見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

紙の上の王城/北京を見る読む集める(森田憲司)

2009-08-16 00:05:01 | 読んだもの(書籍)
○森田憲司『北京を見る読む集める』(あじあブックス) 大修館書店 2008.7

 1993年から、北京で発行されていた日本語フリーペーパー『北京かわら版』、そのあと『北京トコトコ』に移って、現在(2008年)まで連載中の「中国を見る集める読む」が元ネタ。著者は中国近世史を専門とする研究者だが、内容は一般向けである。著者の趣味は「集める」こと。何を集めるかというと、中国にまつわる面白そうな本ならなんでも欲しい。欲しいのは本に限らない。字のある物、とくに印刷された物なら、なんでも欲しい、と著者はいう。この気持ち、大いに共感するという人間には、きわめて楽しい本だ。

 取り上げられているのは、入場券、糧票、紙銭、年画、月份画(壁貼りカレンダー)、陞官図(すごろく)、科挙の合格通知、地図、絵葉書、写真帖、旅行記など。地下鉄の改札口で、もぎり取られる切符を死守する苦労話は、90年代の北京を思い出して懐かしかった。また、老北京(ラオベイジン、北京っ子)と新世代の違いのひとつは、「糧票」(主食を購入するための配給切符)を知っているか否かだというが、私は、1993年夏、西単の包子屋さんで、これを見た記憶がある(北京で糧票が廃止されたのは、まさに1993年だそうだ)。

 北京には「博物館通票」という冊子型の共通パスがあり、パスを使い終わってもガイドブックとして使える、とあったので、これはお役立ち情報と思ったら、近年(2008年~)、中国では博物館の全面無料化が始まっているとのこと。全く気の抜けない変化のスピードである。

 変化を記録する資料として、何に注目しなければならないか、という点で、本書はとても示唆に富んでいる。図書館関係者には、ぜひ一読をすすめたいところ。たとえば、拍売図録(オークションカタログ)。それから、地図。安価な1枚ものの「旅遊図」を詳細に見比べていくと、町の微細な変化を追うことができる。それにしても、1元とか2元は安すぎだろうと思ったが、広告チラシの機能を果たしているといわれれば、納得である。

 もっと貴重な古地図の紹介もあって、「現存最古」の『万暦年間北京城内図』は東北大学附属図書館のサイトで見られる。本書では影印本が紹介されている『乾隆京城全図』(これはすごい)は、最近、東洋文庫がデジタル画像を公開したようだ。ただし、どちらも使い勝手はあまりよくない。

 北京の古写真を見るには、どんな写真帖がおすすめか。こんな質問にも本書は丁寧に答えている。内藤湖南編集の『満州写真帖』なんてのがあるのかー。『亜東印画輯』は好事家向き。名取洋之助の岩波写真文庫『北京』は、まだ手に入るだろうか。なお、中国国内で、こうした資料を探すには、故宮書店(故宮の御花園の東北角にある)が穴場とのこと。行ってみたい。

 また、本書には、紙の上ばかりでなく、実際の史跡を見聞した記録もたくさん収められている。国子鑑と孔子廟、湖広会館など、行った覚えのある名所も多くて、楽しかった。東交巷(清朝末、各国の大使館が集まっていた)は、何度か車で通っているはずだが、ゆっくり歩いてみたことはない。フランス郵便局の建物をそのまま使っているという四川レストラン(静園川菜)、行ってみたいな。

WEB TOKOTOKO
雑誌「北京トコトコ」のWebサイト。

NII:ディジタル・シルクロード
立ち上がったときはしょぼいと思っていたが、ずいぶんコンテンツが増えていた。

レコード・チャイナ:全国の博物館、無料開放で入場者殺到(2008/3/31)
その後はどうなっているんだろう。

カレント・アウェアネス:中国国家図書館長、全人代で図書館の無料化について提出(2008/3/14)
一方で、こんな記事も。
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地域研究者の役割/イスラームはなぜ敵とされたのか(臼杵陽)

2009-08-15 00:04:35 | 読んだもの(書籍)
○臼杵陽『イスラームはなぜ敵とされたのか:憎悪の系譜学』 青土社 2009.8

 私はイスラームについて何も知らない。とりあえず、何も知らないことだけは自覚しているので、最初の一歩と思って、本書を読み始めた。しかし、私が知りたいと思った疑問「イスラームはなぜ敵とされたのか」に対して、著者はなかなか近づこうとしない。話題は、意外な方向にズレていく。

