鍍金観音菩薩立像をなつかしく眺めた。明清の仏具(僧侶の持物)もきれいだった。数珠、払子、如意など、簡素で品があって、”男のお洒落”のお手本という感じがした。

■京都大学総合博物館 平成20年秋季企画展『シルクロード発掘70年-雲岡石窟からガンダーラまで-』
http://www.museum.kyoto-u.ac.jp/indexj.html

 京都大学が、人文科学研究所を中心に行ってきた、中国と中央アジアの仏教遺跡調査70年の歩みを振り返る展示会。パネル展示と文物展示の2室から成る。私は、けっこうパネル展示に見入ってしまった。最も早い調査は、1936年、中国河北省の響堂山石窟と河南省の龍門石窟を対象に行われている。日中戦争勃発(盧溝橋事件)の前年だ。

 そして、1938年から1944年まで、7次にわたる中国山西省の雲崗石窟調査が行われた。日中戦争の真っ最中に、どうしてそんなことが出来たのか、不思議でしかたがない。この調査では、北京の職人・徐立信に拓本を取らせるとともに、5,000枚を超えるガラス乾板写真を撮影しており、「今もこれを上回るすぐれた写真は撮影されていない」という。複数の鏡を使って、リレー式に太陽光を石窟内に引き入れたり、張り渡したタコ糸で三次元のグリッドを作り、正確な測量を行うなど、さまざまな悪条件を、智恵をしぼって乗り越えている。

 戦後は、イラン、アフガニスタン、パキスタンなどに調査隊が派遣され、ベルトコンベア、気球などの新技術も使用されるようになった。しかし、変わらないのは現場で記される調査日記。日々簡潔な記述の行間に、さまざまな空想がふくらむ。1970年、アフガニスタン調査の「新たに購入した物品リスト」というファイルも面白かったなあ。正露丸、大学目薬、ボラギノールに仁丹! 昆布@340×5とか、細かい。

 文物展示室には、塑像や瓦、建築意匠の断片などが、大量に並んでいる。美術的な価値のある完成品はほとんどなくて、いかにも考古調査の展示である。いちばん驚いたのは、雲崗石窟で採取された「仏像の目」。黒い笠をつけた巨大マッシュルームのようだ。石窟の前で発見されたという遼金代の瓦も面白かった。瓦当の真ん中に、福々しい丸顔の獅子が刻まれていて、かわいい。どら焼きにしたら売れるだろうに。

 ところで、京大人文研は、戦前の調査をまとめた報告書『雲崗石窟』全16巻を1950~70年代に刊行しているが、その続集となる「遺物篇」を2006年に刊行した。70年前の発掘調査の成果を、ようやくまとめ終えたわけで、このくらい悠長な時間を刻む学問も、あっていいのではないかと思う。
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関西旅行10月編:秘仏ご開帳をめぐる(2)

2008-10-14 23:58:16 | 行ったもの(美術館・見仏)
■第四番 槙尾山施福寺(槙尾寺)(大阪府和泉市)
http://www.bukkyo.net/sehukuji/(個人サイト:仏教ネット)

 13日(月)の予定は、はっきり決めていなかったのだが、前日の粉河寺・紀三井寺のご開帳にいたく感激し、新しいご朱印帖もGETしたので、同じく秘仏ご本尊ご開帳中の施福寺にも行ってみることに。ここは、三十三所の中でも、山登りの難所BEST3に数えられているそうだ。

 南海本線の泉大津駅前から、1時間に1本のバスに乗車。JR阪和線、泉北高速鉄道線を横切るたび、乗客が増えてくる。施福寺詣での参拝客は、槙尾中学前で一斉に下車。反対車線に待っているオレンジバスに乗り継ぐ。これは、15人乗りくらいのワゴン車で、この日は全員が乗り切れず、5、6人が残されることになった。「また戻ってきますから、待っててください」と言い残して発車。いちだんと細くなった山道を、満席のワゴン車は、すいすいと上っていく。10分ほどで終点に到着。あとは徒歩で山頂を目指す。急坂の舗装道路のあと、山門をくぐると、本格的な山道になり、ひたすら上る(公称30分だが、もうちょっと短くていける)。勾配はきついが、さほど歩きにくい道ではない。息は切れたが、あとで足は痛くならなかった。

