街道を歩く

今まで歩いた街道、町並み、これから歩く街道、町並みを散文的に紹介

いよいよ

2006-02-28 00:43:56 | 街道関連
さあ、三月になります。三月の月末日曜日は26日なので桜はまだでしょうね。今年の歩く会も啓蟄のごとく暖かくならないと行動を開始しません。ウォーキングラリーと名を打って寒くても歩いておられます。私から見れば頭の下がる思いです。ところが主催者である私が、寒いのは大の苦手でありますので駄目なのです。去年の三月末は桜のさの字もなく、又、氷雨のごとくで、数人の方が集まってくれましたが、なんと、その場で「帰ろう」で、本当に帰りました。しかも、一人、車で来ておられましたので送っていただくという、なんと軟弱なことか。一人でも時間つぶしに歩くとか言う方もおられましたが、「帰ろう」の一言で軟弱になりました。どうも寒さに弱い。今年こそ、天気も好く、桜が満開であることを今から祈っておる次第です。一昨年があまりにもすばらしかったものですから。恒例なのです。ルートは、採銅所、香春、田川伊田、田川後藤寺までの約14キロ。桜を愛でながら、休憩も十分取りながら約6時間の行程で春の秋月街道を歩きます。桜ばかりではありません。菜の花あり、土筆あり、そここに春の息吹を感じつつ歩きます。今年の予定では4月4日か5日です。参加してくださいね。もう、何人かの方が楽しみにしています。(写真:桜満開の秋月街道を歩く)
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私なりの中津街道(その六)

2006-02-25 01:23:22 | 中津街道
殆ど水平と言っていいくらいの道で葛原八幡の前まで来る。春は桜が咲く。鳥居と常夜灯が道を狭めているがこれは良い。参道は短いのだが、本殿まではだらだらと階段が続く。殆どの神社がそうである。神社には桜、楠木がつきものなのも同じである。ここの紋所は左三つ巴で、右三つ巴ではないのが他の八幡様とことなるところであろう。左三つ巴は母の父方の紋であることを知った。さて、その前の道を南に向かうと上り下りの道が続くのだが、きつくは無い。この通りは面影がしっかりと残っている。これを通り過ぎてしまうとただの道でらしさは途切れてしまう。このまま道なりに竹馬川の袂まで行こう。これを渡りきると曽根宿に入る。今回で一時終了。(写真:神社の春 秋月街道 香春神社)
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私なりの中津街道(その五)

2006-02-24 02:54:12 | 中津街道
そこで活躍したのが猪で、だから妙見神社の狛犬?は阿吽の猪なのである。
また、公の足が立ったというので足立山と言われる所以でもある。やはり地名の由来には必ず意味があって、適当に付けた訳ではない。
また、桜で有名な安部山公園の上には公の石像があるが、何年か前の地震で倒壊し、作り直したから真新しく見える。
桜を愛でながら街道を歩くわけにはいかないが、突然といっていいほど、勢いよく大きな下り坂になる。その頂上からは、街道が殆ど直線と言っていいほど南に延びているのが見渡せる。目の先は葛原であり、その先は曽根へと続く。
残念では有るが、この筋には古い佇まいは残らない。それでも、ここが街道だったのだなと思われるほどには雰囲気はある。
坂を下ると殆ど平坦な道となり、葛原八幡神社の前に到る。(写真:中津街道湯川~曽根)
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湯平 その二

2006-02-23 18:58:40 | 街道関連
湯平の湯は食塩泉で、少しぬる目の湯である。時間をかけてじっくりと浸かるのがよかろう。体の芯から温まる。我々は内湯と公衆浴場(中央)にはいった。途中場所を教えてもらおうと、通りかかった女性に場所を尋ねた。見ると、干し柿を籠に入れていたので2個わけてもらい食してみると、おいしい。後でわかったことでは有るが、これは売り物であった。フリマを開いていて、これを餌に我々は釣り上げられてしまったのである。気持ちのいい方だったから入浴後立ち寄ることにした。
前を通ると待ってましたとばかり、戸を開けて迎えてくれた。これと言ったものは目につかないのだが、結局その干し柿を買ってしまった。この日ばかりは湯平は我々の貸切のようであった。また訪れたい場所の一つになった。(写真:湯平本通)
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湯平へ(その一)

2006-02-22 05:47:23 | 街道関連
友人が九州を離れると言うので、離れる前に思い出をと言うことで、何処に行くかということになり、二人が行ったことが無く、しかも温泉ということになった。遠くも無く近くも無く、人気も少なく、温泉情緒豊かであり、露天風呂があること。これらの条件を満たす温泉が湯平であった。山狭にへばりつき、街並みが川を挟んで建っている。主要道が300年前の石畳である。街並みを縫うようにごとごとと縦断している。川が急峻で、せせらぎどころではなく、まるで小さな滝が幾重にも連なっているようである。その川に沿って温泉が連なっている。金、銀、中央、橋本などの公衆浴場が点在する。中でも中央は川床より低く、川が荒れた場合、川の水が流れ込んでくると言う温泉である。下から歩いて街を一周しても20分足らずで元に戻る。それほど小さな温泉街である。それでも温泉街の情緒をこれでもかというほど凝縮しているのには驚きである。この地にはかつて山頭火が逗留している。山頭火ミュージアムまでつくっている。その名を時雨館という。入場料は100円。温泉に入る値段と同じで、安い。(写真:湯平へのいざない)
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私なりの中津街道のこと(その四)