 2001年の9.11事件以後、ムスリム(イスラーム教徒)は欧米社会の公共の敵と目されるようになったが、かつて、この「敵」の役回りを背負っていたのはユダヤ人だった。そう前置きして、著者は「ユダヤ人問題」について語り始める。これもまた、私には、全く未知の分野である。

 著者は、1860年にパリで設立された万国イスラエル人同盟(以下、アリアンス)に注目する。彼らは、1880年代、ロシア帝国から「第1波」のシオニスト(パレスチナに故国を再建しようとする)ユダヤ人がやってくる以前から、パレスチナにおいて、農業訓練所などのユダヤ人復興事業を行っていた。1900年代初頭には、ロシア・東欧から「第2波」移民が始まる。そんな中で、忘れられたアリアンスについて考えることは、ユダヤ教徒=ユダヤ人=シオニスト=イスラエルという硬直化した認識を崩し、オスマン支配の数世紀間に実現したユダヤ教徒コミュニティの多様性、およびユダヤ教とイスラームの共生を想起する意味がある。

 ここから著者は、自分が研究対象とする地域を「パレスチナ/イスラエル」と呼ぶことを表明し、地域研究にかかわる研究者の責任について考える。アメリカにおける北米中東学会へのバッシング、親イスラエル・新保守主義系シンクタンク・中東フォーラムが運営する「キャンパス・ウォッチ」について、私は初めて具体的な事実を知った。かなり暗澹とした気分を生む現実である。

 それから著者は日本を振り返り、研究対象地域との距離感を考える上で「いつも気になる思想家」だったという竹内好に触れ、大川周明、野原四郎らによる戦前の回教研究を参照する。

 結局、「イスラームはなぜ敵とされたのか」という質問に対して、イスラーム文化の特質や、欧米社会とイスラームの歴史的かかわりの中に、何か実態的な「理由」があることは示されない。そもそも、そんなものを外部に求めることが間違いで、もし理由があるとしたら、われわれの他者(異文化)に対する向き合い方そのものの中にあるのではないか。読み終えて、そんなことを考えた。
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美味しいアート/和の菓子(高橋睦郎)

2009-08-14 00:09:32 | 読んだもの(書籍)
○アートディレクション:高岡一弥、選と文:高橋睦郎、写真:与田弘志『和の菓子』 ピエ・ブックス 2003.9

 この本、東京国立博物館の地下にあるミュージアムショップで見つけた。なぜ、博物館に和菓子の本? ぱらぱらとページをめくって、すぐ納得した。これは間違いなく、日本のアートの一分野である。

 同類の本はいくらもあるが、本書は、とにかく写真の質が抜群にいい。薯蕷饅頭のふかふか感、道明寺のつぶつぶモチモチ感、錬り切りのしっとりした重量感など、素材の触感&食感が、きちんと伝わってくる。

 1ページに1種類が基本だが、菓子によって、単体でその表情をとらえたり、あるいは1つ2つ、3つ4つなど、並べたり、散らしたり、立たせたり、寝かしたり、ページをめくるたびの変化が楽しい。100字程度の説明が添えられているが、全て4行形式で、詩のようだ(詩人の高橋睦郎さんが書いている)。

 冬(11月、12月)から春へ、2ヶ月ずつ進んでいくのだが、たとえば、今の季節なら、「夕涼み 八月/暑い夏も日暮れがたになると/涼風が立って しのぎやすくなる。/縁側や屋外に出ての夕涼みの風情を/白と水色のそぼろで表現した。/とらや」「団扇 七月/どこか改まった感じの扇に対して/団扇はいかにもくつろいだ感じ。/菓子の団扇ではあおぐわけにいくまいが/くつろいでほしい主(あるじ)の心は伝わってくる。/笹屋伊織」など。取り立てて必要な情報を伝えているわけでもないところも、奥ゆかしくてよい。「挨拶」を基本機能とする、日本の定型詩の伝統に忠実である。

 撮影協力は、川端道喜、亀屋伊織、とらやの三店舗。いちばん数が多いのはとらやだと思う。私は羊羹くらいしか知らないが、とらやのホームページを見ると、季節限定の生菓子を半月単位で売り出しているようだ。いいなあ、私もそろそろ、ジャンクスイーツから足を洗って、こういう和菓子をたしなむ大人になりたい。

※和菓子にみる京「とらや」
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/rensai/wagashi/w-02.html
年1回の社内公募で新作を発掘し、見本帳に追加していくそうだ。
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祭りと祈り/江戸の幟旗(松濤美術館)