 いくつかのお堂を経て、山頂の本堂へ。中央のご本尊は弥勒菩薩で、その右側に文殊菩薩、左側に札所本尊の千手観音がおいでになる。お厨子の扉は開いているが、用心深く金襴の垂れ幕が下がっていて、アーチ型の切れ込みから、わずかにお姿が覗くのみ。胸の前で合わせた華奢な合掌手が印象的であるが、千手かどうかもよく分からない。う~ん、ちょっと不満。本尊の背後には馬頭観音。梁の上に、小さな白馬が飾られているのが面白かった。あと、暗い天井下に、たくさん並んでいたのは、二十八部衆かなあ。

 境内からは、緑深い葛城山、金剛山などの山並みを一望できて、雄大な気分にひたれる。ここはさすがに団体は来ないのだろう、と思ったが、帰り道、揃いのワッペンをつけた団体客が、ぞろぞろ上ってくるのに行き逢った。思うように足の上がらない、ご老体多し。そのあと、下のバス停でオレンジバスを待っていると、サイレンを鳴らしながら消防車が到着。小さな赤いトラックに、すばやく担架とボディボードを積み替えたレスキュー隊は、「行けるところまで車で行くぞ!」と叫びつつ走り去った。どうなったことやら。

■第五番 紫雲山葛井寺(大阪府藤井寺市)
http://rieip.kt.fc2.com/fujidera/index.html(個人サイト:葛井寺へ行こう)

 施福寺を早めに出られたので、よし、第五番の葛井寺も行っちゃおう、と、突然の計画変更。最後に来たのは2004年7月なので、ずいぶん久しぶりだ。やっぱり、天平仏はいいなあ、と思う。

 ご本尊の裏側にまわると、さまざまな寺宝や資料が展示されているのは以前のとおりだが、その中に、井真成(いのまなり)に関する新聞記事があって、私の目を引いた。井真成は、717年(養老元年)19才で唐に渡り、734年(開元24年)に死去し、長安南郊に埋葬された遣唐留学生である。中国・西安でその墓誌が発見され、愛知万博や、東京国立博物館の特別展『遣唐使と唐の美術』で展示された。葛井氏または井上氏の一族であるという説が有力なことから、藤井寺市が出生地と推測されているらしい(→関連サイト:「銘菓 井真成」って、まだあるのかな? ちょっと欲しい)。

 調べてみたら、中国で墓誌の発見が「公表」されたのは、2004年10月のことだという。だから、前回、私が葛井寺を訪ねたときは、こんな話題は、影も形もなかったわけだ。次に行くときは何が起きているかしら。楽しみである。
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関西旅行10月編:秘仏ご開帳をめぐる(1)

2008-10-13 23:28:05 | 行ったもの(美術館・見仏)
 花山法皇一千年御忌にあわせた西国三十三所結縁ご開帳が始まっている。先月も京都・清水寺のご本尊を、8年ぶりに拝みに行ってきたばかりだが、今月は和歌山へ。土曜の夜に和歌山入りして、日曜の朝から秘仏探訪を開始する。

■第三番 風猛山粉河寺(和歌山県紀の川市)
http://www.kokawadera.org/index.html

 ここは2005年3月に一度来たことがあるが、印象に残っているのは、中門の四天王像くらい。果たして”ご開帳”に値する仏像なんてあるのかしら、と疑いながら歩を進める。本堂の隣りの方形の小さなお堂「千手堂」に五色の幔幕がたなびいている。どうやら、こちらが結縁ご開帳の会場らしい。拝観料300円(本堂共通)を払って堂内へ。一段高くしつらえたお厨子の扉が大きく開け放たれており、幼児ほどの、小さな千手観音の全身がよく見える。