2006-02-17 00:31:05 | 中津街道
そこから一気に下ると湯川で、現国道10号線と合流するのである。
国道10号は中津街道に並行して走っている。街道はと言うと、湯川交叉点の左側に入る細い道があり、なだらかにのぼっている。道狭く車が我が物顔で横を通り抜けてゆく。
古は猪が人を乗せて走っていたのかも知れん。この人とはご存知、和気清麻呂である。
称徳天皇(女性天皇)の時代、道鏡が天皇の位につこうと画策していたところ、公が宇佐神宮に赴き、ご神託を受けそれを防いだわけだが、ついには足の筋を切られ流されると言う話である。その公がたどり着き、足の傷を治したと言われるのがこの地、湯川である。
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私なりの中津街道のこと(その三)

2006-02-15 01:24:12 | 中津街道
さて、少し先を歩こう。宇佐町の筋には古い佇まいは残っていないが、街道筋であろう流れはなんとか道なりに残っている。両側から迫る建物が、道の緩やかな曲がりが それとなくその雰囲気を醸し出している。その雰囲気を辿りつつ、足原より黒原にでる。
大里より赤坂を抜け、広寿山の前を通ってきた大分脇道との合流点である。
大分脇道は、小倉城下町を通らず、中津に到る道である。バイパスといっていいのかもしれないが、勅使の宇佐への道でもあったらしく、かなり整備されていたようである。
街道としての姿は殆ど残っていないのだが、山門町公園前にそのことを伝える板書が立っている。
黒原から湯川までは街道などと言われるものは何処にも無いといっていい。広い道がどんと走っている。40年位前ではあるが、街道は山裾に沿って残っていた。その道は竹やぶや、雑木林がトンネルを作り、昼でも薄暗かったことを記憶している。一息つくところまで来るとそこにはひなびた茶店のようなものがあった。(写真:建設省九州地方建設局北九州の五街道を往く より)
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私なりの中津街道のこと(その二)

2006-02-14 00:07:38 | 中津街道
思ってばかりいては前に少しも進まない。歩を進めて、とはいえ、これといって街道筋が街中には残っていない。古い佇まいも残っていない。それで、それなりに中津口まで歩くわけだが、本通りを歩かず狭い通りに沿って足立山を目指して歩こう。
中津口に着く。正面を高速道路が横切る。その下を少し左斜めに通る道がある。それが街道である。小倉城下の場末でもある。宇佐町というのだが、ここも大分県宇佐市の宇佐から取られたものかもしれぬ。中津の次は宇佐であるからだ。
この近くには神獄川が流れているが、現在の川筋ではない。今では考えられないことではあるが、大雨になるとよく川の水が溢れ、あたりは水浸しになっていたらしい。これが昭和の始めの頃だったらしいので、昔日にあってはどうであったろう。道はぬかるみ、歩くに困難をきたしたのではなかろうか。
少しここより外れるが、赤坂なる地がある。ここの道は赤土で、しかも坂道である。それでその名がついたのだが、それこそ雨の日はたいへんだったであろう。
赤坂なる地名の由来はもう一つ聞き及んでいるが、小倉の小笠原藩が明治維新を迎える前に、藩士たち大勢の血が流れたからだともいわれている。これはおそらく後日談であろう。
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私なりの中津街道のこと(その一)

2006-02-13 00:26:58 | 中津街道
中津街道
 小倉城下から東に向かって歩いていこう。町名は城下町らしく未だに留めている。
未だに留めていると書いたのは、ここ小倉では、三、四十年も前から町名の統廃合が行われ、それなりの意味を持った町名が簡素化され、あっけないものとなっていったのである。
これは現在行われていることではないのである。私が住んでいた町名は西鳥越といった。それは手向山を渡り鳥が飛んでいく姿を反映したものと思われるが、それは既に無い。
小倉の城下町を所狭しと、あれやこれやの町名があるのは不便だと感じたのかもしれないが、その土地の意味を成さないものにさせられてしまった。これは、文化の消滅の何ものでもない。地名には何らかの伝承があることにまちがいはないのである。
最近になって大きい行政の単位での統廃合が起こり、その名を見るに、昔年の名を冠する市町名が出てきたりもしている。
また、町興しと称して街道を見直し、その整備すらしている。なにがそうさせているのか。温故知新なのか。文化伝統の継承なのか。点と点を整備してもその全体を見渡すことが出来なければ意味を持たないと思われる。点を線で結んで始めてそれが成り立つものである。
小倉城下にはまだそれなりの町名が残っている。これ以上失くしてもらいたくないと思うばかりである。[続く](写真:小倉城)
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