2009-08-13 00:02:47 | 行ったもの(美術館・見仏)
松濤美術館 『江戸の幟旗(のぼりばた)-庶民の願い・絵師の技-』(2009年7月28日~9月13日)

 たまたま渋谷区の住宅街を歩いていて、この展覧会の予告ポスターを見つけたときは、文字通り色めきたった。おお!松濤美術館、やるなあ、というところ。

 端午の節句や村の鎮守の祭礼に立てられた幟旗(のぼりばた)。その豪快、勇壮、真率で華麗な美学に、私が初めて出会ったのは、2007年に日本民藝館で行われた『日本の幟旗』展でのことだった(→詳細)。あの感激がもう一度味わえるかと思うと、バンザイを叫びたいくらいだった。

 さて、会場に入ると、大きな弧を描く展示室の壁には、天井から床まで、色とりどりの長尺の幟旗が、滝壺のように垂れ下がっている。展覧会と呼ぶには、あまりに勝手の違う風景に、入口で足が止まってしまうお客さんも多い。まあ、落ち着いてご覧じろ。いかにも使い古しの、汚れ、色褪せ、しわもある幟旗だが、そのデザインがどれだけすごいか、素晴らしいか。だんだん分かってくるはずである。

 幟旗に使われる布の基本幅は30~40センチくらい。大きい幟旗の場合は、これを2枚ないし3枚縫い合わせて、60~90センチ幅とする(まれに広幅の布もある)。長さ(高さ)は3~4メートルは当たり前で、7~8メートルに及ぶものもある。上の方には家紋(1つ~複数)を入れることが多いが、それにしても極端に縦長のキャンバスで、その使い方がひとつの見どころである。染めの技法として多く使われているのが「筒描(つつがき)」。「筒に糊を入れて、先端の筒金から少しずつ押し出しながら絵を描くように糊を置いて防染し染め上げる」(古代裂 今昔西村)ので、この名前があることを初めて知った(→筒描き手染めとは)。

 好きな作品を挙げると『神功皇后』(33、これは手染め)『民の竃』(50、51)『郭君子』(64)など。描かれた子供たちの生き生きした表情、それを見つめる母親の自信と愛情に満ちた表情は、泥臭いが、祭りにふさわしく、晴れやかですがすがしい。浮世絵だけで江戸時代を語ってはいけないな、と思った。三国志の『趙雲』(49)も好きだ! ちゃんと阿斗さまをふところに抱いている。

 第1展示室の出口で、展示図録の見本を発見。開いてみると、とにかく作品の形態が異例なので、なんとか全体像を図版に収めようと、いろいろ苦心している様子がうかがえる。あれっ?と思ったのは、『獅子の谷落とし』(69)の図版。展示室の中央を占める、ひときわ大判で華麗なその幟旗には、岩の上からスローモーションのように落下する子獅子と、それを心配そうに待ち受ける親獅子が描かれている、と思っていたのだが、図版を見ると、幟旗のさらに上部に、もう1頭の親獅子がいて、落下する子獅子の視線は、その親獅子を捉えているのだ。あわてて戻って、展示品をよく見ると、実は、上部がかなり折り畳まれている。全長11メートルの威容は、想像で補うしかない。ほかの幟旗も、必ずしも全体像が展示されているわけではないことが分かった。

 ところで、私が感心して『獅子の谷落とし』を見ていたら、係員の方(女性)が「この上に子獅子を突き落とす母獅子がいるんですよ」と教えてくださった。私は父獅子が突き落とすのだと思っていたが…本当はどっち?

※いつになく、外観の飾り付けも華やか。でも展示室内の異空間ぶりは、こんなものではないのです。必見!


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茶道具だけではありません/知られざる畠山コレクション(畠山記念館)

2009-08-12 00:05:30 | 行ったもの(美術館・見仏)
畠山記念館 夏季展 開館45周年記念『知られざる畠山コレクション―唐三彩から秀吉像まで―』(2009年8月1日~9月23日)

 これまで紹介される機会の少なかった中国の仏像や唐三彩など、畠山記念館の知られざるコレクションの一端を公開する展覧会、だそうだ。もっとも、私が同館に足繁く通いだしたのは、近年のことなので(やっと迷わず行き着けるようになった)、私にとっては、何を見ても「知られざるコレクション」なのだが。