 お厨子の内壁の金色、薔薇の花を貼り付けたような舟形光背(湧き上がる雲を模したもの)の金色が、したたるようにあでやか。長い年月を経た尊像の肌は黒ずんでいるが、黄金の瓔珞、ティアラのような宝冠は、今出来の輝きである。宝冠の左右には、珊瑚だろうか、桃色の宝珠が色を添える。美しいのは、衣(特に腰から下)を飾る截金(きりがね)。魚鱗のように繊細な文様は、人魚姫のようだ。217年ぶり(寛政期以来!)の公開という、秘仏中の秘仏というだけのことはある。左右に背負った脇手の広がりが小さいので、スラリと細身の印象である。

 堂内係のおじいちゃんは「解説はようしません」と言いながら、問いかけられると、いろいろなことを教えてくれた。粉河寺のご本尊は「絶対秘仏」である。しかし、今回、西国三十三所のお寺が結縁ご開帳をすることになったので、困った末に、古例(217年前)に倣って、この千手観音をご開帳することにした。もちろん217年ぶりだから、寺の人間も見たことがない。「ご住職は、朝夕このお堂でお勤めをなさってるんで分かりませんけど」とのこと。でも、重要文化財の指定を受けているのだから、文化財関係者には見せているのね。

 ちなみに、ご本尊は、本堂の「お厨子の下」にいらっしゃるそうだ。本堂の下には深い井戸があって、ご本尊はその中にいらっしゃるとか。別のおじいちゃんは、何か(火災など)あったときは、すぐに井戸の中に沈めることができるようになっている、と語っていた。確かに、境内をきれいな川が流れているので、本堂の下に井戸があっても不思議でない。粉河寺は、豊臣秀吉の焼き討ちによって、多くの伽藍と寺宝を焼失した後、紀州徳川家の庇護のもと、再建された。そのとき、火災からご本尊を護る独特の工夫がなされたのかもしれない。

 その本堂に入る。須弥壇中央のお厨子はぴたりと扉を閉じており、左右を二十八部衆が護る。けれども、気になるのは須弥壇の下。そっと覗き込むと、今にも動き出しそうな、2匹の堂々とした蟠龍の彫り物が、ギョロ目を光らせて須弥壇を護っている。本当のご本尊のボディーガードは、この龍たちなのではないかしら。そんなことを思った。

■第二番 紀三井山金剛宝寺(紀三井寺)(和歌山県和歌山市)
http://www.kimiidera.com/

 ここも2005年4月以来の再訪(2005年の春は、なぜか3月と4月と2回も和歌山に行っている。このときも、たぶん秘仏ご開帳目当て)。前回は、本堂の奥深く並んだ仏像を遠目に拝しながら、あれが秘仏か?!と想像していたのだが、全くの間違い。特別拝観料1,000円を払うと、内陣の奥、須弥壇の背後へと誘導される。本堂の裏に、渡り廊下でつながった別棟の収蔵庫(大光明殿)が建っているのだ。ここには、常時、6体の仏像が安置されているという。ただし、現在、十一面観音立像1体は『西国三十三所』展(奈良~名古屋)にご出張中。うん、先月、奈良でお会いしたばかりだ。また、中央の2体を収めたお厨子は、50年に1度のご開扉が基本で、パンフレットにも写真は掲載されていない。

 今回は、そのお厨子が開き、秘仏本尊・十一面観音と秘龕仏(と呼ぶのだそうだ)・千手観音を、ともに拝することができる。どちらも「クスノキの一木彫り、素地仕上げ」で、紀(木)の国らしい仏像である。ほぼ等身大、十一面観音のほうが造作が大きい。つま先を開き気味に立ち、腰の張りが目立つ。垂らした右腕は膝よりも長く、古様なプロポーションである。彩色はされていないはずだが、両頬の赤らんだ感じが、京劇の隈取りのように見える。若いお坊さんが「がっしりして、ごっつい仏様なので、地元では荒仏様とも呼ばれています」と解説していた。え、秘仏なのに、地元ではそんなによく知られているのか。十一面観音のほうが、小顔で洗練された印象を受ける。どちらも、唐草文様の愛らしい板光背。ちなみに、こちらも本堂のお厨子の中は、十一面観音をあらわす掛け軸のみが掛かっているとのことだ。

