三々五々の様相を呈しているかな。それでもこのバラがここまで咲かせてくれたのはお手柄だぞ。
1587年毛利勝信が入城するが、関ヶ原で西軍にくみして戦場に赴いているすきを狙って黒田如水に攻略されてしまう。その後黒田は福岡へ転封され、代わりに細川忠興が入城し小倉城を完成させる。寛永9年(1632)には細川氏が肥後へ転封され、代わりに譜代の小笠原忠真が豊前15万石を領して城主となる。以後、小笠原氏が代々継いで幕末にいたるが、慶応2年(1866)の第二次征長の際に幕府側として最後まで戦うのだが、孤立してしまいついには城に火を放って豊津に退去した。小倉城は焼け落ち、繁栄を見せた城下町も荒廃してしまった。現在は石垣や堀だけが城跡として残ったものの現在見ることの出来る城が小倉のシンボルとして再建された。
久しぶりに来たら・・こげなもんが・・・うーむ。取って付けたような・・・うーむ、違和感が・・・うーむ。
勿論、巌流島の決闘はどなたもご存知である。武蔵、小次郎の決闘の一シーンだな。我輩が見た映画では三船敏郎が主役の武蔵で、お通さんは八千草薫で、小次郎は鶴田浩二だったな。
例年4月(決闘した月である)には手向山公園で武蔵小次郎祭りが催されているぞ。
草刈ってくれたらな・・・古墳に登って周囲を見渡してもあと一基何処にあるとや・・
道端にこうして残してくれていると言うのもありがたいものだ。規模を書いてくれたらな・・未調査だからかな。とは言うものの周溝を持つと書いてあるから幾らかの調査はしているのではないか。周溝を持つと言うのならある程度の径が判ると言うものではないかな。
バラがいっぺんに7輪(しちりんと読まないようにね)も咲いたぞ
この三年、生ごみを埋めて来た効果が現れたのである。嬉しいじゃないか、自然はそれにちゃんと応えてくれているようだ。
自転車に乗った地元の方と擦違った。「おはようございます」「あっ、おはようございます」なんだか嬉しくなるぞ。
石棺埋葬の痕であろう。抜かれているぞ。未調査とは言うもののこれを見れば・・・うーむ、何もないと思うだろうな。
二基所在すると書いてはあるのだが・・・・・・・・・何処にあるとや。説明では古墳群とは書かれていない。
この形態から察するに・・おー書いてあるぞ。横穴式石室は持たず竪穴式石室であろう。
凄いだろ。これがヘリグロテントウノミハムシの痕跡である。これを放置していたらどんなことになるかは想像出来ると思う。葉自体が食べられているのではなく葉肉のみが食べられているということだ。
スミチオン乳剤を散布した結果がしっかりと出ているということだな。もう一度か二度か、梅雨に入る前に施しておかねばなるまい。植栽のある方、ベランダなどで育成している方、鉢植えを外に出してやったりしている方、今のうちに管理してやってくださいね。転ばぬ先の杖ですよ。