 で、最近の慣例により、到着すると展示室でお抹茶を一服。茶碗ごしに豊臣秀吉像(伝・狩野山楽筆)を眺めるのは、ちょっと戦国人(せんごくびと)気分。隣りには「豊国大明神」という神号の小ぶりな一行書があって、脇に「秀頼八才」と記されている。大人びた、しっかりした筆跡だ。秀頼八才といえば、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い勃発の年。慶長3年(1598)に没した秀吉は、翌4年、後陽成天皇から「豊国大明神」の神号を授けられる。八才の少年にとって、亡き父を神号で呼ぶのって、どんな気持ちだったんだろう、としみじみ。

 土佐光起の『鶉図』は、胸にくちばしを埋めて毛づくろいする1羽の鶉を描いたもの。ふくらんだ背中、ぴんと張った足の爪の緊張感などに、繊細な観察眼がいきわたる。土佐派のイメージ(ベタ塗りの物語絵)とは、ずいぶん異なると思ったが、光起は、ライバルの狩野派や宋元画を積極的に学んだ画家。鶉図が得意で「描いたウズラに猫も飛びついた」ともいう(出典)。

 『明恵上人夢之記切』も珍しいなあ。縦長の料紙の上半分に文、下半分に絵(つる草の巻きついた立木)を描く。力強く飾り気のない筆跡は、確かに見覚えのある明恵上人のものだ。健保六年六月十一日(1218年、明恵45歳か)の夢で、たてものの傍らに神主がいて、宝樹を持ち、明恵に告げて、これを明神の御前に移し植えよと命じた、とある。明恵上人の「夢記(高弁夢記)」は、京博が7紙からなる1巻を所蔵しているほか、Wiki高山寺によれば、同寺が17点所蔵(断簡か?)、さらにMIHOミュージアムにも軸装された断簡があるようだ。畠山記念館のものは、田安徳川家旧蔵で「田安府芸堂印」の大きな朱印あり。もうひとつ、その場で読めなかった小さな朱印は「献英楼図書記」だと思われる。

 そのほか、いろいろある中で、最も私の目を引いたのは、柴田是真作の印籠箪笥。赤・黒・金・銀という派手な色彩の取り合わせを、上品にまとめている。ええと、4個入×3段だったかしら(肝腎なところを…)。引き出しのオモテには、「○○作△△図」という具合に、収まるべき印籠のタイトルが彫り込んである。注文品なのだ。箪笥から出して並べられた印籠の、多彩なデザインも美しい。根付にも注目。
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伊勢・熊野・沖ノ島/伊勢神宮と神々の美術(東京国立博物館)

2009-08-11 00:04:57 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 第62回式年遷宮記念 特別展『伊勢神宮と神々の美術』(2009年7月14日~9月6日)

 平成25年(2013)に行われる第62回式年遷宮を記念しての展覧会。会場に入ると、冒頭の展示室は文書類が多くて、意外と地味。一般客にはアピールしないだろうな。私は、学生時代の専攻が国文学(上代文学)なので、愛知・大須観音所蔵の『真福寺本古事記』(現存最古の写本、粘葉装?)など、それなりに感銘深く眺めた。名古屋・蓬左文庫の『続日本紀』(現存最古、金沢文庫旧蔵)は巻子本なのだな。開いていたのは、天平12年、藤原広嗣の乱に関する箇所らしかった。

 ふと目が留まったのは、三重・金剛証寺の雨宝童子立像。豊かな垂らし髪の頭上にちょこんと五輪塔を戴き、黄金の杖をステッキのようにつく。左手には宝珠。ふざけたような姿で、丸顔に愛らしい笑みを浮かべている。金剛証寺へは、一度行ってみたいと思いながら、あまり交通の便がよくないので実現していなかった。思わぬところでお会いできてうれしい。

 次室「遷宮と古神宝」に進むと、突然「沖ノ島は…」という説明に出くわして、あれっ?と思う。実は、このセクションは、伊勢神宮に加えて、福岡・宗像大社(沖ノ島)や鎌倉・鶴岡八幡宮等に伝わる古神宝をあわせて展示しているのだが、全く心の準備ができていなかったのだ。さらに「今に伝える神宝」では、近代に製作・奉納されたお宝を展示。昭和4年作『玉纏御太刀』は装飾パーツてんこもりで、女子高生のデコ電みたいである。同年作『須賀利御太刀』は、太刀の束に赤い糸で纏い付けられた2枚のトキの羽根が異彩を放つ。燃え立つ曙のような美しさ。これは、トキが乱獲されるのも分かるわ…。Wikiによれば、次回遷宮の分までトキの羽根は確保されているそうだが、伝統のデザインと素材を守るのも大変である。