 なお、この日から西国三十三所のご朱印集めを新たにスタート。果たして、3年間の結縁ご開帳の間にまわり切れるだろうか。
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俑のさまざま/隋唐の栄華(天理ギャラリー)

2008-10-11 19:58:36 | 行ったもの(美術館・見仏)
○天理ギャラリー 第135回展『隋唐の栄華』

http://www.sankokan.jp/exhibition/gallery/index.html

 神田の東京天理教館ビルに設けられた天理ギャラリー。知る人ぞ知る、ここでは、天理大学や天理参考館が所蔵する文物の展示が、定期的に行われている。小規模ではあるが、他では見ることのできない、貴重なものも多い。しかも無料。

 今回は、隋唐時代の俑(焼きものの人形)がずらり。大小さまざま、文官、武士、胡人、女子など、多彩である。すっぽりと長いコートで全身を覆った武人俑は、ドイツの髭徳利みたいだった。甲冑姿で並ぶ2人の武人は、もともとは武器を構えていたのだと思うが、男性デュオのようで可笑しかった。ショールをはおり、スカートのドレープが美しい細身の女子俑は、世紀末の貴婦人のよう。

 歌い、踊り、楽器を演奏する10人の妓女たちは、生き生きしたお雛様のように愛らしいが、本当のところ、どのように並んでいたのかは分からないのだろう。「このように配してみた」という解説が正直だなあと思った。

 小さな十二支像もあり。羊、ブタ、痩せ犬もいる。井戸や竈を模した明器(副葬品)もあり。私の好きな鎮墓獣は、二本角の獣面のほうのみで、ペアになる人面がいないのがちょっと寂しい。
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400年の戦争体験/好戦の共和国アメリカ(油井大三郎)

2008-10-06 20:05:58 | 読んだもの(書籍)
○油井大三郎『好戦の共和国アメリカ:戦争の記憶をたどる』(岩波新書) 岩波書店 2008.9

 植民地・建国時代から今日まで、400年にわたるアメリカの戦争体験を読み通すと、この国は、よくもまあ飽きずに戦争をし続けてきたものだなあ、と思う。

 始まりは、対先住民戦争と植民地(代理)戦争。対英独立戦争(1775-1783)に辛勝するが、犠牲者は開戦当時の人口の1%に達した。さらに米英戦争(1812-1814)、米墨(メキシコ)戦争(1846-1848)に勝利し、アメリカは西部へと膨張していく。なんだ、アジアやアフリカの分割に血道をあげていたヨーロッパ列強と変わりないじゃないか、と思った。領土の拡大に従って、新領土を奴隷州とするか自由州とするかの対立が激化し、南北戦争(1861-1865)が勃発する。総計62万人という、アメリカ史上最大の戦死者を出したが、「武器によって連邦制が守られた」実感は、「武装民主制=銃社会」への傾斜を強めた。

 米西戦争(1898)の勝利によって、国内的には南北融和が実現。続く米比戦争(1899)にも勝利し、キューバ、フィリピンという海外植民地を手に入れたアメリカは、「力の政治」を標榜するセオドア・ローズヴェルトのもと、海洋帝国化=軍事大国化の道を進む。第一次大戦で甚大な犠牲者を出したヨーロッパでは、連邦国家の建設によって戦争抑止を模索する動きが生まれ、第二次大戦後に結実する。そうか、ヨーロッパの統合は、むしろ第一次大戦からの連続した動きとして考えるべきなんだな。しかし、アメリカの場合は、国家主権の絶対性への信念が強固で、この一部といえども制限を受けることには、今なお強い抵抗感があるという。国連を無視したアメリカの単独行動は、強大な軍事力を背景にしていることももちろんだが、ここ(主権の絶対性に対する信念)に淵源があるんだな、と納得。

