石室内に入ることが出来ない。予約か何かをすれば入れそうだが、なんせ飛び込みで行くのだからそれは無理だろうしな。
装飾が施されていた旨の説明があるもののこの様な状況では消滅するだろうな。
石室内に入ることが出来ない。予約か何かをすれば入れそうだが、なんせ飛び込みで行くのだからそれは無理だろうしな。
装飾が施されていた旨の説明があるもののこの様な状況では消滅するだろうな。
それでは覗いてみよう。当然のことながら中に入ることはできないのだが。
ご覧のように羨門、側壁、奥壁と巨石が使用されている。いやそれだけではなく楣石も天井石もそうだろう。
石室も古墳後期に入ってゆくと巨石の使用が目に付くようになるようだな。
どうだろう。ワクワクしないかな。登ってみることも出来そうだし、お山の大将の気分も味わえるのではないかな。
羨道部分の殆どが削られている。換言すれば後円部が削り取られているということである。県道敷設のために削り取られたわけではない。現状は二周りほど小さくなっているだろう。
分断の様子を先にお見せしよう。と言われても何が何だか判らないというのが普通だな。
道路が濡れているのがお判りになるだろか。毎度雨男やね。
県道を走っている限りでは古墳を分断しているとはまず思うまい。それよりもそのことに気づくことはないだろうな。
前方後円墳という言葉だけを捉えると同じ範疇ではあるけれども、ここに来る前に訪れた関行丸古墳とは全く異なる様相を呈している。力の差というものだけでは収まらないのだろうが。
関行丸古墳の築造は500年前後と言われ、伊勢塚は6世紀の終わり頃と言われる。