 最後の「神々の姿」で、また驚きの再会が待っていた。展示室に入ると、まず大分・奈多宮の八幡三神坐像3体と若宮神坐像6体が目に入る(→八幡奈多宮についてはこちら)。私は仏像も好きだが、動きや表情を極限まで抑えた神像もいいなあ、と思ってしばし見とれる(前日に出光美術館で見た、漢代の陶俑に通じるところがあるかも)。そして、振り返って驚いた。見覚えのある、大ぶりな神像。和歌山・熊野速玉大社の男神(熊野速玉大神坐像)と女神(夫須美大神坐像)ではないか。

 女神像は、袖に隠した両手を、左肩寄りに拱く。逆に下半身は右膝が強調されている。左右対称性を崩したところに、人間の姿勢に近いナチュラルさが感じられる。対して、男神は左右対称性をほとんど崩さない(少し左肩が下がっている?)。太い眉、大きな目、しっかりした鼻筋。どうも日本人の顔には見えない。筒型の冠は(東寺の)兜跋毘沙門天に似ている。

 自分のブログを検索したら、2005年1月に世田谷美術館の『祈りの道―吉野・熊野・高野の名宝』で拝見し(このときは若宮を加えて三神)、同年5月に東博の『新指定国宝・重要文化財』でも拝見している(さらに国常立命坐像を加えて四神)。それにしても、この2神がおいでになっているのなら(~8/30まで)もう少し宣伝してもよさそうなものを、熊野は神武東征で平定される側なので、伊勢神宮メインの展覧会では取り上げにくいのかな、と勘ぐってみる。なお、チラシには京都・松尾大社の男神坐像が取り上げられている。確かに、制作年代は、こちらのほうがやや古いらしい。眉をひそめた険しい表情は、怒り天神(菅原道真像)に継承されていくように思う。

■展覧会公式サイト
http://www.iseten2009.jp/
スタッフブログ6~7月頃に掲載された準備(搬出)作業の様子が面白い。その一方で、神像や仏像のこういう写真をむやみに流していいのかな、と思わないでもない。やっぱり私は「仏教(信仰)2に観光8」(byみうらじゅん)の立場。
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愛された校長/コレクションの誕生、成長、変容(芸大美術館)

2009-08-10 00:03:39 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京藝術大学大学美術館 『コレクションの誕生、成長、変容―藝大美術館所蔵品選―』(2009年7月4日~8月16日)

 東京芸術大学の前身、東京美術学校が、明治22年(1889)の開校に先立ち、教育研究資料としてのコレクション収集を開始して以来120年余り、その誕生と成長過程を紹介する所蔵展。そのため、解説プレートには、制作年代とは別に、取得年月日と取得方法を示す「○年○月○日買入」(または生産、寄贈)という情報が付与されている(※ちなみに、この情報は芸大の所蔵品データベースでも確認することができる)。

 岡倉天心が収集した最初期のコレクションに、曽我蕭白の『群仙図屏風』や伊藤若冲の『鯉図』がちゃんと含まれているのは興味深い。両者とも、近年、急に評価が高まった画家のように思っていたけれど。買入の年(1889)から見ると、両者ともほぼ100年前の画家に当たる。いまの私たちが、浅井忠や青木繁を見るような感覚かな。本当は、買入時の価格が分かると、もっと面白かったのに。

 芸大コレクションが飛躍的な発展を遂げるのは、正木直彦(1862-1940)校長時代。このひとのことは、きちんと意識したことがなかったが、岡倉天心校長の排斥辞職というゴタゴタ(美校騒動)の後、実質的な後任として、「各派の調停につとめ、体制の基盤を築いた人物として評価されている」そうだ。文部官僚出身。こういうときは、官僚も役に立つ。岡倉と正木(実は同い年)の人物像の比較については、芸大HPの記事「タイムカプセルに乗った芸大(佐藤道信)」に詳しい。

 正木は、茶人でもあり、美術鑑定にも一定の見識を持っていたようだ。鎌倉時代の力強い毘沙門天立像は、岡倉天心がボストン美術館のために購入したものを、国外流出を防ぐため、半ば横取りするかたちで美術学校に購入を決めたそうだ。その梱包の最中に、偶然首が抜け、肥後別当定慶の銘を発見したとか。私は、こういうコレクションをめぐる人間臭い逸話が大好きである。