 第二次大戦は、アメリカにとっておおむね「よい戦争」だった。他の地域に比べれば、きわめて小さい犠牲で、「世界の中心」としての地位を手に入れた。このことは、グローバルな軍事介入を是とする考え方につながっていく。また、重要なのは「ミュンヘン症候群」と呼ばれる態度形成である。1938年のミュンヘン会談で、英仏首脳がヒトラーに宥和的な態度をとったことが、ナチス・ドイツの拡大を許したという体験に基づくもので、「独裁的政権の局地侵略を見過ごすと世界大戦を誘発しかねないので、どんな小さな侵略でも軍事的に阻止する」という態度をいう。ここでもまた、近年のイラクやアフガニスタンに対するアメリカの強硬姿勢の由来が分かったようで、納得。

 こうして、常に戦争の記憶が、次の戦争に対する態度を決めていくように思う。もちろん、それゆえに権力は戦争の記憶を操作しようとするわけだ。本書は、著者の論評を極力控えて、淡々とした事実の記述に多くの紙数を費やしている(ように見える)。アメリカ史に親しんでいない者には、ちょっと読むのがしんどく感じられるかもしれない。しかし、このような著作から学ぶことはとても多い。

 先だって、荒井信一著『空爆の歴史』(岩波新書、2008.8)を読んで、第二次世界大戦において空爆の応酬をし合ったヨーロッパの国々がEUをつくれたのは何故なのか、という疑問を書き付けたところ、「きの」さんから、ヨーロッパとアメリカの戦争体験を比較するコメントをいただいた。本書は、ちょうどその見解を敷衍するような内容であった。
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コレクターの妙味/禅・茶・花(東京美術倶楽部)

2008-10-05 10:23:27 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京美術倶楽部 正木美術館開館40周年特別記念展『-禅・茶・花-』

http://www.toobi.co.jp/

 新橋にある東京美術倶楽部に行くのは、2006年の創立百周年記念展以来2度目である。久しぶりなので、道に迷いながら、なんとか辿り着いた。

 本展は、正木美術館の開館40周年を記念し、創始者・正木孝之(1895-1985)が一代で収集した東洋美術コレクションの全貌を紹介するもの。大阪府泉北郡に位置する正木美術館には、まだ行ったことがない(関西には、まだまだ未踏の美術館・博物館が多い)。そのため、初めて接する優品が多くて、堪能した。

 気に入ったものを挙げていくと、まず『減翁文礼墨蹟』と『虚堂智愚墨蹟』。肩の力の抜けた書が2点並んだところが微笑ましかった。前者は「瀟洒な造形美」(解説文)といえば聞こえはいいが、行末が左に流れる、癖の強い字である。後者は1字ずつバラけた感じが、訥々とした語りを彷彿とさせる。どちらも南宋時代の書。水墨『山水図』は「拙宗(雪舟)」の署名あり。作者には議論がある(あった)そうだが、画面の手前、黒々した墨を大胆に塗りつけているあたりが雪舟っぽいなあ、と素人目には見えた。光悦作のたっぷりした飴釉赤茶碗(銘・園城)と、長次郎の生真面目な黒楽茶碗(銘・両国)が、微妙な距離をおいて並んだ図もよかった。万有引力の働きによって、最も自然な距離を保っている、2つの天体みたいに見えた。

 愛らしい能阿弥の小品、水墨『蓮図』。讃をよく読んだら、75歳のときの作と分かってびっくり。能阿弥という名前は初めて聞いたが、調べてみたら、むかし気になった水墨画の作者・相阿弥の祖父であるそうだ。足利義教、義政に仕え、唐物の鑑定を行い、書院飾りを完成させたという。そこで、足利義政の別荘・慈照寺(銀閣)の東求堂にこの『蓮図』を掛け、さらに唐物飾りを再現するというプロジェクトをビデオで紹介しており、面白かった。須田悦弘さんの、リアルな木彫の「花」が彩りを添える。

