説明を読んで頂ければいいのではあるが、全長106mの前方後円墳で都内最大級とある。残念ながら相当に壊変されており、主体部もない。築造時期を五世紀(少し漠然としてはいるが)であれば既に大和政権連合の一員であったろう。この様な場所だったから保存されてきたのであろう。死ぬ前に行くことも出来ないので東京にいる長男が探訪してくれたのである。
後円部を見ている。
こうして残っていることはやはり嬉しいものである。
誰が見てもこれが古墳だとまず判るまい。言われないと・・言われても疑問が沸くだろうな。円筒埴輪の破片か・・せめて時代背景が判りそうなものだが・・形状も判らないのは如何ともし難いのか・・それでもこうして残っているのは良いことである。死ぬまでにも行けそうにないので東京にいる長男が探訪してくれたのである。
当該古墳のブログ記事は 10月7日から9日までである。
ただ少しだけ高くなっているだけのようなのだが・・・古墳である。言われないと判らないと思うが・・言われても判らない。賢明なる読者諸氏であれば墳丘の様に見えるだろうな。
登ってみる・・登るというほどのものではないのだが、平らなだけだ。よくあることかどうかは判らぬが、古墳跡地とか言われるものだから行ってみると・・ただの広場(広場ではないけれど)・・と言うことが多々ある。
公園化されているので賑やかだぞ。後円部からの眺めが良いな。画面右には造出部で親子が・・我輩が探訪する古墳ではこの様な光景は殆ど見ない。後円部墳頂に登れば・・お山の大将俺一人と言いたくなるだろ。
武具の類いだろうな。
これによると第二主体部が小さいな。第一主体部に埋葬された者の子供かもしれん。男の子であれば刀子くらいはあったかな。この図では何もないな。説明には大人と同様の品物が収められている。
後円部墳頂には4基の埋葬施設があり、その全てに武器が副葬されている。特に主体部は目を見張るものがある。相当な有力者だったようだ。大和連合に組して後ろ盾が出来たことによってもこの地方の盟主になったことだろう。
4基すべてが男性のようで、兄弟、親子の関係にあったろうな。