 大正14年(1925)には朝鮮視察旅行に赴き、名品『金錯狩猟文銅筒』(後漢時代、楽浪古墳出土、重要文化財)を「書記八木氏」を通じて取得したことが、正木の日記から分かっている。いちおう「買入」ではあるが、これって韓国から返還要求とか出ないのかな…。日韓併合(1910)時代の話である。

 圧巻なのは、正木の勤続25年の祝賀会にあたり、高村光雲ら職員一同から贈呈されたという記念品のセット。黒漆塗の飾り棚に、筆筒、筆架、硯塀、水滴など、ひととおりの文具がセットになっている。いずれも職員が自ら制作したもの。ひとくせもふたくせもあったであろう、美術学校の職員(教員)たちから、ここまで慕われたのは、よほどの人格者であったのだろうなあ。高村光雲作の小さな木彫りの狸(和尚の格好をしている)が可愛い。朝倉文夫のブロンズ『つるされた猫』も、時期は不明だが、朝倉から正木に贈られたものだという。
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死後の生活を彩る/中国の陶俑(出光美術館)

2009-08-09 00:44:13 | 行ったもの(美術館・見仏)
出光美術館 やきものに親しむVII『中国の陶俑―漢の加彩と唐三彩―』(2009年8月1日~9月6日)

 金曜日の夕方、めずらしく都内で仕事が終わったので、延長開館(19時まで)している出光美術館に向かった。この時間帯に訪ねたのは初めてのことで、けっこう人の姿が多くて、びっくりした。それも道理。私が入館してまもなく、「当館学芸員による列品解説が始まります」というアナウンスが流れると、30人ほどの観客は、待ちかねたように入口に集合した。

 本展は、中国の漢代から唐代にかけての俑を中心とする陶器120点余りを取り上げたコレクション展(※タイトルは「陶俑」だが、うつわ物、意外と多し)。展示は、漢代の緑釉陶器、農舎や鴨池のミニチュアから始まる。埋葬に副えられた「明器」である。いや、それにしても…なんてきれいな緑色だろう、と思って私は見入ってしまった。緑釉豚の、紫がかった斑点が濡れたように輝く様も、宝石を見るように美しい。そのあとの唐三彩の俑や器も、照明の効果で、それぞれ最上の表情を引き出しているように思った。漢代の人物俑は、解剖学的に正確な人体の形になっていない。しかし、わずかな表情で「侍女」とか「文官」という典型的な個性をよく表している。ちょっと円空仏を連想した。

 第2室は唐代の俑。手前のケースに女性、奥のケースに男性と分けてみました、とのこと。椅子に座った三彩女子俑があるが、これは「椅子に腰掛けている」という点で、高貴な人物と分かるのだそうだ。下々の人間は、立っているか、地面にぺたりと座っているのだという。また、ふくよかな女子俑も高い身分をあらわし、スリムな女子俑は、侍女など低い身分に使われるそうだ。じゃあ、本展のポスターになっている横笛を携えた女子の楽人は、細身だし、座っているし、身分は高くないのだな。しかし、学芸員の金沢陽さんが自慢するとおり、抜群に美人である。ポスターは正面顔だけど、左右非対称に結い上げたおしゃれな髪型に、衣の色合い(三彩の釉薬)も左右が異なるので、ぜひ横からの表情に注目してほしい。

 参考出品の加彩人物木俑が4体。木俑はほとんど残らないので、非常に珍しいのだそうだ。崩れやすいのでテグスで固定できず、展示に非常に苦労したというお話を聞いた。もうひとつ、参考出品で、西域・アスターナ古墳出土の加彩人物泥俑が5体出ている。赤いスカート(だと記憶する)をまとった、ひときわ小さな女子俑が、溌剌としてかわいい。いかめしい武官と文官の男たち4人を後ろに従えたところは、ナウシカみたいだ。

 第3室では、ずらり9体が並んだ三彩騎馬人物が印象的だった。こうした三彩俑も、全て明器(副葬品)として作られたものだという。若い頃に仲間たちと楽しんだツーリングの思い出を、死後に持っていこうと思ったのだろうか。騎馬人物は、女性が5人、男性が4人。女性の口元には、楽しそうな笑みが浮かんでいる。

