前方部から後円部を見る。左右括れの部分が良く判る。残念なことに後円部の高みがないことであろう。
この近くに岡寺古墳(前方後円墳でありこの地域の首長墓4基の内の1基)があるのだが名前だけで跡形がない。
看板がなければ古墳があったことなど知る由もなかろう。一応時代の流れを記しておこう。まず 剣塚(愛宕神社にある。と言うより愛宕神社が古墳にある。)庚申堂塚 岡寺 田代太田 の順に並ぶ。
前方部から後円部を見る。左右括れの部分が良く判る。残念なことに後円部の高みがないことであろう。
この近くに岡寺古墳(前方後円墳でありこの地域の首長墓4基の内の1基)があるのだが名前だけで跡形がない。
看板がなければ古墳があったことなど知る由もなかろう。一応時代の流れを記しておこう。まず 剣塚(愛宕神社にある。と言うより愛宕神社が古墳にある。)庚申堂塚 岡寺 田代太田 の順に並ぶ。
赤坂古墳は3世紀後半に築造されており、その間二百年も首長墓が築造されていないかのように思われる。
そこにどのような歴史があったのかなかったのか・・歴史とは如何に面白いものなのか・・このような空白にロマンが隠されているのかもしれないな。
前方部の様子である。
車を止めるところもなく道路脇に止めるしかなかった。駐禁じゃないかといわれるだろうが・・・うーむ ごめんなさいね。
左を向けばそれはもう目の前にあるのがお判りだろう。ここより僅か200m手前にある田代太田古墳は装飾古墳で円墳である。庚申堂塚古墳は前方後円墳でこの地域で確認されている首長墓四基のうちの一基である(それは田代太田も含まれる)。これら首長墓四基は六世紀前半から中頃の築造である。
この現状だと帆立貝式に見えるよな。恐らくは基壇がそう見せるのだが本来は円墳である。この地域にあって首長墓として最後の古墳とみられ6世紀中頃と思われる。
佐賀平野にあってはやはり吉野ヶ里付近が特に栄えたようで古墳も営々として続いていることが判る。
太田古墳周辺には数基の古墳を見ることができるが特に栄えたとは言い難いようだ。
ただ特筆するべきはこの地域最古の古墳として3世紀後半に築造されたとする赤坂古墳があることを注記とする。