 正木コレクションには、長谷川等伯筆と伝える『千利休図』がある。天正11年(利休在世中)の年記がある貴重なもの。これを、武者小路千家に一時「里帰り」させたときの様子もビデオで紹介されていた。利休という人は体が大きかったそうだ。肖像画も、力のある眼光、容易に笑いそうのない、ふてぶてしい面構えを伝えている。面白かったのは、武者小路千家14代の家元も、どことなく利休と同系統のお顔立ちに見えたこと。

 500年の時を隔てて、利休の血脈である家元から、始祖・利休の像に献じられるお茶。器は、会場にも展示されていたけれど、南宋の建盞天目に室町の朱漆金彩台である。内に籠るような渋い輝きが、京の冬の底冷えにふさわしかったことだろう(お茶席は本年2月、雪の日だったそうだ)。

 冒頭にあった、南宋の玳玻盞(たいひさん)天目茶碗と明代の青貝松竹梅文台のとりあわせもよかったなあ。時代と空間を超えて、作品と作品、作品と人を引き合わせる。コレクターの妙味って、ただ集めることだけではないんだなあ、と思った。

 ところで、会場では「出品作品リスト」を入手することができるが、これには展示替え日程が記載されていない。webサイトからダウンロードできる「出品作品リスト」には、ちゃんと記載されている。まあ、逆よりはいいけど、ちょっと不親切である。
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頑張らないオジサン/内田樹氏インタビュー

2008-10-04 21:23:24 | 見たもの(Webサイト・TV)
○日経トレンディネット:「ストレスを感じさせない人」が評価につながる(内田樹氏インタビュー)

http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20081001/1019308/

 『下流志向』(講談社、2007)『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(文藝春秋、2008)など、最近お気に入りの著者のひとり、内田樹さんのインタビュー記事を、昨日、ネットの上で見つけた。「日経トレンディネット」が提供する「“前向き力”の作り方」というコンテンツである。「プレッシャーやストレスに押しつぶされそうになったとき、達人はどのように乗り越えていくのか 」をテーマとするインタビューシリーズの一編。むかしは、サラリーマン雑誌に付きモノのこの手の”啓発”記事を、鼻で笑っていたものだが、オトナ暮らしが長くなると、いろいろ身につまされるものがあって、興味深く読んだ。

 私は内田さんの考え方に同意するところが多い。というか、日頃、自分がぼんやり感じていることを、明確な言葉で代弁してもらったような気がする。たとえば、「労働というのは基本的には集団でやるものです。そこでは『コラボレーションする能力』、もっとはっきり言うと、『まわりの人のパフォーマンスを高める能力』が一番求められます。自分にいくら知識や技術や資格があっても、それが自分のためにしか役立たないのであれば、職場では評価を得ることはできません」という一節。知識や技術はあるのに評価されない、と不満を感じている人には、よく噛み締めてもらいたい。いい仕事をするには(=いいパートナーを得るには)「この人と仕事をしているとストレスを感じない人」という評価を得ておくことが大切、というのも非常に納得した。

 しかし、こんなまったりしたアドバイスで、”前向き力”は作れるんだろうか?(笑) このインタビューシリーズには、既に5人の”達人”が登場している。面白いのは、経済アナリストの森永卓郎氏も「仕事の完成度にこだわりすぎないこと」「生真面目はほどほどに」と語っており、映画監督の森達也氏も「つらいときは無理しない」と、オジサン3人は揃って脱力志向なのである。一方、「緊張感の中でさらに自分にプレッシャーをかける」「仕事も一生懸命、趣味も徹底的に」と語るのは、いずれも若い女性たち。同じテーマで行われたインタビューとは思えないほど、回答が対極的である。結果的に、頑張る女のコと頑張らないオジサンという構図が浮かび上がっていて興味深い。私はむろん後者に与したいと思うけど。
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