 また、この部屋には、さまざまな形のうつわが展示されていたが、いずれも明器だという。三彩の陶器は、美しいが脆くて、実用には適さない。漆器や金属器の形を真似たものが多いのも、埋葬用に安価な陶器でイミテーションをつくったのではないか、という話だった。今日、中国人が紙製の自動車や冷蔵庫を燃やして先祖の霊を弔うのと、心情的には同じである。”猿笛”は初めて見た。本当に笛なのか、中国では何というのか、知りたい。19時の閉館となり、展示室入口の防火扉が閉まるところを初めて見て、退館。

※「やきものに親しむ」バックナンバー
第1回~5回
第6回:陶磁の東西交流
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幕末の海外視察/西洋事情(福澤諭吉)

2009-08-08 09:48:31 | 読んだもの(書籍)
○福澤諭吉著;マリオン・ソシエ、西川俊作編『西洋事情』 慶応義塾大学出版会 2009.6

 Wikiの説明が簡にして要を得ているので、そのまま引くと「福沢は江戸幕府の命により1860年(万延元年)にアメリカに渡り、1862年(文久2年)にはヨーロッパに渡ったのち、1866年(慶応2年)に初編3冊を刊行した」とのこと。本書の注によれば、売り上げは15万部、海賊版を含めると20万部とも言われるらしい。幕末の大ベストセラーである。

 という事情はひととおり心得ていたが、読んでみて、へえ~こんな本だったのか、とびっくりした。イメージとしては、鎖国体制に守られて育った日本人が、はじめて欧米を訪れ、見るもの聴くもの珍しくてびっくり、みたいな、もっと素朴な海外見聞録だと思っていたのだ。ちょうど、私が大学の事務職員だった頃、幸いにも海外の類縁機関の見学に行かせてもらったことがあるが、たいがい、出てきた案内者の説明を鵜呑みにして、呑気な出張報告書を書いて終わったように…。

 ところが、福沢はそんな素朴な観察者、祖述者ではない。たぶん書物を頼りに、ものすごく勉強している。彼は、西洋の政治には三態(立君=モナルキ、貴族合議=アリストカラシ、共和政治=レポブリック)あるという「原理」も分かっているし、各国の「史記」の記述も詳しい。アメリカが如何にして独立を成し遂げたか、フランス革命の残虐性、ナポレオン登場から帝政復活に至る混乱、ロシアのペイトル(ピョートル)大帝の卓越した個性など。これらは、書物から学んだ知識を、彼の見識に基づき、批判的にまとめたものと思われる。

 いちばん驚いたのは、アメリカ独立宣言が、見事な文語体に翻訳され、全文(らしい)掲載されていたことだ(初編)。Wikiに記述されているくらいだから、有名な話なのかな。私は知らなかった。特に感銘を受けたのは、「政府たらんものはその臣民に満足を得せしめ初て眞に権威あると云ふべし。政府の処置、この趣旨に戻(もと)るときは、則ち之を変革し或は倒して、更にこの大趣旨に基き、人の安全幸福を保つべき新政府を立るも又人民の通義(※権利)なり」という部分。現今、自民党の先生方も拳々服膺するとよろしい。それにしても、幕末に、こんなラディカルな政治言説が堂々と行われていたなんて。なお、私がラディカルというのは、既存の政府にとっては危険きわまりない、しかし、政治思想としては「根本的」という意味である。

 学校、文庫(図書館)、博物館、貧院、癲院(精神病院)など、具体的な施設に関する記述(初編)を読むと、「余が…に行きし時」という具合に、実際にその現場を訪れたと分かる記述もある。福沢は、狂心のときに死罪を犯したため、回復後も癲院に収容されていた狂人たちに会い「自ら三子を殺せしと云う」一婦人とも話をしている。しかし、単に現場で見たもの聴いたものだけのを写すのではなく、その施設が社会で果たしている役割、運営システム(特に財政的基盤)に注意を払い、また西洋各国の差異もよく意識している。民間の活力に任せることが妥当なものと、政府が統制することが必要なもの(この時代でいうと、ガス、水道、鉄道、郵便など)の区別があることも鋭敏に理解し、分かりやすく説明している。21世紀に生きている私たちが、すっかり分からなくなってしまった近代社会システムの基本原理を、あらためて福沢に解説してもらっているような気さえした。

 名著である。そして、この名著を、一部漢字や仮名遣いをあらため、「読みやすい原文」で提供した本書の企画に賛辞を送りたい。やっぱり、日本語の名著は原文で読みたいと思う。それから、毎年、税金を使って「海外視察」に赴いているらしい、多くの政治家とか公務員にも、一度読んでいただきたい本でもある。
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読み継がれる幸せ/中島敦展 ツシタラの夢(神奈川近代文学館)

