昭和44年1月下関駅D51型 私が中学3年の時に撮った写真です。
D51とは判りにくいかもしれませんが好きな写真なのでアップします。
この二枚を見て君は何を感じたかな。もしなにか感じたならばコメント下さい。
見ている方どなたでも。お願いします。
D51とは判りにくいかもしれませんが好きな写真なのでアップします。
この二枚を見て君は何を感じたかな。もしなにか感じたならばコメント下さい。
見ている方どなたでも。お願いします。
炭鉱の象徴であるボタ山が見える。忠隈炭鉱全盛時のボタ山である。ここは飯塚駅C55がいまにも飯塚駅を出発する瞬間である。昭和45年夏、私が高校二年、蒸気機関車を追っていた頃の写真である。
筑豊本線は九州で最初に複線化された。石炭を若松港までに運ぶためである。この地は石炭の宝庫であった。為に、鉄路は縦横に敷設された。しかしながらご存知のように石炭の時代はあっという間に凋落した。それとともに鉄路は赤錆を浮かし、消えていく運命を辿ったのである。
人間は去っていき、街は成長を止めってしまった。今は少しでも成長していこうとして試行錯誤している。
ボタ山は木々を生やし、街の成長をじっと見つめ見守っているかのようである。(写真:C55とボタ山 クリックするとよく見えます)