2009-08-06 23:57:34 | 行ったもの(美術館・見仏)
○神奈川近代文学館 企画展『生誕100年記念 中島敦展―ツシタラの夢―』(2009年6月13日~8月2日)

 私が中島敦(1909-1942)の「山月記」を高1か高2の教科書で読んだのは、もう30年もむかしのことになる。あんまり面白かったので、「李陵」「名人伝」と読み進み、「弟子」を読んで感激し、朝日古典選の「論語」を読み、校註者の吉川幸次郎氏に興味を持ち、あげく、理系志望だった進路を文学に切り替えて、今の私がある。だから、私にとって中島敦は特別な作家である。

 この展示は、近親者から寄贈された豊富な資料によって、ほぼ経年順に中島敦の生涯を紹介している。漢学者の祖父、漢文教師の父、斗南と号した伯父・端、関東州の官僚であった叔父・比多吉(ひたき)など、中国文化に囲繞された家庭に育った敦だが、「山月記」や「李陵」の世界にまっすぐ進んだわけではない。さまざまな文学・思想に惑溺し、遍歴を重ねたことは「ある時は~のごと」と、古今東西の先達者を詠み込んだ「和歌(うた)でない歌」(これはよく覚えていた)に表れている。

 ガラスケースに、ある時期の書斎がイメージ復元されていたが、書棚には”愛蔵”の鴎外全集が並んでいた。東京帝大国文科の卒業論文(Wikiによれば、題名は「耽美派の研究」)、そして1年だけ在籍した大学院でも、鴎外を扱っていたのだという。ちょっと意外、に思うのは、私の鴎外に対するイメージが狭すぎるんだな、きっと。土地柄から、横浜高等女学校(現・横浜学園高校)で教師をつとめていた時代の資料も多数あって、「かめれおん日記」等に描かれた、性狷介な主人公とは裏腹に、女学生たちに慕われる、快活な教師であったらしい。

 そして南洋体験。日本語教科書作りの調査のため、パラオに赴任し、現地で見聞した日本の南洋統治のありさまについて、率直な感想を(いちおう検閲を気にしながら)書き送っている。これについては、あまり人道主義的に買いかぶるのも、また帝国主義的認識の不足を非難するのもあたらないと思う。あくまで、妻や子供たちに当てた私信なのだし。

 敦のパラオ赴任は、喘息の転地療養を兼ねていたが、結果的には、かえって持病をこじらせてしまう。しかし、この南洋体験を経由することで、英国人作家スティーブンスンを描いた『光と風と夢』(原題:ツシタラの死)が生まれ、中国古典に題材をとった豊穣な物語が形を成す。

 しかし、実は会場では認識しなかったのだが、帰宅して、あらためて中島敦の年譜を開いて、びっくりした。1941年6月、教職を辞してパラオ赴任→「ツシタラの死」脱稿→42年、実質的なデビュー作「文字禍」を『文學界』(1942年2月号)に発表→続いて「古譚」「光と風と夢」を発表。芥川賞を逃す(該当作なし)→12月4日死去。小説家としての”活動”期間は、1年間。どう贔屓目(?)に見ても2年間に満たないのである。あまりにも、あまりにも短い小説家人生ではないか。

 そして、にもかかわらず、今日まで、教科書を通じて多くの人々に読み継がれている、文字通り「珠玉の」作品の生命の長さ。作者の運命と作品の運命の乖離に、しみじみと感じ入ってしまった。ツシタラ(語り部)の幸福とは、こういうことなのかもしれないが。

 最後に。会場で、昭和8年(1933)1月23日付けで東京帝国大学附属図書館が発行した、図書の受贈礼状を発見(へえ、こんなもの出していたんだ)。祖父・中島撫山の『演孔堂詩文』と伯父・中島斗南の『斗南存藁』を寄贈したことに対する礼状で、B5版くらいの実に素っ気ない定型文書である。敦は、大学院に在籍する無名の一学生だったときのことだ。さて、寄贈された書籍はちゃんと残っているんだろうか、と思ったら、幸い、現物が確認されているようである。→東京大学創立130周年・総合図書館再建80周年記念特別展示会『世界から贈られた図書を受け継いで』(ページ最下段、18,19)。

↓文庫の表紙はどの出版社も粒ぞろい。心なしか、作品に対する愛着が感じられる。
  

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